(完結)しょうもなおじさん、ダンジョンに行く   作:埴輪庭

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故障

 

 ◆

 

 マリは大丈夫なわけがなかった。

 

 彼女にたかる黒い虫は言うまでもなくただの虫ではない。

 

 "旭ドウム"というダンジョンの特色ともいうべき"再誕"の概念が受肉したものである。

 

 概念の受肉というのは分かりにくいかもしれないが、例えば"サブスクリプション"という言葉を使って説明すると、定期購読のような抽象的なサービスが、実際の会員カードやアプリとして形になるようなものだ。

 

 "旭ドウム"は老いさらばえることを恐れた旭道元が、外法染みたやり方で作り出した人造のダンジョンだ。他の命を自らの糧として新しい命として生まれ変わろうという目論見がその色に反映されている。

 

 マリはこの時、自分の体が何か別のものに作り変えられようとしている恐怖を味わっていた。

 

 彼女は確かに巣鴨プリズンダンジョンの"意思"の端末に過ぎないが、それでも自律した意識を持っている。

 

 もっともその意識というのも、ダンジョンの"意思"の目的の色に染め上げられた偏った意識なのだが。

 

 しかし間違いなく恐怖は感じていた。

 

 グロテスクな虫に肉体を犯され作り変えられる恐怖ではなく、"意思"の目的を達成できなくなるかもしれないという恐怖を感じていた。

 

 肉が皮膚を押し上げ、全身がだんだんと赤紫色に染まっていく。

 

 パツリ、パツリと裂けていく皮膚の間から、親指大ほどの黒い羽虫が湧いて出てきた。

 

 虫たちはマリの体から飛び立つと、その場でくるくると旋回し始める。この時のマリの姿はまるで黒い繭の様にも見える。

 

 歳三は目を細め、その様子を見ていた。

 

 すっとぼけたような常の表情は鳴りをひそめ、歴戦の探索者の顔をしている。

 

 いかに鈍感な歳三といえども、もはやマリが死んでいるか、あるいは死よりももっとおぞましい状態になり果てているというのはよくわかっていた。

 

 静観しているのは、探索者としての非常にドライな理由によるところが大きい。

 

 しかし、あるいは助けられるのではないかという気持ちも無くはなかった。歳三の中ではマリが敵だと確定したわけではないのだから。

 

 この辺は甘いとか甘くないとかそういう話ではなく、何事も確かな根拠や納得感を求める彼の性格によるところが大きい。

 

 最もそんな歳三の判断はマリにとってならなかったようだが。

 

 ◆

 

 マリはただ変容するよりよほどひどい状況に陥っていた。

 

 当然端末である彼女は巣鴨プリズンダンジョンの"意思"と強く繋がっている。しかしそんな彼女を別の"意思"が侵食し、その隷下に置こうとした。

 

 ここで両者のせめぎ合いが起こったのだ。

 

 その結果がこの醜い姿である。

 

 いっそのこと先制攻撃を仕掛けてこんな風になってしまう前に吹き飛ばしてしまえばよかったのかもしれない。

 

 赤紫色の大きな肉塊に老若男女、数多の顔が浮かんでいた。この顔は、マリという端末の特性が色濃くでたものである。

 

 すなわち、

 

 顔が浮かべる表情は一様に苦悶の面に歪んでいる。

 

 鈍さにかけては人後に落ちない歳三であっても、マリの姿には同情の念を禁じ得ない。年頃の女の子がこんな姿になってしまって、とやりきれない思いで首を振った。

 

 この時歳三、映画でよくあるシーンを思い出す。

 

 モンスターだか化け物だか魔物だかに変わってしまった仲間に対して、もしくは死にかけた仲間に対して、もう楽にしてやろうという慈悲の気持ちでとどめをさすよくあるテンプレシーンのことだ。

 

「そんな泣くことはねえよ、大丈夫だ……すぐに良くなる」

 

 歳三はそんなことを言いながら拳を固く握り締め、赫々と輝く正拳突きを放った。

 

 ちなみに赤く光っているのは歳三の情熱だとか怒りだとかが込められているからではなく、大気との摩擦により赤熱しているからである。

 

 旭道元との戦いから、ただでさえバカみたいな歳三の身体能力は大馬鹿みたいな身体能力へ進化している。

 

 それは単なる正拳突きが高熱を帯びたヒートパンチへと変化するほどの変わり様だった。

 

 ◆

 

 しかしそこまでだった。

 

「なにっ」

 

 歳三の拳が中で静止した。

 

 意識的に拳を止めたわけではない。

 

 何か不可視の壁に阻まれたかの様だった。

 

 マリだったモノの体表に浮かぶ数多の顔が、一斉に泣き叫んでいる。

 

 この時もし蒼島の意識がはっきりしていたら、強大なPSI能力の発動を察知していただろう。だがもちろん歳三にそんな真似はできない。

 

 

 ──ハンドパワーか! 

 

 これまでの探索経験でPSI能力を行使するモンスターと幾度も戦闘してきたことがある歳三には、マリがその類の力を使ったと理解できた。

 

 こういった時、歳三はひどく短絡的な対策を取る。すなわち、"押さば押せ、ひたすら押せ"だ。

 

 両の奥歯が強く噛みしめられ、バキリと音がした。

 

 歯が砕けた音である。

 

 しかし歳三は意に介さずひたすら拳を押し続けた。

 

 依然として不可視の壁は強い抵抗を見せたが次第に押し込まれていく。

 

 この時歳三が込めている力の大きさというのはプレミアムクラスの豪華客船(140,600トン)がじりじりと押されていくほどのものだった。

 

 この重量の船を地上で、しかも人力で押そうとすれば一般的な成人男性約2万人の押力が必要になるが、これを歳三一人が出しているという事になる。

 

 とはいえ基本的にPSI能力というものは力押しではどうにもならない。

 

 強固な目的意識を持ち、さらにそれに指向性を加える必要がある。

 

 だのに脳筋ヤロウであるところの歳三がこの強大なPSI能力による斥力場を突破しつつあるのは、図らずともPSI能力対策ができているからに他ならなかった。

 

 マリを木端微塵に吹き飛ばして楽にしてやろうという慈愛に満ちた目的を持ち、その目的達成のために拳を振るっているのだから条件は満たしている。

 

 ◆

 

 歳三の拳の先端がマリだったモノの肉に触れた時、まるで断末魔のようなひときわ大きい叫び声が上がった。

 

 その声は、"意思"と"意思"の綱引きに巻き込まれたマリという端末が完全に壊れたことを示す。

 

 しかしだからと言ってこの場のカオスな状況が解決したというわけではない。

 

 マリは、巣鴨プリズンダンジョンの"意思"にも旭ドウムのそれにも従わない狂ったモンスターと化してしまった。

 

 例えるならば、家族がとんでもない大喧嘩をし、家庭の崩壊の気配が色濃く立ち込め出した時、その不安のあまり子供が情緒不安定になるようなそんな状況に似ている。

 

 何もかもわからなくなってしまったマリはただひたすらに啼いた。

 

 その破壊的音波は文字通り音速で広がり、歳三はその場に踏みとどまることができたものの、哀れ蒼島は全身を衝撃波によって打たれ、10メートル近く吹き飛ばされてしまった。

 

 蒼島も蒼島で、至近距離からマグナム弾の数発を食らっても "少し痛い" で済む程の強靭な肉体を持っているが、この時の衝撃波によって骨が数箇所折れてしまう。

 

 潰されたカエルのような声を上げてぶっ飛ばされた蒼島を後目に、歳三は奇妙な音を聞いた。

 

 うおんうおんと唸るような、キイキイと虫が鳴くような、びゅうびゅうと風が吹きすさぶような、そんな音だ。

 

 これは声──会話である。

 

 "意思"と"意思"が会話を交わしているのだ。

 

 しかしそれは先ほどまでと違って敵対を前提に置いた会話ではない。

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