――そんなことがあってからひと月。私は懲りずに御屋敷を抜け出しては、藤の咲く丘に通う日々を続けていた。
チョッキちゃんは、居る時と居ない時がまちまちだった。午後0時から午後1時の間は割りあい会えることが多かった。あとは午後3時とか、一番遅くて午後4時に会うこともあった。
今思えば、学校の昼休みの時間に抜け出していたり、放課後に級友の誘いを振り切って来てくれていたのかもしれない。
チョッキちゃんの事情はともかくとして、私は隙を見計らって御屋敷を抜け出しては、今日は会えるだろうかと期待に胸を膨らませる日々を過ごしていた。外とのつながりは極力排されていた私にとって、彼との逢瀬はとても刺激的なのだった。
当時の私の箱入り具合は相当なものだった。何せ、尋常小学校に通わせず、勉強は屋敷に女性の教師がやってきて直接指導。外出するときは母の同伴必須……今振り返れば異常としか思えないが、父は私、年藤が歴史に名を遺す競走バになると信じて疑わず、そんな私に万が一の間違いがあってはならないと、過保護になっていた。
強烈な家父長制の雰囲気のせいで、歪んだ父の方針に異を唱える人は誰もいなかった。もちろん母はあの時代の例にもれず、父の判断には表立って反対しない人だった。けど、思うところは流石にあったようで、
私の脱走を、条件付きとはいえ黙認し、かつ父の耳に入らない様に配慮をしてくれていた。
……それでも、流石に連日の脱走は度が過ぎると思われてしまったようで、通い始めて1か月で、私のやんちゃは父の耳に入ることになった。その結果……とてつもない折檻を食らったのだった。
「納得が、いかな~い!!」
その日も藤の咲く丘でチョッキちゃん相手に不平不満をこぼしていた。
時期は5月も末。もうすぐ梅雨の季節だが、空は素晴らしい日本晴れが続いていて、私たちの幼気な逢引を阻むことはなかった。藤の花も、盛りは過ぎたといえどもまだまだ見どころを残していたのを覚えている。
薄紅色の袖をぶんぶん振り回して、いら立ちを頑張って発散しようとしている私を、チョッキちゃんは私から1バ身くらい離れた木の根元に座り込んで眺めていた。
すっかりトレードマークになっていた青いチョッキは流石に暑いので脱いで、ワイシャツとズボンといういで立ちだった。
「悪いことなんてなんにもしてないのにー!!」
「んだなぁ」
「ありえないでしょう!? 日が暮れる前には帰ってるよ!?」
「黙って?」
「だって言ったら止めろって言われるんだもん!」
腕を振り回すだけでは飽き足らず、地団駄を踏みながらわめく私を、チョッキちゃんは生真面目な表情を崩さずに
「それはあんだ、へられでも仕方がねだよ」
と、お国言葉で言った。この1か月で、少し東京弁を混ぜることもできるようになっていた彼だが、少し言いにくいことは敢えてお国言葉で話すのが常だった。
普段は気付いても触れないのだけど、父親のとてつもない折檻に頭の血が沸き上がっていた私は冷静じゃなかった。
「はあ!? なんて言った!?」
「おめ、落ち着け……」
「訛りで誤魔化そうとしたのはそっち!」
「……」
ズバリと指摘されて、普段飄々とした態度のチョッキちゃんもたじろいだ。そして、観念したかのように一つ息を吐いて
「……いわれてもしょうがねぇだよ。やんごとない子どもが無断で外に出ちゃ……」
「子ども!? 私ねぇ、もう八歳なんだけど!?」
「……世間様で言やぁ、まだまだ子供だべ」
チョッキちゃんはいつも正論ばかりを言う。そこにこちらへの気遣いはない。けど、あの時の私の本音を言わせてもらえば、嘘でもいいから慰めの言葉を先にかけて欲しかった。しかれども、おべっかとかそういうものとは無縁なのが前田長吉という少年だった。
私は、ぷんっとそっぽを向いて、ぷくぷくと頬を膨らませた。頑固そうに腕なんか組んで、不服を表現してみせ
「ふーんだ! だったら逃げ出さないように首輪の一つでもつければいいのにさっ!」
「そうされたら困んのはおめだ」
「……」
やけっぱちの放言に、冷静な返しをすぱっと言うチョッキちゃん。冷や水をかけられたような心地になったせいで、振りかざす怒りの矛先が行方不明となった私は、ただただチョッキちゃんを恨めしく睨みつけるだけだった。
私の光線を受けていることなどつゆ知らずといった様子で、チョッキちゃんは立ち上がった。少し顔を上に向けて、頭上から垂れ下がる、少ししぼんだ藤の花をそっと撫でて。
「おめはめごいのだすけ、わんつか行動気付げればもっとえど思うんだがなぁ」
と、まるで独り言のように言った。
この1カ月で、私は彼のお国言葉のいくつかを学んでいた。その中で――「めごい」とは「かわいい」の意味であることは、真っ先に覚えた。だから全体の文の意味は分からなくても、とりあえず「年藤はかわいい」と褒めてくれたことは確信できた。
チョッキちゃんに突然褒められて、単純なことに私はすぐに機嫌を良くした。ご機嫌はそのままに、クルッとチョッキちゃんの方に向き直して、彼の方へと歩み寄った。
「な、なんだぁ……?」
近付かれたチョッキちゃんに少しの焦りが浮かぶ。たじろぐ彼を見つめながら、私は意を決して問うことにした。
「……私、かわいい?」
過分の勇気でもってそう聞き返すと、チョッキちゃんは驚いたような顔をした。まさかバレると思わなかったらしい。不意を打たれたチョッキちゃんから答えを引き出すべく、私は更に近づいて彼の顔を覗き込む。
じりじりと後退するチョッキちゃん。それを追い込む私。やがてチョッキちゃんの背中が、トンとブナの木にぶつかって、それが壁となった。彼が後退することが出来なくなったのを良いことに、私はそのままの
流れで、チョッキちゃんに急接近した。
お互いの顔の距離が近付くにつれ、赤さを増していく彼の顔と、鼻腔をくすぐる仄かな彼の匂いは、鮮烈に覚えている。
しばらく無言の押し問答が繰り広げられたけど、最終的に観念したのはチョッキちゃんだった。
「……わぁのお国にゃ見んかったくらいには」
「……えへへっ」
赤くなりながら肯定してくれたチョッキちゃんに、私の心臓が大きく脈打つ。衝動に突き動かされるまま、私はチョッキちゃんに抱き着いた。
この1カ月間、チョッキちゃんは度々私と鉢合わせては、私の遊びに色々付き合わされてきた。相撲(私の圧勝)、腕相撲(私の圧勝)、鬼ごっこ(私の圧勝)、けん玉(これはチョッキちゃんの方がうまかった)、ごっこ遊び(12歳につき合わせるのは酷)などなど……色々巻き込んだけど、どんな遊びもチョッキちゃんは嫌な顔一つしないで付き合ってくれた。それどころか終わり際には「またやろうな」と言ってくれるくらいだった。
そんなチョッキちゃんに、幼い私は仄かな恋心を抱いていたのだった。
「チョッキちゃん、すき」
「……ん」
「ね、ね。チョッキちゃんは私のことすき?」
「……さぁ?」
「……いじわる」
「……すたども、嫌いでねじゃ」
「……ん」
無邪気に「すき」を繰り返す私に、チョッキちゃんは面食らっていたのかもしれない――けど彼は決して邪険にすることもなく幼い私の、幼気な好意をただ受け入れてくれていた。
抱きついて甘える私の頭を、やさしく撫でてくれる彼の手は、やんわりと温かかった。
「おっきくなったら、結婚しよねぇ」
「……おめ、意味分がっていってらのが?」
突拍子のない発言にチョッキちゃんは目を丸くしていたけど、当時の私はとかく幼く、結婚の意味をせいぜい「ずっと一緒にいる」くらいの意味合いでしか理解していなかった。
変なこと言ったかなぁと思いつつも、私は彼の問いかけには答えないで
「うん。で、そのあと東京優駿と阪神優駿勝つの」
と、また訳のわからない展望を口にした。競走ウマ娘は未婚のウマ娘に限定されているのを、当時の私は当然ながら知らなかった。チョッキちゃんは「マジかこいつ」みたいな顔をしていた。多分、彼はこの時すでにウマ娘競走のおおよその仕組みなどは勉強済みだったのだろう
戦前、ダービーとオークスはそれぞれ「東京優駿」と「阪神優駿」という名称で呼ばれていた。当時東京優駿は春競走、阪神優駿は秋競走での開催だったから日程的には問題なく出走できた。けど、それはあくまで日程だけの話で、当時でさえ、クラウン路線とティアラ路線の両方のレースをまたいで勝つことは至難の業と言われていた。
「……それは結婚前でねどわがねじゃなぁ」
「ええ~」
「というがおめ競走ウマ娘になるのが?」
「うん! なんか、私すごいみたい?」
「……ほう」
するとチョッキちゃんは、私を撫でる手を止めて、考え込む素振りをした。そんなの良いから撫でて~と頭をグリグリするけど、チョッキちゃんはまるで石のように固まっていた。ほどなくしてチョッキちゃんは口を開いた。
「わぁ指導員なるのが夢なんだ」
「しどーいん?」
「競走ウマ娘を鍛えるだめに、練習とか、走り方とかを教えたりする人のごどだ」
「へぇー」
「もしかしたら競バ場でおめと会うがもしれねな」
そう言うチョッキちゃんの顔は、なんだか年齢以上に大人びて見えた。なんだか、ここではない遠くを見てるかのような目をしていた。それはなんでなのかは、当時の私にははっきりわからなかった。
だからこそ――私は彼にこう提案したのだった。
「じゃあ、私が競走ウマ娘になったら、チョッキちゃんがしどーいんして?」
チョッキちゃんを、そんな目にするものがなんなのか……それはきっと指導員という職業にあるんだと、子供ながらに直感した。けど、私は指導員自体に興味はなかったから、せめて指導員になったチョッキちゃんを間近で見てみたい……そんな想いの籠ったお願いだった。
すると、チョッキちゃんは――はじけるように笑顔を浮かべながら
「おう、約束する!」
と、いつもより元気よく答えてくれた。私のお願いが、思いがけず彼を喜ばせることが出来たのだと、はにかんでしまった。
「……これでおっきくなっても一緒だね?」
「んー……まあそっか?」
「そだよぉ」
間延びした返事をしながら、私はぴっとりと、自分の身体をチョッキちゃんにくっ付ける。少し重いのか、若干顔をしかめるけど、チョッキちゃんはおとなしく受け入れてくれた。
どれくらいそうしていたのかわからないけど……やがてチョッキちゃんは体をよじって私から抜け出した。思わずチョッキちゃんを支えていた木の幹に激突しそうになった。
「わぁはこれで帰る。おめも暗ぐなる前さ帰りな」
「……うん! チョッキちゃんまたね!」
気付けばもう日が傾き始めていた。多分1時間半くらいいたのだろう。程々にしないとまた父の折檻に遭ってしまう。名残惜しさを押し殺しながら私もチョッキちゃんと逆方向の帰路に付いた。
* * *
「それでね、かーさま! チョッキちゃん、しどーいんっていうのになりたいんだって!」
「あら……そうなの」
その日の夜、私は寝室で母に今日の出来事を話していた。これは、外に出たがる私に出した、母の交換条件だった――今思えば、これくらい一般の家庭でも普通にやっていることで交換条件なんかになりやしないのだけど。
私はこの交換条件を喜んで受け入れた。私は母が大好きだった。穏やかで優しく、じっとしていられない私のことを、女の子らしくないなんて言わずに、控えめに窘めてくれる……そんな優しい母が。
「長吉くんは偉いわね。まだ子供なのに、もう将来の夢があるなんて」
「うん、チョッキちゃんはすごいの!」
「……」
自慢げに私がそういうと、母は押し黙って、ただ私を見つめる。私はその瞳を見るのがいつも少しだけ怖かった。
無邪気にチョッキちゃんを連呼する私を見つめる母の目は、どことなく悲し気に見えた。私はなんでそんな目で私を見つめるのか、理解が出来なくて……
「かーさま?」
「……年藤、一つお願いをしていい?」
内心驚いた。母が私にお願いをするなんて。流石に「何かある」とは感じたが、はっきりと聞くことは心情的に憚れた。
「いいよ? どうしたの?」
少し緊張しながら、私は母に聞いた。母から出たお願いは、予想外のものだった。
「長吉くんを我が家にご招待してほしいの」
まさか、と思った。母とはいえ、まさか自分の家族がチョッキちゃんを呼べというなんて。私は思わず聞き返さずにはいられなかった。
「え!? チョッキちゃんおうちに呼んでいいの?」
「ええ、年藤にここまで仲のいい男の子ができるなんて思わなくて……ぜひ会ってみたいの。お願いね」
「うん!」
嬉しかった。まるで彼との関係が認められたかのように思えたから。私はシルクの大きなベッドの上で、元気よく返事をした。
……けど、一見平静を装った声音で言った母の、栗毛の耳が後ろに強く絞られていたのを、私は見逃していたのだった。
豆知識:下総の御屋敷は我々で言うところの成田空港のあたり(下総御料牧場の跡地)