自覚がなかったと言えばウソになる。
正直に言えば、なでしこ自身かなり前からそのことに気付いていた。
気付いてはいたが、あえて気付かないフリをし、真実から目を背け続けてきたのだ。
だが、それにも限界がある。
自分は気付かないフリをしても、他の人はちゃんと気付いており、そして、あえて気付かないフリをしているなでしこに、容赦なくその真実を突きつけるのだ。
「――あんた、また太ったんじゃない?」
姉の言葉は鋭い刃と化し、自宅リビングで夕食前に軽くおやつを食べていたなでしこの胸に、深々と突き刺さったのだ。
こうして、なでしこは再びダイエットをすることとなった。
姉から命じられたのは、毎日学校から帰ったら
藤川は、なでしこが住んでいる街を流れる川である。
駅前の国道から川沿いに二駅分ほど南下し、そして、川を渡って今度は対岸にある県道を上って駅前に帰ってくるのが、今回姉が指定したルートである。
一周約一時間。
中学三年の夏休みにおこなった毎日浜名湖一周に比べれば軽いもので、夕ご飯晩前の運動としてはちょうどいい距離だった。
しかし、問題は初日から起こった。
気持ちよく眠っていたなでしこは、はっとして目を覚ました。
そこは暗い公園のベンチの上で、すぐそばに彼女の自転車がある。
腕時計を見ると二十二時を過ぎていた。
なでしこは顔から血の気が引いて行くのを感じた。
あと二時間ほどで日付が変わるというのに、ここは自宅から五キロ以上離れた見知らぬ公園。
これから、暗い夜道を一人で自転車を漕いで帰らなければならない。
なぜ、こんなことになってしまったのか、なでしこには判らない。
彼女は、ただ姉にダイエットを命じられ、指定されたルートを自転車で走っていただけだ。
そして、半分ほど走ったところで休憩しようとコンビニに立ち寄ったら、揚げ鶏とアメリカンドッグが揚げたてだったので各二個ずつとついでにおでんの卵と大根も買って近くの公園で食べ、お腹が満たされてちょっと眠くなってきたので五分だけ横になろうとしたのだ。
たったそれだけのことなのに、なぜ四時間も経っているのだろう。
その間、まったく記憶がない。
これはもしや、異星人に誘拐され、人体を調べられた後記憶を消されて元の場所に帰されるエイリアン・アブダクションのたぐいではないだろうか?
きっとそうだ。なでしこはその恐ろしさに身を震わせたが、それよりももっと恐ろしいことに気が付いた。
姉には七時くらいに帰ると言っていたのに、こんな時間まで何の連絡もしていない。
半年ほど前この街に引っ越してきた日の記憶がよみがえる。
あの日、本栖湖近くのキャンプ場で今日と同じことをやらかし、姉にひどく怒られたのだ。
二度目の失態だから、今度はもっと怒られるだろう。
もちろんなでしこ自身に罪は無く、悪いのは誘拐した異星人なのだが、きっと姉は信じてくれないだろう。
だが、背に腹は代えられない。
怒られるのは怖いが、このまま夜道を一人で帰るのはもっと怖い。
迎えに来てもらおう。
なでしこはスマホを取り出した。
ぽちっと電源を押すが、画面は暗いままだ。
もう一度、今度は長めに押してみると、空のバッテリーのドット絵が大きく表示された。
ああ、これも異星人の仕業だろうか。
ヤツらは、なでしこの記憶と共にスマホの充電さえも奪って行ったのだ。
これでは姉に連絡することはできない。
だが、神はまだなでしこを見捨ててはいなかった。
公園内に、まるで後光が射すかのごとく光り輝く電話ボックスが見えた。
姉のスマホの番号は覚えているから、あれで電話すればいい。
なでしこは電話ボックスに飛び込むとサイフを開けた。
しかし、中には五円玉が一枚しかない。
さっきコンビニで買い食いした時にほとんど使い果たしていたのだ。
これでは電話できないではないか。
一瞬絶望しかけたなでしこだったが、すぐにまた希望の光が射す。
公衆電話のお金を入れるところのそばに、アルファベットのeの文字を元にデザインされたマークがあった。
なでしこにもなじみ深いそのマークは、有名な電子マネーのマーク。
つまり、この公衆電話はキャッシュレスでかけられるのだ。
この電子マネーならスマホにアプリをダウンロードしている。
チャージ残高も残っているはずだ。
なでしこはスマホを取り出し、電源ボタンを押した。
すると、画面にバッテリー切れを表すドット絵が表示される。
そもそもスマホが使えれば公衆電話なんて使わないよ!
と、なでしこはスマホを地面に叩きつけそうになった。
――ダメだ。これは、自力で帰るしかない。
散々現実逃避をして解決策を模索したが、現実は無慈悲だった。
結局今のなでしこにできることは、一人で帰ることだけなのだ。
なでしこは、スマホをポケットにしまい、自転車にまたがると、ひぃひぃ言いながら漕ぎ出した。
帰りの県道沿いにはスーパーやドラッグストアなどがあり、早い時間なら比較的賑やかだったのだろうが、この時間ではすでにどこも閉まっている。
ひと気のない街並みはゴーストタウンみたいでかえって不気味だ。
そして、しばらく進むとお店はおろか民家さえも無くなり、ついには街灯さえ無い真っ暗な道と化した。
こんなときに限って空には月も星も出ていない。
まるで異界にでも迷い込んだ気分である。
なでしこはひーんひーんと泣きながら、さらに自転車を漕いだ。
不意に。
背後に、イヤな気配を感じた。
自動車やバイクではないだろう。
そんな現実的なものの気配ではない。
後ろに、何かいる。
それも、本能的に恐怖を感じるほどの、
振り向くのが怖い。
だが、振り向かずにそのまま走り続けるのも同じくらい怖い。
振り向く恐怖と振り向かない恐怖、ふたつの狭間に立たされたなでしこは、振り向くことを選んだ。
振り向かなければ恐怖はずっとそのままだが、振り向いて何も無ければ恐怖は去る。
そのことに賭けたのだ。
自転車を停め、ゆっくりと振り返った。
炎が燃え上がっていた。
なでしこから十メートルほど後方。
人の背丈ほどの高さの炎だ。
なでしこは息を飲んだ。
燃え上がる炎の中に女の人がいたのだ。
炎に身を包まれているにもかかわらず、それを苦にする様子はない。
いや、あれは本当に女の
姿形は人間の女だが、よく見ると、その全身がうろこでおおわれている。
その上、瞳は異様に縦長で、鼻は平らな顔に穴がふたつ開いているだけ、口からちろちろと出ては引っ込む舌は、先がふたつに割れていた。
さらには、腰から下に足は無く、代わりに尻尾が長く伸びている。
――ヘビ女。
それが、その女の印象だった。
炎に包まれたヘビ女は、まさしく獲物を見つけた蛇のように、身体をくねらせながら、舌をちろちろと出しながら、なでしこの方へにじり寄る。
「ひいぃぃ!!」
悲鳴を上げ、なでしこはペダルを踏み込んだ。
全力で漕ぐ。
追いかけてくる気配がした。
しゃあしゃあという息が背後で聞こえるのだ。
どんなにペダルを漕いでも、その気配は離れることなく背後にある。
このままでは捕まってしまう。
なでしこはさらに強くペダルを踏み込んだ。
すぐに息が切れ、心臓が大きく鼓動しはじめる。
迫りくる恐怖がそれらをさらに増大させる。
肺が新鮮な空気を求め、心臓の鼓動は体力の限界を警告しているが、それでも停まるわけにはいかない。
気配はすぐ後ろに迫っているのだ。
やだやだやだやだ。
なでしこはペダルを踏む。ヘビ女は追いかけてくる。
そのまま、どれくらいの時間逃げていたか。
不意に、背後の邪悪な気配が遠のいた。
消えたわけではない。気配自体は感じる。
ただ、すぐ背後まで迫っていたしゃあしゃあという息遣いは、もう聞こえなくなっていた。
諦めたのだろうか? なでしこは自転車を停め、振り返った。
ヘビ女は、少し離れた場所にいた。
そこで立ちつくしている。
動こうとはしない。なにやら悔しそうな顔で、じっとなでしこを見つめている。
追い掛けたくてもこれ以上は追いかけられない――そんな表情だった。
身体を包む炎も、さっきより勢いが衰えている。
しばらくその場に立ち尽くしていたヘビ女は、たき火が燃え尽きるかのごとく小さくしぼみ、やがて消えた。
助かった……そう思った瞬間、どっと疲労が押し寄せてきた。
かなり長い間全力でペダルを漕いでいたのだから無理もない。
なでしこは自転車を降り、道端に座り込んだ。
大きく息を吸い込み、そして吐き出す。
心臓の鼓動が徐々に治まってくる。
なでしこは呼吸を整えるため、しばらく座っていた。
――あ。
なでしこは、反対側の道端に球体の石がいくつも積み上がっていることに気が付いた。
四角い台座の上に、サッカーボールほどの大きさの石がいくつも置かれている。
さらに、その上に直径一メートル以上はある大きな石が乗っていた。
――丸石神様だ。
なでしこは、いつかリンから聞いた丸石神様の話を思い出した。
山梨の各地で見ることができ、集落に災いが入らないようにする道祖神の役割を果たしている石。
そう言えば、この辺はなでしこが住む街と隣町の境辺りだ。
もう少し進めば、また民家やお店が増えてくる。
道祖神――外から来る災いから住人を守る神様。
この丸石神様が、ヘビ女を追い払ってくれたのだろうか。
なでしこは立ち上がると、丸石神様に手を合わせ、お礼を言った。
この街に引っ越してきてから半年。
なんとなく、神様からこの街の住人として認められたような気がした。
「――よし!」
なでしこは両手の拳を握って気合を入れると、再び自転車にまたがって家路を急いだ。
夜は深まっているが、不思議と、もう怖くはなかった。