蛇にゾッコン。 作:元ちょこちょこっと
菊理が鉄裁の指導を受けだしてから、数ヶ月が経った。既に八十番台の鬼道は全てマスターし、九十番台に取り掛かっている。しかし、斬魄刀の方に進展はなかった。定期的に対話してはいるものの、菊理が自らの本心を頑なに認めようとしないため、同調が上手くいっていないのだ。
菊理はそれほど問題にしていなかったが、教える側のギンが少し残念そうにしているのを見て、焦りを感じ始めていた。
(私の本当の気持ち、ってなんだろう)
分からないまま時は流れ、苛立ちは募るばかり。ああ、もう。と怒りに任せ、菊理は鬼道を発動する。
「滲み出す黒濁の紋章、不遜なる狂気の器。沸き上がり・否定し・痺れ・瞬き・眠りを妨げる。爬行する鉄の王女。絶えず自壊する泥の人形。結合せよ、反発せよ。地に満ち己の無力を知れ! 破道の九十『黒棺』」
重力の奔流が、黒い痣となって空間を埋め尽くす。的となった木々を跡形もなく圧砕し、消し飛ばした。途方もない威力。隊長格ですら、これをマトモに受ければただでは済むまい。
順調に指導は進んでいる。鉄裁の教え方が上手いためだ。彼は菊理の資質に合わせ、鬼道を教える順序を選んでいる。先の『断空』も、単に防御用の術として便利だというだけでなく、菊理と相性が良かったから、集中して教えていた。
「やはり、『黒棺』は貴女と相性が良いようですな」
「確かに、霊圧が馴染むような気がしますね」
鉄裁の言葉に頷く。
鬼道は破道・縛道それぞれに九十九、計百と九十八の種類がある。その全てを把握、習得しているものはそう多くはない。殆どが、自らの好み・性質と合った鬼道を好んで習得する。例えば、朽木白哉は破道の四『白雷』や三十三『蒼火墜』、縛道の六十一『六杖光牢』を好んで使用する。菊理のように、全ての鬼道を覚えようとするものは稀である。斬術が主流の現在、鬼道は添え物程度の扱いを受けているためだ。故に、死神たちは自らと波長の合った鬼道のみを覚える傾向にある。
菊理は全ての鬼道を覚えようと試みているので、通常の何倍もの好相性の鬼道を把握出来ている。
「この分なら、詠唱破棄も近い内に習得できるでしょう」
「九十番台詠唱破棄、ですか。難易度は高そうですが、それだけやり甲斐はありますね」
す、と菊理が腕をあげる。目の前の空間に手を翳し、間合いを測ると、詠唱を無視して先の鬼道の名を口にした。
「破道の九十『黒棺』」
再び、黒が空間を侵食する。しかしその規模は、詠唱時と比べ遥かに小さく、五分の一程度しかない。加え、本来の『黒棺』で完成するはずの、黒き重力の塊によって出来る棺は形成されず、霊力が空中に散り散りになってしまう。そうなれば当然、鬼道は霧散する。
「失敗ですね」
「何、いきなり成功する方がおかしいですから、気を落とす必要はありませんよ。それより、少し休息を取りましょう。九十番台の鬼道を連続して使用しているのですから、知らぬ内に疲労が溜まっているかもしれませぬ」
菊理は、あまり疲れているという実感が湧かなかったが、鉄裁の意見に従った。年長者の意見は素直に聞くべきだ。
「やはり、九十番台は扱いが難しいですね」
「ええ。鬼道の最高峰ですから。護廷隊の隊長格ですら、扱うのは容易いことではありません」
「例えば、現隊長では誰が使用するんですか?」
ふとした疑問だ。あの十一番隊長は無理だと分かってはいるが、他にどれくらい使用者がいるのか、知っておきたい。
「そうですな。まず、総隊長であられる山本元柳斎重國殿。あの方は斬術・白打・歩法・鬼道、どれを取っても間違いなく最強の死神です。伊達に千年もの間、尸魂界を守護してきた訳ではありません」
山本重國。かつて浅打貸与の式典では、その存在感に圧倒された。あれだけの霊圧を持つ彼ならば、納得のいく話だった。
「後は、二番隊長の夜一殿に、十二番隊長浦原喜助殿、十三番隊長浮竹十四郎殿といったものでしょうか」
「思っていたよりも、使用者は多くないのですね」
「多くの方は、鬼道よりも斬魄刀を扱う修行に傾注します故」
斬魄刀——それを聞いて思い出すのは、やはりスーツ姿の彼女の言葉だ。一体、自分の気持ちとは何なのか。
分からないなら、聞くしかない。菊理は、鉄裁に尋ねる。
「鉄裁さん。私の一番大事な気持ちって、何だと思います?」
「菊理殿の、気持ちですか?」
唐突な質問にも、鉄裁は動じず、真剣に考えを巡らせる。
「申し訳ありません、私もこの数ヶ月、菊理殿と一緒に居てはいるのですが……貴女の一番大事な気持ちとなると」
「そうですか。いえ、ありがとうございます。真剣に考えてくださっただけでも、ありがたいです」
とはいえ、手掛かりは無し。このままでは、永久に見つからないのでは無かろうか。そんな不安が過る中、ふと新たな疑問が芽生える。自分の気持ちは分からなかったが、他人の気持ちはどうなのか。
「鉄裁さんの一番大切な気持ちって、何ですか?」
「私の、ですか」
「参考にしたいので」
「私は——恩に報いたい。そういう気持ちがあります」
恩に、報いる。興味深い一言だった。菊理は黙ったまま、続きを促す。
「私はこれまで、様々な方に支えられて、未熟ながら生きて参りました。夜一殿や、共に彼女の屋敷で世話になった浦原殿も同じです。彼女ら、私を支えてくださった方々に、何かしらの形で報いたいのです。研鑽を積み、大鬼道長という過分な評価を得るに至りましたが……私は、彼女らのためなら、今の立場を捨てることなどなんの未練もありません」
嚙み締めるような、鉄裁の言葉。心の奥底から掬い上げたような。心ノ臓から絞り出したような。それは紛れも無い、感情の発露に思える。
菊理は納得する。これだ。こうして、人の本心というのは知ることが出来るのだろう。では、自分の中で、根底に存在する思いとは何なのか。実際はもう気付いていながら、目を背け続けてきた事実。それを言葉にしてしまえば、問題は解決するだろう。しかし、その前に。どうしても確かめておきたい。
自分の気持ちが本物なのかどうか。
◆
始解の修行も、何度目になるか分からない。いつまで経っても、同調する気配がない。なのに訓練に付き合ってくれるギンに、申し訳なさと喜びを同時に感じていた。
刃禅にも随分慣れた。精神世界で斬魄刀本体と言葉を交わす『対話』ももう十分だろう。だから今回は、最後に一言、確かめてくるよ、と彼女に告げた。
そうして、意識が現実に戻ってくる。こちらを覗き込むギンに、首を横に振る。彼はそうかぁ、と少し残念そうに呟くが、菊理を責めるような素振りは一切見せない。ギンの優しさを噛み締めながら、菊理は彼に差し伸べられた手を取り、立ち上がった。
「気ぃ落とすことないよ、菊理。簡単なことちゃうし」
「ありがとう、ギン。……鍛えてもらってる私から言うのも難だが、少し休憩にしない?」
「ええよ。疲れてしもうた?」
「そういう訳じゃないけど、少し君と遊びたいと思ったんだ」
菊理は付いてきてよ、と林の中を駆ける。ギンはゆっくり歩きながら、それに追いすがる。本日は天気も良いから、木々の隙間から光が漏れ、道を明るく照らす。遠くに見える入道雲が大きい。蜩の鳴く声が、暑さに拍車をかけ、菊理の首筋に一筋の汗が光る。
「暑いなあ」
「そうだね。だから、こっち!」
暑さで辛抱堪らなくなった菊理は、暑い暑いと言いながら表情を崩さないギンの手を掴み、走り出す。我ながら大胆なことをしている、と思いながら、表情には出さない。よしんば頬が紅潮していたとして、夏の暑さにやられてしまったと言い訳も通ろう。
菊理たちが走り抜けた先は、川だった。水は透き通り、鮎が元気に泳いでいる。
「ここは……」
「似ているだろう? 私たちが初めて会った時に行った川に。どうやら、あの川をずっと下った先がここみたいなんだ」
足袋と草履を脱ぎ捨て、裾を捲ると、菊理は川に足を突っ込んだ。水の冷たさが容赦なく全身を駆け巡り、思わず鳥肌を立てる。しかし、数秒もすればそれにも慣れ、心地良い冷たさになる。
「ギンもおいでよ。冷たくって、気持ち良いよ」
「元気やなぁ、菊理は。ボクは遠慮しとくよ」
「むっ、連れないなあ。……えいっ」
川の水を掬い上げ、ギンに向かって掛ける。彼はそれをモロに被った。
「やりよったね、菊理」
口の割に、ギンの表情に変化は無い。しかし、彼もまた素足になって、川に侵入。逃げる菊理に水を掛けに行く。
両手で水を掬い、出口を絞り手で水鉄砲を作ると、勢い良く菊理に向けて発射した。瞬歩を使えば躱すのは容易いが、それでは全く面白味がない。大人しくギンの一撃を貰うと、日差しの暑さの中で、水の清涼感が心地良い。
「ほらほら、喰らえっ!」
「なんの、お返しやっ」
追い掛け合いながら、互いに水を掛け合う。互いが互いに避けようとはしない。暑さのせいか、それとも何か他意があるのかは、分からない。
しかし、相手に気を取られ過ぎた菊理は、足下の石に躓いてバランスを崩した。水飛沫があがり、全身をビショビショにした菊理が、あちゃあ、と己の失態に呟いた。それを見たギンは、最早堪えきれない、というように笑い出す。
「菊理、ビショビショやん。やっぱオモロいわぁ」
「酷いなあ。それに、やっぱって何さ」
「菊理はオモロい娘やと、会った時から思っとった」
「何ソレ。いいから、早く起こしてよ」
しゃあないなあ、とギンがいつもの様に手を差し伸べる。しかし、今回の菊理はいつもと違った。キラーン、と目を光らせた彼女は、ギンの手を思い切り引っ張って体勢を崩すと、軽く体当たり。ギンを押し倒した。バシャッ、と先程のように水飛沫が上がる。菊理も、ギンも、二人共ずぶ濡れだ。
「あはは、ギンもビショビショだぁ」
「こらぁ、悪い娘や」
「ごめんごめん」
あまり反省していない様子で、菊理は謝罪する。それでも、ギンはしゃあない娘やなあ、と柔和な表情を崩さない。
楽しい。彼と過ごす時間は、その一秒一秒が輝かしく、菊理の胸に刻まれていく。この時が永遠に続けば良いのに、という思いは、胸の中に仕舞い込む。今はこうして抱きついて、彼の体温を感じていられれば、それで良いと思った。
そんな甘い時間も、長くは続かない。否、続けていられない。不自然に長く抱きついていては、ギンに疑念を抱かれる。そうなったらお終いだ。彼に遠ざけられたら、どうしたら良いか分からないから。
菊理は自らギンから離れ、立ち上がる。そしてギンに手を差し伸べた。
「手ぇ出してええの? お返しされちゃうかもしれんよ」
「そんなことを言うってことは、やらないってことだろう? それに、されたとしても構わないさ」
君になら、とは言わないでおく。
「あんまりそういう事言うの、止した方がええよ。菊理、女の子なんやから」
「ご忠告ありがとう。肝に銘じるよ」
川から上がり、二人は河原の大きな石に座り込んだ。水がまだ滴っている。夏の日照りによって生温くなってしまったそれは、今となっては肌に張り付いて不快ですらある。
「鬼道で乾かそうか。ギン、死覇装を脱いで向こうを向いていてくれるかい。流石に、着たままでは熱いだろう」
ギンは了承し、死覇装を脱ぎ始めた。まじまじと見つめるのは不躾だと思い——正確には、羞恥心から見続けることができなかっただけだが、とにかく彼女は目を逸らした。しかし、今度は、水気を含んだ服を脱ぐ衣擦れの音が耳に入り込み、余計にドギマギさせる。
「じゃあ頼むわ、菊理」
「あ、ああ」
半裸のギンは、菊理に服を渡すとくるりと踵を返し、あらぬ方向を向く。その間に、菊理も着ていた服を脱いだ。そして、あることに気付く。
(そっか……コレ、さっきまでギンが着てたんだな)
ちら、とギンの方を見る。綺麗な背中とうなじが見えた。菊理の言葉に従って、ちゃんと向こうを向いているようだ。
(……ちょっとくらいなら、バレないかな)
菊理は、ギンが見ていないのを良いことに、彼の死覇装を纏った。濡れていて、感触は良くないが、僅かに残った温もりが彼のものだと知っているから、彼女の胸は熱くなった。
(…………ギンの匂いがする)
「……菊理? どうかしたん?」
「えっ⁉︎」
突然、彼から声を掛けられ、思わず素っ頓狂な声をあげる。
「いや、なんか鬼道の詠唱も聞こえんし、何かあったんかなぁ思うて」
「い、いや、何も無いよ! ちょっと着物を脱ぐのに手間取ってね」
すぐにでもバレそうな嘘をついてしまう辺り、相当なテンパり具合である。それを自覚しながらも、とにかく菊理は誤魔化した。そして、鬼道を使い、二人分の服をさっさと乾かしてしまう。
「はい、終わり!」
「おお、天日干ししたみたいに温かいわぁ。ありがとうな、菊理」
礼を言われるのも複雑ではあったものの、取り敢えず頷いておく。不自然なところはままあったが、バレる程でもあるまい。
「そろそろ戻ろか。ボクの休憩も終わってまうし、菊理も鍛錬、あるんやろ?」
「……そう、だね。今日はありがとう、良い息抜きになった」
それに——自分の気持ちも掴めた。
「そっか。そんなら、ボクはこの辺で失礼するわ。じゃあね、菊理」
「ああ、またね、ギン」
挨拶を終えると、ギンは瞬歩で姿を消した。
彼がいなくなった後、菊理はそれを実行する。鉄裁に問うことで知った、感情を表すのに最も最適な方法。
ああ、ああ。分かっていたことだが——
「私は
開く。
現実と、彼女の心の中が繋がる。
彼女の意識は、精神世界へ滑り込んだ。
「漸く、理解できたようね。いや、漸く認めた、と言った方が正しいかしら?」
「そうかも知れないね。私は、それを認めることを躊躇していた」
「あら、何故かしら?」
「分かっているんだろう? 君は、私なんだから」
「言葉にしなきゃ分からないことだってあるわ。そうでしょう? 貴女がさっき、自らの本心を口にした、それと同じことよ」
愉快そうに。茶を啜りながら、彼女はころころと笑う。
「まあね。でも、これを伝える必要はないよ。それよりも」
「分かってる。教えてあげるわ、私の名前。これも、言葉にしなければ分からないことだもの」
スーツ姿の女は、菊理の目を真っ直ぐに見つめている。菊理もそれに応じた。そして、理解する。彼女が口にした名を呼んだその時こそ、自らの始解が発現する時だと。
「呼びなさい。解号は『結べ』。そして私の名は——『
その名を飲み込み、胸に刻み、叫ぶ。
「結べ、星見華」