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歳三はしばし呆然と、空を見上げていた。
隕石が落ちてきたかと思えば巨大な樹木の腕に握りつぶされ、その残骸が流星の欠片のように煌めき散っている。
が、すぐに立ち直った。
「はぁ……まあ、富士樹海だしな」
歳三はそう呟くと、妙にあっさり納得してしまった。
これでいて歳三はダンジョン探索経験が豊富だ。
ダンジョンでの経験を積み重ねるにつれて、強い刺激にも驚かなくなり、鈍感になっていく。
まあ佐古 歳三という男が生来のニブチンに出来ているせいというのも大きいかもしれない。
実際、富士樹海に現れた巨大な腕が隕石を握り潰しているこの非常識な情景を前にしても、歳三の心拍数はまるで日曜日の囲碁番組を眺めるそれと変わらなかった。
歳三の感受性よりはIQ3はあるというサボテンの感受性のほうがまだ豊かかもしれない。
ともあれ、いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。
歳三は気の赴くまま、勘の指し示す方向へ歩き始めた。
どこへ向かっているのかそれすらよく分からないが、なんとなくこちらだと思った方向へ進んでいく。
それに何となく……本当になんとなくだが、匂いがするのだ。
歳三は軽く鼻を鳴らした。
──くせぇ、くせぇな
歳三は
東池袋に住んでいたころの汚部屋の臭いに似ているのだ。
全体的にぷうんと薄く臭いのだが、くんくんと鼻をひくつかせるとツンと鼻腔を刺激するような臭いがする。
ぶんなげられたチューハイ缶や灰皿代わりにしたチューハイ缶、洗ってないパンツに洗ってないシャツ。
どれもこれもが臭いのだが、元凶となっている何かがどこかに確実にある……そんな感じだ。
そうして歩みを進めていると、突然、首筋にざらりとした冷たい感触があった。
「むっ」
反射的に歳三は首に手を伸ばす。
巻き付いていたのは縄のようなものであった。
引き剥がそうと歳三は力を込めたが、縄は岩のように硬く抵抗した。
「──ちと、硬ぇな」
歳三ほどの力をもってしても硬いと感じさせる縄など、尋常のものではない。
次の瞬間、縄は上方に引き上げられ、歳三は宙に浮いて首吊りの形となった。
しかし歳三の動きは鋭い。
軽くつま先を天に振り上げると、満月のような美しい弧を描き、縄を切断した。
すとんと地に着地し、鋭い眼光で上空を見上げるが、そこには何もない。
縄は虚空から唐突に現れ、首を絞めたのだ。
「ちまちまとした事やるじゃねえか……ん?」
不快げに吐き捨てる歳三だが、周囲の木々の隙間から無数の白い顔がじっとこちらを見つめていることに気づく。
亡霊たちの陰鬱で不気味な笑い声が低く響いた。
歳三は一瞬立ち止まった。
聴こえるのだ、声が。
お前は戦う事しか能がない獣のような存在だ
いくら努力してもお前の様な怪物を人々は危険視するだろう
社会に居場所を作る?
馬鹿な事を考えるな
お前に居場所などないのだ
大体そんな所だろうか。
探索者界隈ではさほど珍しくもない「聴覚毒」である。(雑司ヶ谷ダンジョン②参照)
耳より侵入して精神を蝕む毒音波だ。
だが雑司ヶ谷ダンジョンのそれとは違い、富士樹海に巣くう亡霊の囁きは格段に凶悪であった。
丙級探索者の上位者といえども、この毒音波には数分と耐えられず正気を失うだろう。
ちなみにその丙級上位者というのは、一般人用の対物ライフルで頭部を撃たれても「うおお! 死ぬほど痛いけど大丈夫!」で済ませてしまうような連中である。
歳三は不快な音を振り払うように首を振った。
「よっこいしょういち」
不思議な掛け声とともにしゃがみ込み、地に落ちた木の葉を数枚掌に握りこみ──ゆっくりと右手を引き、深く息を吸い込んだ。
そして、「しゃあっ!」という烈しい掛け声とともに歳三は宙へ渾身の正拳を放った。
かつて雑司ヶ谷ダンジョンにて、歳三は似た状況で「爆手」と呼ばれる技を使ったことがある。
しかし、今の歳三のフィジカルは当時とは比較にならぬほど進化していた。
彼の拳は瞬間的に超音速に達し──その馬鹿みたいな拳は圧縮された空気層を纏い、摩擦熱によって瞬間的に空気がプラズマ化した。
プラズマとは高温で空気中の分子がイオンと電子に分離し、連鎖反応的にエネルギーを放出する超高温のガスである。
掌の中の木の葉はその瞬間に分子構造が崩壊し、爆発的に膨張、プラズマの奔流を生み出す。
その温度は稲妻(三万℃)にも匹敵し、烈光とともに周囲の空間を呑み込んだ。
白い亡霊の顔、そしてそれを囲む木々すらも瞬時に灼かれ、原子レベルで消滅してしまう。
まばゆい光と炎が収まった後には、ただ静謐が広がるのみである。
歳三は静かに拳を引き戻し、小さく息を吐き出した。
「ま、こんなもんだろ」
平然と言い放つ歳三。
歳三本人にとっては、単に正拳を打ち出しただけに過ぎない。
何事もなかったように肩を回すと、歳三は再び鼻をひくつかせてふらふらと森の奥へと歩いていく。
途中、なんとなく後ろを振り向くと自分が作り出した惨状が目に入る。
──まあ、そうだな
歳三はこれ以上なく納得した。
確かに歳三は世間知らず&物知らずだが、こんな真似ができる者がそこらへんにホイホイといる訳でもない事は分かる。
そうしてふと思った。
──俺はダンジョンを攻略して、みんなの役に立って、必要とされたかった。その結果強くなった。だから必要とされている。それはわかる。でもよくわからねぇ事もある。今の俺が必要とされているのは強いからだ。じゃあ俺が弱ければどうだ?
「まあ多分、誰も俺なんかとは話してもくれねぇだろうなあ」
弱い俺は俺じゃねえのか、という思いが歳三の脳裏をよぎった。
だがまあ今更くよくよすることじゃあねえやな、と歳三はロンリー・ウルフめいた笑いを浮かべる。
今更、というのは、歳三は既に自身の価値というモノを分からされているからだ。
いつ分からされたか?
痴漢がどうこうとか、小学校でいじめられたからどうこうとか、そういったシーンで知ったわけではない。
何十年も昔、ほかならぬ歳三の母親によって投げかけられた言葉により、歳三は自身の価値を知った。
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歳三には親がいない。(歳三という男②参照)
いや、正確に言えば親は存在するが、歳三を捨てたのだ。
生来物覚えが悪い歳三だが、母親が自身に投げかけてきた言葉の数々は覚えている。
そのどれもが幼い歳三を傷つけたが、特に辛かったのはこれだ。
──『どうして生まれちゃったんだろうね』
必要とされたい、居場所が欲しいという感情の出所はそこである。
親からすら必要とされない自分ではあるが、それでも素のままの自分を誰かに求められたい゙という思いがある。
──俺はダンジョンにしか居場所がない
少なくとも歳三はそう思っている。
そんな歳三は、ダンジョンにいる限り強くなり続けるだろう。
しかし強くなればなるほどに、何かこう、心の影のようなモノが広がっていくのを感じてもいる。
◆
森の奥へ、また奥へ。
歩を進めるごとに空気は粘着き、どこからともなく“視られている”という感覚が強くなる。
歳三の戦闘経験はこの先に待ち受けるナニカに警鐘を慣らしていた。
相手は強い──歳三はそう思い、また同時になんとなく「これが最後だ」とも思った。
何が最後なのかは歳三自身にも分らない。
心のどこからか漏れ出た言葉であった。
「これが最後だ」
口に出して言ってみると随分としっくりくる──まあ、何が最後なのかはやっぱりわからなかったが。
だが、なんだか楽しいような悲しいような気持ちになって、歳三は笑った。