旅館を出て、風光明媚な庭先まで回る。橙色の明かりを灯した
「少し寒いね、上着を持ってくればよかったな」
僕がそう呟くと、ルドルフは更に肩を寄せて腕を絡めてくる。微かに香る甘い匂いと、より鮮明になった感触に、心臓が大きく跳ねた。
「ウマ娘の方がヒトより体温が高いからな、密着度を上げれば少しは暖も取れるだろう」
それらしいことを言われてしまうと、何も返せない。ずるいなあ、と瞳を逸らす。
そのままふわふわとした心地で庭先を一周したところで、ようやく意識と視界がハッキリした。
「ちょっと落ち着いた気がする、ありがとう」
「こちらこそすまない。私が軽率なことを言ったせいで……」
「大丈夫、僕が勝手に飲んで勝手に酔っただけなんだから」
「しかし……」
「一応僕も大人だからさ。酒と煙草は自己責任だし、ルドルフが気に病むことはないよ」
「……トレーナー君。そんなに私は頼りないだろうか?」
「え?」
彼女は少し悲しそうな表情で、こちらを見つめた。
「君はいつも、一人で抱え込もうとしてしまう。この間倒れたのだって、そういったところから来ていたものだろう」
「違うよ。むしろルドルフに頼りっぱなしだから、僕が必死になって背伸びしてるだけで――」
「そんなことはない」
ルドルフにしては強い語気だった。アメジストの瞳が、僕を捉えて離さない。
「君がいなければ、私はここまで来れていないよ……君の練習メニューも、戦術も、分析も、そのすべてがあるからこそ私はここまで来れたんだ」
「いや、きっと他の人ならもっと上手くやれた。君に黒星を与えることなんてなかった。それに、その戦術のせいで――」
──今でも鮮明に覚えている。URAファイナルズの決勝、そこで負けた瞬間のこと。
「追込でいこう」
控え室で僕はそう言った。直前の予想では、先行、差しウマが多い予想だった。有力バであるルドルフがマークされて差しで埋もれる可能性を考えれば、足を溜められる追込でいくべきだと思った。
「ああ」ルドルフが頷く。「トレーナーくんがそう思うなら間違いはないさ」
思えば、調子に乗っていたのだと思う。クラシック三冠を果たし、シニアでもいくつかの重賞を征し、心のどこかで自分たちの強さを──いや、自分の成果を、過信していた。
『最終コーナーに入って最初に立ち上がってきたのはシャープアトラクト! 続いてシャドウストーカー! 一番人気シンボリルドルフはバ群から抜け出せていないぞ!?』
必死に追い上げるルドルフはしかし、大外に回っても抜けられていない。残り四00mでようやく後方から抜け出す。勢いよく追い上げていくが、それでも先頭は遥かに遠くて。
『シンボリルドルフ怒涛の追い上げ! 残り二00m、果たして追いつけるか!?』
更に二人抜いて、先頭とは三バ身差。残り一00m。祈るように拳を握って、突風に思わず目を瞑って。一瞬の瞬きの間に勝負は終わってしまって、掲示板には既に結果が映し出されていて――
『一着、タクティカルワン! 二着はシャープアトラクト! 三着はシンボリルドルフ!』
――悪夢かと思った。いつも大事な重賞の前にはそんな夢を見ていたからだ。
でもいくら頬を抓っても覚めやしなくて、そしてようやくこれが現実であるのだと――自分のミスを受け入れざるを得ないのだと、そう理解した。
その後からは少し、辛かった。クラシック三冠、シニアでもいくつか重賞を攫っていてファイナルズの大本命だったルドルフが負けた原因としてトレーナーが槍玉に挙がり、しばらくはお祭り状態だった。
もっとも、自分でもそうとしか思えなかったので、傷つくというよりは――ルドルフへの申し訳無さが勝った。
「だから僕は……僕はもう、君のトレーナーでいるべきじゃない」
「……本気で言っているのか?」
瞳孔が開くほど目を大きくして、ルドルフはこちらを睨んだ。
「本気でなきゃ、言わないよ」
心臓が縮み上がるような圧力。レースの際にもいつもこれだけのプレッシャーを放っているのだろうか。しかしここで引く訳にはいかなかった。ここまで共に歩んできた、彼女のためにも。
「私は、本当に君に助けられてきたんだ。君が支えてくれるから、遠き理想に手を伸ばし続けることができている」
「でもそれはきっと、僕じゃなくてもできた――いや、僕じゃなければもっと上手くやれた。三冠どころじゃない、もっともっと、七冠や八冠だって取らせてあげられたかもしれない」
「………………」
沈黙は肯定だと、そう思う。
「荒唐無稽に思われていた君の夢の賛同者も、この三年で増えた。きっと、僕より相応しい人間だって――」
「それでも」ルドルフは、強く断言するように言う。
「私は君がいい。あの春の日、肩書きも強さも抜きにして私を見てくれた――私の理想に寄り添い、共に進むと決めてくれた君が」
共に歩んでくれた君が。そう続けて、彼女はこちらに掌を向けた。脳裏に強く浮かんだのは、彼女のトレーナーになったあの日。彼女と同じ未来を見たいと――そう示し、手を取ってくれた瞬間を彷彿とした。
あの時から今までが、泡沫のように浮かんでは消えていく。勝利も敗北も、期待も後悔も、栄光も挫折も。
「……きっとまた、僕は同じような失敗を起こすし、ルドルフに迷惑をかけると思う」
「それでもいいさ。二人なんだから、責任だって半分ずつだ」
彼女の手を掴む。「僕も――これからも、君と歩いていきたい」
「ああ。改めて、よろしく頼む!」
絡む指の温もりが、心にいつの間にか張り詰めていた氷を溶かしていくようだった。しばし見つめあったところでふと、「何だか告白みたいだな」と思って、そう伝える。目を丸くしたルドルフの顔が、寒さのせいか少しだけ赤くなる。
「なんだかスッキリしたし、温泉入り直すか」
「それもいいな。……そういえば」
にやりと、ルドルフが悪戯な微笑を浮かべる。
「家族風呂、というのもあるらしいが」
「ふあっ……!?」
漏れ出た白息を吹き飛ばすように、一陣の風が吹いていく。それでも寒くないのは、きっと彼女と共にあるからだと――そう思った。