逆行TSはよわくてニューゲームか? 作:ハムスターの尻尾
ずっと、気づかないふりをしてきただけだった。
ナルシマ孤児院は、俺の実家のすぐそばにあって。
あの崖も、すぐ近くにあった。
海が好きだ。
好き、だった。
だから、考えないようにしていた。波の音も。潮の香りも。
でも、思い出してしまった。
何もかも。
「はっ、はっ……」
素足でコンクリートを蹴る。走る。
辺りは薄暗い。夜明け前、街はまだ眠っている。ここで、俺がやるべきことはもう決まっている。
早く。はやく、
──……死なないと、
花鳥ウズが生きていた。
だからもう、成島シレネは生きていられない。俺は“俺”が二度死ぬのを受け入れることはできない。
死なないと。
何もかも、無かったことにしないと。成島シレネなんて存在しなかった。
それが最良で、絶対で、そうするしかないのだ。
──花鳥ウズは成島タツナミに勝てない。
──成島シレネは成島タツナミに勝てない。
だったらもう、こうするしかないじゃないか。
未来は変えられない。ここで“花鳥ウズ”という最低のクソ映画がエンドロールまで垂れ流されることが決まっているのなら、席を立つしかない。
人生という席を。
「はあ……ッ、」
……どれだけ走ったのか。
いつの間にか、あの崖の上までやって来ていた。道は、足が覚えていた。
水面の向こう。煌めく朝陽が、昇りかかっていた。──忌々しい、
「…………」
花なんか咲いていない、枯れかかった下草を踏みしだいて、ゆっくりと崖際に歩み寄る。
大きく、息を吐く。
──出来る。
少し、足を踏み出すだけ。
かつての“俺”はできたことだ。恐怖なんかない。
これから確実に待ち受けている苦しみに比べたら、ずっと良い。ここで全てを終わらせる。
拳を強く握りしめる。
出来る、出来る、出来る──
「────ぅぶ、」
──気づけば。
とっさにその場へ膝を折って、
「ぉ、えぇ……っ」
胃の中身を、草むらにぶち撒けていた。
「……ぇ、あ……っ」
夕食なんてほとんど口を通らなかった。だから、出てきたのはほとんどが水みたいなもので。いや、そんなことはどうでもいい。
──……吐いた?
どうして。
……死ぬのを恐れて?
そんな訳ない、
「ゔ……っ」
眼下に広がる暗闇を視界に捉えた瞬間、喉奥から迫り上がってくる苦いもの。とっさに当てた手のひら、その指の隙間から、再び滴る。
……怖い。
「っ、ちがう……」
違う。
怖くなんてない。怖くなんか。
くだらない焼き直しを観させられるよりはずっと良いだろう。
ここで。この始まりの場所で、全てを終わらせる。……わかっているのに、どうして足が動かないんだ?
「違う、違う……」
潔く死ぬことすらできないのか。惨めに、無様に、生き続けることを選ぶのか。
どうせ、3年後には死ぬくせに?
馬鹿らしい。最悪の終わりがわかっているのに。希望などないと知ってしまっているのに。
ふざけるな。
「動け、動け、動け……」
神経が切れたように動かない足を掴んで、爪を立てて、繰り返す。痛みさえ感じない。動け。あと少しでいい。あと少しで終われるのに、
「……動けよぉ……」
ああ。
どうして、何もかもが上手くいかないんだろう。
──生まれてこなければよかった。
二度目の人生なんか必要なかった。自分の過去がどれだけ愚かで、無意味で、くだらなかったかを見せつけられるだけの人生なんて、そんな。
一体、誰が欲しがるというのだろう。
──死んでしまいたい。
叶わぬ願いを抱いて、ただ項垂れた。
そして、あれから。
俺は結局、諦めた。
海で死ぬという当初のプランを放棄した。そうせざるを得なかった。
だから、帰らなくてはいけなくなった。
ふらついて、時々転びながら、それでも孤児院に戻ってきた。たった今。
けれど、今だけはそれでよかった。死ねないならあんな場所、何の価値もない。ゴミみたいな思い出だけが蟠っている。捨てる機会を逃して、ただ腐って、澱んでいくだけの記憶たち。
耐えられない。
死んでしまいたい。
……できなかったのだった、
──なぜ死ねない?
生きることのほうがずっと辛いとわかっているはずなのに。
一瞬のトラウマより、半永久的に続く苦しみを選ぶのか。愚かな獣の性だ。死んでしまえ。
商店街でクリプティッドに遭った時は受け入れられたのに。
許せない、
「……う、」
トイレに辿り着くまで、我慢できなかった。誰もいないキッチンに駆け込んで、空っぽの内臓から胃液を絞り出す。
「ぉ、え……」
シンクに嘔吐するなんて衛生的にも良くない、とわかっていても、もはやどうしようもない。
擦った頬は乾いている。
ここに来ても、涙の一粒さえ浮かんでこなかった。構わない。
酸っぱい唾液を、飲み込む。
キッチンだ。俺がやりたかったこと。思い出せ。
「……包丁、……」
朦朧と、呟く。
海は駄目でも、それ以外のやり方なら。死ぬ方法なんていくらでもあるのだ。片っ端から試せばいい、
「シレネ……?」
背後から聞こえてきた声。
幻聴かと思った。
否、そうであれと願った。
しかし、身体はとっさにそちらを振り返っていた。戸口に立つ大柄な人影。暗がりで淡く燐光を放っているかのようなその立ち姿を認めて、凍りつく。
──成島タツナミ、
「どうした」
未明、一人でキッチンに蹲る人間。何にせよ、まともな状況ではないのは間違いない。
けれど、それは寝巻き姿のタツナミにも当てはまる。どうした、はお前の方だ。よりによってこんな時に。
案の定、無防備に近づいてくる気配に、奥歯が軋む。来るな。
「具合でも悪いのか、」
伸びてきた手を、
「触るな」
とっさに振り払っていた。
ぱしん、と乾いた音がした。
うるさい。黙れ。
お前に心配なんてされたくない。何もかもお前のせいだ。
お前さえいなければ。
「…………」
気遣いを無に帰されたタツナミは、しばらくその姿勢のまま、無言でこちらを観察していたようだったが。
やがて、ゆっくり立ち上がった。それでいい、見なかったことにしてさっさと帰れ、と思っていたところに──再び視界に入ってくる白。
彼が、1mほど横に離れた位置へ、腰を下ろすところだった。戸棚を背に膝を抱えて、明らかに居座る雰囲気だ。
何をしてる。
俺の困惑と苛立ちが伝わったのか、タツナミが前を向いたまま薄く唇を開く。
「……体調が悪化して、……いざという時に……すぐに誰か呼べるように……」
余計なお世話だ。
「水を……飲みに来たんだ」
どうだっていい。
勝手に飲めばいい。
頭痛が酷い。気を抜くと、また戻してしまいそうだった。
「…………」
それきり、静かになった。
べらべらと喋られるよりはマシ。そのまま部屋に戻れ。
思いながら、横目で彼の様子を窺って。
「は、…………」
一瞬、思考停止。
……寝ている。
やや項垂れて、目を閉じたその横顔。拍子抜けして。
一度漂白された頭の中へスムーズにポップアップしてくる、
──殺せる。
思考の枠を飛び越えた、ほとんど本能的な“気づき”だった。
──今なら、それができる。
そして俺の脳味噌は、その“発見”に──名案だ、と手を打った。
よく、わかった。
簡単なことじゃないか。
この男を殺してしまえばいいのだ。今、ここで。
感情が、絶え間なく凪と細波を行き来している。それがわかる。いや、落ち着いている。俺は冷静だ。
何も、間違っちゃいない。
腰を上げて、膝を使って慎重に距離を詰める。1m。ほんの1m。今までの何よりも長く感じた。
「っ、…………」
至近距離で見下ろす、気の抜けた寝顔。
だから早くどこかに行けと言ったのに。こんなところで要らぬ温情を見せたから、お前は自分より遥かに格下の存在に殺されるのだ。
そうだ。
殺す。殺さなきゃ。
白い喉に、手を伸ばす。
逞しい首筋を両手で捉えても、タツナミは目覚めなかった。
──好都合だ。
手のひらの下で、どくどくと脈打つ感覚。温かい。生命の感触。気持ちが悪い。
関係ない。ここで絶ってしまえばいい。無かったことにしてしまえばいい。全てを終わらせる、
息を吸い込んで、
「────、」
瞬間。
呼吸が、止まった。
成島タツナミが、俺を見ていた。
先ほどまで確かに閉じていたはずの瞼が、開いていた。
透き通った綺麗な瞳。寝起きでぼやけていると言うにはあまりに鮮明で、それでいて、透明だった。
何の感情も窺えない。
抵抗する様子もない。
ただ、己の興味を満たすように。じっと、瞬きもせずにこちらを見つめていた。
冷や汗が、こめかみを伝った。
ああ。
「…………」
────無理だ、
震える両手を、ゆっくりと離す。
足に力を込める。ふらついたが、構わず立ち上がった。
背を向ける。
振り返らない。そのまま、壁を伝うようにして自室に戻った。吐きそうだった。
──夜が明け始めたばかりの寝室は、まだ静かだった。
けれどもう、あと少しでアラームが鳴り始める時間だろう。そんなことを頭の隅で機械的に思い浮かべながら、冷えたベッドに再び身体を滑り込ませる。
固く握った拳には、血潮の脈動が未だ残っているような気がした。
それを見つめながら、思う。
──失敗した。
──失敗した。
──殺せなかった。
──あそこで事を済ませてしまえば、こんな苦しみからは解放されたのではないか。
──違う、
違う。
こんなのは正しくない。
間違っている。
心の奥底で、そう叫ぶ声を聞いた。わかっている。殺人は罪だ。それでも構わない。今さら裁かれることに恐怖がある訳ではない。
……違う。
違う?
──否定するのか?
──神の如き能力も、……かつてそれに完膚なきまでに打ちのめされたことも。
──そんなものは最初から存在しなかったと。
──哀れな勘違いだったのだ、と。
そんな事実を、許せるのだろうか。
否、許せない。
だったら“俺”は何のために生き、何のために死んだのだ?
肉体の死は耐えられない。
ならば、存在の死は?
──成島タツナミは、無敵で、完璧な存在で在らねばならない。
それゆえに。
──俺に、成島タツナミを殺すことはできない。
初手を打つ以前の問題だった。既に極り切った盤面だった。
呆然として。ようやくそれに気づいた頃には、既に底なし沼に飲み込まれたその後だった。
「……う、う…………」
成島タツナミは、天才である。
幾度となく反芻してきたそれが、翻ってナイフのように喉元へ突きつけられる。
──こんな場所で。
──こんな場面で。
──その命を終えることは許されていないのだ。
ここはお前の死に場所じゃない。
成島シレネはお前を殺していい人間じゃない。
だから。
俺は。
「…………あほ」
眠れぬ夜が、窓の外でゆっくりと明けていく。
けれど、それは終わりなどではなく。永劫に続く苦痛の始まりに過ぎないことを、俺は温まらないベッドの中で悟ったのだった。
──僅かに開いた硝子窓の隙間から、春の欠片が入り込んでいる。
板張りの廊下に落ちたその花弁を摘んで、その隙間から庭に放る。土の上ならともかく、室内では腐敗してごみになるだけだ。
窓に近づいたら、庭に植えられた桜の木が目に入った。今がまさに満開といった雰囲気で、花弁もそこから飛んできたのだろう。
空気が温もり、花が咲き乱れるこの季節を、人は“春”と呼んだ。
黙っていても月日は巡るし、それ自体はどうしようもないことで、どうでもいいことだ。
──けれど、これから迎える春は何か特別なものになる。
根拠は無いけれど、そんな予感がしていた。期待、と言い換えることができるかもしれなかった。
窓を閉めて、目的地への歩みを再開する。着込んだブレザーと、初めて締めたネクタイとが少し息苦しかったが、悪い気分ではなかった。
扉を開けた先。
薄暗い部屋の中心で、一人の少女が簡素な木製椅子に浅く腰掛けていた。
カーテンは全て締め切られている。桜の木も、青い空も、ここからは見られない。外界の全てから隔てられたこの空間で、少女はただ、椅子に座っていた。それだけを淡々と、真摯に行なっていた。
後頭部をやや高い背凭れの笠木に預け、天井を仰いだその姿を見る。
背板の上に夜が流れている。淡いネイビーブルーの、癖のない長髪。白く華奢な手が、蝉の死骸のように力なく座面に投げ出されている。
円と角とがきちりと揃った横顔のラインと、新品の制服に収まる一切の無駄なく纏まったしなやかな肢体。理想を元に描かれた絵画を目の前にしている、と言われても納得の行く完璧な絵面だ。
しかし、絵画ならばいつまでも眺めていられるけれど。
彼女は生きた人間であり、やらねばならないことが存在するのだ。
「シレネ」
彼女の名前を呼ぶ。
「時間だ。行こう」
──今日は、養成学校の入学式。そして、このナルシマ孤児院に別れを告げる日でもある。
途端、虚空を見つめていた瞳が、滑らかにこちらへ向いた。
落ち着いて、冷め切って見える色合いと佇まいの中で、内側で煮え滾る血潮を唯一透かしたその色。激情の赤であり、魂の輝きだった。
「……ああ」
身体の芯を撫ぜるようなハスキーボイスに、武者震いのようなものを覚えた。
隙のない動作で彼女が立ち上がる。軽い、というよりは地に足がついていないような歩みで近づいてくる。
改めて、彼女を見つめる。
精巧な人形じみて見えたその姿も、少し距離が詰まると、ところどころに生命の綻びを感じる。
涼しげな目元を重く沈み込ませる隈、乾いた唇。元からややもすれば消えて無くなりそうだとは思っていたが、近頃はそこから自壊しかねない危うささえ感じる。やや艶を失った長髪を弄る彼女に、思わず呼びかけていた。
「大丈夫か」
瞬間、紅い瞳に鋭く睨めつけられる。
「ああ」
しかし、そんな苛烈な反応とは対照的に、彼女は落ち着き払った声音でその問いに応えてみせる。
「問題は、無い」
何も。
素っ気なくそう付け足して、脇をすり抜けていく痩躯。すれ違う瞬間、仄かに沈香の気配がした。冷たく優しい死の香り。
「…………」
芽吹きや生とは対極に位置している──ように見える──彼女の目に、咲き誇る桜や、青い空はどう映っているのだろう。
──願わくば、彼女もこの春に“特別な予感”を抱いていてほしい。
そんなことを考えながら、遠ざかっていく背中を追いかけた。