その夜、なでしこは姉の運転する車で暗い山道を走っていた。
バイトの給料が入ったので隣町の大型アウトドアショップに出かけ、以前から欲しかったお目当てのキャンプ用品を買った帰り道だ。
ついでに駅近くの有名ラーメン店で甲州味噌ラーメンギョーザチャーハンセットを食べ、その後スイーツ店で銘菓信玄餅を使った信玄パフェもペロリと平らげたなでしこは、実に上機嫌で帰路についていた。
「……あんたさぁ、最近食べ過ぎじゃない? また太るわよ?」
助手席で甲州ブドウを使ったレーズンサンドをもしゃもしゃと食べるなでしこに、姉の
いろいろとお店をハシゴしたため、時刻はすでに夜の十時を過ぎている。
歳頃の女子高生なら食べるのをためらう時間だが、なでしこはそんなことを気にする生物ではない。
「一ヶ月がんばって働いたんだもん。今日は、たっぷり自分にごほうびしてあげるんだ」
一個目のレーズンサンドを食べ終えたなでしこは、二個目の包装を破いた。
「お父さんお母さんの分まで食べるんじゃないわよ?」
と、桜が釘を刺す。
「大丈夫だよ、もうひと箱買ってるし」
なでしこは後部座席を指さした。
アウトドアショップで買ったキャンプ道具の他に、今なでしこが食べているレーズンサンドと同じものがもうひとつ、他にも、チルドギョーザや地域限定カップめんなども買ってある。
「あんたはそれもぜんぶ食べそうだから言ってるのよ」
桜は冷めた口調で言った。
焼く前のギョーザやお湯を注ぐ前のカップめんも食べる人間だと思われてるのかあたしは――と、常人なら落ち込むところだが、もちろんなでしこはそんな姉の皮肉など右から左へ受け流し、あーんと大きく口を開けてレーズンサンドにかぶりついた。
車は民家もまばらな山道を走る。
家まではあと三十分ほど。この辺りは街灯も少なく、明かりは車のヘッドライトくらいだ。
すれ違う車もほとんどない。
なでしこは三個目のレーズンサンドに手をかけたが、姉の方から「まだ食べるか」というオーラが醸し出されているのに気付き、手をひっこめた。
もしここで姉を怒らせて車から放り出されでもしたら、暗い夜道を一人で歩いて帰らなければならない。
しょうがない。家までガマンしよう。
車は急な坂道に差し掛かった。
桜がアクセルを踏み込み、エンジンが大きく唸り声を上げる。
道幅は狭く、対向車が来たら減速して慎重にすれ違わなければならないだろう。
周囲は真っ暗で、見えるのは車のヘッドライトに照らされた道路だけ。
なんだかちょっと眠くなってきたな、と、なでしこが小さくあくびをしたら、正面にトンネルが見えてきた。
かなり古いトンネルで、暗闇にオレンジ色の明かりに照らされて浮かび上がるその姿は、地獄にでも通じているかのような雰囲気だ。
車は、そのままトンネルへと入る。
「――え?」
なでしこは、思わず声を上げた。
トンネルの入口の前に、女の人が一人で立っていたのだ。
赤いロングコートを着た髪の長い女の人だった。
時刻は夜の十時過ぎ。近くに人家など無い峠のトンネル前だ。
こんな寂しい場所で女性が一人。いったい何をしているのだろう。
なでしこは振り返ったが、トンネルの外は暗闇で、ここからでは姿を確認することはできなかった。
「なに? どうかしたの?」
桜が正面を見たまま訊いた。
「さっき、トンネルの前に女の人がいたの。お姉ちゃん、気付かなかった?」
「はあ? こんな時間、こんな山道に女の人なんているわけないでしょ?」
「でも、いたの。何か、困ってるんじゃないかな?」
「ホントにいたの?」
疑わしそうな声の桜に、なでしこは間違いないと伝える。
何か事情があって立ち往生しているのなら、放ってはおけない。
とは言え、狭いトンネル内だ。
すぐに引き返すことはできず、車は一旦トンネルの外へ出てから適当な場所で切り返すことになった。
道を戻り、またトンネルへ入って反対側まで行く。
しかし、もうそこに女の人の姿はなかった。
「やっぱり誰もいないじゃないの」
桜は、ほら見なさいというような顔で言った。
「でも、さっきはホントにいたの」
なでしこは車の中から周囲を見回すが、少なくとも見える範囲には誰の姿もない。
暗くてよく見えないところも多いが、もし、誰かいて困っているなら、向こうから声をかけてくるだろう。
「見間違いよ。もう帰るわよ」
「……うん」
姉の言葉に、なでしこは釈然としないながらも頷いた。
実際誰もいないのだから、見間違いと思うしかない。
それ以上はどうしようもないので、その日はそのまま家に帰った。
翌日。
放課後になって部室に集まった野クルメンバーに、なでしこは昨晩トンネルの前で起こった出来事を話した。
話を聞いた千明は、思い当たることがあるように、ぽんっと手を打った。
「そこって、旧
「そう。アキちゃん、知ってるの?」
「ああ」
と言った後、千明は声のトーンを落とし、両手を胸の前に出してお化けのポーズをした。
「そこ、ここいらじゃ有名な心霊トンネルだ」
「心霊トンネル!?」
なでしこは震えながら声を上げた。
旧伊佐坂トンネル――この街と隣町を繋ぐ旧道にある古いトンネルである。
新道が開通してから使う人がほとんどいなくなったそのトンネルでは、幽霊の目撃情報が後を絶たない。
若い女性の他にも、老婆、少女、僧侶、作業員など、多くの霊がさまよっていると言われる、いわくつきのトンネルである。
「幽霊の目撃以外にも、トンネルの途中で突然車が停まったり、人魂が飛んでたり、突然フロントガラスに人の手形が付いたりといった怪現象が、頻繁に起こってる場所なんだ」
「ちょっと、アキ」
あおいが千明を横から肘でつついた。
「なでしこちゃん怖がらせたらアカンで」
なでしこはガタガタ震えながらお守りを取り出し、ナムアミダブツナンミョウホウレンゲキョウ
「――そんなの唱えたって意味ないぞ」
千明がなでしこの耳元で囁くと、なでしこは「ひいぃ!」と悲鳴を上げ、天井まで届く勢いで跳び上がった。
「やめや」
ばし、と、あおいは千明の頭をはたいた。そして、
「なでしこちゃん、ぜんぶアキの冗談やから、気にせんでええで?」
と優しく声をかける。
だが、なでしこは聞く耳を持たず、ずっとお守りを掲げて念仏を唱えている。
もっとも、そのお守りには『安産祈願』と書かれてあり、千明の言う通り効果はないかもしれない。
「どうすんねん。なでしこちゃん、また幽霊コワイコワイモードになってしもたやないか」
「悪い悪い。ちょっとした冗談のつもりだったんだが、なでしこにはハードだったな」
千明はちょっとだけ反省したような口調で言うと、さらに続けた。
「よし。ここは、我が野外活動サークル都市伝説調査班が誇る、特別顧問の出番だな」
と、いうことで、なでしこはまた千明たちに引きずられ、図書室へ移動した。
「――だから、勝手にあたしを特別顧問にするな」
図書室の受付カウンターで『声に出して読みたいポマードポマードポマード』という本を読んでいたリンは、いつものように不機嫌そうな目で千明たちを見た。
「それ以前に、いつの間に野クルに都市伝説調査班なんてできたんや」
あおいが千明に言った。
「この前の樹海散策のときだ」
千明はさも当然のように答える。
「あのとき、なでしこは春山田樹海のことを怖い場所と誤解していただろ? でも、実際散策をしてみたら、あっさり誤解は解けた。しかし、だ。悲しいことに、我が山梨には、樹海以外にも不名誉な心霊スポット認定された観光地がたくさんある。そういう誤解をどんどん解いていき、なでしこに山梨の素晴らしさをもっと知ってほしい。そういう思いで、この特別班を立ち上げたのだよ」
「リンちゃん!!」
なでしこは体当たりでカウンターを破壊せんばかりの勢いで身を乗り出した。
「昨日お姉ちゃんの車で隣町まで出かけて、その帰りにすっごい暗くて狭いトンネル通ったんだけど、そのトンネルの入口のところに、女の人がいたの。もう夜の十一時近かったし、山奥で近くに家なんて無いのに、女の人が一人で立ってるんだよ!? でもお姉ちゃんはそんな人いないって言うし、実際戻って確認してもどこにもいなくて……あれって、幽霊さんだったの!? あたし、呪われちゃうの!?」
「なんだ、旧伊佐坂トンネルのことか」
話を聞いたリンは、観念したかのような顔で本を閉じた。
「大丈夫だよ。あそこは、登録有形文化財に指定された歴史ある建造物で、近くに絶景スポットもある、ちょっとした観光地だ」
「でも、女の人やお婆さんや女の子とかの幽霊さんが出るんでしょ? トンネルの途中で突然車が停まったり、人魂が飛んでたり、突然フロントガラスに人の手形が付いたりすることがあるって、アキちゃん言ってたよ?」
リンは千明を睨んだ。
「余計なこと言ってなでしこを怖がらせるな」
「悪い悪い、ちょっと話を盛り上げようとしただけなんだ」
「まったく……」
リンはなでしこに視線を戻した。
「まあ、落ち着け。まず、突然車のガラスに手形が付くっていうのは、伊佐坂トンネルに限らず、いろんなトンネルで起こりうる現象だよ。原因は、だいたいゴースト汚れだ」
「ゴースト汚れ!? やっぱり幽霊なの!?」
「違う違う。ゴースト汚れっていうのは、明るい場所では見えないけど、暗くなると見えるようになる汚れのことだよ。ほら、スマホの画面って、使ってるときはあんまり汚れが気にならなくても、画面を消すと、指紋とかの汚れが目立つだろ? あれが車のガラスに起こってると考えれば判りやすいんじゃないかな。つまり、誰かが触って付いた手形が、昼間とか明るい場所じゃ目立たなかったけど、トンネルとかに入って暗くなると見えるようになるってこと。昔のトンネルでよく使われてたオレンジ色の照明のトンネルでは、特に起こりやすいんだよ」
「そうなんだ」
「うん。でも、この話はちょっとうろ覚えだから、あんまり信用しないほうがいいかもね」
「じゃあ、人魂が飛んでるっていうのは?」
「人魂の正体についてはいろんな説があるけど、山奥のトンネル近くなら、考えられるのは鹿とかタヌキとかの野生動物だね。夜行性の動物は、網膜の裏にタペタムっていう反射板みたいなのが付いていて、少ない光を増幅するから夜でも目が見えるんだ。そのタペタムが、車のヘッドライトを反射して光り、人魂に見えるってワケ」
「たぺたむって、なんかカワイイ名前だね」
「そうだね。他には、発光バクテリアに寄生されたユスリカの群れっていう説もある。ため池とか沼とかの水辺近くだと、この説が有力になってくるかな」
「じゃあ――」
と、千明が質問するように手を挙げた。
「死体が腐敗して発生した
「ええ! リンちゃん燃えちゃうの!?」
なでしこが声を上げる。
「燃えんわ」
と、リンはツッコんだ。
「
「じゃあ」
と、なでしこが質問を続ける。
「トンネルの中で突然車が停まるっていうのは?」
「旧伊佐坂トンネルの手前って、急な上り坂になってただろ? アレが原因の可能性が高いんじゃないかな。特に古い車で起こりやすいんだけど、ガソリンが少ない状態で急な坂道に差し掛かると、タンクが傾いて、吸い込み口にガソリンが届かなくなることがあるんだ。結果、まだガソリンが残ってるのにエンストしてしまうってわけ。これなんかは、車の欠陥と言っていいだろうね。全然心霊現象じゃないよ」
「でも、あたし、トンネルの手前で女の人見たんだよ!?」なでしこはまたカウンターに身を乗り出した。「他にも女の子とか僧侶とかの幽霊さんを見たっていう人もいるらしいし、そんなの、窓の汚れや鹿のたぺたむや車の欠陥じゃあ、説明つかないよね!?」
「安心しろ。そういう、車に乗ってる時に起こる心霊現象を、全部まとめてまるっと解決してくれる、究極の説がある」
「全部、まるっと解決……」
なでしこは、ごくりと喉を鳴らした。
「そう。それは……『ハイウェイ・ヒプノーシス』だ!!」
ばばーん! と効果音が聞こえそうな勢いで、リンは高らかに宣言した。
ハイウェイ・ヒプノーシス――日本語で高速道路催眠現象というこの症状。
カーブが少なく信号機もない道路など、ハンドルやアクセルやブレーキの操作がほとんど必要ない道路で眠気に襲われる現象のことである。
特に高速道路で多発することからこの名が付けられた。
この症状が発生すると、注意力・判断力・運転能力が低下。最終的に居眠り運転となってしまい、最悪の場合事故を起こして死に至る。幽霊よりもよっぽど恐ろしい現象である。
もちろん、車の運転をしない助手席や後部座席の人間にもこの現象は起こるのだ(その場合はあまり危険ではないが)。
「まあ、要するに車の中で寝惚けてるってことだね。木とか岩とかを人と見間違えたりするのはもちろん、半分夢を見てるような状態だから、ありもしないものを見たように錯覚することもある。一種の催眠状態だから、なんでもアリだよ」
リンの説明に、なでしこは女の人を見たときの様子を思い返した。
あのときは、ラーメンにチャーハンにギョーザに信玄餅パフェにレーズンサンド二個を食べたし、夜も更けてきたしで、かなり眠かった。
特に、トンネルに入る前は、リンの言う通り半分寝惚けていたように思う。
「でもさ、リン」
と、千明が口を挟んだ。
「それって、要するに『夢オチ』ってことだろ? そんなんで、みんな納得するか?」
「みんなって誰だよ」
「ホラー映画とかのオチやないんやから、別にかまへんやろ」
と、あおいが千明に言った。
「なでしこちゃんが納得すれば、それでええやん」
なあ、とあおいに言われ、なでしこは「うん!」と答えた。
「リンちゃんの言う通りだよ! あたし、あのときすごく眠くて、夢見てたんだ! だから、あの女の人は幽霊じゃなかったんだ!」
「相変わらず、単純だなお前は」
千明が苦笑いを浮かべる。
「ホンマ、リンちゃんの言うことはよう聞くよな」
あおいも言った。
「うちの部長さんも、これくらい説得力があること言うてくれればええのに」
「あたしは言葉よりも行動で導くタイプなんだ」
千明は胸を張って言うが、あおいとリンは、やれやれと肩をすくめた。
校内放送から、下校時間一〇分前を告げる音楽が流れ始めた。
「お? もうそんな時間か」
と、千明が顔を上げる。
「そろそろ帰る支度しないと」
リンはカウンターから出て、図書室を閉める準備を始めた。
「ウチらもはよ帰らんと、また先生がうるさいで?」
あおいの言葉に、千明は「そうだな」と頷いた。
「あ、あおいちゃん千明ちゃん」
なでしこは部室に戻ろうとする二人を呼び止めた。
「あたし、リンちゃん手伝うから、部室の荷物、お願いしてもいい?」
「わかった。ほな、玄関で待ってるわ」
千明とあおいが部室へ戻り、なでしこはリンと手分けして閉店ならぬ閉室の作業をする。
すでに図書室にはなでしことリン以外の生徒はいない。
窓の外も暗くなっており、校庭にも人影はなかった。
リンは出しっぱなしの本がないか確認し、なでしこは窓の鍵が閉まっているかひとつひとつ確認していった。
「……よし、と」
なでしこは最後の鍵を確認すると、出入口の近くにいるリンを振り返った。
「リンちゃーん、窓、ぜんぶOKだよー」
だん! と。
突然背後の窓から大きな音がして、なでしこは身をすくめた。
なでしこが驚いて立ち尽くしていると、だん! だん! と、さらに音がする。
誰かが窓を強く叩いているようだ。
「え……な……なに……?」
恐る恐る振り返ると。
窓に、女の顔が張り付いていた。
赤いロングコートを着た髪の長い姿――トンネルの前で見た女だ。
女はなでしこを見てにやりと笑うと、中に入れろ、と言わんばかりに、ばん! ばん! と、何度も窓を叩く。
なでしこは、悲鳴を上げた。
「……ちょっと! なによ、いきなり大声だして!?」
隣の席で、
「え? お姉ちゃん?」
きょとんとするなでしこ。なぜ、姉がここにいるのだろう?
「お姉ちゃん、なんでここにいるの? リンちゃんは? あの女の人は?」
なでしこが訊くと、桜は「はあ?」と、前を向いたまま首をかしげた。
「あんた、なに寝惚けたこと言ってるの?」
「寝惚けたって……あれ!?」
なでしこは、姉が車の運転をしていることに気が付いた。
なでしこ自身は、シートベルトを締めて助手席に座っている。
車の外は真っ暗で、ヘッドライトが照らす道路しか見えない。
「どういうこと? あたし、学校でリンちゃんたちとおしゃべりしてて、下校時刻になったから帰ろうとしてたのに……」
はぁ、と、桜は大きくため息をついた。
「やっぱり寝惚けたのね。あんた、それ食べてから、ずっと静かだったし」
桜はなでしこの膝の上を指さした。
二個だけ食べたレーズンサンドの箱がある。
車の時計を確認すると、夜の十時過ぎ。
後部座席にはアウトドアショップで買ったキャンプ道具やチルドギョーザなどが置いてある。
どうやら、隣町に買い物に出かけた帰りのようだ。
「じゃあ、あたし、ホントに夢を見てたんだ……」
なでしこはホッと安堵の息をついた。
「夢って、どんな夢?」
桜が訊く。
なでしこは夢の内容を話した。
トンネルの前で見た女の人のこと、次の日に学校でリンたちに相談し、その後、図書室を閉めようとしたら、窓の外にその女がいたこと、など、全部。
「それは怖い夢だったわね」
桜は正面を向き、ハンドルを操りながら、大して興味もなさそうな口調で言った。
まあ、夢で良かった、と、なでしこは思った。
窓に張り付いた女の顔を思い出す。
なでしこに向かってにやりと笑うあの顔……あんな怖いことがホントに起こっていたら、と思うと、背筋が寒くなる。
でも、夢ならば、もう安心だ。
と、桜が。
「でもさ――」
と言って、続けた。
「あんた、これからもっと恐い目に遭うかもよ?」
「え……?」
隣を見ると。
桜は、正面を向いたまま、にやりと笑みを浮かべた。
「お姉……ちゃん……?」
車は、そのまま薄暗いトンネルの中へ入って行った。