その声を聞く この手を伸ばす 兎の章   作:古今いずこ

8 / 16
死者への言及が含まれます。ご注意ください。


第8回 妖怪の参戦 人間の奮闘

 当事者であるという実感が湧かない、とセディカは思った。〈通天霊王〉の要求をはねつけた場合、ひょっとしたら報復に殺されるかもしれないのは、自分——なのだ。自分を含む、のだ。子供たちが犠牲にされようとしていたのは、自分のため、だったのだ。この里に暮らしている以上、セディカのためであり、セディカのせいであった。自覚はどうにも、弱いけれど。

 二人で少し(ささや)き合った後で、トシュは外へ出ていった。ジョイドは院主と共に講堂へ向かい、子供たちに、実質的には保護者たちに、夜が明けるまで寺院で過ごすよう伝えるとのことだった。子供たちを捧げろと要求されている、と愚直に明かせばパニックになるだけだから、暦の吉凶に(かこつ)けることにしたようだ。〈通天霊王〉の復活という大きな吉事から十年目の今日は、その反動で凶が極まるとか、特にこの期間に生まれた子供たちにとって不吉であるとか何とか言って。

 集めた子供たちを(だく)(だく)と差し出すか、報復の可能性に目をつぶって籠城するかと苦悩しながら、両方の準備を並行して進めてあったらしい。後者を採ると決まった今、誰彼が忙しく動き始めていた。講堂で夜を明かさせるのは子供が幼いほど厳しいだろうから、なるべく個室に移して泊まらせるようにと、集まってきた僧侶たちが指示を受けていた——乳児のいる家族から順に客室に移し、客室が尽きれば客室ではなくても人を泊められる部屋に移し、それも尽きれば僧侶たちの私室を一部融通するつもりのようだった。セディカの故郷の有名な寺院のように、毎日引きも切らずに近隣からも遠方からも参詣者がやってくるわけではないから、それだけの多人数を受け入れられる客室が用意されているわけでもないのである。

 先ほどの部屋は本部のようになって、セディカとキイは近くの別室に移された。つまりここが二人に割り当てられた避難所ということになる。しばらくしてイッシャとカンも使用人と共に連れられてきて、キイは泣き出さんばかりになって四人を戸惑わせた。四人と一緒に姿を見せたジョイドは、隣りの部屋にいるからとセディカに言ってから消えた。そういえば筆や墨や(すずり)を持ち込んでいるようだったから、護符に取りかかるのだろう。

 子供たちはよくわかっていないなりにキイを慰めたり励ましたりしていた。どこまで話してよいものだろうと線引きに苦心しながら、セディカは使用人たちと多少喋った。張り合おうとしたわけでもないが、先日トシュと共に行き合ったあの三姉弟はどうしているだろうと、ふと思う。体の弱い母親は、自ら寺院まで出向けただろうか。

 イッシャとカンの両親も駆けつけてきた。子供たちに飛びついた女性はどちらも実の母親なのだろう。セディカの従伯父(いとこおじ)から事情を聞いているはずだから、〈通天霊王〉の要求を知っているわけである。六十歳前後になる父親たちは、それでも流石(さすが)に、若い(めかけ)よりは自制が()いているようだった。

「人数が人数だ、食事と寝具が足りないのではないか。少しばかりだが、提供しよう」

 案内の僧侶に申し出たのはイッシャの父親と思しき方で、つまりノヴァ家の当主ということになる。助かります、と僧侶は言葉通りの表情で答え、当主と弟はもう一度我が子を抱き締めてから、その手配のために帰っていった。お手柄だったそうだなと、キイに声をかけて。

 イッシャが母に抱かれているのを見ているうちに、セディカはふと辛くなって廊下に出た。八歳、と具体的な年齢を聞いているせいかもしれない。ちょうど、セディカが八歳のときに——セディカの母は、死んだので。

 廊下は無人だった。セディカは壁に(もた)れると、ジョイドのいる隣りの部屋にちらと視線を投げた。他にも何人かの僧侶が、護符作りを手伝っているはずだ。

 トシュが助けてくれると思った。ジョイドも来ているとは知らなかったが、同じく力になってくれると思った。何も二人が無敵に見えているわけではないけれど、二人がいるならと安直に思うことができた。

 だが——二人だけでは、なかった。

 寺院の人々も、役所の人々も。事情を知ってすぐさま、自分にできることを見出した、ノヴァ家の当主も。子供たちを、里の人々を、叶うなら全員、守ろうとしている。方士たちの協力が不可欠であったには違いないにせよ、突如現れた英雄が一切合財を片づけるわけでは、なかった。

 それはそうだ。トシュとジョイドだけが人を救えるわけではないし、世界はセディカの知り合いだけで構成されているわけではない。

 ……もし、故郷にいた頃に同じことが起こっていたら。どうしただろう。父は。——自分は。生きていたら、母は。

「どうしたの」

 戻る気配がないからか、キイが追いかけるように出てきた。

「何でもないの、ちょっと疲れただけ。……キイこそ、大丈夫なの」

 訊き返したのははぐらかそうとしたのではなく、イッシャとカンが守られることになった割には、キイがあまり安心しているように見えなかったためだ。勿論(もちろん)、神と思ってきた〈通天霊王〉に楯突くわけだから、自分が戦うのでなくとも不安になるものだろうが。

 数秒、キイは黙った。

「あんなこと、母様は絶対言わないなって思って」

 何を指しているのかすぐにはわからなかったが、思い当たるとはっとした。

「ご当主が(おっしゃ)ってた、こと?」

「ちょうど(うたげ)の準備があるから横流ししようってことなんだろうけど。なんで……ノヴァ家のものなのに、関係ない人たちに取られなきゃいけないのって、母様なら」

 セディカの父もそういう風に考える人間だった。だが、それでセディカは傷つかない。恥だと感じ、(さげす)み、憎みこそすれ。だが、キイは。

 視線を落として、しばし。

「母様が……放っとけばよかったのにって言ったらどうしよう。イッシャとカンを差し出しとけばよかったのにって」

「……キイ」

 キイの言い分しか聞いていないセディカには、それが妥当な想像なのか、被害妄想や中傷に近いものなのかは判断できない。ただ、キイが本気なのだろうことは察せられた。セディカが確信を持って、父の言いそうなことや考えそうなことを推測するように。

 何を言えば、励ましになるのだろう。あるいは、慰めになるのだろう。

「……まだ、言ってないでしょ。言われたときに考えればいいわ。今は……キイのおかげで、イッシャちゃんやカンちゃんが助かったことを考えましょうよ」

「僕は丸投げしただけだし」

 否定するキイに、セディカは首を振った。

「丸投げすることもできなかったのよ。キイがトシュのことを思いつくまで。助けたいって思ってる人がたくさんいても」

 結局は、トシュとジョイドがいなければどうにもできなかったのだ。二人がいて初めて動けるようになったのも事実なのである。

 キイが繋いだ、起死回生の希望。

「本当に助かるかどうかだってわかんないじゃん」

「それは大丈夫よ。トシュとジョイドが来てくれたんだから」

 セディカは言い切った。これに関しては信頼と確信というよりも、キイを力づけたいための発言だった。

 

 しばらく様子を窺ってから、トシュは眉間に(しわ)を寄せた。同じ呪文をこれで三度も唱えてしまったが、何も起こる気配がないのだ。

 寺院の方はジョイドに任せて、トシュは寺院の外でできることをするつもりだった。まずは里の東西南北に、里全体を守る術に用いる、呪文を書きつけた杭を地面に(もぐ)るまで打ち込む。南方の境界をどこに設定するかは悩ましかったが、南端を一ヶ所決めるだけではどうにも上手くいかないので、畑を守りつつ(やしろ)への道筋は空けておけるように、複数の杭を打ち込んででこぼこの境界線を作った。

 次いで、土地神を呼び出そうとしたところが——反応がない、のである。

 土地神を召喚して客観的な情報を得るのは、こういった騒動に首を突っ込んだときのトシュの常(とう)手段であった。十中八九、〈通天霊王〉の正体は妖怪だろうと思うけれども、本物の河の神を呼び出すよりも、土地神にしておいた方が安全だろう。万に一つ、〈通天霊王〉が本物の河の神であったら困る。

 河の神を騙る妖怪であれ、真実河の神であれ、その(ほとり)にある里に無体な要求をしたからといって、その里がある土地の神が抗議するようなことはあまりない。河にせよ土地にせよ、里とは無関係に——人間が住み着こうと住み着くまいと無関係に存在していて、本質的には人間の存亡も栄枯盛衰も知ったことではないのだから。が、それでも、人間が農作物でも何でもない雑草の花を愛でたり、踏み潰されたのを見て哀れがったりするのと同程度には、人間が暮らす土地の神はその土地に暮らす人間を気に懸けているものだ。勿論、そういった神々の実感がトシュ自身にわかるわけではないが、何があったのかと問えば答えが返ってくる、即ち事実を把握していることは経験上わかっている。

 そういった地上の神々、自然の神々は、地域によっては精霊扱いされていることが示すように、神としては下級に当たった。天の神々や冥府の神々の方が上級に当たることは論を()つまい。人間が人間内部に設けた序列と違って、そこには実際、上下がある。土地神は——仙術を用いて呼び出すことができるような、存在なので。

 とはいえ、純粋な力量としては、土地神を召喚して使役するようなことはトシュには難しい。トシュの召喚に土地神が応じるのは、祖父の名を呪文に含めて権威を借りているからだ。かつての祖父は大陸中を(かっ)歩して、強大な神通力をよいことに、土地神でも河の神でも山の神でも()き使っていた。そのために今でも恐れられたり(おび)えられたりしていて、祖父の関係者に呼ばれたとなると、神らしくないほど慌てて飛び出してくるのがそうした神々の常なのである。恐らくは〈慈愛天女〉のせいで、初めて呼び出される側に立ったばかりのトシュとしては、呪文を唱えながら複雑な気分にならざるをえなかったが。

 ……が、その呪文が——効いていない。

 トシュの力不足ではない。最初からトシュの力ではない。祖父の名が通用していない、のだ。祖父を恐れていないのか、恐れ以上に恨みや憎しみが強いのか、それとも——。

 祖父よりも、恐ろしいものがあるのか。

「弱ったな」

 口に出して呟いた。見込んでいた情報収集ができないことになる。時間もないのに、これでは——まあ、実は裏に思いがけない事情があったとしても、調べようがなかったのだという言い訳は立つが。

 院主たちの前では大見得を切ったものの、実を言えば水辺や水上や水中は苦手で、そういう意味でも不安があった。身内の中には水に強い者もいるけれど、相談すれば一肌脱ぐ気になってくれそうな相手でも、この場に呼べるのでなければいないと同じである。

 トシュは一つ息を吐くと、雲を起こして空高く舞い上がった。では、行こう。

 いずれにせよ、助力を求めるつもりではあったのだ。面倒事にぶつかるたびに他者に頼るのは考えものだけれども、自力で解決することに拘泥するようでも本質を見失っていよう。キイがトシュに助けを求めたように、必要なら応援を頼むべきだ。

 (もっと)も——自信がないというのとも、少し、違う。

 子供をごっそり奪い去ろうという、規模の大きさ。

 人間同士だって、一人殺す者よりも十人殺す者の方が、一人ずつ殺す者よりも十人まとめて殺す者の方が、普通に考えて凶悪だ。自分の手には余るのではないかと腰が引けたのではなくて、一妖怪の私刑で片づけるのは(はばか)られる気がしたのである。

 それに——雑さも、気になる。いい加減さ、と言おうか。全員、という大雑把さ。豚と羊は十頭ずつだったのに、その代わりと銘打った童子童女は十人ずつではない適当さ。

 調べられることは調べて、目星をつけた上でと思っていたけれど。やむをえまい。どうせ自分のプライドの問題であって——向こうは何もかもわかっているに違いないのだし。

 〈慈愛天女〉を、呼んでこよう。

 

 〈慈愛天女〉の居館は大陸南端のさる高山にある——とは、常識とまでは行かずとも、その次くらいに浸透している知識である。天の神であるからには天に本拠があるわけで、それはその山の上空に位置する——という言い方は不正確だろう、地上の延長として天上を(とら)えるのがまず間違っているはずだ。ともあれ、〈慈愛天女〉は南天におわす、というのもよく知られた文言だった。勿論、女神の呼称は〈慈愛天女〉であったり〈慈悲神仙〉であったり〈慈しみの君〉であったりするのだけれど。

 鳥がただただ山の真上を目指して飛んでいっても天には到着しないはずで、雲を駆って天まで飛んでいけるのは高度な技術ではあった。だからといって、優秀な自分に浮かれて気軽に赴くような場所ではない——天は。

 ではあるが、トシュはつい先日、立て続けに南天を訪問していた。一度目はマオを救おうと(ほん)走していたときに。二度目は、救えなかった、後で。

「何が慈悲の神だ」

 あのとき、狼の息子は不(そん)にも言い放ったのだった。スーラに訃報を伝えた、その足で乗り込んで。天まで飛ぶ技術があったとて、八つ当たりで天の神に殴り込もうと考える者もそうそうあるまい、祖父と父とを後ろ盾に思い切ったことをするものだと、頭のどこかで自分に呆れてはいた。

「なんでマオを助けてくれなかったんだとは訊かない。あんたが無理だって言うなら、本当にどうしようもなかったんだろうよ」

 嫌味ではない、あれは本心だ。そう言われても受け入れられずに他を当たったのは確かだが、それだってその通りだったと身に()みる結果に終わったわけで。

「生き返らせることは?」

「横死じゃないもの」

「あんたじゃなくても、駄目か。〈太老〉とか」

「気の毒だけれど」

「そうか。わかった」

 溜め息が()かれた。八つ当たりだと自認しつつ押しかけてきたのは、そこに一()の望みがあったからだ。けれど、まあ、そう上手い話もない。急いで来た甲斐もなかった。

「なんで……生きてることを教えてもくれなかった。あんただけじゃない。知ってて……俺らと顔を合わせる機会もあったのに」

「何もかもを話してやるわけにはいかないのだけれどね」

 女神はゆったりと答えた。

「我々とて、思うままに地上に干渉できるわけではない。そんなことをすれば、地上は天神の遊び場になってしまう。わたしはそれでも、積極的な干渉を地上からも天上からも望まれている方だけれど」

 それはトシュもよくよく知っていることであった。〈天(せい)〉が祖父を訪問するのは祖父が才ある妖仙だからであって、つまり特例、例外なのだけれども、〈慈愛天女〉はもっとフットワークが軽く、地上のあちこちに頻繁に姿を現したり、自ら赴かないまでも救い手を遣わしたりする。だから人間社会においても、それも庶民の間でも、人気が高いのだし——トシュとも、面識があるのだ。

「現世まで引きずってきた前世の罪業を、ようやくきれいに清算しようとしているところなのに、敢えて邪魔をすることはとてもできないよ」

「前世前世と」

 これには顔を(しか)めた。

(つぐな)いきらずに生まれてきたってやつをやめてくれよ。なんであの世にいるうちに片づいてねえんだ」

「愛しいものと引き裂かれる痛みでしか、埋められない過ちもあるのだよ。盗人を(むち)で叩いても、盗品を返さなくてよいことにはならないだろう」

 愛しいものと引き裂かれる痛み。

 それは結果的に、想いの強さを認定することにもなろうか。引き裂くに足る恋であったと。ジョイドと恋に落ちたからこそ、別れの苦痛が深くなり激しくなり、ために長らくまとわりついてきた罪から解放されたのだとしたら——それは、慰めになるものだろうか。

「足し算や引き算で求められるものではないからね。元より、地上の者たちに攻略できてはいけないことなのだから、これくらいしか話せることはないよ」

 トシュに甘い女神は、しかしけじめの線を引いた。

「……ジョーがマオのために祈ってんのを、どう思って見てたんだ。どいつもこいつも」

「祈りはちゃんと受け取られているよ」

 今度のフォローは短かった。

「おまえたちを見捨てたのでも、おまえたちと近しいからとあの子も見捨てたのでもないよ。安心おし」

「……そうは思ってねえけど」

 見せつけるつもりではなかったが、遠慮もせずに嘆息して、トシュは神の前を辞したのだった。

 マオを助けてくれなかった。助けられなかった。それは確かだ。前世の報いだなどと言われても、本当のところはわかりはしない。けれど。……信用している、ので。嘘も()()()しもなかったのだろうと、思っている。

 それでも、理不尽な恨みはあって。償わせてやる、というような気持ちがあることは認識していた。マオを助けられなかった埋め合わせに、今度こそ力を貸さなければ承知しないぞと。

 

 寺院に戻ったトシュは、まっすぐジョイドのいる部屋を目指した。ジョイドは一心に護符を描いていた。寺院なのだから、護符用の白紙の用意はあるわけだ。他にも僧侶が二、三人いて、ジョイドが描いたものを見本に同じ護符の製作にかかっていた。

 トシュは指でくいとジョイドを招き、廊下に出てきてドアを閉めるのを待ってから顔を顰めた。

「当てが外れたわ。ここのやつも出てきやしねえし、南のやつも留守だとよ」

「留守?」

「朝から出てると。伝言は置いてきたからここぞってときにご降臨くださるかもしれねえが、来ないつもりで考えるべきだろうな」

 マオの元へ戻れと告げに来た、あの緑の衣の女性がいたので、委細を話して託してはきたが。今朝方お出かけになりました、と言われたときの脱力感といったら。

 全く以て、フットワークの軽い神、だ。この神に救いを求める者はいつでもどこにでも幾らでもいるだろうし、留守にしていることも当然あるだろう、何ならしょっちゅうだろう。だが、よりによって、今日か。今朝か。

 天上の一日は地上の一年である、という。が、地上で言う春が天上では朝になるだとかいうことではないから、今朝と言ったからには地上で言う今朝だ。大体、トシュに伝えるためなのだから、トシュに合わせた言い方をするだろう。

 しばし黙っていてから、そうなると、とジョイドは小首を傾げるようにした。

「〈高寄〉のことは君に任せられるから、安心して他のところに行ってるっていう可能性が出てこない?」

「……セダの呪文もそのためかよ」

 トシュは天を仰いだ。全部想像だけどねと釘は刺されたものの、この里で何か不穏なことがあったらセディカがトシュを呼び出すだろう、という計算だったとしても驚かない。

 驚かない、が。何から何まで手取り足取り、一から十まで教えろと甘えたことは言わないが。トシュをこう動かしたいという意図があるなら、説明なり指示なりするべきではないか。何分、神なのだから——このような状況に置かれたらどう振る舞うかと、言うなれば試す権利も、それは、あるにせよ。

 ともあれ、助力は得られないと考えるべきだ。〈慈愛天女〉が駄目なら〈天甥〉に頼み込んでみようとか、祖父に声をかけてみようとかいう問題ではない。〈慈愛天女〉が別格なのだ。……あるいは、マオも。

 ふと、トシュはジョイドをみつめた。

 いつもの調子で、動いていたが。……いつも、と言えるほど()()んだことではあるが。マオを今度こそ、二度も、失ってからそれほど経たないのに、……他人の救助に尽力する気になど、なれるものだろうか。

 あるいは、こうしたことに打ち込んでいた方が、気が紛れるのかもしれないけれど。

「何?」

「いや。……いいだろう、親父の息子の腕を見せてやる」

 強き古狼の息子はそう言った。狼の血が最も濃い青年は自分を狼と認識していたから、それは自然なことであり、それこそいつものことだった。が、土地神を呼び出せなかったばかりの今このときに、祖父の孫であることの方は誇りにくかったという面も、ひょっとしたらあったかもしれない。

 

 トシュが戻ってきた。引き戸を開けたトシュの前へ飛んでいきながら、これでは相当心細かったようではないかとセディカは思った。

「おまえの家にも行ってきた。おまえは出歩かずにこのまま寺院にいた方がいいだろうと言っておいたが、帰りたいか?」

「大丈夫」

 今の家族が恋しくないわけではないが、一緒にいないと不安で(たま)らないというほどのことはなかった。神経が(たかぶ)っているためかもしれないし、キイがいるからかもしれない。帰りたいと言えばトシュが警護につきそうで、遠慮されたところもあった。

「おまえは?」

「僕も、ここがいいな」

 キイもそう答えた。

 少しの間、トシュの視線はキイの上に(とど)まった。自分の家族のことに触れなかったと気づいたのかもしれない。思い切って何かを打ち明ける様子がないか少し窺って、が、何もなければ再び仕事に戻るつもりだっただろう。

 ちょうどこのときを狙ったかのように、ばたばたと廊下を急ぐ足音がしたのは、小さな偶然だった。それで変化したのはせいぜい、そのことを知る順番程度であったろうが。

 役人に案内されて現れたのはスチェだった。

「トシュどの」

 セディカとキイにも目を留めてはっとしたものの、大変です、とトシュに向かって続ける。気配を感じてか、ジョイドも隣の部屋から出てきた。

「広場に、大きな……人が乗れるくらいの、赤いお盆が降ってきたんです。空から」

「空からだって? 怪我人は?」

 スチェは首を振った。下敷きになったりぶつかったりして、人や物が損なわれる被害はなかった、というが。

 一度逃げ出し、それから恐る恐る集まってきた人々は、盆の表面に黒々と記されているのが、模様ではなく文字であることに気がついた。いささか古風な書体であったが、現代人に読めないような古代の文章であるというわけではなかった。ただ後ろにいて見えない者たちのために、前にいた誰かがそれを読み上げた。

 〈通天霊王〉が命ず。

 豚に代えて、九歳に満たぬ童子を全て捧げよ。

 羊に代えて、九歳に満たぬ童女を全て捧げよ。

 あるいは、童子童女に代えて。

 二十歳に満たぬ、帝国の血を引く者を一人、捧げよ。

 ——最後の一文、新たな選択肢に、息を呑んだのは誰だったろう。今初めてこれを聞いた、トシュ、ジョイド、キイ、それにセディカは、四人が四人とも同じことを思いついたに違いなかった。

「——わたし……!?」

 自分の口から、その言葉がこぼれた。

「それが狙いか!」

 トシュが怒鳴った。

 帝国。

 セディカの——生まれ故郷。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。