いやでもナイスネイチャは現役の時撃墜手段がトレーナーの一番を死守するしかなくて卒業後の連絡もないからそこ対策されたら三十路になるまでくっつけない恋愛弱キャラなんで〜 作:壬生谷
季節は巡る。時は過ぎ去り、プロローグはあっという間にエンディングを迎えた。
あの日見た桜は回帰して、再び風に揺られた薄桃色を降らせている。
あの人と出会ったのもこういう日だった気がする。
「卒業おめでとう、ネイチャ」
「うん、ありがと。トレーナーさん」
桜舞う学園。校舎と校門を結ぶ大路は、今年度に引退、卒業するウマ娘や、彼女らを送る同期、先輩、後輩、友人、家族、そして彼女らを担当していたトレーナーたちで溢れていた。
トレセン学園卒業式。ナイスネイチャというウマ娘の人生におけるターニングポイント。その一つ。そして、数年間連れ添ってきた、アタシとあの人の、別れ。
「まさかアタシも卒業するなんてね。今思うとあっという間かも」
「ああ。俺なんかネイチャをスカウトした時のことが昨日のように思えるよ」
「アタシも。ヘタしたら明日も普通にここでの生活の感覚で過ごしそうなんだよね」
本当にそうなりそうだから困っちゃうんだけどさ。
冗談めかして言ったものの、内心そんなことを考えている自分もいて、曖昧な顔だったと思う。
今日をもって、アタシたちは別々の道を行くことになる。けれどこの時までの私は未だ卒業するということをどこか他人事のように考えていた。現役のウマ娘としてトゥインクルシリーズを駆け抜けた数年は、長かったとは思うけれど、あまりにも早く過ぎ去ったようにも思えて、実感がわかなかった。
「そういえば友達とはもう話したのか? 交友関係は広い方だと思っていたが」
「もうとっくに。大体の友達はほとんど教室が一緒だからね。テイオーとか、ターボとかも同じクラスだし」
レースを走るウマ娘が現役でいられるのは個人差がある。数々の重賞を勝ち取って、歴史にその名を残した者もいれば、反対に勝利をつかみ取ることができず、悔し涙と共に人知れず引退する者もいるように。だがトレセン学園という名前の通り、ここは中高一貫の学校だ。だからトゥインクルシリーズを引退する時期はバラバラでも、卒業するときは一緒だ。だから学園で過ごした分だけ友人との仲は深まるし、こうして今その別れを惜しんで泣いている周りにいる子たちのように、自分も泣いちゃうんだろうなあって、当日になるまで思っていたんだけれど。
「みんな子どもみたいにびーびー泣いちゃってさ。マチタンなんかハンカチがぐしょぐしょになっても泣き止まないもんだからこっちは出そうだった涙も引っ込んじゃったよね」
「はは、ネイチャの世話焼きなところは卒業式でも相変わらずか」
あの人は朗らかに笑った。六年の間ずっと見てきた、燦々とした笑顔。それを見るのも今日でおしまいだと思うと、ちくりと胸が痛んで、普段通りの会話もなんだか複雑だった。
それからアタシたちは他愛ない話題を交わしながら桜並木を歩いた。時折吹く風に乗って桜の花びらがたくさん舞った。それはまるで雪のようで、綺麗だと感じる反面、この景色ともこれでおさらばなのかと思うと少し寂しくもあった。冬はとっくにすぎたけれど、春吹雪は少し前の雪解けをはらりと連れ去っていくようだった。それを見ていると、いつもならなんとも思わない風景なのに、今はそれがとても遠いなって。そう思った。
ふと立ち止まると、あの人も足を止めた。並木道は三女神様の像を中心にトの字に分かれていて、そこを右に曲がった道――つまり校門をつなぐ道――を少し歩いたところだ。
いつもは誰もがその道を毎日行ったりきたりする何の変哲も無い往来。しかしそこはアタシにとって、いや、アタシたちにとっての始まりの場所でもあった。
「ねえ、トレーナーさん。覚えてる? ここで初めてアタシたちが出会ったときのこと」
アタシはあの人に声を掛けると、あの人はもちろん、と返し、懐かしそうに目を細めた。
「覚えてるよ。近所の商店街の方々が選抜レースに出るネイチャを応援しにきたことも。彼らから隠れようと君が俺に声を掛けてきたことも。俺がスカウトしようって決めた、君の走りも」
ちょうど、桜並木が葉桜に変わった頃だったね。あの人はそう言って桜の木を見上げていた。
思えば、あの人との出会いは偶然の積み重ねだったのだと思う。
偶然、その日の選抜レースに参加していなければ。
偶然、商店街の人たちがそのことを知って応援にかけつけなければ。
偶然、彼らから逃げた先にあの人と出会わなければ。
運命というにはあまりにもありきたりで。奇跡と呼ぶにはあまりにも小さな物語。だけど平凡だったアタシにとってはあまりにも劇的な出会いだった。
「トレーナーさんと出会えなかったら、きっとテイオーに勝つぞー、とか思えなかったし、それこそURAファイナルでテイオーに勝つ未来があるなんて想像も出来なかったと思う。自分がキラキラなウマ娘になれるなんて考えもしなかった。だから、」
だから、まあ、その。
「本当に、今までありがとう。トレーナーさん」
「……とんでもない。ネイチャ。君がここまでこれたのは間違いなくネイチャ自身の実力だ。俺はただ、ネイチャの背中を少し押しただけさ。だけど……ははっ、担当のウマ娘にそう言ってもらえるのなら、トレーナー冥利に尽きるよ」
万感の思いを込めて、感謝を告げると、あの人は感慨深そうに、そして本当に嬉しそうに、小さく笑った。
アタシたちは再び歩き出した。もうすぐ、別れの時が来る。
校門までもう少し。もうちょっとだけ、一緒にいたい。そんなことを考えるのに時間はかからなかった。ああ、白状しよう。アタシにとってあの人への想いはトレーナーと担当ウマ娘の関係の領分を超えていた。しかし、多くを求めると大切な何かを失ってしまうのではないかという不安がそれを明かすことを塞き止めていた。
学園を卒業するウマ娘が後に担当だったトレーナーとそれ以上の関係を構築する例は無いという訳ではないと聞いたことがある。だがそれは生徒と教師の恋愛のようなもので、それなりに珍しい例でもある。とはいえその関係が世間から責められる訳ではないとも思うけれど、かといって恋愛なんて成就するかどうかなんて分かる訳でもない。それにむしろ、今まで良い関係でやっていけたというのに、最後の最後で台無しにしてしまうのではないかと思うと恐ろしくて仕方が無い。
だからこの想いは、初恋は、アタシの中で仕舞っておこう。アタシはその感情を自覚してから今日に至るまで、そのつもりでいた。
けれど。
不意に、あの人は立ち止まって、顔をアタシの方に向けた。いつもアタシを見ていた瞳は、困ったような、水よりも淡い感情が混ざっていて、少し寂しく侘しそうで。思わず「トレーナーさん?」と声を掛けると、あの人は「そうか――卒業するんだよなあ、ネイチャ」としみじみ呟いた。
「初めてなんだよな。色々と」
「えっ?」
「トレーナーとして担当を持ったことも。レースを走っていた君を見守ったことも。……成長した教え子を、こうして送り出すことも」
学校の先生なんかもこんな気持ちになるんだろうなあ。あの人がしんしんと零した言葉は静かで、それを聞いていると、より一層別れを意識してしまって。必死になって隠していた気持ちも明かしてしまいたくなって。言ってしまおうか。なんて考えてしまって、思わず。
「――――あ、あのね、トレーナーさん、」
掛かった心のまま口から出た言葉に、しまった、と思ったのももう遅く、ネイチャ? とあの人はアタシを見つめ返した。
――……言えない。言えるわけがない。せっかく仕舞っておこうって決めたのに、最後の最後に気まずいまま別れたくないのに、ああもう、と後悔ばかりが頭の中でぐるぐると巡っている。「……う、うぅ、あー……」と言葉が見つからなくて、焦燥感がアタシの中で膨らんでいって。
「……。……な、なんでもない……」
結局、アタシは逃げるように俯いて、そう言うしかなかった。あの人の視線を感じながら、沈黙の時間が過ぎていく。あの人は何も言わずにアタシを見ていて、それが余計にアタシを苦しめる。
居心地が悪い。どうすればいいのか分からない。自分の感情も、この状況も、何もかもが分からなくなって、やがて、苦し紛れに口を開いた。
「あ、アハハ。これからアタシも頑張っていくからトレーナーさんも心配しないで~みたいな、ちょっとガラじゃないコトを言おうとしたんだけどさ。途中で恥ずかしくなっちゃって、アハハ……」
冷静に考えると苦しすぎる言い訳のような気がして仕方がなかったが、真実はどうあれ、あの人はそんな台詞を額通りに受け取ってくれたらしい。「ははっ、そっか。安心したよ」と言ってくれたので、しばらくの間この会話のことは考えないようにした。
それから、とうとうアタシたちは校門の前へとたどり着いた。校門の内と外には、トンネルのような花のアーチが設置されている。卒業生の新たな門出を送るために用意されるある意味伝統的なもので、その下を通ると――教室に忘れ物でもしない限り――もう戻ることは出来ない。卒業生の出立を象徴するものでもあった。アタシたちはその前に立つと、どちらからともなく顔を合わせた。正直、さっきのことを考えないようにする、とは言ったが、やはり内心とても気まずい。何か話さないと、と思って口を開こうとすると、先にトレーナーさんの方が声を出した。
「いってらっしゃい、ネイチャ」
さよならじゃなくて、いってらっしゃい。それが学園の人たちがアーチをくぐる卒業生を送る最後の言葉だ。アタシは最後にこの想いを言ってしまいたかったけど、あの人が困った顔を浮かべるのを見たくなくて、やっぱり言えずに、ただ、ヘタな作り笑いを浮かべて、「行ってきます」とだけ返して、学園の外に出た。
それから家に帰るまでのことは、あまり覚えていない。けれど、引っ込んでいたはずの涙が、どこかのタイミングで流れたことは、今も覚えている。
それが、十年以上前の話だ。未練がましくも、アタシは、未だにそのことを引き摺っている。