O月△日
彼女からの手紙に返事を綴る時間が、近頃の楽しみになっている。この季節は、涼州の風景が特に美しく、そんな景色を思いながら文机に向かう時間は、日常の喧騒を忘れさせてくれる。
「きっと蜜柑も大喜びだろうな」とつぶやく自分に気づき、思わず赤面する。自分がこんなにも無邪気に喜びを露わにしているのは珍しいことだ。
ふと、部屋の片隅で静かにこちらを見つめる視線を感じた。張良だ。猫耳フードの影から、じっとこちらを観察するその目には何か秘めたものがあるようだった。
最近の彼女の態度は、以前と違う。確かに気丈で、口は悪いままだが、その中に微妙な感情の揺らぎが見て取れる。
蜜柑への思いに没頭していたいのに、張良が無言で何かを訴えかけてくるようで落ち着かない。その視線が、胸のどこかに小さな刺を残している気がする。やはり秦の人間が憎いのだろうか。
「どうした、張良?」そう尋ねると、彼女は何も言わず、ふいっと視線を逸らすのだ。
やれやれ、見かけ通り子供っぽい奴だ。
D月*日
張良と面と向かって話をした。こういうときはOHANASHIがいいと熱血アニメで学んだんだ。
彼女の来歴をきいたが……やはりまだ始皇帝は憎いのだろうな。ってか暗殺未遂の実行犯てお前だったのか。話を聞いて恨む気持ちもわかるものだった。でも俺はお姫様を恨むことはできそうもない。話は平行線で終わった。
ちょっと気まずい。
Y月A日
明日張良から真名を交換したいといわれた。蜜柑がくる前日になるがまあいいか。
ちょっと気まずかったから思わずOKしてしまった。やはり天才か。
しかし驚きだ。てっきり心の奥底では嫌われているとばかり思っていた。真名を交換するというのは神聖な儀式だ。普通は家族としか交換しない。俺だって、お姫様と蜜柑の二人だけだ。ちょっと嬉しくて顔がにやけてしまう。お姫様の真名? ひ・み・つ。
人生順風満帆だな!
◆
章邯が訪れる予定日が近づいていた。
田忠は無邪気に喜びを隠せず、文机に向かいながら章邯への返事を書く手を止めては、期待に胸を膨らませている様子だった。
「ふふふ、きっと蜜柑も大喜びだろうな。これで涼州の安定にも一歩近づくだろうし、良い話をいっぱい用意しておかないとな!」
張良はその様子を、猫耳フードの影からじっと見つめていた。田忠の無邪気な笑顔。章邯と語る未来の話。そんな光景が、張良の胸に焼け付くような痛みをもたらしていた。
その夜、張良はついに決断を下した。
「……ご主人様が悪いんだから。私だけのご主人様にならないのが悪いのよ」
田忠は目を覚ました。
そこは薄暗い地下室だった。だが驚いたことに、生活必需品が一通りそろっている。ベッドもあり、机もあり、食事もちゃんと用意されている。
だが、両手首は縄が縛られ、足には鎖がついている。
どうやら一服盛られたようである。しかしなぜ?誰が? そこへ人の気配を感じた。
「な、なんだこれは!? 張良! 何を考えているんだ!?」
振り向くと、格子の外に立つ張良の姿が見えた。猫耳フードを目深にかぶり、冷たい目で田忠を見下ろしている。
「ご主人様には、ここで少しの間おとなしくしてもらいます。私がいないと何もできないって思い知らせるためにね。」
「お前、ふざけるな! 蜜柑が来るんだぞ! これじゃ迎えられないだろう!」
その言葉に、張良の表情が一瞬だけ険しくなった。
「……章邯章邯って、そんなに彼女が大事なの? 私よりも?」
「いったいどうしたんだ?!」
張良はわずかに震える声で言い返した。
「だったら、私を殺してもいいのよ。一緒に死んでくれたら、少なくとも寂しくないから」
その狂気じみた言葉に、田忠は息をのむしかなかった。彼女はそれきり黙ると去って行った。
とはいえ田忠は楽観的だった。界王拳で筋力を上げるとその勢いで手首の縄を引きちぎる。足枷も「指銃」でどうにかなりそうだ。
さて破壊するか。と、そのとき田忠はふと懐にしまっていた一通の手紙に気づく。それは、昨日劉邦から「困ったときに必ず開けてほしい」と託されていたものだった。
開けてみると、そこには簡潔にこう書かれていた。
『安心して待つように。すべてうまくいく。劉邦』
「不思議ちゃんめ……何か考えがあるってことか」
田忠は溜め息をつき、焦らず時を待つことにした。地下牢の中で過ごす時間は長く感じる、というどうでもよい発見をしながら。
田忠の屋敷に章邯が到着した。田忠を地下室に閉じ込めたまま、張良は自分一人で章邯を出迎えた。
なぜか奴隷が一人で迎えたことに章邯が怪訝な顔をしてしまう。
「田忠……義心様をお呼びいただけますか?」
「申し訳ないけれど、それはできないわ」
章邯は眉をひそめ、張良を睨みつける。「悪いけど帰って頂戴」と強引に返そうとする張良を見て、章邯はやっと気づく。猫耳フードの少女については、田忠からの書簡に散々と登場していたのだから。
「どこの奴隷かと思えば、張良様でしたか。義心様からお手紙でよーくうかがっています。またいたずらですか? だめですよそんな子供じみたことしては」
そこからくどくどと説教が始まる。そこに田忠とののろけが混じるにつれて張良の感情が乱れる。ようやく目の前の猫耳の様子がおかしいことに気づいた章邯は「だから早く私の愛する義心様を出して頂戴」というと、張良の感情が爆発した。
「ご……ご主人様が悪いのよ!」
「どういうことですか?」
張良の声が震え始めた。章邯は心底不思議そうな顔をする。して、ハタと気づく。田忠からの内容は彼の主観しか書いていなかったからわからなかったが、今の張良をみれば嫌でも気づく。
まるで、かつての自分の思い出すような。恋する乙女の姿だった。
「義心様に懸想しておられるのね」
聞き分けのない子をあやす様に言いやる。その瞬間、怒りを抑えきれなくなった張良が章邯に詰め寄った。
「人の気も知らないで!わたしはこんな気持ち知りたくなかった!理性が働かない。感情的に衝動的に身体が動いてしまう!どうしても止められない!こんなの男猿以下よ!」
「貴女、本当に義心様を想っているんですか? さっきから自分のことしか考えていないじゃない」
「……ふん。あんたが何を言おうとここは涼州じゃない。わたしの意に反することをしようとしても無駄よ? 今は秦帝国じゃない。漢王朝の時代だもの」
「はあああああ!?」
その後は壮絶な言葉の応酬だった。張良の理屈っぽい罵倒に対し、章邯は直球で怒りをぶつける。徐々に二人は子どものような口げんかに発展し、やがて疲れ果てて沈黙した。一線を越えないあたり、二人とも図抜けた理性を持っている。だが、このままでは掴み合いになりそうだという予感が二人に芽生えたところだった。
そのとき、扉の向こうから劉邦の声が響いた。
「ふたりともぉ、いい加減に~! しなさ~い!」
扉が開かれ、特徴的な桃髪娘と銀髪の美少年がやってきた。
「も~、張良ちゃんたら情熱的ね。でもおイタが過ぎるわぁ」
「はあ、二人とも無事でよかった」
劉邦は張良を軽く叱り、田忠は安堵の息をついた。二人とも怪我はないようだ。決定的な決裂はない様子をみて黙考する。しかし、彼にはどうやってこの場を収めたものか。自分には全く思いつかないので、劉邦を期待の眼差しでみる。
そして、そこに爆弾を投げ込んだ桃色がいた。
「この場を修めるために~、じゃじゃーん! 皇帝特権! 忠ちゃんと張良ちゃんの結婚を認めますぅ!」
どんどんぱぱふぱふと自分で擬音を発しながら高らかに劉邦は言い放った。
田忠と張良の結婚を認めると告げたのである。それも突然の不意を突いた形であった。
「……えっ?」
張良は目を丸くし、章邯も驚きで固まる。
「大丈夫。章邯ちゃんも張良ちゃんも漢王朝を支える重要な仲間だよね? だから、この婚約を認めてくれるよね? ズッ友だよね?」
有無を言わせぬ劉邦の覇気により、気の弱い章邯はうっかり首肯してしまった。田忠は白目を向いて気絶していた。いかな仙人とて皇帝には逆らえないのを悟ったのである。
こうして、劉邦の調停により、ようやく二人の争いは収束し、田忠は解放された。三人は和解し、新たな関係を築くこととなったのだった。
張良はやや反省しつつも、田忠を「ご主人様」と呼ぶのをやめなかった。そして章邯も、昔のように田忠と共に語らい、劉邦はその様子を遠くから眺めながらにんまりと笑っていた。
意外と張良と章邯の相性はよく、わだかまりもない。田忠はひっそりと息をついた。
空気を作り強引な決着をつけた劉邦。普段の頼りない姿からは想像もできないが、皇帝になるだけはあるなと田忠は感謝の念とともに評価を一段と上げるのであった。
お姫様とは正反対の性格であるが、これも一つの上位者としての在り方なのだろう。