△月×日
まただよ……。弟子志望者。空を飛びたい? はいはい、気持ちはわかるけど、そんな軽いノリで来られても困るんだよ。
こっちは死ぬ気で覚えたんだぞ、「剃」も「月歩」も。しかもネタ元は某漫画だ。どうしてこれが「信仰」みたいな扱いになってんだ。
彭越のやつが一向宗の法話で俺のことを「空を駆ける救世主」とか言ったせいで、弟子志願者が押し寄せてくるようになった。お前ら、飛びたいんじゃなくて「宗教的体験がしたい」んじゃないのか?
とりあえず、こう言ってやった。
「飛びたいなら、まず山道十周。鉛の板背負って岩を蹴り砕け。それでもやりたいなら話を聞いてやる」
結果? 一夜明けたら誰もいなくなってた。
△月◎日
——と思ったら、一人いた。
血まみれの足を引きずって、山を登ってきた。肌は浅黒く、短く刈った髪。眼光鋭く、唇を噛み締めている。
そして、顔には「黥《げい》」——つまり、罪人の印として彫られた入れ墨が刻まれていた。
名は? 英布。元は罪人、だから“黥布”と呼ばれていた。
その目は、まっすぐで、強い。罪人の過去など気にもしていないようだった。
「俺、飛びたいんです。空を飛べれば、過去も、地べたも、全部越えられる気がするんです」という言葉に少しだけ、心が動いた。
「じゃあ、続けろ。次は二十周だ」の指示にもめげず、英布は顔をしかめながらも、力強く頷いた。
◆
英布。後の時代に「黥布」の名で知られる英雄——その若き日。
彼は罪人だった。何らかの罪により顔に黥刑の入れ墨を刻まれ、過去を背負いながらも、ただ己を鍛え続けてきた。過去の自分を打ち破るために。
そんな英布が出会ったのが、田忠という名の“飛仙”だった。彭越の説法に心を動かされ、一向宗に改宗した彼は、「空を駆ける力」を本気で求め、山を登った。
そして——
「本気か?」
「本気です。田忠様、俺に空を……!」
田忠の指導は、想像以上の苛烈さだった。筋肉の悲鳴、内臓の震え、意識が飛ぶ寸前まで鍛え抜かれる日々。中でも、英布が特に苦しんだのは、自らの「過去」と向き合う瞬間だった。
ある夜、田忠が訊いた。
「なぜそこまでして飛びたい?」
英布は答えた。
「地べたに這いつくばる人生でした。黥の印がある限り、人に笑われ、蔑まれてきた。でも、飛ぶ者を誰が下に見ますか? 空の上に立てれば、俺は誰よりも高くなれる」
田忠はしばし黙し、そして言った。
「じゃあ、飛んでみせろ」
最終日、英布はついに山の頂に立った。体はすでに限界を越えていた。それでも、あの「空」を掴みたかった。
「月歩!!」
大地を蹴った瞬間、風が彼の頬を撫でた。空中での足運び——重力に逆らう連続の一歩一歩。岩壁を駆けるように、英布は空を切った。
その姿は、まるで翼を持ったようだった。
「飛んだ……!」
田忠が呟く。教え子が空を歩くその姿に、思わず拳を握りしめていた。
——こうして、田忠以外で初めて「月歩」を会得した者、飛仙・英布が誕生した。
英布はその後、一向宗の遊撃隊長として空中斥候・強襲戦術を展開する。地形を無視した進軍と「空から来る坊主」として敵に恐れられた。
一方で、彼は入れ墨を晒しながら堂々と戦い抜き、人々にこう説いた。
「俺は罪人だった。だが今は違う。人の価値は、どこから来たかじゃなく、どこまで飛べるかで決まるんだ!」
そう叫びながら空を翔けるその姿は、まさに「信仰」の具現だった。
世間は彼を「黥仙」と呼び、人々は空を見上げるたびに、そこに一つの希望を見ることになった。
そして田忠は、こっそりと呟く。
「英布、お前は……いずれ俺を超えることを期待しているぞ」
満更でもない笑みを浮かべながら。