くるくると。
血のラインを描きながら、上条当麻の右腕は宙を舞っていた。
右方のフィアンマが手を差し出すと、そこに吸い込まれるように、当麻の右腕は掴み取られた。
「掴んだ……」
ぱん、と水風船が弾けるような音と共に、切断された右手が肉、血管、神経などに分離されていく。
世界環境は『ベツヘレムの星』によって整えた。そして媒介となる右手も手に入れた。
「後は、俺様の身の内にある『本来あるべき力』を全出力で振るえば、全ての救済は完了する。それを人は『神上』とでも呼ぶのかもしれんが……俺様としてはどうでもいい。ただ、今ある力を集めて世界を救えれば成功だ」
分解された右手が、フィアンマの右肩から生えた『第三の腕』に呑み込まれていく。
その時、苦悶があった。常に余裕を失わない彼の眉が、ほんのわずかに、不快げに歪む。
組み込んだ『幻想殺し』が、フィアンマの力を内側から削り始めたのだ。しかし、その打ち消す力を上回るほどのエネルギーを、フィアンマは内包していた。
そして、ズグン、と彼の体が揺れ、その力が血肉を得た『第三の腕』に移動した証拠に、大きな変化が生じた。
フィアンマの体に、ではない。
天空が、大きく開く。
赤、青、黄、緑に、人為的に彩られた夜空がぱっくりと裂けた。その向こうから現れたのは、黄金の光。
それは、天界に満ち溢れる『
聖女が娼館や牢獄へ連れ込まれたとき、その場が清らかな場へと変貌を遂げた話があるが、それと同じだった。正しい者の周囲は正しく染まる。
その事実を確認したフィアンマの唇が、愉快気に歪んだ。
(俺様はこの世界を救う。そのためには、もはやお前は不要なんだよ)
フィアンマは、今も切断面から大量の血を噴き出している少年に『第三の腕』を突き付けた。
「光栄に思え、肉塊。お前の存在価値は、無事に刈り取れたぞ」
世界を救う力。
『神上』と称されるもの。
必要とあれば惑星一つを粉砕するほどの圧倒的な光の爆発が、用済みのアダプターを粉微塵に変える。
そうでなければおかしかった。
「……!?」
にも拘わらず、そこにはフィアンマに疑問を与える光景があった。
彼が放った力の奔流は、上条当麻の目の前で2つに裂け、散らばっていったのだ。
神話にも匹敵する、あるいはそれ以上の力が、見えない右手に弾き飛ばされるように。
その傷口に。
ゾゾゾゾゾゾぞぞぞザザザザザザザザザザザザザザザザ!!! と、見えない『何か』が集まっていく。
フィアンマはこれまで、さんざん大仰お膳立てをして、全ての準備を完璧に整えた上で、最後のカギとして幻想殺しを手に入れたはずだった。そして、それを一度バラバラに分解し、自らの力を出力するための霊装として再編し直したのだ。それによって、世界をまるごと救済するほどの力を手に入れた……。
にも拘わらず。
見劣りした。
霞んで見えた。
少年の肩口に……
(透明な……『何か』がある!)
当麻がゆっくりと顔を上げる。ただそれだけの動作に、フィアンマは自然と警戒を行っていた。
来る。
何かはわからないが、とにかく警戒すべき『何か』が来る。
そして。
上条当麻は、その『何か』を自らの力で握りつぶした。
ボン! という音と共に、その『何か』は新たにその上から現れた、より巨大な力に呑み込まれてしまったのだ。
「……『テメエ』がどこの誰かなんて知らねえ」
ボソリ、と上条の口から言葉が発せられた。
その声は決して大きなものではない。しかし、最大限に警戒していたフィアンマは、当麻が『何か』に向けて呟いたその言葉を、しっかりと聞き取った。
「『テメエ』が何をやろうとしていたのかも知ったことじゃねえ」
当麻は、目の前の強敵であるフィアンマさえ気にも留めずに言い放つ。
「
ずるずるずるずる! という湿った音と共に、右腕が出現していた。莫大な力を取り戻し、その肉体の一部は、完全に再生されていたのだ。
(捨て、た……? あれだけの力を棒に振って、わざわざ右手を取り戻した……?)
フィアンマはいつの間にか、のどが渇いて言葉が出ていなかった。
そして、己の『右腕』に取り込んだ方の『
つまり。
このような特異な力は、同時に二つも存在することはありえない。上条当麻という少年の右手にこそ、本物の力が宿るのだ、と。
失うわけにはいかない。幻想殺しの力自体はどうでもいいが、その神聖な右手の価値すらも同時に失われているのだとしたら、フィアンマの力を受け止めるための機能自体に影響が出る可能性が高い。
「……ようやく、少しは分かってきたぞ」
その時、当麻が呟いた。
「何をだ」
「随分と大仰な計画だと思っていた」
『ベツヘレムの星』。
第三次世界大戦。
いや、その前からあるローマ正教とロシア正教の同盟。
そもそも、それらは本当に必要なものだったのか?
フィアンマが最強の存在であるというならば、どうしてわざわざ『倒すべき敵』というものを浮き彫りにする必要があった?
なぜ、フィアンマはローマ正教とロシア成教の間に同盟を組ませた? この男が本当に最強で、出てきた者を片っ端からなぎ倒せる存在であるならば、そもそも部下なんてものは、必要ないはずだ。
「……テメエは怯えていたんじゃねえのか」
つまり、
「本当に、自分の体の中に『世界を救えるほどの力』があるかどうか分からないから」
ゴッ! と光の奔流が飛んだ。
しかし、当麻はそれを右手で斜め上の方向へ受け流す。
その攻撃に、傷一つ増えることはない。
それが、あらゆる幻想を殺す力に相応しい結果を示している。
簡単なことだった。
北欧神話の『
神話には、そのように多くの『世界の終焉』が描かれている。
しかし、少なくとも今生きている人々は、それを経験したことはない。
そして、世界が終わるほどの危機が訪れなければ、世界の危機を救うほどの力があったとしても、それを発揮する機会はない。
上条当麻の右手『幻想殺し』が、超能力者や魔術師に囲まれた中にいなければ、そもそも存在が認知されないのと同じことだ。
「一度も世界の救ったことのないやつに、『世界を救える力』があるかどうかなんて分かるはずねえだろ」
右方のフィアンマは少し黙り、そして低く静かに笑った。
「……だからどうした。それを言うなら、お前には俺様を糾弾する資格などあるのか。お前は『世界を救えるほどの力』を実感したことがあるのか」
「あるに決まってるだろ」
フィアンマの予想を覆す回答が、少しの間も空けずに帰ってきた。
別に難しいことではない。
「ちっぽけだろうがなんだろうが、一人分の世界を救った瞬間ってヤツを目撃したことがあるぞ」
そう。
この世界が小さな人間一人ひとりの集まりでできているというのであれば。
割に合わないことをしてきたという自覚はある。それに親友を付き合わせてしまっている、ということも分かっている。
しかし。
だからこそ、得られたものもある。
そして、神谷駿斗には謝罪よりも感謝の気持ちをいつも抱いている。このどうしようもない『
二人で手に入れてきたものは、他の人からすれば価値を感じないかもしれない。しかし、彼らはその意味をよく分かっていた。
もしもフィアンマが『世界』なんて大きなくくりに囚われずにいれば、『世界を救えるほどの力』なんて実感に怯える必要はなかった。だが、彼はそうしなかったのだ。
だから、見えない。
「世界を『救ってやる』なんて思う野郎に救われなければならないほど、俺たちの世界は弱くなんかない」
黄金の空の下、今まで何にも手を伸ばすことすらしなかった孤独な男に、上条当麻は静かに告げた。
美琴の攻撃によって、Nu-AD1967を積んだミサイルから噴射炎は消えていた。
垂直に立てられた大型ミサイルは、発射直前の状態を維持することが難しかったのか、大きな音を立ててその場に倒れる。
これでもう、ミサイルは発射できないだろう。
「200人規模の一個中隊相手にこの一方的な暴れっぷり。ここまでやられるとさすがにコンプレックスを感じずにはいられません」
「何言ってんの。アンタらの戦力、全部集めれば一万近い旅団クラスでしょ」
しかも、全員が能力を使え、その上ネットワークでの連携が可能、学園都市最新鋭の戦術をインプットしているのだ。
だが、彼女が言いたいのはそういう意味ではないのだ。
するとその時、妹達はピクンと眉を動かし、ヘッドセットに手を添える。
「……首謀者と思しきニコライ=トルストイなる人物と連絡が取れないという混乱が生じているようです、とミサカは真顔で報告します」
「アンタいつでも同じ顔じゃない。それってつまり、相手が勝手に自滅したってこと?」
しかし、妹達が報告する限りでは、部隊は作戦を続行する方向で意見をまとめたらしい。
「ええい、クソ! やたら熱心なヤツらですこと!」
だが、現在運用が可能なNu-AD1967は先ほど美琴が発射を阻止した一基のみ。
しかし、それが逆に問題を起こすこととなった。
「将校クラスはその事実に気づいておらず、遠隔地から強引に発射命令を下そうとしているらしいです、とミサカは呆れかえります」
それってつまり……
「緊急用のリモート命令を下しても、ミサイルは飛びませんが、弾頭はこの場で起爆するのではないでしょうか、とミサカは自らの予想を発言します」
「死ぬって! そんなことになったら絶対死ぬ!」
その上、これは電波ではなく赤外線通信を採用しているらしい。テレビのリモコンかよ! と叫ぶ美琴であるが、どうしようもない。
とにかく、受光部を布で覆ってしまうだけでも阻止できるはずだ。
「間に合いますかね、とミサカはため息交じりに応援します。がんばれー。はぁ、でもいつになったらあの人に会えるのやら」
「余裕だなおい!」
駿斗はジュダと、『ベツへレムの星』について話をしていた。
「すでにお分かりかと思いますが、あれはフィアンマ様が『右腕』を完成させるために用意した儀式場です」
儀式場。
フィアンマ自身が語っていたように、あれだけの規模の魔術要塞も、結局は儀式のための下準備に過ぎなかったのだ。
あの赤い男は、徹底的にその『右腕』にこだわっている。
「ああ。異形な力で満たされた神殿を用意し、その中で右腕の力を精錬し、完成させる……つまり」
――学園都市で生活している上条当麻と同じだろう?
駿斗は、何の不思議もないかのように、そう言い放った。
ジュダすら、思わず絶句する。
「少し視点を変えてみれば、わかりきったことだったんだ」
今は
いや、それだけではない。あの街の中は、あらゆる監視網が張り巡らされているはずだ。ならば、風斬氷華について上昇部の人間が知らないはずはないし、そもそも『虚数学区』についてだって、知っているに決まっている。
そして、そう考えれば、上条当麻、いや、
ありとあらゆる異能の力を打ち消す力。それは逆に言えば、周りに様々な異能の力が存在しない限り、存在すら知られることもない。ただ自分の幸運を打ち消していくだけのものにしかならない、ということだ。
そして、
もはや、語る必要はないだろう。
「学園都市そのものが……俺たちを成長させるための箱庭となっていた。おそらく、統括理事長はそのことを見越して、一から作り上げたんだ」
しかし、それ以上のことは分からない。唯一言うことができるのは、この戦争が終わってからも、自分たちの戦いはまだ続くのだろう、ということだけだ。
「で、ベツヘレムの星に関しても、大まかな役割は変わらない。しかし、ここで両者の違いが生きてくる」
それは、単に科学と魔術の違いというだけでない。
学園都市は、ゆっくりと科学的にこの大地を改変した方法を取った。つまり、日本から東京の西部3分の1を独立させることで。
しかし、フィアンマは世界中から魔術的な建造物を集合させることで、強引にこの空中要塞を作り上げている。つまり、この要塞そのものが魔術的なものである以上、そこに干渉することで、フィアンマの計画をいくらでも妨害する手段が存在する、という訳だ。
「フィアンマの幻想――それを上書きする形で、俺の幻想を創造する!」
胸にかかってくる強烈な圧迫感に、
一体どういう理屈なのかは分からないが、夜空が開かれ、その先から黄金の光が世界を照らしていた。太陽光の屈折率を考えても、明らかに物理法則を無視している。
しかも、それ以上にその異常が何の隠蔽もされていないことに、一方通行はばかばかしさすら感じていた。
しかし。
(……知ったことか)
世界なんて漠然としたものの変貌など、知ったことか。それよりも、一方通行にとっては、
「
「ミサカネットワークの割と浅い所に」
ミサカネットワークの統一的な意思もまた、修道女の歌の異常性に気が付いていた。ネットワークの中で日ごろから並列的に解析を行っていたらしい。
「おかげで深部に潜ることなく、新参のミサカにもデータを入手できた」
「データを」
「少しは聞きなって」
中身を急かす一方通行に、番外個体はストップをかけた。
インデックスがその知識に基づいて組み上げたこの歌は、発音どころか、呼吸法からして、科学サイドの人間の常識には当てはまらない。番外個体の口から話すには、少々複雑すぎた。
「楽譜、疑似音声データ、サウンド振幅グラフ、どれがお好み?」
「全部出せよ。出し惜しみは三下のすることだ」
「とことん嫌な奴。そっちのほうが居心地いいけど」
ジジッ、とノイズのような音が携帯端末から流れると、そこにはいくつかのファイルが追加されていた。
しかし、この歌だけでは足りない。
「どォにかなる」
一方通行が取り出したのは、羊皮紙の束だった。それを見た番外個体が「……ミサカのことバカにしてんの?」と眉をひそめる。
「そォじゃねェ」
「そもそもさ。
「そォじゃねェっつってんだろ」
一方通行は彼女の眉間に拳銃を突き付け、その悪意しか吐かない口を止まらせた。もっとも、ここまで彼を煩わせて引き金を引かせていないあたり、一方通行もずいぶんと丸くなっているのだが。
「コンピューター上の高度なセキュリティ暗号だろォが、ダ=ヴィンチの時代の図面の暗号だろォが、基本的には数学の世界だ」
そう、あくまでも数字の集まり。ただし、それらを解き明かすには、莫大な計算量が必要となる。『暗号方式』そのものが複雑であるわけではない。
だから、
そう、『はずだった』のだ。
「ミサカ好みの不幸と挫折の匂いを感じさせるね」
「パズルが解けない」
一方通行は簡単に肯定した。
まるで、円周率を計算したら、何度やっても100桁目で誤差が出てしまうような感覚。
それを解決したのは、やはり理解のできないものだった。
水の天使と科学の天使との戦いに割り込んだ時の、あの水の天使の攻撃の感覚。しかし、それよりも前に、彼はその感覚を知っていた。
「実際には『反射』なんてできなかった。正体不明の攻撃は素通りして、俺の体を真っ二つにしやがった」
彼が己の敗北を語るということ自体が、彼の成長を現しているのだろうか。だが、今は優先順位が違う。
己のプライドも捨てて、彼はひとつの小さな命のために突き進む。
「――だが、ベクトルが『なかった』訳じぇねェ。俺はあの時、エイワスから受けた『正体不明の法則』を自分の体に入力していたはずだったンだ」
あの
木原数多や垣根帝督のように、能力の裏をかかれたわけでもない。
あの怪物は、そのベクトルをストレートに一方通行へ伝えてきたのだ。ならば、そのベクトルの情報もまた、彼の中に伝わっている。
エイワスはロシアへ行けとは言ったが、そこに解決法がそのまま置いてあるとは言わなかった。あくまでもヒントだけを示したのだ。
正体不明と割り切らず、ブラックボックスの中に放り込んで、そのままにしないこと。
架空のベクトル軸を設定しろ。違和感を違和感として処理できるような、数学で例えるならば虚数のような概念。いきなり
宇宙の法則、たとえばビッグバンなど、解析が難しい事象がある場合、その現象に極力近づけた状態を再現・観測し、物理学者が逆算して仮説を裏付けるための装置が存在する。
「このガキを助けるためのパラメータは手に入った。ここから先は逆転する番だ」
殴りあうだけが戦いではない。
他人から奪うだけが勝利ではない。
「始めるぞ」
ブワッ! と、歌唱データという形で入力を始めたが、その滑らかな動きの中に、わずかな引っ掛かりを感じた。
(黄金の空……ッ!)
真上から圧し掛かる重圧から放たれる『不可思議なベクトル』。それが、彼らに干渉を起こしていた。まるで、高圧電流が周囲のテレビやラジオにノイズを走らせるように。
直後、異変があった。
「――ッ!??」
ビキリ、と体の内側で、何かがはじけた。
体中の血管が内側から裂け、破られた皮膚から赤黒い液体が噴出する。
彼は知らない。
常人にはありえない呼吸は、生命力を魔力へ精製する方法だ。
喉だけでなく体内全体で音という振動を大きく震わせる発生方法は、その魔力を術式という形に変換する方法だ。
魔術。
それは、能力者に禁じられた技術だった。
一方通行を、甚大な拒絶反応が襲った。体内のあらゆる器官が悲鳴を上げ、それでも彼は、荒々しくも荘厳な声を白い大地へと響かせる。
一方通行は祈っていた。
無理やり娼館に連れられた女性が、一転してその場を光り輝く信仰の場へ変貌させた逸話が存在する。
立ち位置程度で魂は汚されない。
罪人は、心から猛省し、心を入れ替えようと運命に抗い続け、己の宿命を断ち切ろうとする者に救いを与えぬほど、この世界は冷たくはない。
善人か、悪人か。
人間か、怪物か。
科学か、魔術か。
問われれば、彼はきっとこう答えたはずだ。
決まっている。俺は俺という言葉以外に表現なンざできねェ、と。
あらゆる鎖を断ち切った彼は、そのまま歌い続けた。
そして。