「あっ」
気づいたのは特訓が終わった後だった。
完全下校時間前。慌てて資料室に戻ったが、そこに携帯端末の姿は見当たらない。
幸い、中身に見られたらヤバい内容は入っていない。気恥ずかしい努力の足跡みたいなものは残っているが、他人に見られて処されるような秘密でもない。ただ俺の顔が真っ赤になるだけだ。
「紛失届、出すかぁ……」
出すとしても明日になるだろう。織斑先生にしばかれるな、というのは少し憂鬱だ。だが、こればっかりは俺が悪いので受け入れる他にない。これがもし企業秘密とかなら、洒落になっていないのだ。
緊張感が足りない。もしかしたら最近、少し緩みすぎたのかもしれない。
気を張り直すために両頬を思い切り叩く。
パン、と響き渡るいい音と共に、ジンと熱い痛みに痺れそうになる。だがこれは戒めだと、俺は背筋を伸ばして歩き出す。
自室の前に、見知らぬ生徒が立っていた。
褐色の肌に、緑の髪。吸い寄せられるような抜群のプロポーションが特徴的な女子だった。すぐに視線を上げると、そのアメジストのような紫紺の瞳と目が合った。
「………」
「………、?」
沈黙がまるで結界のように展開された。
俺のことを見たその女子は、視線があった瞬間に時間でも止まったかのように固まった。瞬きすらしていない。ぶっちゃけ怖かった。
一方で俺は、視線の後ろめたさがあって自分から口を開かなかった。罵詈雑言くらいは甘んじて受ける覚悟をしていた。
だからなのか。お互いに一向に口を開くことがない。
見つめ合って、もう5分は経つんじゃないだろうか。幸い周囲には誰もいない。一夏とデュノアの部屋が離れていることが幸いしたのだろう。
――これは俺から用件を聞かないといけないのか?
楯無さんに用事、ということであれば力になれそうにはないが。伝言くらいは出来る。
逆に俺に用事というなら、少なくとも会話が発展しない今よりはマシだ。まさか、楯無さんと相部屋の俺の部屋に突撃して、堂々とハニトラ仕掛けてくるような意味の分からないことはしないだろう。してこないと思いたい。
「……あー。えっと、俺に何か用ですか? それとも、楯無さんに?」
「…………」
返事がない。ただの屍のようだ。
そんなモノローグが垂れ流されてもおかしくないほど無反応。瞳孔さえ動いた気配がない。まさか本当に死んだり気絶したりしてないか? と心配になってくるくらい音沙汰ない。
「あの、もしもーし?」
「…………」
声を掛ける程度では何も起きない。
ならばどうするか。肩に手を置いたりして、相手の意識を戻すのがある種最適解なのだろう。だが、今の社会的に男から女性に接触するのは非常によろしくないのである。
財布を拾って親切で声を掛けても反応がないから、仕方なく肩に手を置いたら通報されて警察送り……なんて話は枚挙に暇がない。それくらい今の社会情勢は終わっているし、こちらから接触するのはリスクでしかない。
「聞こえてますか? そこ俺の部屋の前なんですけど。あの、そこに居られると俺部屋に入れないんですけど……あの、もしもーし?」
相手の目と鼻の先で右手を振って、声を掛けながら反応を見る。ぴくり、とわずかに瞳孔が動いたかと思うと……ようやく、ぱちくり、と瞬きをした。
続けて、こてん、と緩慢に首を傾げてしまう。視線がゆっくり右へ、左へ……そして、正面の俺を捉えて、またぱちくり、瞬き一回。
「……あの」
「っ!?」
――しゃ、シャベッタァァアアア!?
俺の心が悲鳴を上げて、心臓が破裂しそうなほど飛び上がった。というか思わず一歩後ずさった。
大変失礼極まりない行動だったが、幸いなことに相手はこちらの行動を不快に思っている様子はない。むしろ緊張が解けたのか、肩の力を抜いてくすりと笑みをこぼしている。
「すみません。その、男性の人と接することがなくて、頭が追いつかなくなってしまい……」
「あ、あぁー、それでフリーズを」
何となく理解はできた。
つまり街中にゴリラでも闊歩しているかのような事態に直面したと考えればいいだろう。そりゃ誰だって呆然とするに決まっている。ここ本来は女子校だし。
「それで、どうしてまた俺の部屋の前に?」
「あっ、それが……この端末を、天川光樹さんに届けに来たのですが……」
彼女が両手に抱えていたのは、忘れていた俺の携帯端末だった。
緊張とは違う言い淀みに、俺は全てを察した。
察したから、俺は大袈裟に腰を折って頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげで、織斑先生にしばかれずに済みます!」
「……、……ふふ」
やめろ意図を察するんじゃない、と俺は床を見ながら心底から願った。こういったことは、バレたら非常にダサいのだ。
きっとこの人は、ミツキって名前を女子の名前と勘違いしたのだろう。男性と接する機会もなく、ほぼ女子校というIS学園のこの三年間だけであろう特別な環境。自然と、接触するのが男性であるという可能性を排してもおかしくない。
というか、俺だってそれが男子校バージョンなら同じ勘違いをする自信がある。人をとやかく言う資格はない。
「その、担当した先生が織斑先生だったので」
「おぅ……」
俺は膝から崩れ落ちた。ぬか喜びしたのも事実だった。その後に突きつけられる絶望の味は実に、心がへし折られる思いだ。明日はどれだけ脳細胞が吹き飛ぶか、今から怖くて仕方ない。
ただ、いつまでもオーバーリアクションをしても気持ち悪くてうざったい男に映る。このくらいでいいかと、俺はのそりと立ち上がって、改めて目の前の女子の顔を見ると。
「親しみやすい方で安心しました」
ニッコリと、眩しい笑顔が咲いていた。友達や家族に向けるような、柔らかい表情だ。
アンタの方がよっぽど親しみやすいわ! って心の中で叫んだ。
「まぁ、そう思ってもらえたなら何よりです」
そしてそんな心中はカケラも出さず、平然とそんな言葉を口にする。ここは当たり障りなく返答しなければ、コロッと話の主導権を持っていかれる気がした。
「はい。それでは、この端末はお返しします」
「ご丁寧にありがとうございます」
端末の受け取りはスムーズに終わった。
これで終わりかと思えば「ところで」と言葉が加わる。
「『ムエタイ』に興味はありませんか?」
「あります」
警戒心なんて吹っ飛んで即答した自分を殴り飛ばしたくなった。
あります(即答)、じゃないんだ。何をもってそう判断されたのかの原因究明の方が先だろうに。これ、明らかにキャバクラやらハニートラップやらの常套手段にハマってない? 大丈夫?
「やっぱり!」
「うおっ!?」
一歩踏み込まれて、たまらず一歩後ずさった。突き飛ばされるんじゃないか、ってくらいの勢いに体が勝手に反応してしまった。
「実は、私も『ムエタイ』を習っていたことがありまして。もしよろしければ、いずれ試合の観戦や、手合わせなど出来ればぜひ……!」
アンタ本当に男性と接する機会少なかったの? って大真面目に疑った。
国際色豊かなIS学園の中で、同じ趣味を持っている人間を見つけた。その喜びは理解出来なくもないが……押しが強い!
あと手合わせのところだけやけの力がこもっていたのは、きっと気のせいではないはずだ。向上心が高いのは大変結構だが、頼む相手を致命的に間違えている。
「いや、俺はまだ『蹴り』を勉強している段階なんだ。『ムエタイ』もつい先日、興味を持ったばかりのにわかだ。悪いけど、期待に添えるほど造詣に深くはなくて」
「それなら……そうですね。もしよろしければ、私が『ムエタイ』の稽古をつけましょうか?」
――あ、これオタクが新参者を沼に落とそうとしてくるムーブだ!
どうする、どうすると頭の中が混乱する。
そもそも俺は今まで特定の女子生徒と仲良くなった試しがない。それこそ楯無さんだけ特別なのであって、それ以外となると途端に考えることが増えすぎる。
相手が敵か味方かわからない以上、下手に交流は控えるべきだ。自身を磨くのであれば、楯無さんに山田先生、織斑先生の助力だけでも俺には過ぎたものだ。
「いや。いきなり、というか……初対面の方と、武術の稽古はちょっと」
何より、ただ話すだけならともかく、武術の稽古は不味い。
何が不味いって、不慮の事故を装って殺される可能性がある。故意ではなくともラッキースケベ的なことが起こって社会的に抹殺される(この場合存在そのものを抹消される)可能性がある。
たとえ相手に悪意がなく善人だったとしても、変な噂が立つのは避けられない。
「あっ。……そう、ですね。失礼しました。確かに、私たちはまだ初対面でした」
いやそこかよ、と声に出かけて慌てて呑み込む。
初対面じゃなくてもこの年頃の男女が、身体的接触を頻繁に行う武術の稽古をすることが問題なのだ。
もしかしなくても、この人めっちゃズレてないか?
「名乗りもしないで、大変失礼なことをしました。私は、ヴィシュヌ・イサ・ギャラクシーといいます。タイ代表候補生で、学年は一年の三組に所属しています」
「あぁ、これはご丁寧に。もう知っていると思いますが、俺は天川光樹です。まぁ、ギャラクシーさんとはクラスも違うのであまり交流はないかとは……、……ん?」
俺はふと、引っかかる。
タイ代表候補生、ということはタイ出身ということなのだろう。この年で、まさか楯無さんみたいに自由国籍をとって、わざわざ他の国の代表候補生をやっているとは考えにくい。
つまり、ギャラクシーさんはタイ人ということになる。『ムエタイ』をやっているらしい。
『タイ人』、『ギャラクシー』、『ムエタイ』……いや、まさか? そんなことがあるのだろうか。
どんな確率だよ、と心の中で吐き捨てる。そんなことあり得るか、とさっさと可能性を捨てるために頭を振っていると。
「『肉体凶器』の試合はどうでした?」
「震えるほど美しかったですね」
「ふふ、ありがとうございます。後日母にも、その言葉を伝えておきますね」
サラッとカミングアウトされたことに天を仰ぎそうになる。
というか何だ。どうしてこうも情報が筒抜けなんだ? 何故こうもピンポイントに、俺が興味を持っていることを言い当てられる?
「すみません。実は、ミツキさんの使った後のパソコンはスリープ状態だったんです。そこに、たまたま母の戦っている動画が開かれていて、つい興味を持ってしまい」
「……あー、なるほど」
完全に自業自得だった。
穴があったら入りたいし、羞恥心を発散するために奇声を上げたくなる。
つまりこの人は。
たまたま座った席に忘れ物があったけど一度そのままにして、パソコンを開いたら母親の試合映像が出てきて忘れ物の主に興味を持った。もしかしたら同じ趣味かもしれない上に、母親のファンかもしれない人間。そんなまだ見ぬ相手が気になったと。
なるほど、気にならない方がおかしいわけだ。
そしてここまで接点を作ってしまったなら、これ以上距離を取るのは邪険に扱うのと変わらなくなってしまう。
決して意図したものではないのだろうが、まんまと懐に入られてしまった形だ。非常にまずいと思う反面、仮に純度100%の興味であれば、と期待する自分がいる。心を許せる友達がいるだけで、一体どれだけ精神的に楽になるか。そこにははかり知れないメリットが存在する。
「とはいっても、本当に何も知らないと言って過言じゃない状態ですからね。ルールなんて知りませんし。ただ、あの震えるほど鋭い『蹴り』を使えたらって、そんな憧れだけなんで」
「それで母の試合にたどり着いたのは、とても嬉しく思います。しかし、どうして急に『ムエタイ』に興味を?」
「ISで『蹴り』をうつために参考にしようと思って」
虎穴に入らずんば虎子を得ず、その慣用句に従ってちょっとだけ切り込んだ返しをすると。
ぽかん、と目をまんまると開き、俺を見つめたまま固まってしまった。
驚いている理由は察するに余りある。ISで武器を使わない攻撃方法を身に着けるなんて、そもそも頭がおかしいとしか言えないのは十分に理解している。代表候補生レベルとなれば、一層その無謀さがよくわかっていることだろう。
さて、これで距離を取ってくるならそれはそれで……なんて考えていたら。
「大変、すばらしい考えだと思います」
「はい?」
全肯定されて思わず素っ頓狂な声が自分から飛び出した。
その上、相手の目は今日一番に輝いているような気がする。まるで夜空に星を散りばめたような、なんて形容がピッタリなほど、きらきらと。
「ISで『蹴り』を放つ瞬間。あの快感は忘れられるものではありません。同好の士であると感じていましたが、まさかこれほど気が合うとは」
――何かわけのわからんところで琴線に触れてる!?
想定外だ。想定外すぎる。一体全体どこに、一般的な女子の琴線に触れる言葉があったというのか。俺にはまるで理解が出来ない。
――いや、そもそもこの人のことを一般的女子基準で見るのが間違いなのでは?
俺はそう訝しんだ。思い当たる節が結構ある気がした。
「あの。もし、よろしければなのですが。明日の放課後、私と模擬戦をしていただけないでしょうか」
「――模擬戦?」
代表候補生との模擬戦。
俺にとっては、値千金の価値がある提案だった。いや、世界に二人しかいない男性操縦者との模擬戦ともなれば、相手にとっても同じかもしれないが。
後はなく、先も決められている俺にとっては、気兼ねのない「未知の模擬戦」の価値は重い。戦闘スタイルの違う相手との戦いの経験は、楯無さんや山田先生との模擬戦ともまた違った経験値を蓄えることが出来る。その経験値が、将来的に必ず活きてくるはずなのだから。
モンド・グロッソに出場するならば、尚更。
この一戦の価値は重い。
「はい。ですが私はまだ専用機を持ってはいないので、訓練機で戦うことになりますが。お互いに、得られるモノは多いはずです」
「……そう、だな。確かに」
もしかするとこの人は、俺の目指すべき姿のひとつに、大きく重なる部分があるかもしれない。
その戦いを、肌身で感じることが出来たのであれば。
「わかりました。その模擬戦、受けて立ちます」
「っ! はいっ。それでは、明日の放課後、第二アリーナで。よろしくお願いします、ミツキさん」
花が咲くような笑顔、というのを間近で見て、思わず一歩後ずさる。
それは綺麗で、年相応に可愛らしくて、柔らかい笑顔であったことは間違いない。
「っ、あぁ。お互い、全力でやりましょう。明日、よろしくお願いします」
「はい。それでは、失礼いたします」
弾んだ声には、その表情以上に豊かな感情が含まれている。
お辞儀をして、俺を横切って去っていく彼女の背中には、一本芯が通っている。
物怖じせず、堂々と、ただただ真っ直ぐに。
――あぁ、武者震いが止まらない。
純粋な笑顔の中に溢れる、澄み切った闘気。友好的な筈なのに、俺は震えを隠せない。
「たまんねぇ。お前もそう思うだろ、相棒」
せめて精一杯の強がりを口にして、祈祷を捧げる修道女のように『ルクス』を両手で握り込む。
仄かに暖かい感触に、震えが徐々に消えていく。
負けられない理由が、またひとつ増えた。
感想、コメント、評価の方、大変嬉しく思います。
今回ヴィシュヌは専用機を持っていない状態でのスタートとなっていますが、これには理由がありますのでまた後程。とはいっても、結構単純な考察をそのまま反映した形になりますが……。
これからも、この二次創作にお付き合いいただけますと幸いです。
次回も乞うご期待