第22話 六式修行編(月歩と剃)
・・・これはいまだ張良から危険視されていたころの話である。
●月◎日
最近、妙に体を動かしたい衝動に駆られている。軍略書に目を通しているとき、ふと「移動速度を極限まで高めたらどうなるんだろう」と考えたのがきっかけだ。普通の馬じゃ速度にも限界があるし、城壁や山岳地帯ではむしろ足手まといになる。俺個人が素早く動ければ、それだけ多くの戦場での柔軟な指揮が可能になるはずだ。
それに……純粋にかっこいいじゃないか! 自由に空を駆け、地上の雑兵を振り切り、敵将の目の前に一瞬で現れる姿なんて、伝説の仙人そのものだ。
よし、思い立ったが吉日だ。新しい「技」を習得しよう!
■月△日
修行初日、ひどいありさまだ。全身が筋肉痛で、足の裏に豆ができた。
「剃」と呼ばれる技——高速移動を試みるだけで、体が振り回される感覚に襲われる。これを自在に使えるまでには相当な時間がかかりそうだ。
元ネタは某大人気海賊マンガだ。このファンタジー世界なら再現できるかもしれない。
六式と呼ばれる海軍秘伝の格闘術である。これをマスターしようと思う。
オラわくわくすっぞ!
なんせ俺にはこれをマスターする「チートな身体」があるのだ!
神様印なら不可能を可能にする男にだってなれるはず。
まずは簡単そうな剃からにしよう。そうしよう。
◇月◎日
「剃」を習得してそのまま「月歩」の修行をした。月歩は、さらに難易度が高かった。空中で蹴りを加え続けて滞空する技だが、思っていた以上にバランスを取るのが難しい。最初は地面に叩きつけられるばかりで、一度も空中にとどまることができなかった。
しかし、ひとつ気づいた。地面を蹴る感覚を意識するのではなく、空中を「足場」として捉える発想が重要なのだ。すでに何度か短時間の滞空には成功している。これを繰り返せば、いずれ自由に空を駆けられるようになるはずだ。
そして何より、練習中に俺を見守っていた章邯の尊敬のまなざしが面映ゆい。彼女の応援って「がんばろう」という気になるよね。
(しばらく日記が続く)
J月O日
捕虜を取り戻したり敵陣に潜入したりと大活躍!
あまりに活躍しすぎて弟子入り希望がわんさかいる。
そーらを自由に飛びたいな~はい六式ィ!
はあ。どーしよ。
◆
陽が昇る前の静かな荒地に、銀髪の少年が立っていた。その青年は、息を整え、地面をじっと見つめている。名を田忠。伝説の仙人と呼ばれる存在ではあるが、特に仙術が使えるわけではない。しいて言えば界王拳くらいか。
あとはせいぜい不老である点のみか。本人はそのあたりを気にしており、仙人らしい技を身に着けようと思い立ったようだ。
夜明け前、まだかろうじて月明かりが差す中、小柄な人影が高速で動いていた。それは人間離れした動きを見せる田忠の姿だった。彼は軽やかに地面を蹴りながら身体を動かしている。
「剃!」
静寂を破る一言と共に、彼の体が弾丸のように前方へ跳ぶ。だが、動きは一瞬だけ。バランスを崩した彼は足元を取られ、その場に転倒してしまう。
「くそ、まだか……」
田忠は地面に座り込むと、土を払いながら低く呟いた。それらしき動きはできても、マンガの中の技の境地に至っていない。悔しさをにじませながらも、その表情には確かな手応えを感じているような色が浮かんでいた。
「田忠様、こんなところで何をなさっているのです?」
その声に田忠が振り返ると、そこには章邯が立っていた。夜明け前の薄い月明かりに照らされたその姿は、どこか神秘的な雰囲気さえ漂わせている。
「章邯か。こんな時間にどうした?」
田忠が苦笑を浮かべながら立ち上がると、章邯は静かに歩み寄り、軽く頭を下げた。
「それはこちらの台詞です。田忠様が早朝から土にまみれておられるとは……何事かと心配で参りました」
その真摯な態度に、田忠は少し照れくさそうに頭をかく。
「いや、大したことじゃないんだ。ただ……新しい技を修得しようとしててさ。見てくれよ、もう少しでできそうなんだ」
章邯は目を細め、田忠をまっすぐに見つめる。その表情には嘲笑の影はない。ただ純粋に、彼の言葉の意味を測ろうとしているようだった。
「新しい技、ですか?」
「ああ、『剃』と『月歩』って言うんだ。自分の力だけで地面を蹴り、一瞬で高速移動する。それに、空中に留まりながら自在に動く技術も身に付けられるんだ。これができれば、どんな状況でも戦場で自由に動けるようになる!」
田忠は六式のあらましを聞かせ、章邯は軽くうなずいた。
「なるほど。確かに、それが可能になれば、戦の局面を大きく変えられるでしょう。しかし、田忠様、それはあまりにも危険ではありませんか? あなたがご自分を傷つけるのを見たくはありません」
「大丈夫さ。俺の身体はチートだからな。何度転んでも平気だよ」
田忠は笑って言い放つが、章邯の顔は険しいままだった。「知意斗」とは何かの仙人用語だろうか。それでも彼の目には真剣な光が宿っていることを見て、彼女はふっとため息をついた。
「では、私もお付き合いいたしましょう。田忠様の技が完成するまで、この目で見届けます」
田忠の目が驚きに見開かれる。
「いいのか? 退屈だろ?」
「いえ、私は田忠様をお守りする立場です。何かあればすぐに止めますから、どうぞ安心して続けてください」
田忠は目を瞬かせると、やがて苦笑いを浮かべた。
「なら遠慮なく見せてやるよ。章邯、お前の目に俺の進化を焼き付けてくれ」
そう言って再び地面を蹴る田忠。その背中を見つめる章邯の顔には、わずかな微笑が浮かんでいた。
「……どうか、無理だけはなさらないでくださいね、田忠様」
こうして、章邯の見守る中で、田忠の「六式」修行は続いていった。その夜明けの風景は、二人の間に新たな信頼と絆を築く第一歩となったのだった。
田忠が地面を蹴る音が荒地に響き渡る。何度目かの試行、そして失敗。それでも彼の動きは確実に洗練されつつあった。
章邯は冷静な目で彼を観察していたが、その視線の奥には、微かな期待が宿っていた。
「田忠様、先ほどの動きですが、右足の蹴り込みが弱かったように見えました。少し角度を意識されてはいかがでしょうか?」
「そうか、角度か……」
田忠は顎に手を当てて考え込むと、すぐに立ち上がり、再び地面に向き直る。章邯の的確な助言に感謝を込めて軽く笑ってみせた。
「章邯、ありがとな。試してみる!」
息を吸い込んで力を集中させる。次の瞬間、田忠の足が鋭く地面を蹴った。「剃」を発動した彼の体が疾風のごとく移動し、見事な直線軌道を描く。その速度は今までとは段違いだった。
「おお……!」
章邯の目がわずかに見開かれる。田忠は止まると、その場で跳ね上がり、「月歩」を試みた。空中で一度足を踏み込む。その瞬間、彼の体がわずかに滞空するのが見えた。
なんと「剃」と「月歩」の同時修得ができそうだ。長年の勘がそう囁いていた。
「できた……! いや、まだ途中だけど!」
田忠は地面に戻ると、息を切らしながらも笑顔を浮かべた。
「田忠様、今の動き、確かに形になっていました。ですが、まだ無理を重ねすぎているように見えます。一度休まれてはいかがでしょうか?」
章邯は真剣な声で諭したが、田忠は頭を振った。
「いや、今の感覚を忘れないうちに、もう一度だけやってみたいんだ。これが完成すれば、戦場が変わるんだよ。見ててくれ!」
田忠の決意に、章邯はしばし黙り込んだ。だが、次の瞬間、小さくうなずく。
「……分かりました。ただし、これが本当に最後です。次は無理をされないように」
「了解!」
田忠は笑い、再び集中を高めた。その動きにはもはや迷いがなかった。
「行くぞ——剃! そして、月歩!」
地面を蹴り、直線的に移動する田忠。勢いをつけたまま跳躍し、空中で「月歩」を発動。二度、三度と空中で足を踏み込む。
その動きは短いながらも滞空を保ち、地上の章邯を見下ろす位置にまで到達していた。
「やった……やったぞ!」
歓声と共に地面に降り立った田忠。章邯は彼のもとへ歩み寄ると、わずかに微笑んで一言。
「見事です、田忠様。これならば、夢とおっしゃる空を自由自在に駆ける技も、決して夢物語ではないでしょうね」
田忠は息を切らせながらも、章邯の言葉に応じてにんまりと笑った。
「ありがとな、章邯。お前がいてくれたおかげだよ」
「いいえ、田忠様の努力の賜物です。私はただ、それを見守っただけに過ぎません」
章邯の言葉に田忠は照れたように笑う。
「それでも、章邯がいてくれたから頑張れたんだよ。ありがとな」
朝陽が差し込む中、田忠と章邯は荒地を後にした。田忠の背中には、「月歩」への確かな手応えと、仲間の存在による温かい支えがあった。
こうして田忠の修行は一区切りを迎えた。だが、それはあくまで序章に過ぎない。彼の挑戦は、まだまだ続いていくのだった——。