覚えてないなんて有り得ない。だって、簡単な謎掛けじゃない。
アリスは 人しか居ないんだから
──あなたは☓☓番目のアリス
目に悪い蛍光色に照らされたトップページに顔をしかめる。一昔前の個人創作サイトのようなホームページのアドレスを入力した理由は、将来黒歴史になるようなポエムを読むためではもちろん無い。
そのサイトを見てしまうと、アリスにされて二度と夢から覚めなくなる。いつからか流れ始めた噂。まだ学校の怪談や、国道端の廃墟の方が信憑性の高そうなほら話。私だって、信じているわけではない。
だけど、三日前から目を覚まさなくなった心香は試してみようと言っていた。彼女はアリスになって、夢の世界に囚われているというのだろうか。ありえない、と思いながらも私の手はキーボードを叩いていた。自分でも、義憤なのか正義感なのか。それとも猫をも殺す好奇心なのか判別はつかなかった。
チカチカと、ひきつけを起こしそうな光が何度もまぶたを灼く。真夜中の車道でヘッドライトを何度も浴びている気分だ。向かいからやってくる人も、自動車も、信号も何もかも見えなくなって、視界が白一面に染まる。
苦しくなって一度ぎゅっと目を瞑る。その一瞬の間に、世界は様変わりしていた。
健康に悪いブルーライトは、眩しい日差しに変わり、掃除もそこそこの自室は鬱蒼と生い茂る森に変わっていた。
知らない場所に投げ込まれたことに対する不安は、不思議となかった。どうやって帰ろうかとか、何処へ向かえば良いのかとかよりも確認しなければならないことがあった。
鳥がさえずるメルヘンな風景に似合わず、自分の姿は冴えないピンクの部屋着のままだ。それを確かめると安堵と、ほんの少しの羞恥に襲われる。場に不釣り合いな格好だ。それこそ、有名なアリスのエプロンドレスだったら、この場によく似合っていただろうに。
そこまで考えてかぶりを振る。違う、噂話の通りにアリスとして迷い込んだことに一喜一憂している場合ではない。きっと心香もこの世界に居るはずだ。森の奥、進めば出会えるだろう。
「大変だ、大変だ」
眼の前を二足歩行のウサギが通り過ぎていく。皮膚病にかかったようなただれた耳を引っ提げて、ぴかぴか光る懐中時計に何度も視線を落としている。
「ねえ、ウサギさん」
「ああ、大変だ。アリス、君に構っている暇はないんだ」
話しかけてみるが、ウサギはこちらを一瞥することもなくすたすた走っていく。しかし、ウサギの短い足では速度は出ない。ちょっと早足になるだけで、簡単に横に並ぶことができた。
「どうしてそんなに急いでいるの?」
「どうしてかって? そんなの決まっているじゃないか!」
時計の蓋をカチカチ鳴らす。
「公爵夫人がお待ちになっている。それなのにこの愚図な時計は思い出したようにしか動かないんだ。お陰で時間に遅れてしまう」
「それは大変ね」
「ああそうだ。だから君と並んでおしゃべりしている時間も惜しいんだ。さっさと何処かに行ってくれ」
「それじゃあ、うんと速く走って、私を置き去りにすれば良いじゃない」
「うんと速く走れだって!?」
ウサギは飛び上がるほど驚いた。その勢いに私もびっくりしてしまう。
「アリス、君はなんて残酷なことを言うんだ。よりにもよって〝速く走れ〟だなんて!」
「そんなにおかしなことを言ったかな」
これで全速力だ、と怒られるのなら私にも納得ができた。だけど、今のウサギの言い方は、まるで速く走ってはいけないみたいじゃないか。
「そうさ。公爵夫人のもとに早くついてしまったらどうするんだ!? 怒り狂った夫人に撃ち殺されて、きゅうりのサンドイッチよりはマシ程度の料理しかつくれないコックに胡椒を振りかけられてステーキにされてしまう」
「遅れなきゃいけないってこと?」
「君は本当に残酷だ!」
その声色には明らかに侮蔑が混ざっている。
「遅れたりなんかしたら、毛皮を剥がれてあの仔豚のような赤ん坊のおしめにされてしまう。良いかいアリス、〝遅れそうだと焦りながら間に合わせる〟んだ。分かるだろう?」
「全く分からないわ」
本心だった。アネクドートじゃあるまいし、と心のなかで毒づく。しかし、ウサギは本心からそう思っているようだ。だったら、これ以上この話を続けても無駄だろう。
「ねえ、公爵夫人のもとに私も行ったらダメ?」
「ダメかって? ダメじゃないけど……良くもない。だって君は次はお茶会に行くんだろう? 帽子屋を待たせちゃいけないよ。なんて言ったって、ずっと六時から動かないんだ。いつまでだって待ってしまう」
「お茶会なんて約束してないけど」
「いいやアリス、君は約束してるんだ。良いね? 帽子屋と三月ウサギを待たせてみろ。奴らなんかネムリネズミを煮込んだ後に、お互いの指をスコーンに焼いてしまうよ。そうしたらどれだけ酷い臭いがすることか」
急にウサギが私を肩で突き飛ばした。
「さあアリス。お茶会に行くんだ。今すぐに! じゃないとビルをけしかけるぞ!」
ビルがどうと言う言葉の意味は分からなかったが、ウサギの剣幕は鋭かった。私は足を止め、早足で駆けていくウサギを見送った。鬱蒼とした森は歩いている内に、お菓子のようなタイルが敷き詰められた道に変わっていた。
なんだか、悪い夢を見ているみたいだ。ため息が漏れる。お茶会へ行けと言われても、会場がどこかも分からない。それに、心香についても聞きそびれてしまった。聞いたところでまともな答えが返ってくる筈もないけれど、もしかしたらが過ってしまう。
「アリスはどうも困っているみたい。どうしたの?」
頭上から声がした。影が降りてきて見上げると、巨大な猫の顔が目の前に現れた。悲鳴もあげられず、ぺたんとその場に座り込んでしまう。すっかり腰が抜けてしまった。猫の口は私を一飲みできそうなくらいに大きく、笑った表情は獲物を見つけた捕食者のようだ。
「ああごめんよアリス。驚かせるつもりはなかったんだ。ちょっとびっくりさせたくて」
顔がすっと離れていく。胴体はなく、宙にリアルな猫の首だけが浮かび上がっていた。
「チェシャ猫」
時計ウサギや帽子屋と並んで有名な、不思議の国の住人。チェシャ猫は首をぐるりと一回転させた。胴体がふわりと現れて合体する。そうしたら、ただの大きな猫だ。
「そう、チェシャ猫はいつだってアリスの味方。困ったことがあれば教えておくれ」
信用できる気はしなかったが、他に頼るあてもない。ふうと息を吐いて、まだ震えている体を起こす。
「お茶会の場所を知らない?」
「お茶会? ああ、あのイカレ帽子屋に呼ばれたんだね。かわいそうなアリス。あんなにつまらないパーティなんてチェシャ猫は見たことがない。それに比べればハートの女王のクロッケーは喜劇として一級品だ。お茶会よりもクロッケーに来ないかい?」
「それは嬉しいお誘いだけど」
ハートの女王といえば恐ろしい独裁者だ。気に入らないことがあればすぐに首を刎ねてしまう。そんな恐ろしい場所に行くよりは、まだ狂ったお茶会の方がマシだろう。
「うーん、それじゃあ仕方ない。チェシャ猫がアリスを連れて行ってあげよう。お茶会の会場で良いんだね?」
「ええ、お願いするわ」
「それじゃあアリス、捕まって」
チェシャ猫が首をぽんと跳ね上げる。
「頭と胴体、どっちに捕まればいいかな」
「どちらでも。アリス、君が捕まりたい方に捕まれば良い。曇り空に傘を持ち出すか持ち出さないか。どっちも正解じゃないだろう?」
「天気予報を見ればいいのに」
「予報なんて、都合の良く信じるだけさ。だって考えてもご覧よ。全部言い当てられるなら、この頭は外れちゃいない」
「外れたから離されたの?」
「そう、ハートの女王を怒らせてね。チェシャ猫はちょっと親切をしてあげただけなのに!」
チェシャ猫はひげをわなわなと震わせた。尻尾も逆立てて全身で怒っている。どうせ、たいしたことでもないとは思うけれど。
「さあ、早くしないと遅れてしまうよ」
横に逸れそうになった話をチェシャ猫が修正する。胴体に捕まると、チェシャ猫はぐるんと後ろ足で地面を蹴って回る。世界が二つも三つも飛ばされたように景色が変わっていく。
「はい、アリス。到着したよ。チェシャ猫は安全運転」
お菓子の家みたいな建物の前にチェシャ猫は着地する。頭がくらくらしたが、どうにか立って降りることができた。
「ありがとう」
「お礼は良いよ。チェシャ猫はいつだってアリスの味方だからね」
「そう、なら一つ聞きたいんだけど」
「なんだい?」
「心香って娘を知らない?」
「ココカ?」
チェシャ猫の頭が落ちた。前足で器用に抱えあげて、何度も位置を調整する。
「チェシャ猫はものしりだけど、それは何にも知らないなあ」
「そう? ならいいの。ありがとう」
「うん、アリス。良い旅を」
チェシャ猫は走って居なくなった。手がかりは得られず、落胆しなかったかと言われれば嘘になる。ついでに、散々な言われようの帽子屋にこれから出会わなければならないことも気分を重くさせた。
いくら気乗りしないからって仕方がない。覚悟を決めて扉をノックする。二回、返事がない。三回、部屋の中でどたばた音がする。四回、勢いよく扉が開いた。
「誰だ! せっかくのお茶会に不躾に訪問するのは。今が何時か分かっているのかい? 六時だよ、六時。まったくなんて無礼者なんだ。こんなに無礼な相手はハートの女王以来だよ」
二メートル近い身長で、だけど針金細工のように細っこい男が、つばの広いシルクハットを神経質にかぶり直してネチネチ叫んでいる。
「あら、ごめんなさい。お茶会に呼ばれたと聞いたのだけど」
苛立たしそうに唇を尖らせていた男は、私の顔を見るとぱあと顔を明るくさせる。これで整った容姿なら目の保養になったかもしれないが、残念ながらあんまりかっこよくはない。
「ああ、アリス遅かったじゃないか! 六時からずぅっと待っていたんだよ。さあさあ入って入って三月ウサギとネムリネズミはもう来ているんだ。アリスが来ればお茶会の始まりさ」
背中を押されて、趣味の悪い家に押し込められる。目が痛くなる蛍光色のテーブルと椅子。腐った肉みたいな臭いがする紅茶と、真っ黒に焦げたスコーン。それをぼりぼり齧るウサギと、手一つつけないネズミ。
ああ、なるほど。これは確かにサイアクだ。
「やーあ、アリス。個性的な服装だーね」
「服装のことは放っておいて」
「そーう?」
ネムリネズミはふわあと大きなあくびをして丸くなる。お茶会というのに何一つ食べるつもりは無さそうだ。
「良いじゃない。僕は好きだよ、アリスの格好。まるでぶくぶく太ったイモムシみたい」
「本当にやめて」
イモムシなんて想像するだけでもおぞましい。三月ウサギの頭を叩くと、ぷぎゅと悲鳴を上げた。時計ウサギと比べれば愛嬌のある顔だけど、だらだらこぼれたよだれのせいで気持ち悪さは三倍増しだ。
「まあまあアリス。お茶会の席だ。つまらない話はなしにしようじゃないか」
帽子屋はニタニタと気色悪い笑みを浮かべて追加のお茶菓子をテーブルの上に置く。とはいえ、別に悠長にお茶を飲みに来たわけじゃない。こんなふざけたお菓子なんて、お腹を空かせていてもごめんだ。
「ねえ、帽子屋」
「どうかしたのかい?」
「心香って娘を見てない?」
「ふむ?」
帽子屋はぼうぼうと伸びたひげを撫でた。ふけがぽろぽろ床に落ちる。
「アリスなら、ハートの女王のもとに行ったよ?」
「心香もアリスなの?」
「だって僕も彼女もアリスだからね。彼も、彼も」
ネムリネズミと三月ウサギを指さす。
「白ウサギだって、チェシャ猫だって。公爵夫人も女王様も、みーんなみんなアリスだ!」
「言ってる意味が分からないわ」
「アリスには分からないかもしれない。でもきっとすぐに分かるよ」
「どういうこと?」
「キャンディはどんな味でもキャンディさ。いちごでも、ぶどうでも。だから僕たちはアリスなのさ」
「じゃあ、なんで私のことをアリスと呼ぶの?」
「それは君がアリスだから」
「あなたもアリスなんでしょう?」
「確かにそうだ。確かにアリス。でもね、僕は帽子屋なんだ」
帽子のつばをひっつかんであげる。
「彼はネムリネズミだし、こっちもそう。アリスだけれど、それ以上に僕らはアリスじゃない。でも、君は違う。君はアリス以外の何者でもない。だから君はアリスなんだ」
「何者でもない。じゃあ、探したら心香に会えるのね」
「心香って誰?」
「えっ」
「何を言っているのかわからないよアリス」
帽子屋は無表情のまま立っていた。急に心香のことを忘れてしまった。それどころか、先程までの会話がまるごとなくなっているようだった。咄嗟に会場の掛け時計を見る。六時を指したまま、何度も秒針が回り続けている。時間が止まっているから、行われた会話も消えてしまった?
「そう、なら良いわ」
そうじゃないということはすぐに分かった。彼らがアリスだと言うのなら、きっとそれは正しくて。心香が忘れ去られてしまったということは、彼女もアリスではない誰かになってしまったということ。
もう、このパーティに参加する理由も無い。私が行くべきは、決まっている。
席を立ち上がる。三月ウサギが驚いて椅子からずり落ちた。ネムリネズミは気にせず船を漕いでいる。
「アリス、もう行っちゃうの?」
帽子屋は引き留めようと私の肩を掴んだ。男の腕なのに、びっくりする程力を感じない。ちょっと突き飛ばすと、帽子屋はよろけて離れていった。
外に出ると、さっきとはまた違う並木道に変わっていた。だからといって、もうびっくりすることも無い。
「チェシャ猫」
名前を呼ぶと、ぬるっと猫の顔だけが姿を出す。
「どうしたのアリス? チェシャ猫に用事かな」
「ええ、ハートの女王のところまで連れて行ってくれない?」
「ハートの女王! お茶会はもう良いの?」
「うん。だって私はお茶会をしに来たんじゃなくて、心香を助けに来たんだもの」
チェシャ猫は私の顔をじっと見て、自分の顔を舐めた。
「よし分かった。チェシャ猫はいつだってアリスの味方だ」
ここに来たときと同じように、チェシャ猫の胴体に捕まる。ぐんぐんと視界が回って、お菓子の家はきらびやかな宮殿に姿を変えた。二度目ともなれば、酔いもそんなに無かった。
「ほんとは一緒に行きたいけどチェシャ猫はここまで。女王に見つかったら今度は前足を離されちゃう」
「大丈夫、ここからは私一人で行けるから」
別れを告げて、赤い絨毯の上を歩き出す。トランプの兵士が何事かと槍を持って走ってきたが、私だと分かるとその場で立ち止まった。私はアリスだから、通さないわけにはいかないのだろう。
地図も無い王宮の中をまっすぐ道なりに歩き続ける。迷う要素は無い。私はアリスなのだから、物語は勝手に進んでいく。
「アリス、断りもなく入ってくるなんて。なんと無礼な! 誰かこの者の首を刎ねよ」
女王の間の扉を開けると、ぶくぶくと太ったハートの女王が、私を見て顔を真赤にした。首を刎ねろと乱暴なことを言うが、恐ろしさは感じない。
「心香」
顔は全く違うけれど、なんとなく分かった。ハートの女王は心香だ。アリスだった心香は、ハートの女王になってアリスではなくなった。
トランプ兵は動かない。ハートの女王の命令を聞いても、どうすれば良いのか分からずおろおろしている。ハートの女王が命じた処刑は実行されることはない。そして、この物語の中でアリスが死ぬこともない。
「ねえ、心香」
「女王に向かって勝手な名を付けるな」
女王の言葉を無視して続ける。
「あなたは」
「黙れと──」
「〝何番目のアリス〟?」
世界が凍りついた。ハートの女王だけでなく、トランプ兵も、ここには居ないけど帽子屋もウサギも公爵夫人でさえも動きを止めただろう。
〝アリス〟なら誰もが見ているはずの、あのトップページに表示された番号。彼女たちがアリスであることを示す、何よりも覆し難い証拠。
「私は」
女王の脂肪が崩れ落ちていく。仮初の役職が剥がれ落ちていく。あるべき世界に戻っていくために、この世界でのアバターを脱ぎ捨てる。
きらびやかな宮殿は、何もない白紙の部屋になった。残ったのはティーセットの置かれたテーブルと、二つの椅子だけ。メルヒェンで歪んだ世界など、最初から無かったかのようだ。
私も戻ろう。
思考が止まる。息が詰まる。あれ、どうして。
さっきまで覚えていたはずなのに。本当に?
私は覚えていた?
あんな一瞬のページを。
気にも留めなかった数字を。
──〝私は☓☓番目のアリス?〟
「ねえ、アリス。どうしたの?」
誰も居ないはずの部屋に、誰かの声がする。
「チェシャ猫はいつだってアリスの味方。困り事なら教えてよ」
そうして、チェシャ猫のように笑った。
ああ、なんてかわいそうなアリス。
でも君にはきっと、チェシャ猫がついている。