その声を聞く この手を伸ばす 兎の章   作:古今いずこ

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戦闘シーン(暴力描写)が含まれます。苦手な方はご注意ください。


第12回 神の信任 主人の責任

 氷上のセディカは表情一つ変えることなく、ただ静かに目を閉ざしていた。自分を捕らえている腕に両手を置いているけれども、引き()がそうと()()く様子はない。何も儀式めいたところのない普段着を着ていて、きちんと靴も履いていた。顔色は悪い。青()めているというよりは、土気色に近い——それとも、それは思い成しだろうか。

「下りろ」

 海老が命じた。すとんと、トシュは落下するように下りて、しばらくぶりに雲でない足場を踏んだ。

 ガキリと、足首が凍りついた。

 はっと反射的に見下ろしたときには、氷は一気に足を駆け登り始めていて、瞬く間に胸から首へと上がり、トシュの体を口の上まで覆ってしまった。目を残された、と言うべきかもしれない。これは油断だ、と反省したときには、トシュは事実上、氷漬けだった。

 偽〈霊王〉が海老のそばに下りた。目の輝かせ具合からすると、偽〈霊王〉にとっても予想外のことであったらしい。

「よくやった」

 これ以上なくはっきりと褒められても、魚の娘と違って、海老は感激することもないようだった。偽〈霊王〉に忠誠を抱いているわけではなく、真の〈通天霊王〉の敵だとすら思っているはずだから、さもありなんというところである。ただ、それ以上に、人間たちの方が憎いのだ。

「う……!」

 トシュは(うめ)き声を立てた。焦ったのでも苦しかったのでもなく、試しただけではあったが、試した結果は嬉しいものではなかった——閉じた口の中は自由だけれども、その口を開くことはできないし、頬や(あご)も氷に固められてしまって動かせない。喋れないということは、つまり、呪文を唱えることもできない。

 妖怪の本能は、妖力と妖術を以て最低限は身を守り、氷を直接肌には触れさせなかったし、呼吸も保った。冷たさは感じるが、よほど温度を下げられない限りは凍傷も負わないだろう。だが、体はぴくりとも動かない。印も結べなければ呪符も取り出せない。

 不幸中の幸いと言うべきか、偽の〈霊王〉は偽のセディカの息の根を止めようとはしなかった。もう一人のセディカに()うように歩み寄り、見開いた目をぎょろりとこちらへ向ける。

「不老不死は俺のものだ」

 不穏を察して反射のように目を閉じた、次の瞬間、氷が目の上から頭の天辺までを覆いきった。

 ——畜生め。

 トシュは内心、舌打ちをした。これは非常に、まずい。このままである分には何ほどのこともないが、向こうが危害を加えようとしてきたら——避けようがない。

 印も結べず、呪文も唱えられない。念じるだけで使える術は、こうなってくるとかなり少ない。指を鳴らしたり手を振ったりといった補助動作が結構重要で、純粋に念じるだけとなると難易度が上がるのだ。と、なると。

 自分に戻るか、狼に戻るか——。

 ……手に持っといてよかったわ。

 意識を向けた先は、右手に握る鉄棒である。縮めるも伸ばすも自在の、愛用の武器。使い慣れており使い込んでいるから、これも念じるだけで操れる。

 間に合え。やつらが不老不死の妙薬に気を取られているうちに——。

 ガシャン! と不意の衝撃がトシュを襲った。トシュを待たずに氷が砕け散ったのだ。強固すぎる支えを急に失ったトシュはよろめいたものの、すばやく、支えられた。

 一秒経たないうちに、二人は雲を踏んで空中にいた。河の氷に足をつけていては、また凍らされてしまうかもしれない。

「何ともない?」

「——ああ」

 その返事を受けて、思いなしか力の入った、震えを抑え込んでいたかのような手は、ようやく離れた。目の前にあるのは少女の姿であった——今の自分と、瓜二つの。

 さっと目を走らせれば、偽〈霊王〉は腹部を押さえて(うずくま)っている。一撃、入れられたのだろう。海老はまごまごしている様子で、助け起こそうとはしていなかった。

「あの香り——」

 二言三言耳打ちされて、合点が行った。

「そう来るかよ」

 (ささや)き返している間に、落ち着いてきたらしい妖怪は、取り落としていた(すい)を探って立ち上がろうとした。先の一撃も決定打になったわけではないらしい。二人のセディカは目を見交わし、赤い方は棒を握り直すや、氷上目指して飛び出した。

 棒を長く長く伸ばして遠くから振り下ろし、狙ったのは海老である。流石(さすが)に海老は我が身を優先して(あと)退(ずさ)った。一回、二回、叩くことでなく偽〈霊王〉から引き離すことを目的に、手加減しつつ棒を振るって、十分に離れてからひゅっと海老の眼前まで接近する。

 そこで、トシュは変身を解いた。

「そんなに人間が憎いか。気持ちはわからんでもないが」

 それを耳にしたのはちょっとした巡り合わせだ。本物の〈霊王〉を追った偽物より、そうと気づきもしない人間が憎いと。人間の信仰が守り神の力になるのだから、そう理不尽な話でもない。

 けれども。

「おまえの〈霊王〉様はそれを是とするか?」

 若者は目を見開いた。

「敵を見誤るなよ。人間に見る目がねえからって、おまえまでな」

 言うだけ言うなり、飛び退()いた。蜻蛉(とんぼ)返りを打ってすぐさま離れたのは、もう一人を長くは放っておけないためである。体をひねりつつまたもセディカに変わり、偽〈霊王〉に向き直ったときには、トシュはもう切り換えていて海老を見返ろうともしなかった。

 偽〈霊王〉はもう一人の、普段着のセディカと戦っていた。そちらのセディカの武器は錫杖であった。シャラン、シャランと先の輪が鳴る。こちらのセディカは敵の後方に回り込み、鉄棒を遠慮なく横ざまに薙いだ。がつんと手応えがあり、敵が蹈鞴(たたら)を踏む。

 一人が二人になれば勝てるわけではない。そういう問題ではない。だが。

 武器を振るう。加減して。殺すつもりは勿論(もちろん)、打ち負かすつもりも今はなかった。本命は、シャランシャランと錫杖が立てる音の陰で、その使い手が唱え続けている——。

「諦めなよ。その子だってただ者じゃない。——〈武神〉の子孫だ」

「何だと」

「だからって、人間社会で慎ましく暮らしてる女の子に、武器を振り回して人食い妖怪を返り討ちにしてほしくなんかなかったけどねえ」

 攻撃の途中で(ざん)時手を休め、嘘ではないにせよ誠実でもないことを言う。セディカの父の家が〈武神〉の子孫とされているらしいことは本当だが、別にだからとてその家の人間が戦闘や妖怪退治に自動的に()けるわけではない。はったりにはちょうどよい。

「あたしから言うことは同じだよ。悪いことはもうしませんと誓いを立てて、消えな。ここの人たちが許してくれるんならいればいいけど」

 ふと、もし観念して妖怪が誓いを立てたとして、それを別人に化けたまま見届けるのも非礼に当たる気がして、トシュはまた本来の自分に戻る。戦術の一環としてころころ姿を変えるのならともかく、さっきの今でこれは(せわ)しない。

 (もっと)も、歯(きし)りして錘を突き出してきた妖怪は、まだ当分、観念しそうになかった。

「貴様の知ったことか」

「本物の〈通天霊王〉に依頼されてんだよ、生憎(あいにく)な。あんたが食おうとしたのもうちのお(ひい)さんだ。子供を()()せってのはダミーだったかもしれんが、それだってあちこちから助けてくれと乞われてんだわ」

 うちのお姫さん、というのは明確に嘘だが。

 セディカのままでいる片割れを、そこでちらと見た。視線を感じたのである。目が合うと相手は頷き、声がはっきりしたものになる。

「——慈悲深く慈愛あふれる〈慈しみの君〉よ。ここにお姿を現したまい——」

 そう言ったのを聞き取ったのだろう、偽〈霊王〉は顔色を変えた。

 慌てて空を見上げるや、錘をひっつかんで(つぼみ)の先で氷を一打ちする。バリバリと氷が砕け、トシュは飛び下がったが、偽〈霊王〉はすごい勢いで水の中に飛び込んだ。

 途端に、追いかけるように、空の上から籠が投げ込まれた。細い帯——至極実用的な、飾りっ気のない帯が結びつけてあり、それで沈んだ籠をぐいと()()り寄せながら、〈慈愛天女〉その人が空に姿を現した。

「遅くなったかね?」

「ああ。遅い」

 方士は不敬にも睨みつけた。

「あんたが手を貸してくれなかったせいで、里の人間は昨日から肝を冷やすどころの騒ぎじゃねえんだ。〈慈愛天女〉の来臨を見せて(なだ)めてくんなきゃ困る」

「そうしよう。この辺りでは、あまり、天女とは呼ばれないのだけれども」

 〈慈愛天女〉は籠を引き上げながら、瑞雲を踏まえつつ氷のすれすれまで下りてきた。

 召喚ではない。ただの祈願だ。型は踏まえていたにせよ、呪文でも何でもない普通の言葉で、おでましをと願っただけのこと。聞きつけて気が向けば来てくれるだろうという、不確かな働きかけにすぎなかったはずだ。とはいえ、聞きつけてもらえる自信はあったのだろうけれど。

「見るかい」

 差し出された籠を覗けば、編み目の隙からこぼれることもなく水が満ちている中に、金魚が一匹揺蕩(たゆた)っていた。

「これはわたしの館の蓮池にいたのだよ。いなくなっていることに気づいて、この籠を編んで捜しに来たのだけれど、おまえが相手をしてくれていたようだから、ゆっくり準備をすることができた」

 偽〈霊王〉に感じた香りは、〈慈愛天女〉の住む南の山に満ちているものだったのだ。なるほど覚えがあったわけだし、トシュの攻撃が今一つ効かなかったわけである。〈慈愛天女〉の眷属とでも言うべき身であり、その加護が働いていたのであろうから。トシュはトシュで、バンダナを外して〈慈愛天女〉の印が浮かぶかもしれない額を(さら)し、〈慈愛天女〉の使徒だとでも主張するような格好でいたのだから、同志を叩きのめすことはできなかったのだろう。

「準備って何だよ」

「神の真髄は大いなる調整だよ」

 女神はあっさりした口調で言った。

「これを逃がした責任はわたしにもあるのだから、迷惑をかけた人間たちにも、気の毒な百頭の豚と百頭の羊にも、補償をしてやらねばならない。さりとて不用意に手を出せば、方々へ不当な影響を及ぼして道を曲げてしまう。だから、よくないことにならぬよう手配りをしていたのだよ」

 気の毒な豚と羊のことは聞かないふりをした。偽〈霊王〉に捧げられずとも、豚の飼い主も豚を食べるつもりであったろうし、食べるつもりがなければ生まれさせもしなかっただろうことには触れぬが吉である。

「そなたも随分苦しかったろうね」

 女神は海老に微笑みかけた。海老はいつの間にか大分近くに来ていて、女神の前でどのように振る舞ってよいものか測りかねているようだったが、どうやらその手にある籠を気にしているらしかった。トシュに見て取れることが女神に見て取れないはずはなく、女神は籠を差し伸べ、海老はおずおずと歩み寄って中を覗いた。

 海老が金魚をどう思ったかはわからなかった。何を言うでもなかったし、顔に表れるでもなかった。というのは、それより早く別のことに気づいて勢いよく振り向いたのだ。

 氷の上をしずしずとやってくるのは、朱色の()(きん)の男性と白尽くめの老人だった。二人は天神の前に至ると丁重な礼をした。

「これはわたしが連れて帰って叱っておこう。そなたの館に戻るとよい。これに従った者たちをあまり責めぬようにね」

 真の〈通天霊王〉は再び頭を下げた。

 〈慈愛天女〉はその次に、土筆のように小さくなった赤銅錘を籠の中から拾い出した。

「おまえにあげよう。わたしの館の蓮の蕾を、これが鍛えたものだけれど、これに持たせておくとおいたをするからね」

 土地神は無言で押しいただいた。

「人間たちを起こしておいで」

 これはトシュたちに命じたのである。当たり前みたいに使うんだなと思わないでもないが、文句を言うようなことでもない。

 二人視線を交わして軽く頷き合い、亀と土地神とに目礼して、(きびす)を返しながら海老をちらりと見やる。

「……〈霊王〉様」

「妻子は息災かの」

「……はい」

「何よりじゃ」

 それは言葉通りの意味らしく、嫌味とは感じられなかった。自分が気を揉むこともないなと、トシュはそれ以上注意を払うことなく歩き出した。

 唇を引き結んで目を伏せた海老が、涙を(こら)えていたものか、ひょっとしたら涙を落としていたものかは、どうでもよかった。本当の主人が帰ってきたのだ。やり場のない怒りを人間にぶつけることも、もう、ないだろう。

 

「赤くないのね」

 手にしたままの鉄棒を、ふと気づいて針に戻すと、隣りからそんな指摘が来た。ああ、と再び適当な長さと太さに変えて、自分自身もセディカに化け直してみせる。

「服がこれだと喧嘩するだろ」

「服をそうするからじゃない」

 まあ、その通りである。

 愛用の鉄棒は、本来は鉄そのままに黒い。トシュは大きさを変えるついでにしばしば朱塗りにも変えているのだったが、好みであり洒落(しゃれ)っ気であって、別に仙術上、妖術上の効果があるわけではない。衣装をこうしてしまってから、この赤とこの赤は合わないなと気がついて、わざわざ微調整してまで棒の方を赤くすることもないと放っておいただけだ。

「ナナラのときのだね」

 続いた指摘は、その赤い衣装のことだった。

「まあな。……まあ、そりゃ、思い出すわな」

 世界中を旅していれば、人身()(くう)を要求する妖怪には時々ぶつかるし、()らしめてやったことも一度ならずある。ナナラはちょうど、今のセディカとそのとき同じくらいだった少女で——周囲に恵まれなかったという点で、セディカと異なっていた。厄介払いだとばかりに突き出されたナナラを、妖怪から救うのは大した労働ではなかったが、不遇から救うのにはそこそこ手間がかかったものだ。最終的には親切そうな寺院に預けたものの、その印象が内実を伴っているのか上っ面にすぎないのか、何度かこっそり覗きに行って確かめてから、やっと手を引くことができた。

 セディカの衣服をそれらしいものにと変えたときには、ナナラが同じような状況で着せられていた衣装をモデルにしようと意識していたわけではない。適当に変えてから、これじゃナナラだなと思い至ったのだ。細部は違っているだろうが、見抜かれた程度には似ていたようである。

「ちょっと不吉じゃないかなと思ったんだけどね、実は」

「逆だ、逆。ナナがセダに(あやか)りゃいいんだよ」

 先取りだ、とトシュは強引に言いなした。

 元の姿に戻ると、隣りを見て小首を傾げる。

「おまえも、もういいんじゃねえか?」

 道連れは妙にじいっとみつめてきた後で、肩を(すく)めた。

「うっかり剥がれないようにって君が頑張るから、自分じゃ剥がせない」

「マジか」

 盲点だった。

 チオハ家の庭の土に水を加えて()ね、仮面にしてジョイドに被せておいたのだ。偽〈霊王〉の代わりに動ける手下がおり、本物のセディカを探しに来た場合に備えて、第二の偽物を務められるようにと仕込んでおいたわけである。どうやら、それで、正解だった。偽〈霊王〉に影響を受けたわけでも忠誠を誓っているわけでもない、人間をこそ憎んでいる海老がいたのだから。

 何かに、それも実在する人物に成り済ますというのは、ジョイドの得手ではないし、トシュの領分である。だから仮面が必要だったし、トシュがやった。セディカの髪を泥の中に入れたから、寸分違わぬ完璧な引き写しができているはずだ。顎に手をかけられたときは冷や汗物だったが、いらぬ心配だったらしい。

「……じゃあ、もう一芝居打っとくか」

 術を解こうと手を伸ばしかけて止めれば、表情は変わらないまま、ふふっと笑い声だけが返ってきた。これと一緒に過ごすのは、本物のセディカにとって安らぐことではなかったかもしれないなとは、思った。

 

 雪の積もった岸や凍りついた河を怖々と眺めていた人々は、霧の奥から人影が近づいてくることに気がついた。知らせを聞いて駆けつけていた兵士もいて、方士の一人であることを見分けた。その腕に軽々と抱えられて眠っているらしい少女が、〈通天霊王〉に所望された少女であることも——それはつまり、見分けられなかったということかもしれないけれど。

「本来の〈通天霊王〉が帰ってきたぜ」

 氷の上から雪の上に降り立って、トシュは告げた。その後ろでピシピシと氷が割れていき、砕けて、落ちる。水飛沫(しぶき)が派手に上がり、霧は瞬く間に晴れて、雪もたちまち溶けて消えた。

「その子は」

「返してもらったよ。昨日のことを——盆が落ちてきた後のことをちゃんと覚えてるかはわからないが」

 腕の中の少女を優しく見下ろし、片足を引いて、河の上空を振り仰ぐ。

「見えるか? ——〈慈しみの君〉だ」

 自分の()()んだ〈慈愛天女〉という名前に(こだわ)りはしなかった。伝えるためなのだから、通じるように言う。

 そこにいる人々が女神を認め、騒ぎ出すのを少し待ってから、兵士に声をかける。

「あんた、院主どのと役人どのに伝えてくれないか。この里はもう大丈夫だよ。子供たちももう、閉じ込めておかんでいい」

 兵士ははっとし、承知した旨を答えて踵を返した。騒ぎ出したといっても、この兵士がいなくなれば冷静な人間が残らない、というほどの混乱にはなっていない。

 内心で一つ頷くと、トシュは雲を起こして飛んだ。徒歩は流石に面倒だ。抱えているのが本物のセディカであれば不可能なことなのだが、正体は自分も雲に乗れるジョイドなのであるから支障はなかった。おかしいと気づく者もあるまい。

 薬屋の前に雲を下ろすと、セディカ役のジョイドは速やかに自分の足で立った。トシュは服の中を探して畳んだ紙を取り出す。

「使いどころがあってよかったわ」

 開いた中身は子供たちの髪の毛であった。偽物はセディカ一人分でよいとなったときには既に集めてあったので、突き返しても困らせそうだと引き取ってきたのだ。

 息を吸い込み、ゆっくりと吹き散らせば、何十本とも知れぬ髪の毛は順番を守るように少しずつ飛んでいき、地面に落ちては次々と、三歳から五歳ほどの童子童女に変わって駆け出した。

「出ておいで」

「外に出ておいで」

「空をご覧」

「河の方をご覧!」

「もう大丈夫」

「大丈夫だよ」

「〈慈しみの君〉が——」

「みんなをお救いくださったよ!」

 口々に呼びかける声は髪の持ち主のものなのだろうけれど、仙人の元で過ごしてでもいるかのような衣服や、瑞々しい艶を備える角髪(みずら)やお河童は、町や村の子供らしくはないだろう。里全体に知らせを告げながら走り回って、やがては髪に戻るはずだ。

 そうしておいて、トシュは薬屋の扉を叩いた。

 

 偽物だよ、とジョイドは断定したのだった。外から響く呻き声は、トシュのものではないと。

「変身を解いたか、少なくとも自分の声で喋ったんだろうね。それで、一度聞いた声は真似できる手下がいたわけだ」

 そう言われても、それならやはりトシュの声そのものにしか聞こえないわけで、偽物だと判断できる要素はないのではないか。

「気持ちいいものじゃないけど、よく聞いてごらん。トシュっぽい声ともう一つの声は、絶対、同時には聞こえないから」

 恐る恐る耳を澄ませば、その通りではあった。

「正念場だよ。君が万一のこともあると思って出ていってしまったら、これまでのことが無駄になる。君を(さら)われて人質にされたら、あいつだって勝てるものも勝てない」

 そうしてセディカ姿のジョイドが外へ出ていくと、高笑いが響き渡った。どこか自棄(やけ)っぱちなようにも聞こえたのは気のせいだろうか。

「〈霊王〉様を捨てるからだ、愚かな人間どもめ!」

 聞いたことのない声が吐き捨てた後は、長いこと、何もなかった。キイは何だかやる気満々でセディカを見張っていて、セディカが外の様子を見てくるとでも言い出せば、出番とばかりに嬉々として殴り飛ばしそうだった。

 外から子供らしい声が聞こえてきたとき、一同は顔を見合わせて、その言葉を信じたものか疑ったものかと迷った。ノックを聞いて用心しいしい扉のすぐ内側まで従伯父(いとこおじ)が出ていき、トシュとジョイドの声が帰還を告げたときには、これは果たして本物か偽物かと、なおのこと悩まなければならなかった。ああそうか、とジョイドが手を打ち、合い言葉ぐらい決めておけよ、と事情を聞いたトシュが嘆息する。そのやり取りは、二人らしかったけれど。

「どうしたもんかね。ミクラのお嬢さんよ」

「……あ」

 その呼びかけは、セディカには思い当たるところがあった。

「何、ミクラって」

「細かいことはいいじゃない。——本物だと思います」

 キイの真っ当な疑問を退けて、セディカは従伯父に頷いた。従伯父は下がっているようにと身振りで指示してから扉を開けた。

「片づいたよ」

 中へ入ってきたトシュは、真っ先にジョイドの顔に手をやって仮面を剥がした。自分の顔がのっぺりとした仮面に変わり、さらに乾いた土(くれ)となってぼろぼろと崩れていくのは少々不気味ではあったが、それでやっとジョイドの姿が現れたのにはほっとした。表情の動かないもう一人の自分というのは、やはり、どうにも、怖かったので。

 (うなが)されて、外に出た。遠近感がつかみにくいが、河の上空と思われる辺りに、大きな、優しげな、女性の姿が見えた。出ておいで、出ておいでと甲高い声があちこちから響き、家々から人々が誘われるように現れている。ひょっとしたらこのとき、〈高寄と高義と高臥の里〉の全ての人間が外に出て、女神の姿を仰いでいたのかもしれない。

 それが恐ろしいものに見えず、不自然なものに見えず、厳かな、敬(けん)な、澄み渡った気持ちを呼び起こしていることが、本物であることを証明しているようだった——というのは素人考えで、力ある偽物には装えるのかもしれないけれど。少なくとも今は、トシュとジョイドがわざわざ見せたのに、偽物や悪者ということはないだろう。

「あれが俺のご本尊ってわけだ」

 言って、トシュが鼻を()く。セディカはつい、その額に目をやったが、別に光ってはいなかった。

 やがて、何を以て区切りとしたのか、女神は空に吸い上げられるように、溶け込むようにして消えていった。夢から覚めたように人々は周囲を見回し、みな同じような反応をしていることから夢ではなかったらしいと認めた。

「——(まこと)の〈通天霊王〉は(にえ)を求めぬ」

 セディカの知らない老人が重々しく言った。

「捧げるならば、そうじゃの。語りを。歌を。楽を。舞を。同じ事態に見舞われぬよう。弱き者を守ったこと、強き者を認めたこと、正しき者を見極めたことを、伝えるため、教えるため、確かめるため、戒めるため。忘れぬため」

 服も髪も、眉までも白い、深みのある声をした老人だった。

「雨風は操れんがの。〈通天霊王〉は〈高寄と高義と高臥の里〉のよき隣人たろうよ」

 そう言って——老人も、消えた。

 今度はざわめきが起こった。明らかに夢ではなく、目の前の現実であったからだ。

「何だい、〈通天霊王〉ってのは文学や歌が好きなのか?」

 騒ぎ始めようという人々の間で、トシュが大袈裟に肩を竦める。その言いようが意味するところをしばし考え、セディカが目を(みは)ると同時に、キイが頓狂な声を上げた。

「今のが本物だって?」

「珍しいもんを見たな、少年」

 青年はにやりとした。

「おまえの再従姉(はとこ)はもう大丈夫だよ。——そろそろ、こいつにひっついてないで、おまえのちびさんたちの顔を見に行ってもいいんじゃねえか」

 イッシャとカンを助けてくれと、そもそもは駆け込んだのだった。随分昔のことのような気がする。

「おまえの頼み、これで果たせたと思うが」

「——うん」

 いつになく素直な様子で、キイは頷いた。

「ありがとう」

 

 青年たちと少年少女は、昨日の昼過ぎのように寺院へ向かった。キイはまずイッシャとカンのいる部屋を訪れて、二人の母親たちとも少し話し、事は片づいたと速報を入れた。それから四人は、院主と役人と二人の僧侶と、あのときと同様にあのときの部屋で、向かい合った。

 トシュは偽の〈通天霊王〉を〈慈しみの君〉が連れ去ったこと、本物の〈通天霊王〉が戻ったことを伝えた。偽の〈通天霊王〉の正体は怪魚であったとのことだった——そう聞いたセディカは、「怪魚」の実態がまさか金魚であるとは思わなかった。

「このご恩、どのように報いればよいか」

「俺らも手は貸したが、上手くいったのは元々あんたらが筋道をつけといてくれたおかげさ。そうだな、後は〈通天霊王〉の言うように、物語仕立てにでもして教訓を後世に伝えりゃいいんじゃないか」

 院主の呟きに対する返事はそうしたものだった。

 このときから少しずつ、〈通天霊王〉は芸術を推奨する神とも見()されるようになっていく——かどうかは、セディカならずともわからないことだったが。

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