「はあ~……おめの家、凄い立派だなぁ」
6月。少し早めの梅雨入りになって、さっそくしとしとと雨が降る日々が続くようになった。木々の葉をしっとりと濡らすような細い雨の中、ぽかんと口をあけながら、チョッキちゃんは外壁の向こうにある私の家を見上げていた。
「ところでチョッキちゃん、暑くないの?」
「よっ、呼ばれだすけにはそれなりの恰好でねどわがねじゃって! ……北郷センセがへるすけ……」
その日、チョッキちゃんが来ていたのはあの青いチョッキだった。結構生地がしっかりした一品で、6月の気温の中で着るのは中々厳しいものに見えた。
聞けば、チョッキちゃんも突然の呼び出しに驚いたようで、どういう服装が相応しいか、面倒を見てくれている北郷さんに相談した結果だったらしい。北郷さんは、岩手からやってきたチョッキちゃんの面倒を見てくれている人だった。チョッキちゃん曰く――
「北郷センセのところで修行して、それから指導員になるんだ!」
とのことだった。あの当時、ウマ娘指導員は国家資格ではなく、、職人的なモノとして捉えられていた。基本的に志願者は、既に指導員をやっている人の下に弟子入りするを最初に目指していた。スポーツ科学なんて言葉もないし、まだウマ娘のことを妖怪や精霊の類だと信じている人もいたくらい、私たちについて無知な時代だったから、個々人の経験則を継承する徒弟制度が生き残っていた。余談だけども、そんなウマ娘指導員が一般の教員と同等な立場になるのは、戦後の話だ。
とりあえず雨の中で立ち話というのも良くないので、私はチョッキちゃんを連れて門をくぐった。下総の御屋敷は父の趣味により西洋式の建物と、これまた広い前庭、それらを囲むレンガ造りの壁で構成されていた。特に庭の広さは相当なもので、壁の内側に沿うように一周約3ハロンのダートトラックが設置されていた。午前中はここのダートトラックでトレーニングをやらされるのが、私の日常だった。
「ほんに広い家だな。庭さ競技走路がある家とが聞いだごどがねじゃ」
「私の家、競走ウマ娘多いんだ。」
「そんで、訓練できるようにって?」
「やらされてるの!」
まあ、走るのは好きだったから、心底嫌というわけではなかったけども。全速力で走れて、走れば必ず褒められるというのは、有体に言って気分が良かった。今思えば、年長の姉たちの走りに毎度毎度食いついていたわけだから、親としては褒めないことにはいかなかったのだろう。
「けど、私結構速いんだよ?」
「へぇ、どれくらいだ?」
「ハッピー姉様にも、リョウゴク姉様にもタイサつけられたことないの!」
「ほ~」
微妙な自慢の仕方をする私に、これまた心底感心しているんだかわからない感じの反応だった。けど、すぐに
「でもそれ負けてねぇか?」
当然の疑問が返ってきた。
「……で、でもこの前は1バ身くらいだったもん」
「1着と?」
「……2着とですけど」
「……まあ姉っちゃ方どそれぐらい競えでらのは、よぐわがらんけどすごいがもしれんな」
「そうでしょう!?」
「でも、それ自慢すんのはすごいのがどうがわがりずらいがらやめどいだ方がええ」
「……」
残念ながら、チョッキちゃんに褒められたかった私に返ってきたのは、彼からの純粋な善意からくる忠告だった。
さすがに自分でも微妙な話題を振ってしまった自覚はあったものだから、ただただ私は気まずい思いで、肩を落とすしかなかった。しょんぼりとした私と、バツの悪そうなチョッキちゃんの二人は、ダートトラックを横切って、館の中に入っていくのだった。
* * *
私たち二人は玄関ホールに足を踏み入れるやいなや、待ち構えていた女中の案内で客間に通された。ここで待つように言われた後、ぱたんと女中はドアの外へ消えてしまい、私とチョッキちゃんは部屋の中に二人で取り残されることになった。
赤いカーペットに覆われた床。黒褐色のマホガニーテーブルと、チョッキちゃんには少し高い椅子。宙づりの電球ランプは微動だにせず、ただ窓を打つ小雨が不規則なリズムを刻む。藤の丘とはまるで世界が違う――自宅として慣れ親しんだ私と違って、招かれた彼は身の置き場に困ったようで、その場できょろきょろと部屋中に視線を泳がしていた。
「チョッキちゃんチョッキちゃん、とりあえず椅子に座って」
「お、おう……」
落ち着けない彼の手を取って、私は彼を席に座らせ、自分もその対面に着席した。扉が開くのを待っていた。
「な、なあ……これから、どうなんだ?」
「えっと……来るとき言ったけども、ごはん食べるって聞いてる。」
「え? ああ! そ、そうだったな」
客間の想像以上にハイソな雰囲気に、チョッキちゃんは完璧に舞い上がってしまっていたようだった。微妙に床につかない足をプラプラさせて、下を向いて頬を赤くさせている。
「……なあ」
「なぁに?」
「こ、こうして面ど向がってらど……へ、変な感じしねが?」
「うん、ちょっと不思議な感じ……かも」
言われてみれば、二人きりの空間だ。外で遊んでいるときも楽しかったけど、こういうしんとした室内で二人きりというのも何だかドキドキしてしまう。お見合いみたいな感じだ。改まってという言葉が似合う。
「……さっきさ」
しばらくの沈黙の後、それを破いたのはチョッキちゃんだった。けれどもその様子は沈黙を嫌ってというより、何かの覚悟を決めてという表現がふさわしいように思えた。
「うん?」
私は、そんなチョッキちゃんの雰囲気に気付かないで気の抜いた返事だけ返した。
「あの競技走路、よぐは走ってらって言っただべ?」
「うん」
質問の通りに首肯すると、チョッキちゃんは居直ったうえで
「今度、お前が走っているところを見てみたい」
とてもまじめな顔で、言われた。まっすぐにブレることのない視線もろとも、私の心臓が射抜かれたようにドクンと跳ね上がった。
ウマ娘にとって、「走る」という行為はヒトが行うそれよりも、複雑な意味を伴う行為だった。速く走れること自体が私たちのアイデンティティであり、レゾンテートルだ。それはいつ、どの時代でも変わらない。特に競争ウマ娘においてはそれは顕著で、ましてや自分を見出してくれる側である指導員(トレーナー)に「君の走りを見たい」と言われるのは、百の言葉よりてき面に私たちの心をかき乱す。
そう、その言葉は、一世一代の愛の告白と同じくらいの衝撃と喜びだった。
「……見、見て、みたいの?」
おずおずと、私は彼に聞き返した。身を乗り出したいのを懸命に我慢して、ほんのり赤くなっている彼の顔を凝視する。
「だ……だって、将来おめば担当するごどになるんだったら、今見でおぐごどに越したごどねごった……な?」
少しぶっきらぼうな調子で言いながら、チョッキちゃんは少し髪が伸びてきた自分の頭をかいた。
そう、チョッキちゃんはついこの前の、約束とも言えない戯言を真剣に、本当に取り合ってくれていたのだ。
胸の高鳴りが抑えきれず、突き動かされるまま、私はチョッキちゃんに抱き着いてしまった。
「お、おいっ「うれしい……! うれしい……!」
感極まりすぎてすすり泣きそうになっている私の頭を、チョッキちゃんは優しくなでてくれた。家族以外に、初めて自分の走りを見たいと言ってもらえた――そう思うと、私の胸の中に火が灯るように、不思議な温かさが広がっていった。
しばらくそうやって抱き合っていたのだけれども、ふいに響いたノックの音で、私たちは引き離されてしまうのだった。
* * *
「さあ、長吉くん。今日は好きなだけ食べていいですからね」
それから私たちは、母とともに遅めの昼食を取っていた。客間の向かい側にあるダイニングは、向かい合う形で20人ほど座れる大きなテーブルが用意された部屋で、そのテーブルの上には、たくさんの料理が和も洋も問わずに広がっていた。
客間にやってきた母を見て、チョッキちゃんはハッとなって見惚れていた。確かに母は美しく長い栗毛に、藤色の瞳をしているうえ、目鼻立ちはとても整っている。見た目に優れるウマ娘全体で見ても、特に美しいヒトだった。見惚れるのも無理はない。
しかし私はとてつもなく面白くなかった。言っては何だが、私は母と瓜二つだった。そっくりなんだから私に見惚れるべきでしょと思うし、あんな浪漫チックな雰囲気の後で、そういうのはどうなんだという異議があった。
「は、はい! その……すごいお御馳走で」
「娘の大切な友達と聞きましたから、料理人に腕を振るわせたんですよ」
にこやかに、そして穏やかな口調の母に、チョッキちゃんは始終はにかみっぱなしだった。私にはしたことないような表情をする彼に、私はますます不満が募った。
「母様!」
「なぁに年藤?」
キョトンとした顔で母がこちらを見た。どうにもチョッキちゃんの反応に対して何も感じている様子はなかった。
「どうかしたかしら?」
「そういうのやめてっ!」
「……何を?」
「……チョッキちゃんとらないでっ!」
そう母に牽制めいたことを叫びながら、私は横からかばうようにチョッキちゃんを結構な力で抱きしめた。ぐえという声がチョッキちゃんから聞こえた気がした。
それを見てようやく察したらしい。驚いたように口元を抑えて鷹揚に
「あらあら……ごめんね。そういうつもりはなかったの」
「と、年藤……苦しいんだが」
「チョッキちゃんは母様にデレデレしちゃヤダッ!」
本気でチョッキちゃんを取られると思った私は、口先でチョッキちゃんを叱りながら、彼を離さないように腕の力を緩めなかった。
「ごめんなさい長吉くん。うちの娘、わがままでしょう?」
「い、いえ……元気で良いと思います……」
ほどなくして「さすがに飯が食えんから離してくれ」と本人から言われ、私はしぶしぶチョッキちゃんを解放した。
「そう、長吉くんは八戸で育ったのね」
「はい! 今は北郷先生のところでお世話になってます!」
「あら、北郷センセイ? 私知っているわ」
「本当ですか!?」
「ええ~母様ずるいよぉ」
「そんな大したことじゃないわ年藤。私がデビューする直前まで集団指導の担当だっただけよ」
食事中はとりとめのない会話が朗らかに続いた。使い慣れないフォークとナイフにチョッキちゃんは苦戦していたけど、余程お気に召したのかパクパクと元気よく食べていた。私自身もそこそこ量を食べるものだから、陳列された料理は、会話を適宜挟みつつ1時間ほどで8割方胃の中に収められたのだった。
そんな折に、私は不意に、母にこんなことを言われた。
「年藤、あちらの厨房に大きなショートケーキがあるから、持ってきてくれるかしら?」
妙なお願いだった。そういった物を持ってくる類の願い事なんて、わざわざ娘たちにやらせたことはほとんどない。
「え、女中さんが持ってきてくれるんじゃないの?」
「大きいのよ。ワゴンに乗せるのも大変だろうから、手伝ってあげてほしいの」
お願いね、と念を押され、私は渋々と席を立った。厨房は同じ1階にあるけど、館の奥まった位置にあるものだから少し面倒だった。「俺も手伝う」とチョッキちゃんも立ち上がってくれたけど、流石に客人に配膳をやらせるようなことはできなかった。
スタスタと歩いて行って厨房に立ち入る。中で皿洗いや夕食の仕込みをしている料理人たちに軽く声をかけた。お目当てのショートケーキはまだ最後の飾りつけを待っているところだった。あと少しで仕上がると、料理人に言われたので私は大人しく厨房の壁に寄りかかって完成を待つことにした。やがて出来上がったホールケーキを私は担ぎ上げた――しかし実際大きかった。両腕をめいっぱい広げて、なんとか運び出したものの、ケーキ自体の重さが結構あるものだったから、バランスを取りながら運ぶと、そろりそろりとした脚運びにならざるを得なかった。歩きにしてはたっぷりの時間をかけて、私はケーキを持って食堂に戻った。
「ご苦労様、年藤」
いつもの静かな口調で母がねぎらいの言葉を投げかけてくれた。私はそれに対して不満交じりの軽口で返しながら、珍しいデザートにありつこうとした。けどありつこうとしたところで、はたと隣のチョッキちゃんの顔色が浮かばれないモノだったのに気づいた。
「チョッキちゃん、どうかしたかしら?」
声をかけると、チョッキちゃんはハッとしたように顔を上げて、「なんでもない」とだけ言った。そうして、そのあとはいつもの調子になったから、私も気にせずショートケーキにかぶりつくことにしたのだった。
* * *
「今日はありがとうございました」
はきはきとした調子でチョッキちゃんはお礼を言った。雨は勢いを増してまだ降りしきっていて、チョッキちゃんのこうもり傘からぴちぴちと雨粒がはじけるのが見えた。
「今日は来てくれてありがとう長吉くん。気を付けて帰ってくださいね」
「楽しかったよー!」
私は名残惜しかったけども、これが最後の別れでもないから、元気にチョッキちゃんに笑いかけた。けどチョッキちゃんは、どこか素直に喜べない雰囲気だった。
「わも楽しかったよ。へば……さようなら、年藤」
その微笑みに浮かんでいたのは、確かに寂しさだった。今まで、チョッキちゃんがこんな悲しそうに笑うところなんて見たことがなかった――そして私は、その寂しさの理由が一切わからなかった。
「……うん、さようなら……」
なんでそんな顔をするの――そう聞き返すこともできず、私は母と一緒に門へと遠ざかる彼の背を眺めるだけだった。
「……さあ、年藤。お部屋に入りましょう? 今日のお勉強が少し残ってますよ」
チョッキちゃんが見えなくなった頃に、母はそう言って私を中に入るように促す。けど、私の脚は根が張ったようにその場から動けなかった。
「なんで、チョッキちゃんはあんな顔をしてたの?」
「……別に普通だったと思うわ」
私の不安をばっさりと斬り捨て、母は館の中に入っていく。濡れないうちに入りなさいと最後に言い残し、重い木の扉がばたりと閉じられる。玄関ポーチに立ち尽くす私だけが取り残された。ぼうっと雨音に身をゆだね、心当たりを探ってみれど、結局チョッキちゃんの謎の答えにたどり着くことはなかった。仕方なく、私は明日以降の藤の丘での邂逅に希望を託し、家庭教師の待つであろう自室へと帰っていった。
――けれど、チョッキちゃんは二度と、あの藤の丘で私を待つことはなかったのだった。
豆知識:この作品は実在の人物及び競走馬をモチーフとしておりますが、フィクションであり、モチーフ元とは一切関係はございません