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大嶽修羅は基本的に屋敷から出る事も無ければ、妖怪の山から降りて別の山に行く事もない。
彼自身は極めて平和的で穏やかな性格をしている、鬼の中でも数少ない人格者なのだが、それでも鬼だ。
どれだけ優しかろうと、どれだけ善であろうと、鬼は鬼。妖怪は妖怪だ。人にとって恐ろしい存在である事に変わりはない。
何より、彼の場合は過去が過去だ。
彼自身がそれを理解している事もあり、山を降りる事はおろか、屋敷から出る事もあまりしないのだ。
しかし、そんな彼も、普段から山奥に隠居している平穏な鬼も、偶に、本当に極稀に外出する事がある。
屋敷から出て、妖怪の山から魔法の森へと歩むのだ。妖怪一匹も立ち寄らぬ山奥から、魔法の森まで、走るでもなく歩いて行く。
そんなんでは日が暮れるのではないか? という疑問が浮かぶだろうが、正しくその通りだ。
当然、日は暮れる。何なら一日は経過する。彼の住む場所も場所だし、妖怪の山から魔法の森だ。時間は掛かる。
走ればそう大した時間は掛からないだろうが、しかし彼はその『能力』の都合上、あまり力を出す事が出来ないのである。
妖怪の中でも頂点に立つ種族である鬼達の中で、『鬼神魔王』と呼ばれる彼の能力に関しては、またいつかの機会に。
「あややっ!? これはこれは、修羅様ではありませんか!」
夏の涼しい風を肌で受けながら山道を歩いていると、空から声を掛けられた。後ろからではなく、空からだ。
「射命丸か。久しいな」
「お久しぶりです! いや、本当にお久しぶりですね…最後に会ったの、何時でしたっけ?」
「そうさな…確か、数十年程度だったか。お前が天狗の雛から成長し始めた時以来になるな」
「うわ、もうそんな経ってるんですね…時が進むのは早いですねー」
「妖である故、その程度は当然よ。俺からしてみれば、お前もまだまだ自立出来ない雛だがな」
「そんなことありませんよ! 私だって、それはもう新聞を書けるくらいに!」
はたして新聞を書ける事と天狗として成長している事が繋がるのかは定かではないが、誇らしく胸を張る彼女にそれを問うのは、それこそ野暮というものだろう。
それはそれとして、新聞を書いているという彼女の言葉に、修羅は食い気味で掛かった。
「ほぅ、新聞か。それは吉報だ。射命丸、俺の家にもお前の書いた新聞を届けてはくれまいか?」
「は、はい? それは構いませんが…随分と食い気味ですね。なんか珍しい…」
「うむ、隠居者からしてみれば、暇というのは何分苦しくてな。時間とやらには、俺とて敵わなんだ」
鬼達の中で数少ない穏健派である彼は、他の鬼達とは違い戦いにも酒にも飢えていない。
無理に争う事もなく、無理に酒を飲む事もなく、無理に宴を開く事もなく、平和であるなら平和に過ごす。そんな平穏な鬼だ。
鬼らしくない鬼。平和好きな鬼。だが、それ故に退屈なのだ。常に暇なのだ。それこそ、死んでしまいそうな程に。
平和な事なのは良い。争いがない事は素晴らしい。だが、如何せん暇だ。あまりにもやる事が無さ過ぎる。
かと言って、酒に溺れるのは違うし、戦いに明け暮れるなど言語道断である。
それが嫌いだから、争いが嫌いだから、彼はこの妖怪の山の奥深くに隠居したのだ。誰も立ち寄らぬであろう山の奥深くに、屋敷を建てたのだ。
「分かりました! 修羅さん程の御方に愛読してもらえるとなれば、私の新聞もきっと売れるに違いありません、是非ともお願いします!」
「此方こそ宜しく頼むぞ、射命丸。期待している」
「はい! あ、それはそうと、修羅様は何処へ? 屋敷から出る事も珍しいのに」
「何、単に退屈凌ぎの本やら何やらを買いに行くだけの事よ―――古道具屋でな」
こうして遠出するのも、その退屈を凌ぐ為の本や絡繰を買う為である。
彼は定期的(数十年、もしくは数百年)に古道具屋へと赴き、其処で本や絡繰を買い、退屈を凌ぐのだ。
ちなみにその古道具屋は、鬼である彼の数少ない友人が経営している店でもある。
「あー、彼処ですか。確かに、彼処は色んな物がありますからねー」
「『外の世界』の代物を扱う、数少ない場所だ。まぁ、欲しい物が非売品である事も多々あるがな」
「まぁ、あの人は商売人というよりは趣味人ですからねぇ」
「時偶、高いものを買う様に勧められる事もあるが、まぁそこは商売人らしい」
「(あの人、本当に恐れ知らずですね…)というか、その…修羅様ってお金持ってるんですか?」
尋ねる事を少し恐れながら、射命丸は気になって仕方がなかった事を問う。
山奥に隠居し、殆ど誰とも交流がない大嶽修羅。そんな彼は本などを買いに行くという目的で山を降りている最中。
だが、その本などを買う為に必要な金銭を、彼は持っているのだろうか? そんな疑問が、射命丸文の頭に浮かんだのだ。
古道具屋の店主を恐れ知らずと言ったが、彼女も彼女で恐れ知らずである。
「有るに決まっているだろう? 払う金無くして欲す物は買えぬ。人妖等しく常識であろうよ」
「で、ですよね! すいません、不躾な質問をしてしまって…」
「構わん。とはいえ、働いていないという言葉は聞き捨てならん。働かざる者食うべからず、隠居した身ではあるが働きはしている」
「そ、そうなんですか…ちなみに、その仕事とは…?」
「色々だ。河童達の仕事の手伝い、同族の宴の準備など色々とな。主は河童達の仕事だが」
「めっちゃこき使われてるじゃないですか! え、修羅様はそれで良いんですか!? 修羅様、昔は『鬼神魔王』とも呼ばれていた伝説の妖怪でしたよね!?」
「過ぎ去ると書いて過去。鬼神魔王と恐れられた時代は過去の栄光、既に過ぎ去りし歴史だ。今の俺は、平和に隠れて生きるだけの一匹の鬼に過ぎん」
爽やかな風が、木々を通り抜けて緩やかに妖怪の山へと入り込む。
髪が揺れる。体が涼む。冬の末、夏の入りを実感する爽やかな風に煽られながら、鬼は天を仰ぐ。
『抜山蓋世の化身』と言われた事もあった。
『鬼神魔王』と呼ばれた事もあった。
されど、それも今となっては過去の栄光。過ぎ去りし古の歴史でしかない。
僅か数十年。されど、数十年。妖怪からしてみれば、数十年など僅かな時間であろうが、栄光が消え失せるのは、それだけで十分だ。
大嶽修羅という大妖怪が自ら、栄光を忘れる様に言い回ったのだ。それだけで、その歴史は忘れられるべきなのだ。
過去の栄光は過ぎ去り、今は隠居した一匹の鬼。そんな鬼に手伝える事があるのなら、どんな事でもしてみせよう。
「故、射命丸も頼み事があれば遠慮せず来るが良い。俺は誰の頼みも受け入れよう」それではな、また何時か
射命丸文に手を振って、修羅は再び山道を降る。
軽い足取りで。もしくは、のんびりとした足取りで。
「あやや…なんか、気が抜けちゃいましたねぇ…なんというか、時間というのは本当に凄いものです。
かつて幾つもの山を抜き、気迫だけで幻想郷を覆い尽した『抜山蓋世の化身』が、ああも平和的になるとは」
□ □
既に空は暗く、その暗い空に真っ白い綺麗な月は浮かび、儚くも美しい光を森へと差し込ませている。
幻想郷において、夜の獣道は妖怪が蔓延る、ある意味では隔離された世界だ。それこそ、恐ろしい妖怪が出る程の。
故に、人里の者達は決して夜は出歩かない。もし出歩けば、先に待っているのは死である可能性が高いのだから、実に賢明な判断である。
とはいえ、そんな事はこの大嶽修羅には一切関係無かった。
獣道には妖怪が出るなど、そんな事は気にする必要もない、どうでもいい事でしかなかった。
そもそも妖怪。そもそも大妖怪。鬼だ。
そんな彼を襲おうとする妖怪など、知性のない愚かものか恐れ知らずの阿呆だけだろう。
「げっ、大嶽修羅…」
「出会い頭に失礼な物言いだな、宵闇の。俺はお前に嫌われる様な事などした憶えはないが」
闇夜の中、月光に照らされて輝く美しい金色の髪と、鮮血の様に赤い瞳を持った妖怪―――『宵闇の妖怪』ルーミアは、彼を一目見て顔を顰めた。
そんな彼女の反応に、当の本人は不思議な様だった。
「前に容赦無くぶん殴っただろ! 私は忘れていないぞ!」
「もう数百年も昔の事だろう? それに、あれはお前の方から俺に飛び掛かって来たのではないか。正当防衛だ、逆恨みされる謂れはない」
「過剰防衛だ! 危うく死にかけたんだぞ、私は!」
「食らうのであれば、喰らわれもする世界だろう。お前がその程度であっただけの事だ、子の様に文句を垂れるな」
「っっっっ…!!!! 相変わらずムカつくわ、お前は…」
「そうか。それは残念だ」
「思ってもないくせに…」
「さてな」
通り過ぎようとして、ふと足が止まる。
嗅ぎ慣れた臭いが、鼻の奥へと入っていく。鉄のようで、生臭い“死臭”が、鬼の体の中に入り込んでいく。
「……宵闇の」
「何よ」
「お前―――人を喰らったか?」
それまで在った筈の静けさが、一気に消え失せる。
一触即発の空気が、その空間を支配する。
一步で動けば、一言でも発言を誤れば、その場で殺し合いが始まるだろうと理解させられる雰囲気だ。
「……はぁ。喰ってないわよ、人間は。妖怪なら喰ったけど」
「…そうか。俺の勘違いだったか、すまんな」
一触即発の空気が霧散する。
まるで、止まっていた時が動き出したかのように、風が吹き始めた。
「血の匂いがした故、つい勘繰ってしまった」
「…もし私が人間を喰ったって言ってたら、どうなってたのかしらね」
「その子の弔いに、一撃を食らわせようと思っていた所だが」
「あっそ…鬼ともあろう者が、御優しい事で」
「…否。これは、只々勝手な償いよ。決して消えぬ罪を僅かでも、と」
過去の栄光は忘れ去った。だが、過去の罪が消える事は、決してない。
『鬼神魔王』。かつて無意識の内に幻想郷を崩壊一步手前まで追い詰めた最強の鬼妖怪。それが手に掛けた妖怪、人間は数知れず。
膂力は山を抜き、気迫は世を覆う。立ちはだかる敵を山と共に蹴散らし、頂に立ち世を覆った。
『抜山蓋世の化身』と呼ばれるだけあり、当時の大嶽修羅の力は偉大であると同時に、恐怖の象徴でもあった。
そんな彼が、今となっては平和を味わいながら隠居している。
だが、それこそが彼にとっての、人間に危害を加える事しか出来なかった鬼にとっての、償いだった。
「あっそ。随分と丸くなったものね」
つまらなそうに吐き捨てて、闇と化して彼女は去っていく。
冷たい風が、鬼の肌を叩いて消えた。