「クジャクヤママユが欲しい。」
彼女の口に玉子焼きが運ばれるのをぼんやりと見ていたところ、箸が口にかかるより先に、そのような言葉がその形の良い唇から勢いよく飛び出てきた。
半分ほど開けてあった窓の間から、森を駆け回り疲れて火照ったのだろうか生ぬるい風が私の頬を撫でる。
4限の国語の授業は『少年の日の思い出』の音読であった。
山と山と山に囲まれて形成される小さな土地はそこに住む全員が顔見知りのようなもので、私のような引っ込み思案な子供にとっては外に出て帰るだけでも顔が疲れる。若者の数も少なく、その少し離れた山あいの近隣の子供をかき集めてやっと一クラス作れるような小さな中学校に彼女が越してきたのは、確か春も終わりに差し掛かる頃だっただろうか。
「わたしは美しいものが好きなんだよ。少年が自己を失うほどのクジャクヤママユを一目見てみたいじゃないか。」
人ではないと思った。
私の知っている人とは、黒い髪に辛気臭い黒い目をつけて、俯きながらよくわからないような営みをよくわからないままに続けてそのまま朽ちていくものだ。彼女の白く透き通り絹のような髪、鮮やかな青い宝石のような目、しっかりと持ち上げられ前を見据える顔、その全てが私を捉えて離さなかった。
「ここいらの近辺は生き物で溢れているだろう? いくら珍しいとは言え、探せばひとつくらいは見つかると思うんだ。」
療養のために東京の都会から田舎へ越してきたという彼女は、しかし好奇心の塊のような人だった。初めて目にするはずの野山を縦横無尽に駆け回り、授業を抜け出したかと思えば校庭の隅で虫を殺して教師を不気味がらせ、夜中まで帰って来ずとうとう行方不明になったかと皆が思った翌朝に鶏小屋で寝息を立てていた時もあった。
村人達はそんな彼女の奇行を不気味がり、学校でも彼女に近づく同級生は居なかったが、そのおかげで私は美しくやんちゃな天使を独り占めすることができた。
「川へ行こう。美しいものは美しい場所に有ると相場が決まっている。」
この小さな集落の中でも彼女の格別のお気に入りは、中学校から数分歩いた先を流れる大きな川であった。錆びついた鉄塔のそばの階段から下へ降りることができるその川は、流れの激しく深いところと子供が遊べるような浅く澄んだところとに別れており、そのコントラストがまた彼女を一層魅了するらしかった。
川に住むものはみな美しい、と彼女はよく語った。多様な流れに耐え凌ぎながらしかし我々には、きらきらと澄んだ水面だけを自慢げに見せつけるその精神が美しいのだとかなんとか。しかし、私の知る美しいものは私の眼前にあるのみで、どうにもおかしな話なのだった。
それから毎日放課後に川へ向かい至る所を探したが、クジャクヤママユは現れなかった。
その日の朝は生憎の雨で、これは今日はクジャクヤママユ探しはないかなと思っていたが、3限も終わる頃には雲に蓄えた雨粒も尽き、ところどころ晴れ間がこちらを覗いていた。
「見ろ、この雨上がりの幻想的な風景を。クジャクヤママユもこんな美しい風景ならひょっこり顔を出して見に来るんじゃないか。」
彼女が指差すそれは確かに私の目から見ても幻のように美しい景色で、雲間からちょうど差し込んだ光の一筋が照らす、水面と石々に映る幾千ものキラキラとした光の粒は、もしかしたらその中の一つくらいは物語内の彼の少年がその手にと望んだヤママユガであるかもしれないと思わせるほどであった。
石段を降りて、流れの緩やかな浅瀬にしゃがみ込む。今日の彼女の話題は資本主義と社会主義のどちらがより可愛らしいかについてだったが、浅学な私にはいまいち理解できずに、いつものとおりの曖昧に相槌を打つばかりであった。
今日で八度目となるこの捜索だが、彼女の行動に付き従う放課後は幸せ以外の何物でもない。ただ私が、クジャクヤママユそのものに対してはそこまでの興味を抱けていないのは彼女に隠し通さねばならなかった。
どうにもこの子は自らのことを醜いと考えているらしい。委細を聞いた訳ではないのだがその発端は遠く離れた東京の地で、彼女が疎まれていたことより発するようである。美しいものを求め、クジャクヤママユを探すのもその辺りに由来する衝動なのであろうか。しかし彼女が醜いのだとすればこの世界に美しいものなど全く存在しなくなってしまうのではないか、そのようなせんなき事をふわふわと考えていると、背中の後ろの彼女の小さな叫び声が私の耳に届いた。普段何事にも自信満々で声の通る彼女から今発せられたそれはどこか余裕なさげで、思わず漏れ出たようで、私はもしやとうとう彼女がクジャクヤママユを見つけてしまい、この幸せな川辺のひとときが失われてしまうのかと、少し悲しくなって後ろを振り返った。その先には足を滑らせ仰向けに宙を見る彼女の細い体が在り、一泊遅れて、それは、世界が終わるかのようなゴンッと鈍い音が、胸なのか頭なのかよくわからないところを中心に、波のように、響いた。
私の天使が死んでしまうかもしれない。
慌てて立ち上がり、倒れた彼女を覗き込む。
その白い髪は水面に広がり羽のような様相を呈し、後頭部から湧き出る赤黒い液体はせせらぎに乗せられ斑点のようなとぐろを巻き、その眼は時が止まったかのようにこのうえなく輝き、空気を喰い膨らんだセーラー服は丸々太った腹部を思わせた。
クジャクヤママユは本当に川に居たのだ。
薄い日の光が辺り一体を包む。それは役目を終えて発散した繭なのだろう。眼窩に入れ込まれた青い宝石は、繭から解けた一本一本の光の糸を捉えて離さない。
それはこの世界でもっとも美しいことで、それは私の胸が生涯でいちばん歓喜に満ちた瞬間で、これが欲しいと言っていた彼女はやっぱり正しかったのだ。彼女を愛した私は正しかったのだ。
嗚呼、これは私の、私だけの宝物だ。
ヤママユガの標本を初めて目にした時の少年の気持ちはきっと今の私と同じだったのだろう。この子はわたしのものだ。我慢できずに、震える手をなんとか伸ばし、川の水と同化してしまうのではないかと思うほど澄んだそのたおやかな肌に、触れた。
途端にその肌は冷たく色を失い、宝石のようだった目は腐り黒ずみ、白髪は老婆のそれのように荒れて崩れ落ちた。
後には生臭い死体が残るのみで、いつの間にか雲間は覆われていて光は届かない。
もう、全ては遅かった。