いやでもナイスネイチャは現役の時撃墜手段がトレーナーの一番を死守するしかなくて卒業後の連絡もないからそこ対策されたら三十路になるまでくっつけない恋愛弱キャラなんで〜 作:壬生谷
冬を越すと春が来る。
春を過ぎると夏が訪れる。
夏が終わると秋が始まる。
雪が解けて、花咲き、緑芽吹く。桜は散り、雨が降る。空気が冷えて、木漏れ日に朱が混じる。
時と共に季節は巡る。
人は季節の移り変わりとともに、歳を重ね続ける。酸いも甘いも知るようになる。成長する。変化する。季節は人生に何かしら変化を起こすエネルギーのようなもので、言い換えればそれは
変化は誰にでも起こりえることだ。たとえそれが些細なことだったとしても、誰だって何か変わり続けるものだ。
学園を卒業する。家業を継ぐ。結っていた髪を下ろす。徐々に鍛えられた体が衰える。ただのウマ娘に戻る。それでも季節とともにひとつひとつ、ページをめくるように歳を重ね続ける。
いくつも時を巡る間に、私はいつの間にやら大人と言われるべき年齢になっていたらしい。残酷なことに、もはやおばさんとまで言われてもおかしくないような、ただの、大人のウマ娘。そこに現役ウマ娘であった頃のキレはとっくになくなっていた。
こういうことを成長したというのか、変化したというのか、衰えたとか、老けたとでもいうのか。それは人それぞれだろう。
けれども、月日が経ってもなお変わらないものがあるとするならば、私の場合、それは「未練」と書くものなのかもしれない。
そう、自嘲した。
♯♯♯
九月も中旬を過ぎると夏の暑さも感じなくなり、過ごしやすい季節になった。秋晴れの空の下では、涼やかな風が吹くと、街路の銀杏の葉は小さな手を振るように揺れている。
とはいえ黄色い手のひらは次第にひらひらと路上に散らかっていくので、せめて店の前ぐらいは綺麗にしておこうと思い、竹箒を引っ張り出した。
からんころんとドアベルを鳴らしながら外に出ると、たおやかな陽射しは静謐で、心地よい微風が髪をなでる感覚が気持ちよかったので、うーん、と腕を伸ばす。陽が真ん中を少し過ぎた頃の空は白い雲がのんびりと昼寝をしているようだった。
そんな益体もないことを考えていると、ふわっと目の前を一陣の風が吹き抜けていった。秋の匂いを乗せたその風は私の鼻腔を通り抜けていき、どこか遠くへ消えてしまった。そしてまた新しい風が吹いて、今度は私の髪を巻き上げた。今日は風の強い日らしい。
思わず目を細めると、視界の端っこに見覚えのある顔があった気がしたのでそちらを見やる。するとそこには見知った顔がいた。近所の学校に通っている子たちだった。栗毛のウマ娘の子と茶髪のヒトの女の子の二人は、私の姿を認めると、ぱっと目を輝かせて、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
「あ! ナイスねーちゃん! おいっす~!」
栗色の髪の毛をした子が元気よく挨拶する。隣にいる茶髪のヒトの娘もにへら、と笑って「ナイス姉ちゃんおいっす~」と言った。二人とも制服姿だ。きっと学校帰りなのだろう。
「はいはい、おかえり。二人とも今学校終わったとこ?」
「そうそう。今日からテスト週間でさ、部活もないから早く帰れるんだ~」
「だから今週も姉ちゃんのお店で勉強しよ~ってなったから学校終わってすぐに来たんだよね」
昼間は喫茶店として学生割引もやってるから、こうして勉強しにやってくる子は少なくないが、姉ちゃんのお店のメニュー美味しいしね~、などと嬉しいことを言ってくれるこの二人はそんな放課後の学生のお客さんの中でも常連の子たちだった。
「ふふ、そんなに言ってくれるなら店を開けている甲斐があるねえ。ほら、お入り」
私が促すと、二人は嬉々として店の中に入ってきた。からんころん、とドアベルは二人を歓迎した。
「あれ? もしかしてあたしら一番乗り?」
「じゃあいつものとこ座れるじゃん! ラッキー! あ、ねーちゃん、いつものね!」
「はいはい」
そういって二人は嬉々として彼女らの定位置――店の奥のソファ席へと向かっていった。
私は少しだけ微笑みながら、掃除の手を止め、カウンターの中に入って、紅茶の準備を始めた。
この二人の注文はいつも決まっている。砂糖は入れないし、ミルクも入れずにストレート。レモンティーと、三枚重なった上にシロップをたっぷりかけたパンケーキ。ポットに湯を入れつつ、カップを温めておくことも忘れない。
「あっ、めっちゃいい香りがしてきた」
「なんかもうそれだけで癒される感じしない?」
「わかる~」
二人はすっかりくつろいだ様子だった。そんな和やかな雰囲気に自然と笑みを溢しながら、勉強道具を広げた席にティーセットを持っていく。彼女らはそれを見ると汚さないようにノートと筆記用具を片付けた。
「はい、どうぞ」
「お、きたきた。いただきま~す!」
そうして一口飲んだ後、彼女たちの会話が始まる。それはなんてことのない雑談だった。今日の授業のこと、友達とのこと、テレビの話など、本当に他愛のない話ばかりで、たまに話を振られると、それに付き合ったりする。
店は私が子どもの頃からの常連さんも来るからか、あるいは夜はスナックとして開いている性質だからか、私とお客さんの距離は近い。彼女らのように『ナイス姉ちゃん』とか、商店街の方々のように『ネイちゃん』などと親しげにあだ名で呼んでくれたりする。誰かとおしゃべりするのは好きだから、こうした関係は心地よかった。
そんなことを考えていると、店に吊り下げられているテレビの映像が目に付いた。この時間は昼のバラエティ番組が放映されていて、今は秋のイベントを取りまとめた特集を紹介しているようだった。それだけなら別に印象に残るほどのものではない。けれど画面の奥のアナウンサーが紹介していたのは、私にとってもなじみ深いものだった。
『今年も中央トレセン学園の秋のファン大感謝祭、通称聖蹄祭の開催が発表されました。チケット応募は開始しており、例年同様に抽選倍率は三〇〇倍を越えているとのことで――――』
聖蹄祭。ファンに向けて春と秋の二回に分けて行われるイベント、ファン感謝祭。そのうちのひとつ。半年前に行われた春の感謝祭は運動系の催しが多く、反対に秋の感謝祭は出店やファンと交流するイベントなどのような文化系の催しが多い。まあ一般的な学校で言えば規模がとても大きな体育祭と文化祭のようなものとも言えるかも知れない。
「あ、もうそんな時期なんだ。やっぱりあそこ毎年すごいよね~」
「ね~。ウチなんか毎年応募してるのに毎回落ちてるんだよね。チケットをご用意できませんでしたってメッセージとはもう友達なんだよね」
テレビを見ながらウマ娘の少女はそんな冗談を言った。あまり実感はなかったが世間一般にとってはファン感謝祭はイベントそのものよりもライブ会場かなにかのチケット売り場のようなメッセージの方がなじみ深いらしい。
「そういえばナイス姉ちゃんは感謝祭行ったことある?」
「行ったことあるもなにも、私トレセンの卒業生だしねえ」
苦笑しながら答えると、ピシリ、と二人の表情筋が固まった。
……あー、そっか。もう卒業して十年近く経ってるし今時の子たちにとってはここの店員ってイメージの方が強いか。地味に感じる月日の経つ早さと加齢の比例によるスリップダメージは、うん。無視。
とはいえ十秒近くカチコチに固まっているので、「おーい、もしもーし?」と二人の顔の前で手を振ってみるなどしていると、ややあって彼女たちの停止していた表情が徐々にハッとした顔になっていった。
「わ、わ、わ、」
「わ?」
「忘れてたあああ!! そもそもナイスねーちゃんって、ナイスネイチャじゃん!!」
「えぇ……? そういう思い出しかたある?」
「いやだって、ナイス姉ちゃんがナイスネイチャなのは知ってたけど、あのナイスネイチャってことすっかり忘れてたし……」
「なんて?」
いやまあ、言いたいことはわかるんだけど。とはいえこの子たちに認知されているとは思わなかったので少し意外だった。
……あ、聖蹄祭といえば。二人に席を外すと言付けて店の事務所に入る。事務用のパソコンの側には『URA・トレセン学園 第○○年度卒業生同窓会』と表記されている封筒が開かれたまま置かれている。『ナイスネイチャ様』と私に宛てられた書類にはそのまま『今年度聖蹄祭のOG招待について』と続いている。
まあ、ようするにOGに向けた感謝祭の招待券だ。毎年二度にわたって開催される感謝祭のたびに卒業生に向けてこういったものが送られてくる。学園の卒業生などたくさんいるだろうに、おそらく全員に向けて送られてくるのはトレセン学園の敷地的に何人来ても余裕なのか、あるいは今もなお現役の理事長さんの人徳によるものかなのだろう。
とはいえこうして送られくるのには慣れているが、実のところ卒業して以来私は一度も感謝祭に行ったことはなかった。……理由は、と尋ねられると答えに窮するけれど。
うん。まあ、その。再び学園来たときに、偶然あの人と再会することになったら、と考えると、なんか、気まずくない? そんな考えが頭をよぎるなどして、結局毎年行かないようになったのである。……いや、我ながらホント女々しいのはわかってます。いくらなんでも引き摺りすぎでしょ、というのもごもっともです。はい……。
閑話休題。
さて、招待状を持って店のホールに戻ると、テレビは相変わらず聖蹄祭の話題で持ちきりだった。少女たちは相変わらず行きたそうにそれを見ていたが、戻ってきた私の姿を認めると、「あ、姉ちゃんおかえり~」と話しかけてきた。
「ねー聞いてよ姉ちゃん、聖蹄祭って執事喫茶とかやるんだって、いいな~」
「うわ、懐かし。まだやってるとこあるんだ」
「え、姉ちゃんのときもやってたの?」
「テイオーとかもやってたかなあ。あと大御所を言えばリギル。それこそシンボリルドルフさんとかエアグルーヴさんとかもやってたし」
「うええそんなの見れたの? 当時の人めちゃラッキーじゃん」
「なまじ顔がいいキラキラした人たちばっかだったからねえ。あそこだけ大混雑してて裏方の子たちとか大変そうだったわ」
「ほえー、いいなあ……」
そう言って栗毛のウマ娘の子は羨ましそうに目を細めたのを見て、やはり私の判断は間違ってないように思えたので、そんな彼女らにエプロンのポケットに隠していた招待状をふりふりと見せた。
「そんなお二方に提案があるんですけれどもね? これ、なーんだ」
「……!? それってもしかして、」
「感謝祭のチケット!?」
「そそ。OGだから貰えたりするわけよ。で、ここからが本題なんだけど」
これ、二人ぐらいなら一緒に連れて行けるんだよね。そう言うと二人の表情がみるみる明るくなった。
「ねーちゃん最高!愛してる!」
「愛してる~」
「ああもうわかったわかったくっつかないの」
抱きついてきて頬ずりする二人の少女を引き剥がしつつ、私は苦笑する。まあ、こうなることは予想してたけど。……それにしても、感謝祭かあ。
「…………」
「どうしたのねーちゃん?」
「いや、なんでもないよ」
まあ、大丈夫でしょ。毎年たくさんの人が来てるし。あの人もまだトレーナーやってるだろうから、教え子の相手をしてるだろうし。行く予定だなんて事前連絡もするわけでもなし、本当に偶然が偶然を呼ぶようなことがなければ会うこともないでしょ。
そんな楽観的なことを考えながら、私は二人の少女の親御さんに連絡する算段をつけるのだった。
そう、考えてたんだけれど。
「――もしかして、ネイチャか?」
「う゛、あ、その。ご無沙汰しております……。あ、アハハハハ……」
うん。まあ、その。言うまでもないんだけど、別に会おうとして会ったわけじゃない。それだけは信じて頂きたい。
ただ、偶然、そう偶然ね? 感謝祭の来祭者を出迎えるトレセン学園の校門の前まであの子達を連れて行ったところ、たまたま知り合いに出会っただけで。その人がよりにもよって私の元担当トレーナーのあの人であっただけで。
「ナイス姉ちゃん、知り合い?」
「もしかしてカレシ!?」
そばで色めき立って囃している二人の声がやけに耳に残った。感謝祭のことなんか頭の中から吹き飛んで、この場をどう切り抜けるのかとか、久しぶりすぎて何を話せばいいのかとか、そういったことばかりがぐるぐると頭の中をめぐる。
私の当初の目論見は、早くも崩れた。まあ、それだけなら、まだ良かった。いや、全然良くないけれど。
気まずくて顔を下に逸らしたとき、見てしまった。
(――――ああ)
胸の奥に去来したのは諦観だった。
考えるまでもないことだった。もう卒業してから十年は経っている。あの人にも、そういう人がいてもおかしくないことだった。
愚直で、折り目正しいスーツ姿のあの人の、その左手薬指には。
「………………っ」
小さな宝石の装飾をあしらった、エンゲージリングが通っていた。
♯♯♯
それからの展開は、私を置いて流れるように進んだ。あの人と会ってうろたえていた私から何を思ったのか、常連の二人は「お二人も積もる話もあるだろうし、あたしたち行ってくるね!」と私の返事も待たずに去っていき、残された私たちはお互い気まずい沈黙を味わいつつ、「とりあえず、座れるところにでも行こうか」というあの人の言葉に従い、近くの一般開放されているカフェテリアに向かう。十年前に卒業したトレセン学園は変わらないところもあったけれど、やはりそれだけの年月の間に建替えや改装が進んでいて、道すがら私が見た場所などは記憶していた風景とほとんど違っていた。
「驚いたよ。まさかまたネイチャと再会するとは思っていなかったから。お互い、連絡もなかったしね」
「ア、アハハ……その節は大変申し訳なく……」
「ああ、いやいや……」
「…………」
「…………」
『………………』
……気まずい。
お互い紅茶とコーヒーだけ注文し、テーブルを挟んで向かい合った私たちの間には、まだ何とも言えないぎこちない空気が流れていた。無理もない。卒業してから一度も連絡も取ることもなく、そして長い年月を経て偶然この聖蹄祭で再会した形だった。当然事前に行く予定なんて伝えてなかった。勿論事前に伝えるべきかはあの二人を誘った日の夜に悩んだ。けれども恥知らずにも今まで連絡の一つも交わしていなかった――年賀状による新年の挨拶ですら!――し、そもそも連絡先が変わってるかもしれないからきっと返信もこないかもしれないだろうなどと色々な想定や懸念などをめぐらせている内に、あっという間に当日となり、あの子たちを引率して連れて行ったところあの人と再会してしまい、今に至る。
(それに……)
ちらりと目の前のあの人の指先を見る。やはり先ほど見たものは現実であったようで、相変わらず薄い赤色の小さな宝石がキラリと光を反射している。それが嫌に瞳の奥に残り続けている。
(本当に、嫌な気分)
あの人が結婚したということが、ではない。あの人に想いを告げるチャンスを失ったことでもない。あるのはただの自己嫌悪。
失恋ですらない。勝手に想いを抱いて、勝手に諦めた。その結果が今目の前にあるというのに、今更それを受け入れられずにいる自分に腹が立つ。学生時代世話になった人の幸せすら素直に祝えない自分が情けない。こんなことならもっと早くに連絡を取っていればよかった。せめて自分の気持ちだけでも伝えるだけでも、今よりはずっとマシだったかもしれない。
「――チャ? どうした、ネイチャ?」
というかそもそも卒業式のときにヘタレずにちゃんと言っておくべきだった。周りの友達や同期の子だって当時トレーナーだった人と結ばれたという話は良く聞いたし、テイオーやマチタンなどからは直々にそういった報告もされた。それもこれも彼女らがあの頃からアプローチした結果だ。わかっていたはずだ。一番を取るためにはそれ相応の努力が必要なのは、自分が一番わかっていたはずなのに。一着を譲ってしまうような女があの人の隣にいれるはずもなくて……。
「ネイチャ!」
「あ……」
ハッとして視線を戻すと、あの人は眉をひそめこちらを見つめていた。……やってしまった。色々なことで頭がいっぱいだったとはいえ、せめて平静を装うべきだった。再会してからずっとこのような調子だから、あの人にもいらない気を遣わせている。
「ご、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてて」
「……。ネイチャ、何か悩んでいるのか?」
作り笑いを浮かべてそう言い訳したが、そんな言葉で誤魔化せるはずもなかった。あの人の視線から目を逸らして、ミルクティーに少し口を付ける。砂糖をあまり入れていないからか、あまり味がしなかった。それを繰り返しているうちに、カップの中はすっかり無くなっていた。
「その癖、変わらないな」
「え」
「ほら。君がまだここの生徒だったころ。オフの日でも君はトレーナー室に来て、飲み物を片手に駄弁って過ごしたりしてたけどさ。何か思うこととか、色々悩んだりしてるときに限って黙って飲むペースが早くなって、すぐに飲み干してただろ。……気づいてなかったか?」
「あ……」
懐かしみながら話す彼の言葉を聞いて、思わず私は空になったコーヒーカップを覗いた。言われてみればそうだった。そんなことまであの人は覚えていたのか。そう思うとぼんやりと仄暗い喜びが胸のうちから現れて、少し口元が緩んだ。
「まあ、結局の所もうトレーナーと担当の関係じゃないけどさ。また頼ってくれよ。久しぶりに会えたんだ。いつまでもネイチャの自慢のトレーナーでいさせてくれ」
そう言ってあの人は柔らかい笑みを浮かべた。私の心にあった黒いモヤのようなものが少しずつ晴れていくような、懐かしい、恋い焦がれるほど優しかった。そういう笑みだった。
(――――ああ)本当に、ずるい。まるで特別扱いされているみたいだった。黒いモヤのようなものの代わりに仄暗い喜びがどんどんと膨らんで、大きくなるほどに苦しくて、泣きそうになる。
(やっぱり、好きだなあ)
やっぱり、言ってしまおうか。卒業式のあの時言おうとした未練をここで精算してしまおうか。そんな考えがよぎった。けれどあの人の顔を見て、やめた。今のままが良い。今のこの距離感のままで良い。仮に想いを伝えたとして、その顔を曇らせるのは見たくなかった。
もう恋はとっくに終わったのだ。エンドロールにはあまりにも遅すぎた。この想いは、もう誰にも知られず、知られることなく消えていけばいい。春はとっくに過ぎたのだから。
「……ううん、大丈夫」私はふう、とため息をついたあと、そう言った。そして再びあの人の顔を見たときの私は、きっと笑えていたはずだ。
「トレーナーさんにそう言ってくれただけで、私には充分ですよ」
ですからどうか――。私はあの人の左手薬指で小さく光る指輪を見て言った。
「その優しさは、トレーナーさんの奥さんに向けてあげてください」
ご結婚おめでとうございます。私はそう言い残して席を立った。あの人が何か言っているようだったけれど、よく聞こえないふりをしてそのままカフェを出た。
それから私と子ども達と合流してから学園を出るまで、あの人と再び会うことはなかった。