なでしこの自転車ダイエット(高校編)は続く――。
最近また太りはじめた、と、姉から自転車ダイエットを命じられたなでしこは、この日、南部町の中央を通る国道52号線
普段は下校後に一時間ほどかけて富士川沿いの道を南へ下って戻ってくるのだが、今日は日曜ということもあり、一日かけていつもとは逆の北方面へ向かうことにしたのである。
どこまで行けるかはコンディション次第だが、できれば甲府市辺りまで行ってみたい。
朝早くに出発し、休日ののどかな街並みや山沿い川沿いの豊かな自然を眺めながらのんびり進むと、一時間半ほどで隣町の
52号線沿いにはリンのバイト先である本屋、千明のバイト先である酒屋、あおいのバイト先であるスーパーがあるが、どこもまだ開店時間前なのでそのまま素通りし、さらに北上。
三時間ほどかけて身延町を抜け、さらに隣の富士川町へ入った。
出発から五時間弱。そろそろご飯休憩をとった方が良いだろう。
ちょうど川沿いにドライブインがあったので、そこでお昼ご飯を食べることにした。
駐輪場に自転車を停め、自販機コーナー前に設置されたベンチに座って、バッグからお弁当を取り出す。
今日のお弁当は、なんと姉・桜が作ってくれた特製弁当だ。
昨日の夜、明日は自転車ダイエットで甲府市辺りまで行ってみると告げたら、早起きして用意してくれたのである。
桜がなでしこのためにお弁当を作ってくれるなんて珍しい。
一体どんなお弁当だろう?
言いつけどおり自転車ダイエットを頑張っているから、ごほうびに大好物ばかりを入れてくれたに違いない。
おにぎりにチキンライスにチャーハン焼きそばから揚げ焼肉ハンバーグ肉巻ポテトに筑前煮きんぴらこんにゃく……なでしこは姉の愛にワクワクしながら蓋を開けた。
「……え?」
目が点になるなでしこ。
お弁当箱の中に入っていたのは、パウチのゼリー飲料ピーチ味(13種のビタミン入り)ひとつだけだった。
その横には、『今日のお昼はこれだけ。他のものを食べたらダメよ!!』と、桜の手書きメモも入ってある。
なでしこはぱちぱちと瞬きをした後、そっと蓋を戻す。
いまのは何かの間違いだろう。
往復数十キロのサイクリングをする妹に持たせるお弁当がゼリー飲料ひとつのワケはない(というかそもそも弁当ですらない)。
そう。きっと、今このお弁当箱の中には、なでしこの大好物ばかりが入った超豪華弁当と、何かの間違いで入ってしまったゼリー飲料、そのふたつが並行して存在しているのだ。
そして、観測者であるなでしこが蓋を開けた瞬間、そのどちらか一方が確立される。
さっき箱を開けた時は、不運にもゼリー飲料になってしまったのだ。だが、まだ希望はある。
この理屈で行けば、箱の中身がなでしこの望む結果でなかった場合、一度蓋を閉じ、もう一度開ければ、再度どちらか一方が確立されるはずである。
名付けて『夜見島の観測者理論』。
なでしこは目を閉じ、大きく深呼吸をすると、今度こそは、と意気込んで蓋を開けた。
しかし、そこにはまたゼリー飲料しか入っていなかった。
もちろんそれで諦めるなでしこではない。
確率は二分の一だから、二回連続でゼリー飲料になる可能性は充分にある。
でも今度の今度こそは!
なでしこはもう一度蓋を閉じ、三度開けた。
また中身はゼリー飲料。
さらに四度、五度、六度、と蓋を閉めては開けてみたが、結果は変わらない。
つまり、すでに可能性はひとつに収束してしまったわけである。
こうなってしまったら、もはやなでしこごときの力ではどうしようもない。
「……グスン」
なでしこは涙をポロリと流しながらゼリー飲料を取り出した。
言いつけどおりダイエットを頑張っている妹にこの仕打ち。しょせん姉の愛はこの程度なのである。もうちょっと優しくしてくれてもいいのに。
なでしこはゼリーの蓋を捻って開け、ちゅーちゅーと中身を吸う。
『10秒チャージ』のキャッチコピー通り、すぐに飲み終えてしまった。
当然その程度でなでしこの腹が満たされるはずもなく、もっとよこせと言わんばかりに腹の中の猛獣が唸り声を上げた。
これではとてもエネルギーが足りない。
なんとかしなければ。
周囲を見回すと、ドライブインには自販機コーナーのほかに小さな食堂が一軒あった。
姉のメモには他のものを食べてはダメとあったが、裏を返せばちょっとだけなら食べてもいいということである。
天才的な理論でそう結論付けたなでしこは食堂に入り、軽くカツカレー大盛りとチャーシューメンにかき氷ミルクイチゴを食べたのだった。
簡単に食事を終えたなでしこは、幸せ気分で食堂を出る。
時計を見るとちょうど昼一時。
まだまだ時間に余裕はあるし、適度に腹が満たされすぐに動きたくない気分だった。
食堂のすぐ隣には高台へ続く階段があり、上は公園になっているようだ。
そこで少し休んでいこうかな、と、なでしこは階段を上った。
公園は、階段を上がってすぐ鯉がたくさんいる池があり、そのそばに東屋、あとは広場にカバやウサギやライオンのオブジェがあるだけだった。
素朴な公園だが高台にあるため眺めはよく、道路の向こう側にある富士川を見渡すことができた。
富士川は北から南へゆるやかに流れており、少し下ったところで大きくS字にうねっている。
なでしこはベンチに座ると、のんびりと川の流れを見つめた。
しばらくすると、幼い女の子が二人、ゴムボールをもってやってきた。
近所に住む子供だろうか。
歌をうたいながらまりつきを始める。
懐かしいな、と、なでしこはその様子を微笑ましく眺める。
なでしこも、幼いころ桜や友だちとまりつきをしたものだ。
なでしこはリズムよくまりをつく女の子を見ながら、口ずさむ歌に耳を傾けた。
……あれ?
すぐに気が付いた。
女の子が口ずさんでいる歌は、なでしこが初めて聞く歌だった。
まりつきの時に口ずさむ歌として有名なのは、なんと言っても『あんたがたどこさ』であろう。
故郷はどこかと問うと
なでしこが幼いころ歌っていたのもこれだ。
それに対し、女の子が歌っているのは歌詞もメロディもまったく違うものだった。
よく歌詞を聞いてみる。
どうやら、二人の年頃の姉妹が身延山のお寺へお参りに出かける、というものらしい。
恐らく
日蓮宗の総本山で、七五〇年の歴史を持つ山梨屈指のパワースポットだ。
国道52号からほど近く、なでしこも今日ここに来る途中近くを通っていた。
なでしこの視線に気づいた女の子は、ボールをもってにっこりとほほ笑む。
なでしこは必殺のコミュニケーションスキルを発動し、話しかけてみることにした。
「こんにちは。まりつき上手だね」
「うん!」
「歌もとっても上手。その歌、なんていう歌なの?」
そう訊くと、女の子はふたりで顔を見合わせ、首を捻った。
そして、「わかんない」と言った後、笑顔に戻って続ける。
「でも、みんなうたってる歌だよ」
そう言うと、女の子たちはまた歌を口ずさみながらまりつきを始めた。
みんなうたっているということは、この地方に伝わる童謡だろうか。
――そうだ。こういう時は、リンちゃんに訊いてみよう。
なでしこはスマホを取り出し、ライーンを使ってリンに質問する。
【ねえリンちゃん。いま、富士川町のドライブイン近くの公園にいるんだけど、そこの女の子が変わったまりつきの歌をうたってるの。歳頃の姉妹が身延山のお寺へお参りに行くって歌。これって、何か知ってる?】
そう送信すると、すぐにぽこっと着信音が鳴って、返事が返ってきた。
【おまえ、あたしのことをウッキーペディアか何かだと思ってるだろ】
最近、千明と二人、判らないことはまずリンに質問するようにしている。
なので、そのたびに愚痴を言われているが、それでもちゃんと答えてくれるのがリンである。
案の定すぐに次の返信が来た。
【富士川町のドライブインって、南アルプス市の手前辺りの?】
【うん】
と、返事をする。
【その地域に古くから伝わるまりつき唄だよ。江戸時代末期、甲州の
【そうそう、その唄】
【すごく長い唄だからあたしも詳しい歌詞までは覚えてないけど、実際にあった出来事を歌ったものらしい。その姉妹は道中舟に乗るんだけど、その舟が途中で沈んでしまうんだ】
【えええぇぇ! そんなああぁぁ!!】
【そのドライブインの手前に、富士川に沿ってトンネルがたくさんある道があっただろ?】
【うん。七つか八つくらい連続で続いてた】
【富士川は日本三大急流に数えられるくらい流れが早い川なんだけど、そのトンネルが連なっている辺りは『
【そんな危ないのに、なんでわざわざ舟を使って交易したの?】
【甲州は周囲を高い山に囲まれているから、当時は交通の便がすごく悪かったんだ。江戸や駿河との交易には人や馬を使って山越えするしかなく、とても時間がかかった。特に、山梨は海が無いから塩が貴重品で、物流が途絶えると町の人の命にかかわってくる。
そこで、今から四〇〇年前、
だから、危険を冒してでも舟を使ったんだろうね】
【そうなんだ。昔の人は苦労したんだね】
【うん。ちょうど、そのドライブインの隣に富士川舟運の資料館がある。
すると、またぽこっと着信音が鳴った。千明からだ。
【なになに? なにがタダなんだ?】
【タダという言葉に無条件反射するなこの貧乏部長】
リンのツッコミに、千明は
【ヒドイ! 貧乏なのはあたしのせいじゃなくて部費を出さない学校が悪いのに!】
と返信し、さらに
【少しでも活動資金の足しになればと今日もバイトにいそしむ健気な部長に、その言い方は無いぞ】
と続ける。
【いやバイト中にライーンなんかするな、働け】
【はい。仕事に戻ります】
いつもと変わらぬやりとりになでしこはフフッと笑うと、
【ありがとうリンちゃん。アキちゃんもバイトガンバってね】
と返信し、会話を終えた。
女の子たちは他の場所に遊びに行ってしまったようで、公園はなでしこ一人になっていた。
なでしこはベンチに座ってぼんやりと川を眺める。ここから見る限り流れは穏やかだが、少し下った先は大きくSの字にうねっており、いたるところで白波が立っている。
あそこが、リンが言っていた難所・天神ヶ滝だ。
滝といっても川の水が崖を落下しているのではない。
恐らく滝のように流れが早いという意味でそう呼ばれるようになったのだろう。
あそこで、何そうもの舟が沈んだという。
そんな危険を冒しても、当時の人たちは舟を使って物を運んだのだ。
今では鉄道も道路も整備され安全に行き来できるようになったが、それも、昔の人の苦労と努力があってこそなのだ。
なでしこは川を眺めながら、山梨の物流や交通の歴史に思いをはせた。
むかしむかし、甲州の荊沢という宿場町に、
湊屋には年頃のふたりの娘がおり、姉の名は桜、妹の名はなでしこと言いました。
ある秋の日、両親は姉妹を広間に呼び、こう言いました。
「今年の夏は気候が良く、おかげで米が豊作だそうだ。お前たち。お祝いに身延山へお参りに行きなさい」
身延山は姉妹が住む町から歩いて一日ほどの場所にある大きな神社で、国中から参拝者が集まる人気の観光スポットです。
春のしだれ桜や境内から見えるダイヤモンド富士が有名ですが、秋には紅葉も楽しむことができ、お寺の裏にあるロープウェイに乗れば空中から紅葉を眺めることもできます。
また、妹のなでしこが一番気になるグルメには、お正月に千明やあおいたちが食べたくし切りだんごや、しょうがせんべい、参拝記念きなこ餅などが有名。
さらに、山頂のレストランではらーほーというラーメンと山梨名物のほうとうを組み合わせた料理もあり、なでしこは想像しただけでよだれが止まりません。(いや時代設定どうなってんだbyリン)
翌朝。
まだ日が昇る前に家を出た姉妹は、お昼には中間地点の
「お姉ちゃんあたしおなか空いちゃった。どこかでお昼ご飯食べて行こうよ」
妹のなでしこは小柄な見た目に反して化け物なみの体力をもっており、荊沢から身延山くらいなら息ひとつ乱さず歩くこともできるのですが、いかんせん燃費が悪く、定期的に何か食べ物を与えないとしっかり歩いてくれません。
しょうがないので桜は近くの茶屋でお昼ご飯を食べることにしました。
茶屋では、桜はビーフカレーを、なでしこはミックスフライ定食大盛りと肉うどんと単品でもつ煮とイカバター焼きも食べ、食後にそれぞれアイスコーヒーとクリームソーダを飲みました。
食事を終え、桜はスマホでこの後のルートと所要時間を検索します。
夜になると真っ暗になるので、できればそれまでに到着したいところです。
検索したところ、身延山までは残り半分、今のペースで行けば夕方には到着できそうですが、あまり道草はできなさそうです。
「さて、じゃあ、そろそろ行くわよ」
スマホをしまい、席を立つ桜でしたが、ここで問題が発生しました。
お腹が満たされたなでしこがウトウトしはじめたのです。
しまった、と桜は思いました。
この先なでしこにお腹空いたお腹空いたとうるさくされると面倒なので、ここでお腹いっぱい食べさせたのですが、それが裏目に出てしまいました。
「ちょっとあんた。こんなところで寝ちゃダメよ。さっさと起きなさい」
桜はなでしこの肩をゆすりますが、なでしこはねぼけ眼のままです。
「お姉ちゃんあたし疲れちゃった。もうバスで行こうよ」
そんなワガママも言いはじめます。
「この時代にバスなんてあるわけないでしょ。変なこと言わないの」
「ええー? でもお姉ちゃん、さっきスマホ使ってたじゃーん」
「うるさい。いいから行くわよ。あっちに着いたら、身延まんじゅう買ってあげるから」
必殺の食べ物で釣る作戦も満腹状態のなでしこには通じず、まるでお尻に根が生えたように動こうとしません。
仕方がないので、桜は富士川を下る舟に乗ることにしました。
桜はなんとかなでしこを引きずって船着き場まで来ました。
しかし、この時期の富士川は、江戸や駿河に運ぶ米を乗せた舟で大混雑。
徒歩半日で行ける距離を乗せてくれる舟はなかなか見つかりません。
何人もの船頭さんに断られましたが、どうにか身延まで乗せて行ってくれる人を見つけました。
ただ、その舟は見るからに新しくて船体に若葉マークが貼ってあり、船頭さんも若く頼りなさそう。
おそらく新人で、仕事がないのでしょう。
その割に運賃は一二五文(約四千円)と、タクシーで行くのとさほど変わらない値段です。
これなら最初から時代設定なんて無視して車にすれば良かった、と、桜は後悔しましたが、もうどうしようもありません。
桜は運賃を払い、舟に乗せてもらいました。
舟は岸を離れ、流れに乗って川を下って行きます。
少し高くつきましたが、これで身延まではのんびり船旅を楽しめます。
舟は流れに揺られ、まるでゆりかごのよう。
午後の陽気も重なり、なでしこは頭を桜の肩に乗せて眠りはじめました。
しかし、しばらく進むと穏やかだった川の様子は急変しました。
勾配が急になっているのか流れが速くなり、水面も大きくうねりはじめます。
さらにはいくつもの大きな岩もそそり立っており、その周りでは渦を巻いている所まであります。
ときどき、船底がごつごつと音を立てることもあります。
恐らく水面の下に岩が隠れているのでしょう。
ヘタをすると座礁して動けなくなったり、最悪の場合舟が壊れてしまいかねません。
のんびりとお昼寝をしていたなでしこも目を覚まし、不安そうな顔で桜にしがみつきます。
桜はしっかりとなでしこの肩を抱きしめ、船頭さんに問いました。
「船頭さん。ここは、何ですか?」
「ここは天神ヶ滝と言って、船乗りの間じゃ有名なアクバよ」
アクバとは、舟が通ることが困難な場所のことで、船乗りの腕が問われる所でもあります。
しかし、桜たちの舟の船頭さんは、素人の桜が見ても危なっかしい手つきで、とても無事に通れるとは思えません。
流れはさらに早くなり、その名の通りまるで滝のようです。
「船頭さん! あれ! 危ない!」
桜は正面を指さして叫びます。
川の先は大きく右へカーブしており、左の岸から巨大な岩がせり出しているのです。
このまま流されれば、あの岩にぶつかってしまうでしょう。
「船頭さん! 舟を陸に付けてください! このままじゃぶつかる!」
「無茶言うな! こんな早い流れで、陸に付けられるわけねぇ!」
船頭さんは舵を持つのが精一杯で、舟を操るどころではありません。
川の流れはますます速くなり、水面も大きくうねり、まるで嵐の海のようです。
「お姉ちゃん! 怖いよ! お姉ちゃん!!」
なでしこが泣き叫びます。
「大丈夫! しっかり捕まってなさい! 絶対離しちゃダメよ!」
桜はなでしこを強く抱きしめ、なでしこも強く抱きつきます。
がつん! と、船底が大きく突き上げられ、舟が大きく傾きました。
桜となでしこはしっかりと捕まっていたのでどうにか投げ出されずにすみましたが、立って舵を操っていた船頭さんはバランスを崩し、川に投げ出されてしまいました。
もう舟を操ることはできません。
舟は流されるまま、巨岩に向かって行きます。
二人は、目を閉じました。
大きな衝撃と共に、二人の身体は宙に投げ出されてしまいました。
一瞬の浮遊感のあと、ばしゃん、と水面に叩きつけられます。
その衝撃はまるでコンクリートの上に落ちたかのようで、あまりの痛さに桜もなでしこも一瞬意識が飛び、繋いでいた手を離してしまいました。
流れはさらに激しくなり、そこに飲み込まれた二人はもみくちゃにされながら流されていきました。
「――ぶはっ!!」
水面に顔を出したのは桜でした。
かなり長い時間水の中にいましたが、むやみにもがいたりせず、流れに身を任せたのが幸いしたのでしょうか、比較的穏やかな場所に流れ着いたようです。
「なでしこ! なでしこ!!」
桜は周囲を見回しましたが、なでしこの姿は見えません。
川は淡水なので浮力が低く、ライフジャケットを身に着けていない状態で意識を失えば、浮き上がることは極めて困難です。
この時、なでしこは。
深い――とても深くて暗い川底に沈んでいこうとしていました。
水の中に投げ出されたとき、水面に顔を出そうともがいたのがいけなかったのでしょう。
上も下も判らない状態でもがいても逆効果、無駄に酸素を消費し、意識がもうろうとなってしまったのです。
こうなると、もう助かる見込みは極めて低いでしょう。
なでしこもそれを悟ります。
――ああ。身延山のくし切りだんご、食べたかったな……しょうがせんべいにきなこ餅、らーほー……他にも、山菜そばに湯葉カレーもあるって言ってたっけ。
後は、湯葉丼に、
途中からはもう身延もなにも関係ありませんし最後の方はどんな料理なのかも判りませんが、なでしこは川の底へ沈みながら、死ぬ前に食べたかったものを思い浮かべます。
でも、やがて意識が遠のき、うまく想像することもできなくなってしまいました。
ああ、このまま一人で死ぬのかな……と思っていたら。
――なでしこ。
桜に呼ばれたような気がしました。
もちろん水の中ですから声が聞こえるはずもないのですが、なでしこは薄れゆく意識の中で、なんとか目を開けました。
そこには、なでしこに向かって手を伸ばす桜がいました。
「なでしこ!!」
今度はハッキリと、確かに声が聞こえました。
なでしこも、桜に向かって手を伸ばします。
桜がなでしこの手を握り、強い力で引き寄せました。
――お姉ちゃん。
二人はしっかりと抱き合い、水面に戻ろうとして――そこで力尽き、沈んでいきました。
なでしこが目を覚ますと、公園は夜のとばりに包まれていた。
少しの時間考え、夢を見たと気が付く。
昼食後、ベンチでのんびりしているうちに、うっかり寝てしまったのだ。
なでしこは身体を起こした。
公園内にひと気は無く、しんと静まり返っている。
昼間はここから見渡せたのどかな富士川の景色も、今は夜の闇に隠されなにも見えない。
公園内唯一の明かりである街灯に照らされた動物のオブジェが不気味だ。
昼間は気にならなかったが、いたるところの塗装が剥がれているさまはまるでゾンビのようである。
ぱしゃん、と、水面を叩く音がした。
昼間なら池で鯉が跳ねたと思うところだが、今は
なでしこは呆然とベンチに座る。
これからどうすればいいのか判らない。
考えることすらできなかった。
まるで、暗い川の底に一人沈んでしまったかのような孤独。
だが、そこへ――強い光が射した。
眩しくて目を細める。
でも、イヤな感じはしない。
それはまさに、絶望の底に沈むなでしこに射した光だったから。
「いた! あんた! こんなところで何やってんの!!」
聞きなれた怒鳴り声がする。
光が顔から下げられた。
目が慣れると、懐中電灯を持った桜が、怒った顔でこちらに向かって来るのが見えた。
「夜になっても帰らないし、電話しても出ないし、みんなどれだけ心配したと思ってるの! リンちゃんに訊いたらここにいるかもって言ってたから来てみたら! どうせまた爆睡してたんでしょ! あんたって子は、何回同じことしたら気が済むの!!」
げんこつを握り、振り上げた。
でも。
そのげんこつが振り下ろされる前に、なでしこは桜に抱きついた。
自然と、涙が出てくる。
それを隠すように、桜の胸に顔をうずめる。
「――なでしこ?」
桜の声も柔らかくなる。
振り上げたげんこつを下ろし、なでしこの頭をやさしく撫でた。
「……怖かったの?」
そう訊かれ、なでしこは顔をうずめたまま、首を振った。
怖かったのは確かだ。
でも、怖くて泣いたわけではない。
逆だ。
嬉しかったのだ。
いつも心配してくれて、どんな時でもすぐに駆けつけてくれる姉の優しさが、ただ嬉しかったから、涙が出たのだ。
なでしこは、そのまま桜の胸で泣き続ける。
桜は、やれやれという風に肩をすくめると、
「お腹空いてない? 何か食べて帰る?」
と、言った。
なでしこは顔を上げ、「うん!」と、泣きながらとびっきりの笑顔で応えた。
二人は、駐車場に停めてある桜の車に自転車を積み込み、ドライブインを出た。
五分も走らないうちに、川沿いにいくつものトンネルが連なる道に差し掛かる。
天神ヶ滝付近だ。
トンネルとは言っても川側に壁は無く、数本の柱で天井を支える吹き抜け状態となっていて、トンネル内からでも外の景色が見える構造だ。
なでしこは窓から川を眺めた。
薄暗いものの、わずかに河原と川面が見える。
自然と、なでしこはあのまりつき唄を口ずさんでいた。
一度聞いただけなのに、なぜかはっきりと覚えている。
「なに? その歌?」
と訊く桜に、なでしこは
「へへへ、なんでもなーい」
と笑って応えた。
桜はきっと、この先もずっと、なでしこが困った時はすぐに駆けつけてくれるだろう。
「ありがとう、お姉ちゃん」
改めてお礼を言うと、桜は
「なによ、改まって」
と、どこかくすぐったそうな顔をした。
後日、なでしこはリンからまりつき唄の後半の歌詞を聞いた。
姉妹の両親は、天神ヶ滝に沈んだふたりを弔うため、川べりに石塔を建てたそうだ。
石塔には、
船頭や町の人もそれにならってお供えをし、石塔は常にかんざしや百合の花が溢れていたという
姉妹のお墓は今も富士川の街にあると言われている。
しかし、ネットで調べても、場所までは判らなかった。
今度またあの町に行ったら、誰かに聞いてみようと思う。
きっと、まりつき唄と同様にみんなから親しまれていて、今もたくさんの百合の花が添えられているだろう。
参考サイト
まりつき唄/海の町プロジェクトオフィシャルサイト
https://uminominwa.jp/animation/54/
天神ヶ滝「水行直仕形図」
https://www.sonpo.or.jp/report/publish/bousai/yobou_jihou/pdf/ybja_ez/ybja-ez-172.pdf
第十編 口碑と伝説
https://www.town.minobu.lg.jp/chosei/minobucho/files/choshi_34.pdf