逃げる。死はすぐそこまで迫っていた。
足を止めることは許されない。
出血は止まらない。拍動は鳴り止まない。
血を回さなければならない。傷からどれだけを溢したとしても。
息を吐いて、吸って。もう一歩前へ。
どこか見覚えのある地で、なぜか覚えのある死を初めて感じながら。今に至るまでのことを思った。
最初に気付いたのは日差しと虫の声だった。倒れ込んだ砂地はその白さにも関わらず熱く、この地の気候帯を強く感じさせた。
よろけながら、どうにか身を起こす。
ここは何処だろうか?
手本のような海岸沿いの砂浜である。白い砂浜。寄せては返す波がある。空と海だけがとても青い。手頃な木に寄りかかって辺りを見渡す。意識は未だ夢のように朧げで、上体を起こすことがなぜか難しい。
死して天国にでも来てしまったか。海岸線に沿って這うように歩く。大きな虫たちが戯れ踊る。鮮やかな肌の獣たちがこちらを一瞥して脇を通り過ぎる。両手を広げてなお届かないような前翅長の蝶が獣にぶつかり、鮮やかな赤の鱗粉を散らした。
あまりにも命に溢れたその景色に疲れを覚え、海の方に目を向ける。海と空と雲だけがあり、それに鳥が交じる。海は静かに波を揺らすばかりである。静けさとはつまり命の不在だ。ステュクス、三途の川、ビーチ……。広がる水は境界の象徴であり、越えた者には死が待っている。入水であれ座礁であれ、同じように。
少しずつあたりが静かになっていることに、周りに遅れてようやく気付いた。草食獣らしき何かとすれ違う。右を見て左を見てもう誰もいないと分かる。違和感が嫌な予感に変わる。
結論から言えばここは天国ではなく、境界を越えたのは今この時であった。
頭上を影が覆い、風が吹き、肉塊のようなものが落ちた。四つ足の大きな獣、その死体。腹が破れ、曲がりくねった骨が露出している。意味するところを察した時には全てが手遅れだった。
この大風は羽ばたきに過ぎない。この熱は吐息でしかない。それは降り立った。赤い、赤い竜。触れたものを削り殺すような鱗を纏い、呼気が炎となって口から漏れ出している。あまりにも大きく、あまりにも恐ろしい。不釣り合いに青く輝く目。彼はぐるりとそれを回し、こちらに視点を定めた。何もかもが遅すぎた。そこは領域。近付くべきではなかった。大地焼き立つ天の火の……空統べる王の縄張りに。
戦いが身近な生物ほど、闘争を無意識の裡に抑えると言われている。序列を決める儀式に肉体を破壊する価値などないと本能が知っているから。
では、いったいこれは何だ?食う必要もなく、序列を定める必要もない。逃げるだけの弱者がなぜここまで執拗に攻撃される?どこにその必要がある?
振り返って逃げる。身体を右に左に振って逃げる。撃ち出される火球も、急降下から放たれる蹴りも、全てがあまりにも速かった。避け切れなかった攻撃の一つ一つが身を裂き、焼き、抉り取る。激痛はじきになくなっていった。心臓と頭のどこかがじくじくする。何かが触ったような感覚があり、次いで熱さを帯びた。またどこかが出血したのだろう。回数を数えることは早々にやめた。喉と舌に渇きだか吐き気だか分からない感覚が来る。走りすぎた身体の限界が近付きつつある。
視界の端、青白い何かが目に入る。土の上に立ち、腕を振り上げこちらを威嚇した。蜘蛛だ。脳が痺れるような感覚を覚えた。
確かに知っている。この蜘蛛の使い方を。
速度をなるべく落とさないように蜘蛛の背を掴んで拾い上げる。尻を腕に貼り付け、そして引き上げる。綱のような糸が右腕に貼り付いた。振り向く。迫っていた何度目かの火球を避け、蜘蛛を投げつける。
当たった。
蜘蛛は肩口の鱗を掴み、その身に深く脚を突き刺したように見える。竜は痛むどころか気にする様子さえ見せていない。それでいい。
機を伺うためにこちらから歩み寄る。真下に火球は撃てない。振り回す尾を飛び越え、伏せて吐かれる火をやり過ごし、壁を背にしてその時を待つ。私と彼を結びつけるものは虫の糸であり、そうであれば引かれるのは本来こちらである。しかしあの蜘蛛は糸を引き、あるいは伸ばしてそうならないよう長短を巧みに調整する。そしてあの蜘蛛は、それ以上のことを可能にする。
降りたその時に、渾身の力で糸を引っ張った。竜は引かれたようによたよたと走り出す。頭を壁に叩きつけ、そして姿勢を崩す。倒れもがく竜はしかし、こちらから決して目を離すことはない。理不尽への疑問はいつしか怒りに、冷え切った殺意にすり替わっていた。竜の頬に片足を乗せ、片腕で引き絞るように鱗を掴んだ。顔の皮膚を持ち上げる。狙い澄ます。
咆哮もならない、情けない悲鳴が上がった。穿り出された青い目玉はどろりとした赤い血がこびりつき、そして細い紐が繋がっている。いい気分だった。殺意に任せて紐を引き千切った。
竜を撒いた。空から見つかりづらい場所で、ついに休息を得た。記憶の断片がようやく繋がり始めた。今ごろ物心つくように思い出されても困るが……。吸い付くように水を飲み、首を回した。前方に突き出された前腕から伸びる湾曲した爪。白、ベージュ、ペイルオレンジでグラデーションを構成する体表、そして鱗。水面に映る飾り羽根。嘴、顔。もう見間違えようがない。リオレウス、テロス密林、そして……
掻鳥、クルルヤック。
この身体はその幼体だった。