クリフジとチョッキちゃん   作:瀬津

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知り得たか、ミケラの初投稿、マレニアを


蕾は微睡から目覚め

一種誇らしげに掲げられたストップウオッチを、クリフジはまじまじと見つめていた。

 

「すごいですクリフジさん! 砂地でこんなタイムが出せるなんて!」

 

横のトシシロは喜色を浮かべながらクリフジに飛びつかん様子だったが、やっぱりクリフジは微動だにせず、じっとストップウオッチを見つめている。

 

そんなクリフジの様子が奇妙に思えたのか、長吉がクリフジに尋ねる。

 

「どうした? クリフジ」

 

「うん、なんというか……遅くない、かなって」

 

少し遠慮がちだった。事実、このタイムは1400mでは平均走破よりも数秒程度遅いタイムだった。しかも今回のクリフジは単走――脚も周りも何もかも気にせず全速力で走り抜けたつもりだった。

 

通常、競走の際には複数の走者との着順争いを意識して、仕掛けどころやコース取りなどの様々な駆け引きが発生する。その駆け引きの複雑な絡み合いにより、大概の場合は単走よりもタイムは遅くなるのだ。今回のクリフジのタイムは、その競走のタイムよりも遅いのだ。

 

こんなはずじゃなかった、という思いが首をもたげたのだった。

 

「チョッキちゃん、もっかい」

 

「それは構わんが……脚は大丈夫か?」

 

「痛くもかゆくもないよ! だから、ね?」

 

上目遣いに懇願し、クリフジはもう一度同じ距離を、今度こそという想いで走った。しかし結果は

 

「1分40秒82だ」

 

「……ちょっと遅くなってる」

 

タイムは縮むどころかさらに遅くなっていた。

 

「……なんでだろう」

 

示されたタイムを見つめながら、クリフジは唸った。こんな着時間じゃあ、東京優駿や阪神優駿に挑むなんてあり得ないように思えた。

 

だが、周りの二人は、クリフジと違ってあまり悲壮感を感じられなかった。むしろこの結果を、望外のモノと受け止めているようだった。不思議に思って、クリフジは思い切って率直に問うてみた。

 

「あ、あの……この着時間って……どう、なのかな?」

 

「……良いタイムだと思うぞ」

 

「そうなの?」

 

「絞っていない身体にしては、な」

 

シボッテナイ……? パッと言われて、クリフジはいまいちその言葉を飲み込めなかった。見かねたトシシロが、クリフジに耳打ちした。

 

「クリフジさん、その……この数か月で、体重……」

 

「……あっ」

 

すっかり忘れていた。いや、意図して忘却の彼方に追いやっていたというか……

 

この数か月、クリフジは長吉に言われた通り、多め、多めに食事を摂っていた。その甲斐あってか身長はついに170cmを超えた。その点は間違いなく、競走者として良い方向に成長していたと言える。

 

だが、それに比例するかの如く、体重も1割も増えてしまっていた(具体的な数字については乙女の秘密故明かせないものとなっている。悪しからず)。

腹回りには然程厚みは付いていないが、胸やら尻やら一回り二回りと大きくなったため、下着の買い替えを年越し前に渋々実施したのであった。

 

同室であるトシシロは、そんなクリフジの様子を日々間近で目撃しているのであった。

 

 

「やっぱりそうなんだ……」

 

「いろいろおっきくなりましたものね」

 

「うん、さらしで胸潰すのも大変で……」

 

「……もしかして今も?」

 

「だって、胸がでんって前に出るの、みっともないじゃない」

 

「クリフジさん、苦しくなかった? 走ってるとき」

 

「全然」

 

「おい、何をひそひそ話を……」

 

「前田先生には内緒の話です」

 

「は……?」

 

蚊帳の外状態の長吉が呆けた顔をしていたが、ひそひそ話を打ち切った後で、今後の方針として食事制限を行うことが提示された。3月中旬にまで体重調整を完了し、4月の横浜農林省賞典(現皐月賞)に間に合わせる。それと並行し、走り方の基礎を叩き込む――長吉はそんな計画をクリフジに語りながら、どこか険しい気配を漂わせている。

 

「この前のミスセフトとの併走の段階で、君の能力についてはかなり高い評価をしている。優駿一着も夢じゃない。しかし……如何せん時間がない。相当厳しい減量になることを覚悟してくれ」

 

「任せて。私、絶対やり遂げてみせるから」

 

「頼む。昼休みに具体的な指示書を渡そう。後で職員室に来てくれ。それと……」

 

ここで、長吉は言葉を切って、クリフジの傍らにいるトシシロに言った。

 

「トシシロ、今日は付き添いしてくれてありがとう」

 

「いえ、私もクリフジさんの脚のこと、知らずにずっと居た負い目があったと言いますか……」

 

「しかし、朝の5時から出てくるのは骨が折れたろう」

 

「普段より1時間早く起きるだけですから。大した労でもありません」

 

微笑んでトシシロはそう答えると、長吉は軽く頷いて「君の試験も、早く合格できるといいな」と声をかけた。トシシロは少し恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。トシシロは、競走試験に未だ合格できていなかった。まだメイクデビューの予定も立っていなかった。他人の世話などしているような状況でもないだろうに、この同居人は、脚に不安があったクリフジを心配して、この手伝いに参じてくれていたのであった。

 

 

「……」

 

だというのにクリフジは二人が親し気に言葉を交わしている光景が、あんまり面白くなかったので、じーっとそれを睨んでいた。

 

「では今回はこれで解散としよう。あとは自由に……クリフジ?」

 

「なんでしょう」

 

「すごい顔、してますよ……?」

 

「してません」

 

「いやいや。お前鏡でも見て……」

 

「してません!」

 

ムキになったように声を張り上げて、クリフジはプリプリしながらトシシロを練習場の隅へと、引きずって行ったのであった。

 

 ***

 

練習場の片隅にまで、長吉は追ってこなかった。そのまま枯芝の上にクリフジとトシシロは座り込んで、何をするでもなく、昇ってくる朝日を眺めていた。

 

「はあ……」

 

「ごめんなさいクリフジさん……」

 

ウマ耳をしょんぼりとしおらせながら、トシシロは謝ってくれたが、不敬を働いたのはこちらである。

 

「こちらこそごめんなさい……あんなことで機嫌悪くするなんて、一人の人間としてどうかと思うわ……」

 

どんよりとした心持で、クリフジは後悔の念を口にした。見知らぬ女が言い寄ってきたなら、実力行使も辞さないが、今回は普通に会話していたトシシロ相手にこの体たらくなのである。友人に対しても随分失礼だ。

 

「ちょ……前田先生が関わるといつもこうよね、最近の私」

 

――長吉にかかわるすべてに対して、過剰な反応をしてしまう場面が度々出てきてしまう。自分でも理解していた。今回もご多分に漏れず、ということなのだった。

指導員(見習い)と生徒という関係で彼と触れ合ううちに、如何せん想いが抑えきれずに、結果粗相をしてしまうようになっていた。

 

 

「でも、私わかりますよ」

 

「何が?」

 

「それだけクリフジさんが、前田先生のことを愛してらっしゃること!」

 

反省ひとしおのクリフジに対して、トシシロはあまり気にしていないようだった。むしろ目を輝かせながらそんなことをクリフジに言い放った。思わずクリフジはギョッとしてしまった。

 

愛するが故、仕方ないということらしいが、たぶんトシシロの反応は世間の反応とは一線を画すものだ。この時代、恋愛はまだまだはしたない行為だと思われていた。

 

 

「その、気にしてないの……?」

 

「あまり……特にお二人の関係について、ある程度分かってるつもりですから」

 

ああいう会話にまで嚙みつかれては、少しやりづらいけども――そんな控えめな抗議の言葉までしか、トシシロの口からは出て来なかった。

 

「それよりも、前田先生に乱暴な女だと思われる方が由々しき事態だと思いますっ」

 

「その通りだと思います……」

 

ただまあ、もう何回かやらかしている気がしないでもない。幼少期から数えたら。今更そこで軽蔑はされないだろう……いや、成長していないなと思われたかもしれない。

 

(それは……なんかやだなぁ)

 

自分を大人な女性、などと嘯くつもりは甚だないが、しかし長吉には、″いいおんな″に見せたいのであった。……が、そこに徹することなどできないのが、クリフジたる所以なのだが。

 

「それで、クリフジさんどうしますか? まだ始業まではしばらく時間がありますよ?」

 

「じゃあ……併走をお願いできるかしら? トシちゃんも練習になると思うんだけど」

 

「もちろん! じゃあ軽く体を温めて、それからやりましょう!」

 

快く承諾してくれたトシシロに対して、 内心感謝の念を抱きつつ、クリフジは腰を上げた。瞬間――

 

「痛っ……」

 

両足のつま先から、不意に痛みが走った。思わず体を強張らせる。その様にトシシロがぎょっとして

 

「クリフジさん!? また脚……」

 

「い、いや……今度は指が……」

 

「指……!?」

 

今までの痛みは、膝を中心にした各関節の痛みだった。しかし、今回感じた痛みは、足の指だ。

 

「と、とにかく靴を脱いでっ」

 

トシシロに促されるまでもなく、クリフジは靴を脱いだ。

 

見ると、クリフジのつま先は真っ赤に染まっていた。

 

 

   ***

 

そのまま練習になどなるべくもなく、クリフジとトシシロは急ぎ医務室に向かった。消毒液で保険医がクリフジのつま先についた血を綺麗にしてみると、親指から薬指まで、爪が取れかかっていたことが分かった。

 

「裂蹄……だな」

重々しい様子で、老年の保険医が呟いた。トシシロに呼ばれ、急ぎ駆け付けた長吉は深刻そうな顔をしている。

 

裂蹄。それは通常牛等の家畜が患う、蹄の異常を示す言葉だ。だがウマ娘に対しても同じ言葉を用いる場合がある。それは、もっぱら足の爪が割れやすくなったり、あるいははがれやすくなるといった爪に関わる異常を示す。基本的には、普通のヒトでは起きない症状である。

 

人間以上の速さで走るウマ娘にとって、足の爪でさえ欠かせないモノである以上、発症してしまうと完治するまでは競争に使うことは出来ない、というのが一般的だった。

 

「爪の保護にまで気が回らなかった……」

 

「前田先生……」

 

長吉は、丁寧に手当てされたクリフジの足先を見つめながら、悔しそうにこぼした。クリフジは、不憫な彼の頭を撫でて、慰めてあげたかったが、他人の目もあるのでこっそりと手をひっこめた。

 

「爪自体は半月もあれば元通りだが、再発の可能性も考慮すると、しばらく練習の類は禁止すべきだ」

 

保険医がにべもなくそう言い放つと、長吉は目に見えてがっくりと肩を落とした。当然なことだった。まさにこれから、という時だったのだから。

 

「あの……その再発の可能性というのは」

 

「なんの対策もしなければ、あるだろう」

 

「……どんな対策をすれば、よろしいのでしょうか」

 

クリフジが聞くと、保険医は簡単な話だと言わんばかりに答えた。曰く、個々人の足に合った靴を手当できれば凡そ改善できる、という話だ。

 

「しかし、クリフジは体躯が大きい。ぴたりの靴を探すのも苦労するだろう……戦争にモノが優先されているしなぁ」

 

どこか他人事のような言い方だった。しかし、昭和18年2月は、ちょうど戦争への協力義務の一環で、電力の使用制限がはじめられたばかりであった。当然、学舎のウマ娘たちにも関係ない話ではなく、最近は消灯時間が2時間早くなっていた。それくらい、戦争の影響で物心両面での不自由が顕在化していっていたのである。

誰もが理解している現実を背景にした、素っ気ない保険医の言いぐさは、癪には触るが事実でもあった。

 

「――そこは俺の責任で何とかしますっ!」

 

そんな保険医に食って掛かるかのように、長吉は声を張り上げた。しかし、保険医は冷めた様子で

 

「君にそんなつてはないだろう。それとも、大尾形に泣きつくのかい?」

 

「……っ! それで、クリフジが走れるようになるなら……」

 

「では、そうしなさい」

 

鼻で笑うかのように言い放ち、保険医はそのままクリフジたちを医務室から追い出した。

ぴしゃりと閉じられた扉に向かって、トシシロが吠えた。

 

「なんですかあの人!」

 

律儀に最後まで付き添ってくれてたトシシロができる、小さい体での精いっぱいの憤りだった。

 

「前田先生はここまでクリフジさんに一生懸命なのにっ!」

 

……トシシロはクリフジと、長吉の関係についてどこまでも肯定的でいてくれている。今振り返れば、それは幼気な恋愛への憧れが起因しての態度だったことは想像に難くないのだが、だからといって彼女のやさしさを否定することにはならないだろう。

 

そんなトシシロのことを、クリフジはとても好きだった。そんな友人と同じように感情をあらわにしたかった。が、そうすることは出来なかった。

 

前田長吉の、周囲からの評価は芳しくない。それは、様々な要因がそうさせていた。特に「未熟者の若造のくせに、一人の担当を師から譲り受けられている」という見方――それが学舎の指導員連中の冷たい視線の主要因だったのだ。 

 

傍から見れば、名手尾形藤吉のえこひいきを思う存分受けているように見える。通常指導員は長い下積みの果て、20代半ばから30代初めになって、小数を引き受けるようになっていく。なのに、何故あいつだけ……そんな具合である。

 

こういった差別を、助長させている背景のうちの一つである自分が、果たして無責任に感情的になってもいいのか? クリフジは、似たような場面に立ち会うたびに戸惑ってしまっていた。

 

「チョッキちゃん……」

 

「気にしてないさ。それより、授業が始まる。トシシロと一緒に行きなさい」

 

「うん……」

 

一見平静な態度で長吉はそう言って、クリフジとトシシロの二人を教室に行かせた。だが、こちらに背を向けて遠のいていく彼の背中に、どこか寂寥感が漂っていたのを、見て見ぬことにはできなかった。その背中に、また放課後と言い残して、トシシロと教室に向かいながら、クリフジはどうすれば長吉の立場が良くなるのだろうか、と思案せずにはいられなかった。

 

 

  ***

 

「簡単な話です。あなたが競争で勝てばよろしいのではなくって?」

 

その日の昼食。クリフジはミスセフトにしれっとそんなことを言われていた。あの並走以来、クリフジはミスセフトとトシシロの3人で昼を共にする回数が多くなっていた。今回もやはりその3人で卓を囲み、話の流れで、なんとなくクリフジの悩みを打ち明けた次第なのであった。

 

「うーん、やっぱりそれしかないよね」

「そんな簡単な話のように言いますけど、実際競走で勝てない生徒だって大勢……」

「何も五大競走に勝てなんて言っておりませんよ。条件戦でも勝てればそれだけで十分に上澄みなんですから」

 

まっ、私としては五大競走に出てくれなければ、張り合いがありませんけども――などと付け加えてから、ミスセフトはこんもりと盛られたお椀から麦飯を箸でひょいと口にした。

 

自分が勝てば長吉の周囲からの評価も変わる――それはもう分り切っていた。だが、今の状況をすぐに何とかしてくれるものではない。辛い思いをすぐにでも軽くしてあげたいのが、クリフジの願いだが、ことはそう簡単には転ばないものなのだ。ミスセフトの発言は、そういった示唆も含んでいた。

 

「それにしても裂蹄なんて、面倒なことになりましたわね」

「そうなの……ミスセフト、なんとかならない?」

「私、お医者ではなくってよ? けど……」

クリフジの考えなしな投げかけに、ミスセフトの品の良い眉根が歪んだ。だが、彼女は少しばかり何かを考えるそぶりをした。

 

「ミスセフトさん?」

「先輩に聞いたことがございます。爪も髪も、皮膚の延長線上にある、と」

「はあ」

「であれば、蛋白が有効ではないかしら?」

「なっ、なるほど!」

 

なんと、目からウロコの情報だった。つまり食べればいい! 健啖家が多いウマ娘にとって、食事で治る病気などもはや病気として考えなくていいとさえ言える。が、問題が一つあった。

 

「私、痩せないといけないのだけど……」

クリフジはしょんぼりとミスセフトに打ち明けた。するとミスセフトはあら、と言いながら豊かな栗毛の巻き髪を少し揺らすように首を傾げた。

 

「太りましたのね。全然気づかなかったわ」

「難しいですね……クリフジさん、爪も体重も両方良くしないといけないって」

「どうすればいいのかなぁ……」

「別に食事だけが、蛋白の活用ではないわ」

 

こともなげに、ミスセフトはそんなことを言った。「塗ればいいんですわ」

 

「ぬ……塗る!?」

 

コロンブスの卵であった。口にできなければ、塗ればいい。皮膚から直接、ということなのだろうか?

 

「この程度、私などが言わなくても、前田先生からご提示されるものと思われますけどもね」

「ちょっと待ってくださいミスセフトさん、まさか初歩も初歩の対処法だなんて……」

「言うつもりだけど?」

「いっ、言われてますよクリフジさんっ!」

「……ぐぅの音も出ないとはこのことね」

 

実際、ミスセフトは誇るでもなく貶すでもなく「なんで気づかないの?」といった純粋な視線でクリフジたちを見ている。それは、単純に馬鹿にされるよりも衝撃はすさまじかった。クリフジとトシシロは、酷くみじめな気持ちになった。そうしてトシシロと揃って、がっくりと肩を落とした。

 

 

「トシちゃぁん……これからは、学舎の二大ヌケサクとして頑張ろうねぇ」

「頑張りましょぉ……」

「なっ、なんで落ち込んでいますの!?」

 

 

  ***

 

「亀戸にこんなにきれいな藤棚があったなんて知らなかったぁ!」

 

クリフジは感動そのままに、長吉に言った。二人は、亀戸天神にやってきていた。長吉が、根を詰めているクリフジの息抜きにと連れてきてくれたのだった。

 

戦争の状況は順調――ラジオや新聞はそう伝えるが、なんとなく察している人間は、今起こっている戦いの行く末についてある程度想像できてしまっていた。しかし、それを口に出すことは出来ず、何んとなしの雰囲気だけが伝播しているような……そんな世の中だ。そんな時代でも、花はいつもの通り咲く。

 

「子供のころの下総の藤とも劣らないな、ここの藤棚は」

 

長吉がつぶやくようにそう言った。今日は平日なものだから人もまばらで、数組の人間が銘々に何かしらを見物していて距離もあった。

 

「そうねぇ、けど私はあの藤が一番好きよ」

「そうなのか」

「チョッキちゃんと……一緒に見た藤だから」

 

思いの丈をそっと吐き出すように言った。長吉は口をつぐんで、少し頬を赤くしていた。

 

裂蹄の件は、長吉が施してくれた軟膏の甲斐もあり、無事に治った。しかし、時間というものは平等だった。保険医からの太鼓判が押されたころには3月を過ぎていた。

 

「おそらく、横浜農林省賞典(現皐月賞)と中山ウマ娘特別(現桜花賞)には間に合わないな」

 

そう告げる長吉の表情は深刻だった。

 

「ごめんね、チョッキちゃん……こんなおデブさん……」

 

「いや、療養優先になればそうなるものだよ。とにかく、4月中のデビューを目指そう」

 

東京優駿は6月初旬。そこに挑む挑戦権を得るには、5月中に実績を積んでいく必要がある。人気の高い競走は、定員オーバー時には実績順で出走が決められていくからだ。

 

「東京優駿と阪神優駿を勝つ」――そんな子供の頃のおぼろげな約束は、まだ期限切れではない。3月半ばの話し合いのときは、まだそんな期待が胸に宿っていた。

 

だが、クリフジの調整は難航していた。想定よりも体重の減りが悪かった。いつまでたっても、当時のウマ娘たちの平均より1割5分重い体重から脱却しない。クリフジの身長を差し引いても、競走に出すにはリスクのある重さだった。

 

指導に当たっている長吉は途方に暮れていたが、クリフジも同じだった。脚の痛みに引き続き、またもや言うことを聞いてくれない自分の身体に対して、いらだちを覚えた。そうこうしているうちに、4月ももう下旬になり、桜の盛りは終わっていた。

 

そんな折に、長吉に誘われて、クリフジはこの亀戸にまでやってきていたのだ。亀戸天神の藤棚と言えば有名な花見場なのだが、基本的に学舎近辺で過ごしているクリフジには初めての光景だった。

 

「物不足だから、露店も出てないねぇ」

「ああ」

「よかったぁ」

「なんでだ?」

「だって……つい食べたくなっちゃうじゃない」

「……いいんじゃないか? 今日くらい食べても」

「いいの!?」

「まっ、露店が出てないがな」

「……もう!」

 

藤棚の下で座って、他愛のない会話を交わした。あいにくの曇り空だが、気温はちょうどよく、一層穏やかな雰囲気だった。藤棚の下を藤の香りが甘く満たしている。普段抱え込んでいる悩みさえ、それに溶け出してしまうかのようだった。

 

 

「こうして座ってると子供の頃のこと」

「想い出すって?」

「ん……」

「……あの時の藤は、もう少し大きかったけどな」

「……なんだ。よかった。覚えてて」

「……当たり前だ」

 

お互い、口をつぐんで、あの日の想い出に心をはせる。そんな沈黙がしばしあった。

 

「……年藤、聞いてほしいことがある」

不意に幼い頃の名を呼ばれ、クリフジ―――年藤は思わず目を見張った。ただ事じゃないように思えた。年藤は思わず固唾をのんだ。

 

「な、何……かしら?」

「来週、出走試験を受けてくれ」

「! じゃ、じゃあ……」

「それの結果にもよるが、5月の新呼バでデビューだ」

 

急に道が開けたようだった。嬉しさがこみ上げてしかたなかった。これで東京優駿に出られる! ――しかし、一方で無視できない問題があった。クリフジの体重の問題である。

 

走破タイムは問題ない。むしろ、日に日にタイムは縮まっていて、尾形師さえも期待感を隠せない様子で、クリフジの様子を見に来ているような状況だった。しかし、笹針を刺すまでろくすっぽ動けなかった脚が、今の重いこの身体を支え切れるのだろうか。

 

クリフジは、一通りの逡巡の果て、勇気を出して長吉に聞いた。

 

「で、でも体重落ちてないよ……?」

「……正直言って、俺も怖いよ。けど、君の背丈だと、もしかしたら今の体重が適正なのかもしれないんだ」

 

競技者にとって、重すぎる体重はもちろんダメだが、軽すぎれば力がうまく出ないだとか、そもそも臓腑が弱ってしまう等の問題が発生する。

 

「つまりはバランスが大事であり、そのバランスが良い状態というものが、今なのかもしれない。君ほど大きいウマ娘の前例がない中、俺はそれに賭けたい」

「チョッキちゃん……」

「そして……俺は、クリフジが東京優駿を走る姿を見たい」

 

ぐっと、拳に力が入ったのが見えた。それは覚悟の合図だった。それに符丁するかのように、曇天から霧のような雨が降り始めた。幼少の離別の日と同じような。

 

であれば、この瞬間が、運命の分かれ道かもしれない。あの時は、二人はそれぞれ違う方向へ歩かざるを得なかった。あの日の真相は、今だクリフジは長吉から聞けていない。だが今は違う。今は共に歩いて行けるのだ。

 

「チョッキちゃん……」

「無理を、させるかもしれん」

 

長吉はそう言った。我がままを言って怒られた子供のように、どこかさみしげな口調だった。それを年藤はゆっくりと首を横に振って否定して見せた。覚悟はできた。この賭けに。

 

「私も、そうしたいんだから良いんだよ」

 

そう言って、年藤は腰を上げ、座り込む長吉の目の前に立った。上目遣いでこちらを見つめてくる長吉に、年藤――クリフジは微笑みかけた。

 

「勝つから、見ててね?」

 

 

 




備考:トシシロは身長140cmくらいで、流石に長吉のほうが大きい
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