■
「ターボがいなくなった?」
聞き返すと、俺の元を訪れたナイスネイチャは、曖昧な表情で頷いた。
「いや、あの娘が勝手にどっか行っちゃうのは、まあいつものコトではあるんですケド」
「それは……そうかも、しれないが」
「だからまあ、大ゴトにするつもりはこれっぽっちもないんだけど……でも、今回は何回かメッセ送っても、既読すらつかないし。電話かけてみても、繋がんなくて。アタシじゃなくて、イクノかマチタンがそうしても、何も返って来ないから……いやはや、どうしたモンかねー、って」
あはは、なんて彼女は肩をすくめて見せたけど、その瞳には不安の色が浮かんでいるままで。
「校内は探したのか?」
「あの娘が行きそうなトコは、大体」
「外は?」
「一応、イクノとマチタンが探しに行ってくれてるけど……まだ、見つかんないみたい」
「……ちなみに、アイツが居なくなったことに気づいてから、どれくらい経った?」
「あー、そろそろ四十分くらいですかね?」
「四十分……」
壁に掛けた時計を見つめながら、考える。
校内は捜索したが発見できず。連絡もつかない。電話にも出ない。
……あの娘のことだ。最初は勝手に街に出て、迷子になったのだと思った。
でも、仮にそうだとして、友人である彼女らの連絡に何も返さないとは考えにくい。
携帯の充電が切れた? いや、誰かに道を聞いて一人で帰ってくるくらい、あの娘ならできる。
今日はトレーニングを休みにしたから、サボり云々で連絡を返さないという可能性も、ない。
だったら、何だ? あの子は今、どこで何をしてるんだ?
……あ。
そういえば。
今日の朝礼で、不審者の報告があった、よう、な――
「悪いネイチャ、今すぐ駿川さんに伝言を頼めるか?」
「え? で、伝言? たづなさんに?」
「まず生徒全員のトレーニング停止と、寮にいる生徒への外出禁止令。既に外出してしまっている生徒には、すぐ寮に戻らせるように。マチカネタンホイザとイクノディクタスの二人にも、すぐ帰ってくるよう連絡してくれ。それだけ伝えれば向こうも何とかしてくれると思うが……一応、その後は駿川さんと一緒にいろ。いいな?」
「ちょちょ、ストップ! いきなりそんなこと言われても……ってか、そんな大ゴトにする必要あるの?」
「何かあってからじゃ遅いんだよ」
席を立って、ジャケットを急いで羽織る。
「もし向こうから反応があったら、すぐ駿川さんに連絡してくれ」
「そ、それは分かったけど……トレーナーさんは?」
慌てたまま問いかけてくるナイスネイチャに、俺は。
「あのクソガキを探してくる」
■
子供は嫌いだ。見ていると、過去の自分を思い出す。
物覚えの悪い子供だった。こうして教育者になってからひしひしと感じるが、子供の頃の自分はひどく我儘で傲慢で、言ってしまえば見るに堪えない不良生徒だった。生徒からはもちろん、教師からも見放され、愛想を尽かされるような、そんな。
当時の俺からすれば、教師なんてものはハッキリ言って邪魔だった。どいつもこいつも無能で、役立たずで、そのくせ自分の都合で俺を動かそうとしてくる。早く、大人になりたいと思った。違う。本当は、子供のしがらみから解放されたかったんだ。子供でいることに、ひどく息苦しさを感じていたから。
トレーナーを志望したのは、ある教師の導きだった。
唯一、俺に対して献身的に話しかけてくれる教師だった。古文を担当する、定年間近の女教師だった。今思えば、彼女は教師にしては優しすぎた人間だった。反発しかしない俺のことを、他と変わらない一人の生徒として扱ってくれた。あり大抵に言えば、恩師とも呼べる人だった。
一度、彼女にレース場へ連れていかれたことがある。将来の進路に対して何の興味も持たなかった俺を見兼ねての行動だった。レースはテレビで何度か見たことはあるが、実際に目にするのは初めてだった。
そこで、気づいた。彼女らは、足掻いているのだと。
走るための魂を宿し、本能のままにターフを駆ける――言ってしまえば、俺はそんな彼女らの姿に魅せられたのだろう。早く大人になりたい、なんて俺の足掻きは、ただの我儘なんだだと知らされた。あの少女たちは、自らを縛る運命という、重たすぎる鎖から解放されるために走っていたのだ。
トレーナー専門学校への受験を決めたのは、それからすぐのことだった。時期としてはほとんど手遅れだったが、それでも彼女は俺の力になってくれた。そのお蔭もあってか、俺は専門学校に現役で合格することができた。今思い返せば、もしかすると先生はウマ娘のトレーナーになりたかったのかもしれない。でなければ、彼女はあんなに大粒の涙を流して喜んでくれなかっただろうから。
専門学校に入学してからは、ひたすらに勉強を続けた。他の何よりも、勉強を優先した数年間だった。そして卒業と同時に、中央への配属が決まり――それからしばらくして、ツインターボの担当にあたることになった。チームのサブトレーナーとしての経験もある程度積んだうえで、任された仕事だった。
彼女は、俺とよく似た子だった。
自分勝手なのは言わずもがな、頑固で言う事もマトモに聞かず、そのうえひどく気分屋で。
言ってしまえば――
「あのクソガキ……! どこ行きやがったんだ、この大事な時期に!」
自分の担当するウマ娘なのに、あろうことか俺は彼女のことをそう呼ぶようになっていた。
……こんな姿を見られたら、きっと先生に叱られるだろうな。
「また面倒ごと起こしやがって……頼むから、俺の身にもなってくれよ」
口の端から文句を垂れ流しながら携帯を確認するが、未だにナイスネイチャからのメッセージは入ってこない。当然、駿川さんからのメッセージも、先程送られてきた事情の確認と生徒たちへの対応報告のもの以外、音沙汰なし。
ここまでで既に、ツインターボが失踪してから一時間半が過ぎていた。
「携帯を持ってない……は可能性としてまだあるとしても、これだけ時間が経って気づかないこと、あるか? 取りに帰ってるなら、今頃ネイチャに連絡が行ってるはず……。だったら、マナーモード? いや、そこまでバカじゃない。だったら……電波の届かないところにいる、か? こんな都心で? んなとこねえよ……!」
煮えたぎる思考を口の端から漏らしながら、信号を待つ。
……どうすればいい?
このまま戻って、たづなさんと一緒に連絡を待つか? いや……それじゃダメだ。それくらいならまだ、こうやってアテもなく探し続けた方がマシだ。俺は、彼女の担当なんだから。俺にできることを、やらなければ。
ぐるぐるとした思考に陥っていると、既に信号が点滅していることに気が付いた。
慌てて脚を踏み出そうとすると、灯火が赤に切り替わる。
「何してるんだよ、俺は……!」
焦る気持ちを抑えられず、苛立ちが募っていく。
携帯の電源を点けて時刻を確認すると、既に十六時を回っている頃だった。夕焼けの光が、視界の端で鬱陶しく輝いている。この前から、いっそう日の入りが早くなったように感じる。猶のこと早く、彼女を見つけなければ……。
そうやって考えたところで、ふと。
「……既読、ついてる」
何か変化がないかと開いたメッセージアプリを見て、気が付いた。
「よかった……」
一先ずの安堵が先に来て、それからじわじわと疑問が浮かび上がってくる。
……確か、ナイスネイチャは「既読すらつかない」と言っていたはず。これで同時に彼女のメッセージも確認したとなると、すぐに向こうから連絡が飛んでくるだろう。だが、未だにナイスネイチャや駿川さんからの連絡は跳んでこない。つまり彼女は、俺のメッセージだけ確認したということになる。
だが、どうしてだ? こう言っては何だが、彼女にとって俺の優先度は友人よりも低いはずだ。それなのに、友人よりも先に俺の連絡を確認するなんて。普段の彼女からは、あまり考えられない行動だった。
……どういう意図だ? 彼女は、いま何を考えている?
凝り固まった思考を吐き出すように、メッセージウインドウへと指を伸ばす。
『見てるなら早くどこにいるか教えろ』
……違う。
『心配だから、迎えに行く』
これも、違う。
『頼むから、俺の身にもなってくれよ……』
八つ当たりがしたいわけじゃない!
何度もメッセージの入力と削除を繰り返しているうちに、また信号機が青になる。だけど、脚は動かなかった。電柱に背を預けたまま、彼女へ送るメッセージを考える。
本当は、分かってる。既読がついたのは、俺のことを信頼しているからだ。きっとこの状況で、俺だけが頼れる人間なんだろう。だから、彼女は俺のメッセージを真っ先に確認した。
だけど返答がないのは、俺が正しい言葉をかけられなかったから。
「つっても、なあ……」
どんな言葉をかければいいのか分からない。
……そもそも俺は、彼女のことを全く理解できていないのだから、仕方のないことか。
単純な生徒ではあると思う。少なくとも、気難しい性格ではない。ただ、だからこそ考えていることが分からない。とびっきり頭の悪い提案をしてくると思えば、穿つような意見をしてくることもある。
物事の捉え方が違うのかも、と考えたのは担当をして間もない頃だった。純粋な性格だからこそ、周りがうんうんと考えることに真正面からぶつかって、単純な答えに至るのではないか、と。
それが彼女の魅力、と言えばそうなのかもしれないが。
しかしどうすれば、彼女と同じような思考になれるのだろう。
大人になってしまった俺では、もう同じように物事を捉えられないのだろうか。
彼女はいま、何を考えている?
あの青とピンクの目には、一体どんな光景が映って……。
……あ。
『そこから、何が見える?』
答えが返ってきたのは、すぐだった。
『何も、見えなかった』
『いつも通りだった』
『何か見える気がしたんだけど、気のせいだったのかも』
返答を打つ指は、いくらか落ち着いている気がして。
『俺も、見に行ってもいいか?』
ほどなくして、マップアプリのスクリーンショットが送られてきた。
■
地図の通りに歩いていくと、すぐ目的地に辿り着いた。
廃れた雑居ビルだった。入り口付近には、テナント募集の張り紙がある。軋む音を立てて開くエレベーターに乗り込むと、不安を感じさせる振動と共に浮遊感が全身へ伝わった。
ごうん、ごうんと無機質な音だけが響き渡る。揺れるエレベーターの室内で感じていたのは、退屈――というより、驚きだった。彼女が素直に自分の居場所を教えてくれたこともそうだが、何より彼女がこんな場所にいることが意外でならなかった。果たして、彼女はどうしてここに一人でいることを選んだのだろう。そして、なぜ俺だけにこの場所を教えたのだろう。
考えているうちに七階、八階とエレベーターが昇って行き――屋上で、止まる。
安っぽいチャイムと同時に開いた扉からは、夕焼けの光が差し込んできた。
「……ぁ」
まず初めに聞こえてきたのは、そんな弱々しい彼女の呟きだった。
制服姿ではなかった。パーカーにジャケットを羽織り、頭の上には目深にキャップを被っている。穿いているズボンが汚れるのもお構いなしに、彼女は柵の傍に座ったまま、振り返って俺のことをじっと見つめていた。
……言いたいことが、山ほど浮かんでくる。
なんでこんなところにいる? どうして、誰からの連絡も返さなかった?
勝手な行動をするな。他人に迷惑までかけやがって。
こっちがどれだけ心配したと思ってるんだ。少しは考えてから行動してくれ。
どれもが、喉元まで出かかっていた。
ただ、それを今この場で吐き出すのは違うと、直感で理解できた。
いくつもの言葉が胸の内から浮かんでは、泡のように溶けて消えていく。
そして、最後に残ったのは。
「何が、見たかったんだ?」
「……………………」
問いかけた疑問に、すぐに答えは返って来ない。俺の言葉を受けた彼女は、そのまま柵の向こうに広がっている景色へと目を戻す。誘われているような気がした。どうか隣に立ってほしいと、せがまれているようにすら思えた。
ゆっくりと彼女の隣へ歩み寄って、同じ景色へと目を馳せる。
そこに広がっていたのは、夕陽に照らされる街並みだった。高い建物に遮られて、遠くまで望むことはできない。真下に広がる交差点では、信号の音響と共に多くの人影が歩みを進めていた。いつもと何一つ変わらない、あるいは退屈とも呼べる日常の風景だった。
「ここからだと、よく見えるな」
漏らした言葉に、彼女は小さく頷いてから。
「でも、やっぱりいつも通りだった」
そう言って、すくりと立ち上がった。
「いつも通りじゃ、嫌なのか?」
「イヤじゃない、けど……でも、いつもと違って見えると思った」
「どうしてそう思った?」
「だって、ここは高いから。ターボ、背が低いし……ここなら、いつも違う景色が見られると思って」
まあ、確かにそうかもしれないが。
「……やっぱり、まだターボは子供なんだ」
しばらくしてから、彼女はぽつりと、独り言のように呟いた。
「どうしてそう思う?」
「ターボ、来月で学年上がるんだ」
「ああ、知ってる。……今年から高等部だな」
「だけどターボ、ネイチャみたいに料理も得意じゃないし、マチタンみたいにオシャレにも詳しくなくて、イクノみたいに勉強ができるわけでもない……テイオーみたいにレースも強くないし、マックイーンみたく上品でもないし、ライスみたいに優しくも、ない……それに何より、ターボ、ずっと寂しいって思ってるんだ」
「……寂しい?」
「ターボ、レースの時はいつも一人だから」
言われてから、ああ、と納得した。
彼女はどんな作戦を伝えても、結局『逃げ』で走るから。
「みんな、後ろにいるんだ。隣で走ってくれるヤツなんて、誰もいない。だけどね、それはまだいいんだ。一番イヤなのは、負けたとき……みーんな、ターボのことを追い越していっちゃう。それが、イヤ。だからターボ、がんばってみんなに追いつこうとするんだけど……結局、ターボはいつも一人のままで負けちゃう」
「それ、は……」
「ターボね、ほんとは逃げって名前もイヤ。だって、みんなから逃げるんでしょ? なんで? ターボは、みんなと一緒に走りたいのに、どうして逃げなくちゃいけないの? それとも……そうやって思っちゃうのは、ターボがまだ子供だからなのかな?」
言葉は続かなかった。いや、続けられなかった。彼女も、俺も。
……彼女がこんな繊細な事を考えていたなんて、思いもしなかった。いや……よく考えれば、分かったことなのかもしれない。きちんと彼女のことを理解していれば、すぐに予想できたことのはずだ。それなのに、俺は彼女のことを理解しようとしなかった。自分には分からないと、目を逸らし続けていた。
俺と彼女は、どこか似ている――そんな考えは、俺の傲慢でしかないと知らされた。
「ここに来れば何か変わるかも、って思った。いつもと違う景色が見られるかも、って。そうすれば、ターボの考えも変わるかな、って気がした。でも……結局、同じ景色だった。何も、変わらなかった」
「………………」
「ねえ、トレーナー」
こちらを見上げるその瞳は、不安の色で塗りつぶされていて。
「どうしたら、ターボはオトナになれるのかな?」
ああ、だから俺なのか、と。
渡されたその言葉でようやく、彼女が俺のメッセージにだけ反応した理由を理解した。
それを憧れと呼ぶには、少し後ろ向きすぎるかもしれない。ただ、だからといって子供のままの現実を受け入れるのも難しい。今の彼女の心の内には、そんな曖昧な感情が渦巻いているのだろう。
焦っているのか。あるいは、諦めているのか。それすらも、今の俺には分からない。
だけど、答えになる言葉は一つだけあった。
改めて大人になって、実感したこと。後ろを振り向いてから、気づくこと。それが正しいのかどうかは、分からない。極論を言えば、個人の主観なのだと思う。誰しもが、そんな認識ではないのだろう。
ただ、その問いかけに『俺』という大人が答えるのだとすれば。
それは。
「気づいたら、なってるよ」
使い古された、月並みの言葉かもしれないが。
きっと、大人というのは、そういうものなんだと思う。
「気づいたら?」
「ああ」
「……長い時間がかかる、ってこと?」
「そうかもしれないな」
続ける言葉は、自分でも驚くほどに長く、それでいて饒舌だった。
「ドーナツが、好きだったんだ」
「……ドーナツ?」
「ああ。お前も好きだろ? ピンクとか黄色とか色がついた、カラフルなヤツ」
不思議そうな顔を浮かべたまま、彼女が首肯する。
「実家の近くに、パン屋があったんだ。子供の頃、そこで売ってたのをよく買ってた。甘くて、美味しかった。でも、なあ……いつからか分からないけど、買わなくなった。いや、買えなくなったんだ。こんな大人が、あんな甘いもん買うなんて……って考えるようになった。恥ずかしくなっちまったんだよ」
言葉も返さないまま、彼女はじっと俺のことを見つめて、話を聞いてくれた。
「公園で遊ぶもの好きだった。……ドッジボールが、得意だった。よく、外野に選ばれてたよ。でも、今はしなくなった。それだけの体力もなくなったし……そもそも、公園で遊ばなくなった。大人だから」
「…………」
「ザリガニも釣ってた。知ってるか? ザリガニって、スナック菓子でも釣れるんだぜ。それで友達と見せ合った。どっちの方が大きいヤツ釣れたか、って。だけど、それも今はしなくなった。田んぼにも行かなくなったし、釣りもしなくなった。だって……」
「……大人だから?」
「ああ」
問いかける彼女の頭を、帽子の上から優しく撫でる
「俺もさ、子供の頃は早く大人になりたい、って思った。そうしたら、自分で出来ることが増えると思ったから。でも……実際は違った。大人になったら、できなくなったことの方が多かった。気づいたら、そうなってた」
「……そうなんだ」
「だから、お前も……ターボも、気づいたら大人になってると思う。こんな風に考えたことがあった、なんて懐かしんだりするときが、きっと来る。そうなるまで、お前は子供のままなんだと思う」
そうなるまで、長い年月がかかるだろう。一朝一夕で済む話ではない。ただ、いつか来る話でもある。焦る必要なんて、どこにもない。いつも通りに過ごしていれば、きっと大人になれる。
だから、待ってればいい。いつか大人になれる、その日まで。
……なんて。
それが、本当に伝えたいことか?
果たしてそうしたところで、この子は救われるのか?
……違う。
そうじゃないだろ。
俺が本当に、彼女に望んでいることは。
「だから、子供のままでいればいい」
「……え?」
気づけば、俺の口は勝手に言葉を紡いでいて。
「俺だって本当は、ドーナツが食べたい。公園でドッジボールがしたい。ザリガニを釣って、泥まみれになりたい。日が暮れるまで、友達と遊んでいたい。でも、できないんだ。大人になったから。大人に、なってしまったから」
「……うん」
「だけど、お前にはそれができる。ドーナツでもなんでもいいから、好きなものをたくさん食べて、よく眠ってよく遊んで。怪我も病気もしない、いつも通りの毎日を楽しく過ごすことができる。……羨ましいとすら、思うよ」
決して、気持ちの良い言葉ではないと思う。ともすれば、子供にぶつけるのもためらわれるような、後ろ向きすぎる言葉だとも思う。ただ、それでも俺の口は止まらなかった。彼女に、それを理解してほしかったから。
「憧れるのは、分かる。俺もそうだったから。だけど、憧れるだけでいい。大人になる必要なんて、どこにもない。子供のままの今を、大切に……なんて、今のお前には分からないと思うけど。そうして欲しいと思ってる」
よくもまあ、子供のような我儘を言えたものだとおもう。だけど、その言葉は紛れもなく本心からのものだった。子供のままでいい。大人になる必要なんて、どこにもない。遊びも何もない、月並みな言葉だと思う。それこそ、子供の頃の俺が聴いたら、反吐が出るほど勝手な言葉だとも、思う。
でも、大人になってからやっとこの言葉の意味が理解できた。
果たして、彼女からの言葉が返ってきたのは、しばらくの沈黙があってからだった。
「でも、それじゃあターボはずっと、みんなに置いて行かれたままだよ?」
………………。
「さっきから、ずっと疑問に思ってたんだが」
「うん」
「お前もお前で、みんなのこと置いてけぼりにしてるじゃないか」
「……えっ」
伝えると、彼女は心底意外そうな表情で俺の顔を覗き込んできた。
「だ、だってターボ、みんなと違って何もできないし……」
「逆だろ。お前、皆ができないようなことばっかりやってるよ。トレーニング中に遊びだすし、人の話なんて聞かずに走り回るし……やることなすこと、全部勝手でさ。……でも、それでいいんだ。そうやって進んだお前の後を、みんながついていく。他人にはできないことを、やってるからな」
「……そう、なのか?」
「前々から思ってたけどお前、リーダーとかまとめ役の素質あるよ」
皆を率いる、というよりは皆を連れ回す、という方が正しいのだろうが。
それでも、皆を動かすという才能があることに変わりはない。
ならきっと、こうも言えるはず。
「逃げがイヤ、って言ってたよな。みんなと走れないから」
「うん」
「だったら、こう考えるのはどうだ? 大人になることから逃げる、って」
「大人になること、から?」
「ああ。それこそ大人になったら、あんなムチャクチャな走りなんてできないしな。だから、いいじゃないか。子供のお前にしかできない、やんちゃで無理やりで、全力投球な走り。皆を引っ張っていく、お前にしかできない走りだ。確かに、お前はイヤって言ったけど……俺は、そんなお前の走りが好きだから担当になったんだよ」
気恥ずかしい、歯の浮くような台詞になってしまったかもしれない。
だけど、それを嘘だとは言えなかった。
「……俺の言いたいこと、分かってくれたか?」
恐る恐る、聞いたのはどうしてだろう。
過去の俺なら、そう諭したところで結局、聞き入れないと思ったからだろうか。
あるいは俺が未だに彼女のことを理解できていないから、なのかもしれない。
だけど、今の俺が伝えたいことは、これで伝えきったつもりだ。
不安に駆られる俺の顔を、彼女は今一度じっと見つめてから。
「正直、まだ分かんない」
「……そうか」
「でもね、いつか分かる気がする。明日とか、明後日とか、そんなに近くはないけど……でも、いつか。トレーナーの言ってることが分かるようになる日が、きっと来る気がする」
一つ一つ、噛み締めるように答えてくれた。
「ああ、そうか……それなら、よかった」
「……トレーナー? どうしたの?」
「何でもない」
どうか、俺のようにはならないでくれ。
子供のままずっと、気の向くままに過ごしてくれ。
大人への憧れを抱いたまま、今を謳歌してくれ。
ただの子供にかけるには、重すぎる願いだと思う。
それでも、彼女ならきっと応えてくれるのだろうと、そう信じられた。
「帰ろ、トレーナー」
「……ああ」
先を行く彼女の後を追って、歩き出す。
一度だけ振り返って望んだ景色は、やはりいつも通りのものだった。
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「……とにかく、ターボさんが無事に見つかってよかったです」
「いやホント、お騒がせしてすみません」
「全くです。トレーナーさんも、ちゃんとターボさんを見てあげてくださいね?」
「まあ、頑張ってみますよ。やれるだけ、やってみます」
「……モノを食べながら言われても、説得力がないんですが」
「いやあ、すみません。これ、賞味期限が今日までなんで急いで食べないとダメで」
「だからって、仮にも上司の私の前で食べるなんて……というより、それ」
「はい」
「ドーナツですか?」
「そうですね」
「しかも、こんな子供っぽい味付けの……トレーナーさん、甘いものお好きでしたっけ?」
「昔はそこそこ好きでしたよ。今はそうでも」
「だったら、なおさらどうして……というよりこれ、いつ買ったものですか?」
「ターボが逃げ出した日に、帰り道で買ったんですよ。お互い、好きなのを好きなだけ」
「……だから、子供っぽい味付けのものばかりなんですか?」
「まあ、そうなっちゃいましたね。でも、これでいいと思うんですよ」
「そうでしょうか」
「ええ。だって、たまには子供に戻りたくなる時って、誰にでもあるじゃないですか」
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4/2に開催されたウマ娘プリティーダービーのオンリーイベント、プリティーステークス29Rにてサークル「春一番」の合同誌「馬が世の春」に寄稿した小説です。