犬走椛は仕事中は、基本的に時計を持たない。体内時計と腹の虫が、時間を教えてくれるからだ。また神経を尖らせて、時間を感覚で掴む事も修行だという彼女特有の哲学からも来ている。それでも誰も彼女を咎めないのは、彼女が時間に正確であるが故だろう。それにいざとなれば千里眼で他人の時計を覗く事も出来る。
グゥ、ギュルルルル
「あぁ、お腹減った。そろそろ変わりが来る頃ですし、お昼は何を食べましょうか?」
いつものように警備をしている椛の腹の虫が、昼時を告げた。その時、その事件は起こった。いやそれは事件と言うには、あまりにも小さな事だが、犬走椛という人物を語るのには、うってつけのものなので、このエピソードを紹介したいと思う。
「ん?あれは」
交代の引継ぎのために、千里眼で状況をチェックする椛の視界の片隅に、白狼天狗の少女が、鴉天狗の青年に言い寄られている光景が飛び込んできた。
「見過ごせませんねこれは」
椛はその場所まで一気に駆けつけた。
「あ、あの、やめて下さい。その、夜勤明けなので・・・」
「だから、可愛がってやろうってんじゃないの?君さ、見たところ新人だろ?俺は鴉天狗の中じゃ、それなりに地位のある家系でさ。その俺の眼に止まった君は、ラッキーってことだよ。俺の誘いを断らない方が、君のこれからのためだぜ?」
鴉天狗の青年は、締まりのない笑みを浮かべ、白狼天狗の少女の逃げ道を塞ぐように、木に手を突いている。男がしゃべれば、鮭の臭いが彼女の鼻孔を突く。どうやらかなり飲んでいるようだ。
「そ、そんな横暴な・・・、いや、やめて・・・」
「そういう反応する女の子を無理矢理ってのは、嫌いじゃぁないんだよなぁ」
「そ、そんな・・・ひっ」
男は片方の手で少女の背中に手をやる。少女は凍り付いたように動けなくなり、その頬を涙がつたう。それが男を余計に興奮させる事を知るには、少女はまだ幼すぎた。
「そこまでですよ」
「な、だ、誰だ!」
「日中堂々と、嫌がる女に何してるんですか?発情期ですか?」
「も・・・もみ」
「おっと、あなたは下手にしゃべらないで下さい。自分の身も守れないのなら、黙って震えていて下さい」
椛は自分の名前を叫ぼうとした少女に、冷たい声をかぶせる。
「誰かは存じないが、見なかった事にはしてもらえませんかねェ?」
来た相手が白狼天狗の、しかも女だと知ると、男は馬鹿にしたような笑顔を浮かべる。しかしそれでもこの男は鴉天狗のそれなりの実力者である事は間違えなかった。椛の事は知らないようだが、それでも目の前の震えているだけの少女よりも別次元の戦闘力を持つ事は察した。
「ここで引き下がるのなら、最初からここへは来ませんよ。それよりも、彼女は嫌がっています。あなたは見たところ、貴族のご子息様ですね。そのような高貴な身分の方が、白狼天狗の、しかもまだ新米の少女を強姦しようだなんて、お家の名前に傷が入るのではありませんか?やめて下さるのなら、私は何も見なかった事にします。ここは手を引いては頂けませんか?」
椛は剣と盾を地面に置き、笑顔のまま男に近づく。
「ふん、まあそうだね。君はなかなか交渉というものがわかっているじゃないか」
(見れば見るほど締まりのない顔。しかも酒臭い。それとは釣り合わない立派な天狗装束。確かこいつは黄名家の次男ですね。女癖が悪く、鴉天狗、白狼天狗、気に入った女性を家に連れ込むというあの。それでも鴉天狗としては中級クラス・・・)
「でも詰めは甘いようだねお嬢さん。彼女を逃がすのなら、君が俺の相手をしてくれるのかい?見たところ、君も俺の好みだしさ」
「褒めて頂けて光栄ですが、白狼天狗は、鴉天狗、それも貴族の鴉天狗様とは違って、容姿なんてみんな似たようなものですが」
「あはははは、うまい事を言うお嬢さんだ。ますます気に入った。よし彼女は諦めよう。その変わり君が俺の相手をしてくれ。とりあえず名前を聞こうか?」
「貴族の方に名乗れるような、立派なものではございません」
「謙虚だねェ。それに部をわきまえているときた。白狼天狗でも、少しは良い教育を受けたお嬢さんだと見受けるねェ」
男は少女を解放し、一瞬で椛の眼前に現れて、その腰に手を回そうとする。が、椛も素早く背後に下がり、それを回避する。解放された少女は、力なくその場に座り込んでしまった。
「良い動きだね。ますます欲しくなったよ君が」
「お戯れを。私はまだ仕事中です。いくら貴族の方とはいえ、任務中の白狼天狗を妨害する事は、掟で禁じられているはずですが?」
「そんなのは、パパがどうにでもしてくれるよ。でもまぁ、君の言う事も一理はあるな。実際君ら白狼天狗のおかげで、俺たちの生活が成り立っているわけだし。よし、ならば今夜ディナーをどうだい?そのあとは、わかっているね?」
男の眼光が怪しく光り、椛の背後にある木にドンと音を立てて手を突いた。
「わかったのなら仕事に戻りな。だが、今夜は逃げるなよ?そうだ、名前を聞いておこうか?」
「あなたこそ、私が笑顔で対応している間に、回れ右をして、さっさとこの場から立ち去って下さい。今ならば何もなかった事にしてあげますよお坊ちゃん」
椛のこの言葉で、男の眼は更に怪しく光り、露骨に表情が怒りの色に変わっていく。
「人が優しくしてやればつけあがりやがって。白狼天狗、しかも女の癖に!いいか無知なお前のために教えておいてやるから、その腐った脳みそに叩き込んでおけ!俺は黄名 丸千代様だ!あの黄名家の次男だ。俺がその気になれば、お前みたいな小娘なんかどうとでも・・・」
「私は犬走椛。白狼天狗部隊総隊長及び、大天狗様、次期大天狗補佐を務めています」
「へ?」
椛の表情が引き締まり、男を睨みつける。男はその気迫と、椛の肩書を聞くと、怯えて背後に下がり尻もちを着いた。
「黙って聞いていれば言いたい事をペラペラと。そんなに女が欲しいのなら、パパの権力ではなく、自分の魅力で口説いてみたらどうですか?それとも、今ここで私と勝負してみますか?もちろん私は素手で構いません。私が負ければ、詫びとして、あなたの言う事をなんでも聞きましょう」
椛が一歩踏み出すと、男は慌てて一歩退く。
「こ、これだから野蛮な白狼天狗は嫌なんだ!なんでも戦いで解決しようとして・・・」
「野蛮で結構です。我々白狼天狗は力こそがすべてですからね」
「お、お前なんか、パパの権力で潰してやる! い、いいかよく聞けよ、パパは飯綱丸を失脚させて、大天狗になるんだ!そうすればお前なんか・・・!い、今なら・・・」
「なんだと・・・!」
「待っていましたよ。その言葉をね」
椛の顔色が変わった瞬間、ビュンと突風が吹いた。 そこには射命丸文がいた。
「な・・・!!しゃ、射命丸・・・さま」
男は尻もちをついたまま、真っ青になり、慌ててその場から逃げようとする。が男の背後に椛が回り込んだ。
「今度は私が、あなたを逃がしませんよ」
「く・・・!」
「黄名さん、あなたの先ほどの言葉は、すべてこのテープに録音させて貰いました。勿論これをどうするかは、私次第です。しかし飯綱丸様を失脚させると言うのは、流石に聞き捨てなりませんねェ」
射命丸文は玩具でも貰った子供のように、テープを手の中でくるくると回してみせる。しかしその口元は笑っているが、目は笑っていなかった。
「まあ、今すぐ何かをしようとは思いませんが、しかしそれは、あなた次第かもしれませんねェ」
「わ、わかった、わかりました!これからは変な事はしませんから!だから・・・!!」
「ならば。このテープはとりあえず私が預かっておきますよ。今日の所は、ここまでにしましょうか?」
「い、いえ、テープはこちらへ頂きたいと・・・。そのお金なら・・・」
男は両手をこすり合わせながらゆっくりと立ち上がる。
「私の言葉が理解出来ないようですね?」
文はニコリと満面の笑みを浮かべた。次の瞬間には、ここらへん一帯の重力が倍増したのではないかと思うほどの、圧倒的な妖力が、その場を支配した。黄名はもちろん、椛の表情までもが、一瞬で凍り付いた。
「私が笑っているうちに、回れ右して消えろと言っているのですよ。さもなければ、わかりますね?」
「あ、あが、あががが・・・!!ち、ちきしょう!!」
男は震えでうまく立てないまま、バタバタと必死で羽根と手足を動かし、そのまま逃げ去った。
「フン」
文は男の気配が消えた事を確認すると、力を元に戻した。
「椛、見事でしたよ」
椛が武器をしまったのを確認してから、文が口を開いた。
「いえ、殆ど文さんが片付けたじゃありませんか。私なんてまだまだです。しかし黄名家の良い話はあまり聞きませんが、飯綱丸様を失脚させようとまで考えていたなんて・・・」
「あの家の当主は昔、飯綱丸様が大天狗になられる時に、自分こそがその器だと、天魔様に主張しましたが、受け入れられず、むしろ飯綱丸様に、裏でやっていた色々な事を告発され、大貴族の座から落ちぶれた身です。長年動きがなかったのは気になっていましたが、やはりまだ飯綱丸様を恨んでいたようですね」
「追い詰めなくてよかったのですか?」
「息子は知りませんが、当主は狡猾ですからね。下手にこちらから手出しをしない方が良いです。とりあえずこのテープは、私が預かっておきます。しかし椛」
文は椛の頭を優しく撫でる。
「それでも黄名家の隙を突けたのは、あなたのお手柄ですよ。よく頑張りましたね椛」
「はい、ありがとうございます」
「お昼休みは、まだ終わってないでしょう?よかったら、お昼一緒に食べませんか?」
「ありがとうございます。でも文さん、私にはまだやる事があるので」
椛はそう言うと、座り込んだまま、どうしたらよいかわからずオドオドしている少女に近づく。
「あ、あの・・・」
「まずは立って下さい。そして班と名前を言って下さい」
少女は木に捕まってなんとか立ち上がった。まだ腰に力が入らないらしく、フラフラとこけてしまいそうだった。最初はよくわからなかったが、よく見ると小柄で華奢な、戦士にまったく不向きな少女だった。
「あ、あの、助けて頂き、あり、ありがとうござい、ました」
「警備として、当然の事をしただけです。それよりも・・・」
「は、はい。F班の雛あおいと申します」
「F班。やはりまだ新人ですね。新人は連携を覚えるために、詰所での生活と、仲間との行動が定められているはずです。昼休みとはいえ勤務時間中に、どうしてあなたは一人でいたのですか?しかもここは新人が立ち寄っていい場所ではありません。あの男も許せませんが、あなたがルール違反をした事も事実ですよ?」
椛に詰め寄られて、あおいと名乗った少女は涙ぐんでうつむいた。
「人の質問に、涙で答えろと、あなたは教わったのですか?」
「えっく、ごめんな、さい・・・。私、私人見知りが激しくて・・・。今日も連携がうまくいかず、先輩に怒られて・・・。それで、一人で泣いてたら・・・、あの人に・・・」
「だいたい事情はわかりました。だけどそれが一人で行動していい理由にはならない事はわかりましたよね?」
「・・・はい」
「ならばいいです。詰所まで送っていきましょう。あなたの上司には、今回の事を報告しなければなりませんからね」
「はい・・・」
「文さん、ではちょっといってきます。昼食は・・・」
「仕事が伸びるのだから仕方ないですよ。私が言い訳考えますから、一緒に食べましょう」
「ありがとうございます」
椛はあおいを詰所まで送り、その上司に今回の出来事を報告した。そしてあおいと共に反省文と改善案を、明日までに作成し、自分に提出するように命じた。
「あぁ、づかれたぁ~~、お腹空いた~~~」
「あややや。見事な隊長ぶりとはうって変わった顔になりましたね」
持ち場の丘の上で、文と椛は遅めの昼食を始めようとしていた。
「貴族の相手なんて、正直やってられませんよ。それにあの子ずっと泣いてて・・・。あれじゃ私が弱い者いじめしたみたいじゃ、ないですか・・・。怖い顔するのだって疲れるんですから。何か食べたいのに、胃がムカムカする」
「そう思って、はい、これをどうぞ」
文が差し出したのは、笹の葉でくるまれた握り飯と沢庵だった。
「私の手作りです。それなら疲れていても食べられるでしょ?」
「まだ暖かい・・・。い、いただきます」
ずしりと重い笹の葉を広げると、椛の顔の半分ほどもある真っ白な握り飯が二つ登場した。
「い、いただきます!」
湯気と共に、炊き立ての米の甘い香りが鼻孔を優しく撫でる。椛は我慢できず、大きな口で握り飯にかぶりついた。
「ん~~~~!! ( ^)o(^ ) 」
「どうですか?炊き立ての米と、天然の塩です。あとは、椛が元気になるように、おまじないを込めて作りました」
「おいひいれす!!!」
椛は指に着いた米粒も、舐めるように口へ入れた。するとまた口から米粒がポロポロと指にくっつく。彼女はそれをも夢中で口へ戻す。
「ふふふ、口の中のものちゃんと飲み込んでからしゃべれよ。なんちゃって」
椛は、まだ口の中に残っているにも関わらず、更に大口で握り飯にかぶりつく。更に沢庵を口へ入れる。
「ング!!ゴホゴホゲホ!」
「ほらほら慌てて頬張るからですよ。はいお水」
「はうぅ~~、ゴクゴクゴク!!ぷは~~~~ぁ!!」
椛は一息ついたらしく、大きな深呼吸をした。その顔は幸せそのものだった。
「いやぁ、まさか塩むすびと沢庵と水が、こんなに美味しいなんて・・・。これならいくらでも入りそうです」
椛は残りの握り飯にかぶりつく。大きくなった頬が上下にゆれる。
「それはよかったです。ふふ、椛ったら、頬っぺたに米粒が付いてますよ。しょうがないですねェ」
「ンェ、あ、あやしゃん!!」
文は椛と顔がくっつきそうになるまで近づき、頬っぺたをつまんだり慣れだりする。
「ち、ちか、あやしゃん、近いれす!!それに、お米ならもう・・・」
「嘘ですよ。米粒なんて着いてませんよ」
「んが、にゃら、にゃんれ・・・」
「あはははは! 椛ちゃんったら、呂律が回ってませんよ。それになんでって決まっているじゃありませんか。椛の顔を近くで見たかったし、頬っぺたをプニプニしたかったからですよん♪」
「あ、あやしゃぁあん!!」
「あははは、そんなに大きな声出したら、お米が飛んできますって。本当に椛ちゃんったら」
「う、ごめんなさい・・・」
「ふふふ。それに、ごめんなさいより、言う事があるのではないですか?」
文がずいっと顔を近づけると、椛は頬を真っ赤に染めてうつむき、沢庵をポリポリとかじる。
「あ、あの、とても美味しかったです・・・。ありがとう、ございました・・・」
「もっと女の子が喜ぶような言い方をしてほしいですねェ」
文は悪戯っぽい笑顔浮かべて、横目で椛を見る。
「ひゅい!・・・その、文さんは、きっと、良いお嫁さんに、なれますよ・・・」
「そしたら、椛ちゃんの所に嫁ごうかな。うふふふふ」
「あ、はわわわわわわwwww!!文さんったら・・・!!」
「冗談ですよ。半分はね」
「え、最後、なんて??」
「お、食べ終わりましたね椛。ならばそろそろ仕事に戻りましょうか」
「あ、は、はい、そう、ですね・・・」
いつのまにか、椛は出されたものをすべて食べ終わっていた。さっきまでの胃のムカムカも無くなり、身体中に力が漲っていいた。心にも充実感が溢れている。
「文さんのおまじない、すごい効果ですね。白様顔負けですよ」
椛はニコリと満面の笑顔を浮かべる。
「それはよかったです」
文も満面の笑顔で返した。
それから二人はそれぞれの持ち場に戻り、再び上司と部下へ返る。 そこにはいつもの日常が広がっていた。犬走椛には、そのどれもが、ほんの少し新鮮で、色鮮やかに見えるのだった。
あとがき
ここまでのおつきあい、ありがとうございます。
最近、よく自分で塩結びを作って食べるので、今回はこのようなお話にしました。塩結び、漬物、美味しい水。疲れている時は、これだけでも満足できます。豪華で美味しいものが溢れているこの時代、皆様も、自分で塩結びを作ってみてはいかがでしょうか?
それでは、次回も宜しくお願い致します。 評価やご意見、ご感想も、お待ちしています。