逆行TSはよわくてニューゲームか?   作:ハムスターの尻尾

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06. 再演

 ずっと、気づかないふりをしてきただけだった。

 

 ナルシマ孤児院は、俺の実家のすぐそばにあって。

 あの崖も、すぐ近くにあった。

 海が好きだ。

 好き、だった。

 だから、考えないようにしていた。波の音も。潮の香りも。

 でも、思い出してしまった。

 何もかも。

 

 

「はっ、はっ……」

 

 素足でコンクリートを蹴る。走る。

 辺りは薄暗い。夜明け前、街はまだ眠っている。ここで、俺がやるべきことはもう決まっている。

 早く。はやく、

 

 ──……死なないと、

 

 花鳥ウズが生きていた。

 だからもう、成島シレネは生きていられない。俺は“俺”が二度死ぬのを受け入れることはできない。

 死なないと。

 何もかも、無かったことにしないと。成島シレネなんて存在しなかった。

 それが最良で、絶対で、そうするしかないのだ。

 

 ──花鳥ウズは成島タツナミに勝てない。

 ──成島シレネは成島タツナミに勝てない。

 

 だったらもう、こうするしかないじゃないか。

 未来は変えられない。ここで“花鳥ウズ”という最低のクソ映画がエンドロールまで垂れ流されることが決まっているのなら、席を立つしかない。

 人生という席を。

 

 

「はあ……ッ、」

 

 ……どれだけ走ったのか。

 いつの間にか、あの崖の上までやって来ていた。道は、足が覚えていた。

 水面の向こう。煌めく朝陽が、昇りかかっていた。──忌々しい、

 

「…………」

 

 花なんか咲いていない、枯れかかった下草を踏みしだいて、ゆっくりと崖際に歩み寄る。

 大きく、息を吐く。

 

 ──出来る。

 

 少し、足を踏み出すだけ。

 かつての“俺”はできたことだ。恐怖なんかない。

 これから確実に待ち受けている苦しみに比べたら、ずっと良い。ここで全てを終わらせる。

 拳を強く握りしめる。

 出来る、出来る、出来る──

 

「────ぅぶ、」

 

 ──気づけば。

 とっさにその場へ膝を折って、

 

「ぉ、えぇ……っ」

 

 胃の中身を、草むらにぶち撒けていた。

 

「……ぇ、あ……っ」

 

 夕食なんてほとんど口を通らなかった。だから、出てきたのはほとんどが水みたいなもので。いや、そんなことはどうでもいい。

 

 ──……吐いた?

 

 どうして。

 ……死ぬのを恐れて?

 そんな訳ない、

 

「ゔ……っ」

 

 眼下に広がる暗闇を視界に捉えた瞬間、喉奥から迫り上がってくる苦いもの。とっさに当てた手のひら、その指の隙間から、再び滴る。

 ……怖い。

 

「っ、ちがう……」

 

 違う。

 怖くなんてない。怖くなんか。

 くだらない焼き直しを観させられるよりはずっと良いだろう。

 ここで。この始まりの場所で、全てを終わらせる。……わかっているのに、どうして足が動かないんだ?

 

「違う、違う……」

 

 潔く死ぬことすらできないのか。惨めに、無様に、生き続けることを選ぶのか。

 どうせ、3年後には死ぬくせに?

 馬鹿らしい。最悪の終わりがわかっているのに。希望などないと知ってしまっているのに。

 ふざけるな。

 

「動け、動け、動け……」

 

 神経が切れたように動かない足を掴んで、爪を立てて、繰り返す。痛みさえ感じない。動け。あと少しでいい。あと少しで終われるのに、

 

「……動けよぉ……」

 

 ああ。

 どうして、何もかもが上手くいかないんだろう。

 

 ──生まれてこなければよかった。

 

 二度目の人生なんか必要なかった。自分の過去がどれだけ愚かで、無意味で、くだらなかったかを見せつけられるだけの人生なんて、そんな。

 一体、誰が欲しがるというのだろう。

 

 ──死んでしまいたい。

 

 叶わぬ願いを抱いて、ただ項垂れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、あれから。

 俺は結局、諦めた。

 海で死ぬという当初のプランを放棄した。そうせざるを得なかった。

 だから、帰らなくてはいけなくなった。

 

 ふらついて、時々転びながら、それでも孤児院に戻ってきた。たった今。

 けれど、今だけはそれでよかった。死ねないならあんな場所、何の価値もない。ゴミみたいな思い出だけが蟠っている。捨てる機会を逃して、ただ腐って、澱んでいくだけの記憶たち。

 耐えられない。

 死んでしまいたい。

 ……できなかったのだった、

 

 ──なぜ死ねない?

 

 生きることのほうがずっと辛いとわかっているはずなのに。

 一瞬のトラウマより、半永久的に続く苦しみを選ぶのか。愚かな獣の性だ。死んでしまえ。

 商店街でクリプティッドに遭った時は受け入れられたのに。

 許せない、

 

「……う、」

 

 トイレに辿り着くまで、我慢できなかった。誰もいないキッチンに駆け込んで、空っぽの内臓から胃液を絞り出す。

 

「ぉ、え……」

 

 シンクに嘔吐するなんて衛生的にも良くない、とわかっていても、もはやどうしようもない。

 擦った頬は乾いている。

 ここに来ても、涙の一粒さえ浮かんでこなかった。構わない。

 酸っぱい唾液を、飲み込む。

 キッチンだ。俺がやりたかったこと。思い出せ。

 

「……包丁、……」

 

 朦朧と、呟く。

 海は駄目でも、それ以外のやり方なら。死ぬ方法なんていくらでもあるのだ。片っ端から試せばいい、

 

「シレネ……?」

 

 背後から聞こえてきた声。

 幻聴かと思った。

 否、そうであれと願った。

 しかし、身体はとっさにそちらを振り返っていた。戸口に立つ大柄な人影。暗がりで淡く燐光を放っているかのようなその立ち姿を認めて、凍りつく。

 ──成島タツナミ、

 

「どうした」

 

 未明、一人でキッチンに蹲る人間。何にせよ、まともな状況ではないのは間違いない。

 けれど、それは寝巻き姿のタツナミにも当てはまる。どうした、はお前の方だ。よりによってこんな時に。

 案の定、無防備に近づいてくる気配に、奥歯が軋む。来るな。

 

「具合でも悪いのか、」

 

 伸びてきた手を、

 

「触るな」

 

 とっさに振り払っていた。

 ぱしん、と乾いた音がした。

 うるさい。黙れ。

 お前に心配なんてされたくない。何もかもお前のせいだ。

 お前さえいなければ。

 

「…………」

 

 気遣いを無に帰されたタツナミは、しばらくその姿勢のまま、無言でこちらを観察していたようだったが。

 やがて、ゆっくり立ち上がった。それでいい、見なかったことにしてさっさと帰れ、と思っていたところに──再び視界に入ってくる白。

 彼が、1mほど横に離れた位置へ、腰を下ろすところだった。戸棚を背に膝を抱えて、明らかに居座る雰囲気だ。

 何をしてる。

 俺の困惑と苛立ちが伝わったのか、タツナミが前を向いたまま薄く唇を開く。

 

「……体調が悪化して、……いざという時に……すぐに誰か呼べるように……」

 

 余計なお世話だ。

 

「水を……飲みに来たんだ」

 

 どうだっていい。

 勝手に飲めばいい。

 頭痛が酷い。気を抜くと、また戻してしまいそうだった。

 

「…………」

 

 それきり、静かになった。

 べらべらと喋られるよりはマシ。そのまま部屋に戻れ。

 思いながら、横目で彼の様子を窺って。

 

「は、…………」

 

 一瞬、思考停止。

 ……寝ている。

 やや項垂れて、目を閉じたその横顔。拍子抜けして。

 一度漂白された頭の中へスムーズにポップアップしてくる、

 

 ──殺せる。

 

 思考の枠を飛び越えた、ほとんど本能的な“気づき”だった。

 

 ──今なら、それができる。

 

 そして俺の脳味噌は、その“発見”に──名案だ、と手を打った。

 よく、わかった。

 簡単なことじゃないか。

 この男を殺してしまえばいいのだ。今、ここで。

 感情が、絶え間なく凪と細波を行き来している。それがわかる。いや、落ち着いている。俺は冷静だ。

 何も、間違っちゃいない。

 腰を上げて、膝を使って慎重に距離を詰める。1m。ほんの1m。今までの何よりも長く感じた。

 

「っ、…………」

 

 至近距離で見下ろす、気の抜けた寝顔。

 だから早くどこかに行けと言ったのに。こんなところで要らぬ温情を見せたから、お前は自分より遥かに格下の存在に殺されるのだ。

 そうだ。

 殺す。殺さなきゃ。

 白い喉に、手を伸ばす。

 逞しい首筋を両手で捉えても、タツナミは目覚めなかった。

 ──好都合だ。

 手のひらの下で、どくどくと脈打つ感覚。温かい。生命の感触。気持ちが悪い。

 関係ない。ここで絶ってしまえばいい。無かったことにしてしまえばいい。全てを終わらせる、

 息を吸い込んで、

 

「────、」

 

 瞬間。

 呼吸が、止まった。

 

 成島タツナミが、俺を見ていた。

 

 先ほどまで確かに閉じていたはずの瞼が、開いていた。

 透き通った綺麗な瞳。寝起きでぼやけていると言うにはあまりに鮮明で、それでいて、透明だった。

 何の感情も窺えない。

 抵抗する様子もない。

 ただ、己の興味を満たすように。じっと、瞬きもせずにこちらを見つめていた。

 冷や汗が、こめかみを伝った。

 ああ。

 

「…………」

 

 ────無理だ、

 震える両手を、ゆっくりと離す。

 足に力を込める。ふらついたが、構わず立ち上がった。

 背を向ける。

 振り返らない。そのまま、壁を伝うようにして自室に戻った。吐きそうだった。

 

 

 

 

 ──夜が明け始めたばかりの寝室は、まだ静かだった。

 けれどもう、あと少しでアラームが鳴り始める時間だろう。そんなことを頭の隅で機械的に思い浮かべながら、冷えたベッドに再び身体を滑り込ませる。

 固く握った拳には、血潮の脈動が未だ残っているような気がした。

 それを見つめながら、思う。

 

 ──失敗した。

 ──失敗した。

 ──殺せなかった。

 ──あそこで事を済ませてしまえば、こんな苦しみからは解放されたのではないか。

 ──違う、

 

 違う。

 こんなのは正しくない。

 間違っている。

 心の奥底で、そう叫ぶ声を聞いた。わかっている。殺人は罪だ。それでも構わない。今さら裁かれることに恐怖がある訳ではない。

 ……違う。

 違う?

 

 ──否定するのか?

 ──神の如き能力も、……かつてそれに完膚なきまでに打ちのめされたことも。

 ──そんなものは最初から存在しなかったと。

 ──哀れな勘違いだったのだ、と。

 

 そんな事実を、許せるのだろうか。

 否、許せない。

 だったら“俺”は何のために生き、何のために死んだのだ?

 肉体の死は耐えられない。

 ならば、存在の死は?

 

 ──成島タツナミは、無敵で、完璧な存在で在らねばならない。

 

 それゆえに。

 

 ──俺に、成島タツナミを殺すことはできない。

 

 初手を打つ以前の問題だった。既に極り切った盤面だった。

 呆然として。ようやくそれに気づいた頃には、既に底なし沼に飲み込まれたその後だった。

 

「……う、う…………」

 

 成島タツナミは、天才である。

 幾度となく反芻してきたそれが、翻ってナイフのように喉元へ突きつけられる。

 

 ──こんな場所で。

 ──こんな場面で。

 ──その命を終えることは許されていないのだ。

 

 ここはお前の死に場所じゃない。

 成島シレネはお前を殺していい人間じゃない。

 だから。

 俺は。

 

「…………あほ」

 

 

 眠れぬ夜が、窓の外でゆっくりと明けていく。

 けれど、それは終わりなどではなく。永劫に続く苦痛の始まりに過ぎないことを、俺は温まらないベッドの中で悟ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──僅かに開いた硝子窓の隙間から、春の欠片が入り込んでいる。

 

 板張りの廊下に落ちたその花弁を摘んで、その隙間から庭に放る。土の上ならともかく、室内では腐敗してごみになるだけだ。

 窓に近づいたら、庭に植えられた桜の木が目に入った。今がまさに満開といった雰囲気で、花弁もそこから飛んできたのだろう。

 空気が温もり、花が咲き乱れるこの季節を、人は“春”と呼んだ。

 黙っていても月日は巡るし、それ自体はどうしようもないことで、どうでもいいことだ。

 ──けれど、これから迎える春は何か特別なものになる。

 根拠は無いけれど、そんな予感がしていた。期待、と言い換えることができるかもしれなかった。

 窓を閉めて、目的地への歩みを再開する。着込んだブレザーと、初めて締めたネクタイとが少し息苦しかったが、悪い気分ではなかった。

 

 

 

 

 扉を開けた先。

 薄暗い部屋の中心で、一人の少女が簡素な木製椅子に浅く腰掛けていた。

 カーテンは全て締め切られている。桜の木も、青い空も、ここからは見られない。外界の全てから隔てられたこの空間で、少女はただ、椅子に座っていた。それだけを淡々と、真摯に行なっていた。

 後頭部をやや高い背凭れの笠木に預け、天井を仰いだその姿を見る。

 背板の上に夜が流れている。淡いネイビーブルーの、癖のない長髪。白く華奢な手が、蝉の死骸のように力なく座面に投げ出されている。

 円と角とがきちりと揃った横顔のラインと、新品の制服に収まる一切の無駄なく纏まったしなやかな肢体。理想を元に描かれた絵画を目の前にしている、と言われても納得の行く完璧な絵面だ。

 しかし、絵画ならばいつまでも眺めていられるけれど。

 彼女は生きた人間であり、やらねばならないことが存在するのだ。

 

「シレネ」

 

 彼女の名前を呼ぶ。

 

「時間だ。行こう」

 

 ──今日は、養成学校の入学式。そして、このナルシマ孤児院に別れを告げる日でもある。

 

 途端、虚空を見つめていた瞳が、滑らかにこちらへ向いた。

 落ち着いて、冷め切って見える色合いと佇まいの中で、内側で煮え滾る血潮を唯一透かしたその色。激情の赤であり、魂の輝きだった。

 

「……ああ」

 

 身体の芯を撫ぜるようなハスキーボイスに、武者震いのようなものを覚えた。

 隙のない動作で彼女が立ち上がる。軽い、というよりは地に足がついていないような歩みで近づいてくる。

 改めて、彼女を見つめる。

 精巧な人形じみて見えたその姿も、少し距離が詰まると、ところどころに生命の綻びを感じる。

 涼しげな目元を重く沈み込ませる隈、乾いた唇。元からややもすれば消えて無くなりそうだとは思っていたが、近頃はそこから自壊しかねない危うささえ感じる。やや艶を失った長髪を弄る彼女に、思わず呼びかけていた。

 

「大丈夫か」

 

 瞬間、紅い瞳に鋭く睨めつけられる。

 

「ああ」

 

 しかし、そんな苛烈な反応とは対照的に、彼女は落ち着き払った声音でその問いに応えてみせる。

 

「問題は、無い」

 

 何も。

 素っ気なくそう付け足して、脇をすり抜けていく痩躯。すれ違う瞬間、仄かに沈香の気配がした。冷たく優しい死の香り。

 

「…………」

 

 芽吹きや生とは対極に位置している──ように見える──彼女の目に、咲き誇る桜や、青い空はどう映っているのだろう。

 

 ──願わくば、彼女もこの春に“特別な予感”を抱いていてほしい。

 

 そんなことを考えながら、遠ざかっていく背中を追いかけた。

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