K月@日
張良が今日も「ご主人様」と呼んできた。
いや、本当に何なんだあの猫耳は。もう何度もやめてくれと言っているのに、完全に無視だ。仕方がないから苦情を不思議ちゃんに言ってみたんだが、あの人は面白そうに笑うばかりで全く頼りにならない。韓信にいたっては、俺が相談する度、大爆笑してそのまま転げ回っていた。ゆるさん!
ちなみに、張良に直談判もした。けれど、「慣れればいいじゃない」と涼しい顔でかわされてしまった。
この状況を何とかする方法はないのだろうか……いや、あるかもしれない。ひょっとして、放っておけばそのうち飽きるんじゃないか? とりあえず、今日のところは張良の書簡整理スキルに感謝しておくことにする。あれだけの量を一瞬でさばいていくのは、やはりすごい。……と書いていて思ったが、感心している場合ではない気がする。
J月II日
最近は仕事を自宅に持ち帰ることが多い。無論、張良の処理能力を当てにしているからだ。宮城に戻さないか、って何度も不思議阿ちゃんにはいってるんだけれどな。張良もその気がないようだし。この能力値で俺専属の奴隷とかどんな才能の無駄遣いよ。
U月☆日
何だこの状況は……。
張良が妙に俺を観察するようになった。「ご主人様」と呼ぶときも、以前はただの嫌がらせかと思っていたのだが、最近はどことなく楽しそうだ。あの冷静で理知的な猫耳が楽しそう……? そんなことがあり得るのか?
さらにだ。ちょっとした悪戯が全くやまない。この前なんて、俺が座ろうとした椅子がぐらつくよう細工されていて、危うく転びそうになったし、屋敷の廊下には小さな落とし穴まで作られていた。何の冗談だ!
もちろん、そのたびに厳しく叱ったのだが、張良はどこ吹く風でケロリとしている。
お尻ぺんぺんはもう嫌なんだが。
猫耳だから? 猫耳だからなのか?
@月G日
張良様様である。政治向きよりも謀略向き。俺の手が届かないところを彼女の草が情報収集してくれている。
「敵情に通じ」「報知する」という「情報」の概念をいち早く理解したのが彼女だ。
いまや俺よりも情報を使いこなしているといってよいだろう。欠点は密告社会にしたがるところ。漢王朝は赤ではないから。黄色だから。
気をつけねば。
K月◇日
今日は張良に一際大きな声で怒鳴ってしまった。
からかわれるのは慣れたつもりだったが、限界が来たのかもしれない。張良が「ご主人様」というたびに心に小さなイライラが積もっていったんだろうな。それが今日、些細なことでつい爆発してしまった。
いつも以上の俺の声に驚いたのか、張良は珍しく黙り込んだ。俺の視線から逃げるように部屋を出ていったが、その背中がどこか嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか……。錯覚だろうな、うん。そして仕事終わりのお尻ぺんぺんである。俺はきっと死んだ目をしていることだろう。
やっぱり謝るべきか、それとも距離を取るべきか。どうするべきなのか、全くわからない。
R月?日
謝ったらいつも通りツンツンされた。元気でよろしい。でもそのあとも悪戯が止まない。うーん、さすがにちょっと張良が暴走気味な気がする。
でも何考えているのかわからん。表情を消すのがうまいんだよね。女心と秋の空は読めないって誰かが言ってた。やっぱり韓信の言う通り
早く来ないかなあ。
◎月T日
俺のために動いてくれるのは嬉しいんだがなあ。
専属奴隷の仕事ってそんなんでよいのん?
O月F日
明後日、漸く蜜柑が家に来る。今からわくわくしてしまう。落ち着かない俺を見た張良は、なぜか表情を消していた。始皇帝憎し!の張良にとって俺たち旧秦陣営は目の敵なのだろうな。仕方ねえべ。何も言ってこないだけかなりの譲歩だ。
◆
月明かりが静かに差し込む夜、田忠の住まいの一室に、政務用の机が置かれていた。その上には劉邦の宮城から持ち帰った書簡の束が整然と積まれている。田忠はその中の一枚を手に取り、火の灯る明かりの下で目を通していた。
「ふう、今日もずいぶん溜まってるな……」
彼がぼやくと、隣の席から冷静な声が返ってきた。
「ご主人様、その書簡をこちらに渡してください」
「またその呼び方か……。まあいい。頼むよ、張良」
田忠は苦笑しながら書簡を渡す。政務中は他人行儀な話し方になることが多い。張良は書簡を受け取ると、すぐさま内容を確認し始めた。その手際は滑らかで無駄がない。彼女の指先が文字をなぞるたび、次々と問題点が浮かび上がる。
「この復興案ですが、必要な資材の搬入計画が抜けていますね。これでは現場の混乱を招くだけです。新たな補給経路を設定するべきです」
「そっちもか。どうやら宮城では細部まで詰め切れてないみたいだな」
田忠は頭をかきながら答える。張良はさらにもう一枚手に取ると、また別の指摘を始めた。
「この農地開発案も甘いですね。人手の確保に関する項目が一切ありません。戦後の動員可能人数を正確に計算し直す必要があります」
「なるほど。じゃあ、それも修正しておくか」
張良の鋭い指摘に田忠は素直に頷き、次々と書簡を処理していった。しばらくの間、二人の間には竹簡をめくる音だけが響いていた。田忠はふと視線を張良の方に向け、手元で書簡を整理する彼女の横顔をじっと見つめる。
「やっぱりお前はすごいな。正直、俺一人じゃ手が回らなかったよ」
「当然よ。私を誰だと思っているの?」
張良はさらりと昔のように答えながら、次の書簡に目を移す。その表情は普段よりも少し柔らかい気がした。
「お前がここにいてくれるだけで本当に助かる。ありがとうな、張良」
「……べつに感謝されるようなことをしたつもりはありません。ただ、あなたが倒れると迷惑ですから」
張良は再度そっけなく言い放ったが、その頬は微かに赤みを帯びている。二人で書簡を片付けるうちに、机の上の山が少しずつ低くなっていく。田忠は書簡の束をまとめながら呟いた。
「それにしても、お前の分析力は本当にすごいな。こんなに早く片付くとは思わなかった」
「……そうですか」
張良は一瞬だけ手を止め、ちらりと田忠を見た。そして、普段より少しだけ小さな声で言葉を続けた。
「……まあ、それが役立つ場を与えてくれたご主人様には、少し感謝しています」
田忠はその言葉に目を丸くし、次の瞬間笑みを浮かべた。
「お前がそんなこと言うなんて珍しいな。よほど疲れてるんじゃないか?」
「……そうですね。では、この続きは明日にしましょう」
張良は急に話題を打ち切るように立ち上がり、軽く一礼して部屋を出て行った。猫耳が見え隠れするその背中を見送りながら、田忠は苦笑を浮かべる。
「なんだかんだ言って、素直じゃないやつだよな」
部屋には静けさが戻り、机の上には整然と整理された書簡が残されていた。
ある日のこと。劉邦の宮城から帰宅した田忠は、珍しく部屋が散らかっているのに気づいた。机の上には竹簡や書簡が広げられたままで、周囲には小さな紙片が散乱している。
「これは……張良の仕事か?」
彼は首を傾げつつ、机の書簡に目を通した。それは劉邦の重臣たちに関するもので、一見して機密性の高い情報が並んでいた。
「これ、どこで手に入れたんだ……?」
田忠の声に反応するように、奥の部屋から猫耳——張良が現れる。いつも通りの冷静な表情だが、その目にはどこか異様な光が宿っている。
「帰ったわね、ご主人様。ちょうどお話ししようと思っていたところよ」
田忠は机に散らばった書簡を指さし、問いかけた。
「これ、お前の草が集めたのか?」
「ええ、そうです。ご主人様を危険に晒す者たちを排除するために必要な情報ですから」
張良は平然と答えたが、その言葉に田忠の眉が動いた。
「排除って……何を考えているんだ? これは単なる噂話や推測じゃないか。それに、誰も俺に害をなそうとしていないだろう」
「そうでしょうか?」
張良は一枚の書簡を手に取り、田忠の前に突き出した。
「こちらをご覧ください。この人物は、最近あなたに妙に親しげに接していませんか? その影響で、彼女の派閥が勢力を拡大しています。これが偶然だと思いますか?」
「彼女が俺を利用してるって言いたいのか? そんなの、考えすぎだ。俺の弟子じゃないか」
田忠は呆れたように言ったが、張良は微笑を浮かべながら首を振った。
「いいえ、ご主人様。私はすでに調べをつけています。彼女があなたの信頼を得ている間に何をしているのか……詳しく知りたいですか?」
その声には冷たさすら感じられる。田忠は張良の真剣な眼差しを受け、思わず息を呑んだ。張良はさらに別の書簡を手に取り、淡々と語り始めた。
「他にも、この人物。このような行動をしておきながら、表向きはあなたに従順な顔をしています。ご主人様の背後を狙う者たちは少なくありません。ですから、私が動いて排除しておきました」
「排除って……どういう意味だ?」
田忠の問いに、張良は一瞬だけ笑みを浮かべた。その笑顔にはわずかな狂気が滲んでいた。
「ご安心ください。彼らは何もできなくなりました。ただ、それだけです」
「張良、お前……まさか……」
田忠は言葉を失った。張良が何をしたのか、詳しく聞くまでもなく察せる。その目は危険をはらんでいた。
「あなたを守るためです」
張良は机の上の書簡を手で払い落とし、田忠の方へ歩み寄る。その瞳は静かでありながら、どこか燃えるような熱を帯びている。
「私にはわかるのです。あなたの周囲に潜む危険が。そして、私はそれを放っておけない。だって、あなたは私のご主人様でしょう?」
「ご主人様って……おれは貴女を奴隷として扱うつもりは一切ないから安心しておくれ。俺を守るのはいいが、他人を犠牲にする必要なんてないだろう」
田忠は説得を試みるが、張良は首を振る。なおも事務的な口調を続ける彼女は、いっそ母性を感じさせるように莞爾と笑った。
「いいえ、私は間違っていません。ご主人様、あなたがいなければ、漢王朝は成立しなかったでしょう」
張良の声が震える。それは恐怖にも似た感情からくるものだった。彼女は田忠の手をそっと掴む。
「どうか……
その場にしばらく静寂が流れる。田忠は深いため息をつき、張良の手をそっと振り払った。
「わかった、張良。でも、もう二度とこんなことはするな。他人を傷つけてまで密かに俺を守る必要なんてない。俺のことは俺でけじめをつける。お前が手を汚す必要はない。いいな?」
「……ご主人様がそうおっしゃるなら」
張良は静かに頭を下げたが、猫耳フードの奥に隠されたその瞳には複雑な色が宿っていた。
その夜、田忠は月明かりの下で一人考え込んでいた。一体彼女は何を考えているのだろうか。自分より頭のいい人間が考えることは、どうにも想像つかないのであった。
始皇帝を恨んでいる彼女にとって、田忠が憎いのは当然のことである。それが歩み寄ってきてくれたのだからよいことだと今まで思っていたのだが。
一方で、張良は闇の中で一人微笑んでいた。
「ご主人様がいれば、私はそれでいい……」
彼女の胸に芽生えた感情は、もはや愛を超えたナニカに変わりつつあった。