幸薄少女の世話係 作:直江
林間学校から帰った俺は、家の扉を開けると、そのまま玄関に倒れ伏した。
自宅という安心できる空間へ帰還し、張り詰めていた緊張が解かれたのだろう。
抑えていた睡魔が俺を眠りの世界に誘おうとしているが、まだ外は明るく、寝るには早すぎる時間だ。
体を起こそうと試みるが、疲れた体は言うことを聞かず、床に接合されたように動かない。
眠るなら、玄関ではなくせめてベッドの上が良かったが、無理らしい。
かろうじて、開いていた瞼がシャッターのように、ゆっくりと閉まっていった。
......ああ。これは無理だ。あらがえ.........ない。
「──さい」
誰かの声が聞こえた。語りかけるような優しい声だ。
「──きてください」
この家には俺を除いて、誰もいないはずなのに。
...ああ、わかった。
俺は夢を見ているのだ。おそらく幸せそうな夢を。
じんわりと温かな空気が心と体を包んでいる感覚だけがある。
これはとても、心地が良い。
「起きて、与一さん」
はは、夢の中でも寝てるのか、俺は。
それにしても、起きてください...か。
誰かに起こしてもらった経験なんて、ほとんど俺にはない。
普通の家庭にはありふれたものかもしれないが。
学校に遅刻しないように、母親が布団を揺さぶってくれて、自室から階段を下りていくと、リビングのテーブルには朝食が並べられている。
そこには、温かい朝の空気が流れているのだろう。
どうやら俺は、夢に見るほど、そういう『普通』に憧れを持っていたらしい。
「もう夕方ですよ、夜寝られなくなっちゃいますよ」
一体これは誰の声だろう。わからないが、いつまでも聞いていたくなるような心地よい声だ。
ここで目覚めれば、現実の俺は一人、冷たい玄関の床にだらしなく臥せっているのだ。
...出来ることなら、もう少しだけ浸っていたい。この温かさに。
でも、限界みたいだ。
眠っていたいという意志に反して、瞼が勝手に開いていった。
「起きちまったか...クソ...ってあれ?」
「ごめんなさい。気持ち良さそうに寝ていたのを起こしてしまうのは、気が引けましたけど、夜寝られなくなっちゃうと思って...」
仰向けに寝ていた俺の視界に映ったのは、よく見知った顔だった。
望月穂波、中学三年生で俺の一個下。時折、宵崎家の家事のお手伝いをしにくる女の子だ。何故かエプロン姿だ。
何でここに穂波ちゃんが...しかも、何で俺はソファで寝ているのだろう。
記憶が正しければ、俺は帰宅して、倒れるように玄関の床で眠りに入ったはずだ。
ありえない状況に俺は目を丸くした。
まだこれは夢の世界なのではないかと、試しに頬をつねってみるが、確かな痛みが頬に走った。
正真正銘の現実らしい。
ソファに寝転がる俺。エプロン姿の穂波ちゃん。ほんのりと匂うスープの香り。
それらの情報を統合することで、俺は一つの結論に辿り着いた。
「.........そうか、わかったぞ」
「ふふ、何がですか?」
柔和な笑顔で穂波ちゃんは尋ねた。
「俺は随分長い夢を見ていたのか」
「よ、与一さん。寝惚けてる?」
「ああ、寝惚けてたみたいだ」
穂波ちゃんの言う通りだ。俺は寝惚けていた。
「ごめん。こんなことをいきなり聞くのは不思議に思うだろうけど、いいか」
「は、はい...」
俺はごくりと息を呑み、困惑した顔つきの穂波ちゃんを見た。
「穂波ちゃんと俺は同棲している...ということで良いよな?」
「......えっ!?ええっ!!??や、やっぱり寝惚けてる......」
「だから、寝惚けてたって言ったじゃないか」
「言葉の行き違いが生じてる気がする...」
何故か頭を抱えている穂波ちゃんを見ながら、俺もこの状況について考え直してみる。
同棲と結論づけるのは早計だったかもしれない。
今の穂波ちゃんが俺の家に出入りし、エプロン姿で料理を作ってくれるような間柄だというのは確かだが。
でも、そのような間柄になるまでの記憶が一切存在しないのが、謎だ。
恋人との馴れ初めを忘れるなんて、どうかしてるな。
もう少し時間が経てば、徐々に記憶が蘇ってくるのだろうか。
二人でうーんと頭を悩ませていると、ガチャリと玄関から扉が開く音がした。
誰が来たのだろうかと一瞬疑問に思ったが、こちらに向かってくる小さな足音を聞いて、来訪者の正体を察することができた。
「あ、起きてた。おはよう」
お決まりの服装、つまりジャージ姿で現れたのは案の定、奏であった。
益々、この状況がわからなくなってきたな...
「よ、宵崎さん。今、与一さんの様子がちょっとおかしくて...どうすればいいんでしょうか?」
「え...大丈夫なの?林間学校でなにかあったのかな」
「いや、大丈夫だ。すこぶる健康だよ...って、り、林間学校?今、林間学校って言った?」
「言ったよ」
「はい、言いました」
......俺はもしかすると、壮大な勘違いをしているのかもしれない。
「あのー...俺って林間学校行ってたの?」
おそるおそる穂波ちゃんに、尋ねてみた。
「はい、神山高校は一年次のこの時期に林間学校があるって前に教えてくれましたよね?」
「...俺は今、高校一年生なのか」
「そうですよ?」
「高校卒業後、色々あって、穂波ちゃんと同棲することになったわけでもないのか」
「ど、どどどど同棲なんてしてませんよ!」
林檎のように顔を真っ赤に染めて、穂波ちゃんが全力で否定した。
深呼吸して、俺は自分の手を見つめてみた。
確かに、大人の手とは思えない。
シワなんてものは微塵もなく、見慣れたサイズの掌がそこにあった。
......なんて恥ずかしい勘違いをしていたんだ俺は。
さっきまで寝惚けた面で馬鹿なことをのたまっていた自分を殴りたい...
あまつさえ本人の前で同棲がどうのって...気持ち悪すぎるだろ、俺......
「......ごめん!さっきまでの俺のことは、穂波ちゃんの記憶から永久に消しておいてほしい...!」
急に恥ずかしい気持ちが込みあがり、俺はソファから飛び上がって、ジャンピング土下座を決めた。
床にでこを擦りつけるようにして、ただただ平伏した。
「や、やめてください!顔を上げてください!私、気にしてませんから...」
「望月さんと同棲って...ふふっ」
ゆっくりと頭を上げてみると。そこには俺の土下座を申し訳なさそうに見下ろす穂波ちゃんの姿と、可笑しそうにクスクスと笑う奏の姿があった。
やばい、この場から今すぐ逃げ出したい。家に帰りたい......俺の家、ここだったわ。
何もかも投げ出して、この場を去りたいと強く願うが、俺にはある一つの疑問が浮かんでいて、それだけは聞いておかなければならないと思った。
「あのさ...俺が勘違いしたのには理由があってさ...そもそも穂波ちゃんは何で俺の家にいたの?」
そうだ、あの目覚めた時の状況が俺を最悪の勘違いをさせる原因となったのだ。
エプロンつけた女の子が優しく起こしてくれるという異常事態が起これば、誰だって錯乱するのではないだろうか。
「あ、それはですね。今日も家事代行サービスの練習として、宵崎さんにご飯を作ろうと思ったんですけど、思いのほか作りすぎてしまって。それで、与一さんの家におすそ分けしに行ったんです」
なるほど。だけど、インターホンが鳴った覚えはない。なんせ、玄関で寝てたわけだからな。
自宅のベッドがゴミで散らかっているという理由で、インターホンを鳴らさずに俺の家に入ってきて、ベッドに潜り込むような奏と違って、穂波ちゃんは良識ある女の子だ。
勝手に扉を開けて入ったという線は無いだろう。
「...すみません。勝手に入っちゃって...インターホンを押しても与一さんが出てこなかったので、引き返そうとしたんですが、扉の向こうからうめき声が聞こえて。心配になって、ドアを開けちゃいました...」
穂波ちゃんは申し訳なさそうに、頭を下げた。
俺のことを心配しての行動なのに、謝罪までするなんて、いい子にもほどがある。
たとえ勘違いでも、こんな聖母の如き存在と同棲しているなんて、妄言を吐いていた俺の罪を許してほしい。
「それで、玄関口で倒れている俺を見つけて、ソファに運んでくれたのか?」
「はい...二階の与一さんの自室までは流石に運べそうになくて、ソファならまだ寝やすいんじゃないかと思って」
「そこまでしてくれたのか...穂波ちゃんはもしかして神なのか?拝んだ方がいいよな」
「わ!やめてくださいっ。拝まないでいいですから!」
二階に比べて、ソファまでの距離は短いとはいえ、中学生の女の子が一つ上の男子を引きずるのは、相当力が必要だったはずだ。
少し仲の良い知り合い程度の関係である俺を心配して、ここまでしてくれるなんて、とんでもない親切心だ。
地球上の人間が全員、穂波ちゃんのように優しい心を持っていれば、戦争なんて起きないだろう。
「ありがたや...ありがたや...───あ」
穂波ちゃんへの感謝で心の中を埋め尽くしていると、ぐうう、と俺の腹が鳴ってしまった。
空気を読まない胃袋だ。穂波ちゃんの目の前で、これ以上俺に恥をかかせないでくれ。
「ふふふ。お腹鳴っちゃいましたね。折角なので、今食べますか?シチュー」
「えっ...いや...えっと......いただきます」
これ以上、穂波ちゃんに手間をかけさせまいと、否定の言葉を返そうと思ったが、漂ってくるシチューの香りに自然と、俺は肯定の言葉を返してしまった。
だって、穂波ちゃんの作った料理めっちゃ旨いし...これは抗えないわ。
────────
食卓に置かれたシチューの皿を見て、俺は驚愕した。
長い間、空腹が続いていたのもあって、クリームシチューが輝いて見える。
ブロッコリー、じゃがいも、ニンジン、鶏肉...何から食べようか。どれを選んでも、絶対に美味しいのは確実だが...
「どうしたんですか?もしかして、苦手なもの入ってましたか?」
「いや、全部好物だ。全ての食材が輝いてて、どれから食べるべきか悩んでる...冷めると良くないから、早く食べなきゃとは思ってるけど」
俺はゆっくりとニンジンをスプーンですくった。
それから、シチューと良い具合に絡みついているのを確認して、口に運び入れた。
その瞬間、シチューの温かさと美味しさが信号として、体全身に伝わっていくのを感じた。
冷えていた体が一瞬にして、心地よい熱を持っていく。
「う、うまぁっ!やば、旨すぎる...」
「も、もう。与一さんはいつも、反応が大袈裟なんだからっ」
「だって、本当に美味しいから。ミシュランで三ツ星取れるよ、このシチュー」
「も、もう......」
もっと味わいながら食べたかったが、意志とは反して、シチューをすくう手は止まらず、あっという間に食べ終わってしまった。
中学生にして、ここまでレベルの高い料理を作るなんて、将来が楽しみというか、むしろ恐ろしさすら感じてしまう。
極上シチューを平らげた後、俺は穂波ちゃんと話をしていた。
始めは学生生活、次に趣味の話ときて、今は奏の話だ。
俺と穂波ちゃんは元々、奏を通じて知り合った仲だから、共通の話題を探せば、自然と奏の話になる。
料理の話もできなくはないが、俺とレベルが違い過ぎて、話が広がる気がしない。
「宵崎さん、作曲頑張ってますよね。根を詰めすぎて、体を壊してしまわないか心配です...」
「そうだね。でも、穂波ちゃんがきてからはだいぶマシになったんだよ」
「え?そうなんですか?」
「うん。俺さ、何か月か奏とまともに口を聞いてなかったんだけどさ」
話しながら、俺はあの頃のことを思い出していた。
今でも鮮明に記憶に残っている。
あの死んだような、世の中全てに絶望しているような目を。