藤の咲くその丘は、幼い頃の私のお気に入りの場所だった。
下総の御屋敷の生活に、生きていく上でおおよそ不満のようなモノはなかったけれども、華族であるという理由だけであらゆる世の中の猥雑から切り離されていた。
ひときわ好奇心が強い子供だった私にはいささか刺激不足だったのは否めない。
そんな場所からのささやかな逃避行は私の日課だった。下総から少し遠くの門前町までの道のりの、ちょうど中間くらいに小高い丘があった。色々な広葉樹が生い茂る雑木林であると
同時に、そんな木々に見事な藤が絡みついて初夏を彩る場所として、地元で知る人ぞ知る場所だ。
自分の名前にも含まれているその植物のことは好きだった。小ぶりな可愛い花が咲き誇るにしろ、青々とした葉が生い茂るにしろ、四季に追って折々の変化を眺め、体感することが好きだった。まるで自分の時間と同期するかのようにその藤の姿が移ろうのは、御屋敷に隔離された自分と世界の間の隙間を埋めてくれるようだった。
その日も、昼過ぎに御屋敷を抜け出して、その丘にやってきた。
椿の刺繍が入った赤い着物がはだけない様に、かつ追ってきた使用人を振り払える程度の速さで走るのは、少し神経を使った。
けれども丘までは誰も追ってこなかった。意気揚々と目的地についた私は、ひときわ大きな木の根元に腰を下ろして、まだまだ蕾の藤と共に春も半ばの空を見上げた。
「あとどれくらいで咲くのかしら」
誰に言うでもなくつぶやいた。ここに来るときはいつも一人だった。誰も来ない(これは経験則で学んだ)平日の昼間と時間帯も決めていた。一人で藤の茂る木の根元に座っていると、この藤を独り占めできていると思えた。
だから誰かに聞かれているとは思っていなかったのだけども。
「そんだな、あと1週間はかかるんじゃなさか?」
ふいに強い訛り口調で返されて、思わずそちらを見てしまった。
見れば、いがぐり頭の小さい男の子が腕組みをしながら私と同じように頭上の藤を見つめているところだった。その子は下ろしたてらしい、糊の効いたベージュのズボンにワイシャツ、それと青いチョッキを着ていた。その恰好は、この雑木林にいるよりは、町中にいたほうが自然に思える、いささか不釣り合いだった。
「……誰?」
心からの疑問が口の端からこぼれ出た。後にも先にも、平日の昼間に鉢合わせたのは彼以外いなかった。
「なあ、君ウマ娘だんべ? どごがら来ただのが?」
やや聞き取りづらいけれども、言っていることはわかった。けど、腕組みしたまま、突っ立ってこちらを見下ろすように効いてくるその態度が横柄に見えて、私は気を悪くしたのだった。
「……教えない! というか、あなたいくつ?」
「わぁもう12歳だじゃ。おめはいぐづなの?」
12歳! 私よりも4つ上だ。思わず立ち上がって
「本当に12歳なの?」
と聞き返してしまった。だって彼の背は私よりも少し小さかったからだ。当時の私で5尺(150cm前後)だったから、おそらく当時の彼は4尺半(135cm)といったくらいだったろう。目立って小さい背だった。
そんな男の子が偉そうにしているというだけで、私の反骨心をくすぐるのは十分だった。私はわざわざ胸を張って
「私は8歳! やぁねぇ男で年上の癖に私より小さいじゃない」
「わんつかだけだべ」
「ええ~でも4もしたの女の子よりも小さいのってぇ――」
「……背はこれがら伸びる予定だ!」
案の定背が低いことを気にしているらしく、指摘した途端ぷりぷり怒り出して、とうとうぷいとそっぽを向いてしまった。その年上らしからぬ仕草が、なんだかかわいらしく思えて、同時に少しばかりの罪悪感が芽生えたのだった。
「ごめんねぇ、いじわる言っちゃって」
「……めごぐね女だ」
「私、年藤。あなたは?」
「……前田長吉」
先ほど大声を張ったことが恥ずかしかったのか、ばつが悪そうにぼそりと名乗った。なんの前ぶりもなく声をかけてきたせいなのか、失礼なコだと思ったけれど、少ししゅんとしたその姿からはどうしてもイヤな子には思えなかった。初めて年の近い男の子と話したけれども、なんともいじらしい彼の仕草に、なおも私の好奇心は刺激されてしまった。
とはいえ、機嫌はあまりよろしくないのは間違いなかったので、私は一つ案を講じた。
「じゃあ、チョッキちゃんだね」
「はあ?」
「チョッキ着てるでしょ? で、長吉。だから、チョッキちゃん」
「お、男にちゃん付げすなっ!」
せっかく考えてあげたあだ名は不評だったようで、彼はまた顔を赤くしながら怒り出した。その様があまりにもおかしいような可愛いようなで、つい笑ってしまった。
「笑うなっ!」
「ご、ごめんなさい……! けどおかしっ……」
「ひ、人のコンプレックスをつっついておいでこいつは……!」
長吉……チョッキちゃんはたまりかねた様子で私の頬を思いきり引っ張った。ふにょふにょと伸びる頬だが、子供の力で引っ張るくらいでは大して痛くもなかった。けどなんだか不思議とこそばゆかった。
「ひゃ、ひゃめぇ~」
「どだげェ痛いか?」
「ひゃ、ひゃにゃひて~」
「人を笑う悪い口はこうだ!」
そんな調子で2、3分ほど引っ張られてからようやく解放された。ぺちんと音が出るような勢いで放された拍子に、何故か目に涙が浮かんだ。
「はあ~……おかしかったぁ」
「きもやがれで出でくる感想がそれが?」
「きも……?」
「……おめ、わぁに怒られたんだぞ」
「別に怖くないもん」
「あ……?」
「チョッキちゃんは可愛いから怖くない」
「……バカにしてらのが?」
「し、してないよぉ!」
「男にめごいなんてへるなっ」
「うう~……褒めたのに」
こちらとしては納得のいかない理由で叱られて、不満の声をあげるしかなかった。チョッキちゃんは、はあとため息を一つ付いて、藤の蕾を見上げて
「こごさはよぐ来るのが?」
「……うん。綺麗な藤が咲くのよ。」
「ん……そか……」
「チョッキちゃんは、ここに来るのは初めて?」
「田舎がら越してぎだばがりだ」
「じゃあ、楽しみにしてるといいよ! 本当に綺麗なんだから」
「覚えでらったらな」
いまいち素直じゃない返事だったけど、その時の私は不思議と彼がここに来てくれることを確信していた。……それは、もしかしたら彼に私と同じ匂いを感じたからだったのかもしれない。今となっては、わからないけれども。
そのあとしばらく、チョッキちゃんは頭上の藤の蕾を見続けていた。
私は、そんなチョッキちゃんの横顔をずっと見ていた。
何度か、春の風が蕾と私の栗色の髪を揺らした後、彼は踵を返して、門前町の方へと去っていった。
去り際、私がまたね、と声をかけると、チョッキちゃんは何も言わずに片手だけ挙げた。
変にかっこつけたような所作が私には可笑しくて、思わず小さく噴き出してしまった。チョッキちゃんの背が見えなくなった頃に、私も御屋敷の方へと足を向けたのだった。
豆知識:史実の前田長吉氏の出身は青森だが、方言は南部訛り(ユキノビジンと同じ)