――1942年、戦時下、東京、府中。
府中は多摩地域の中心的な土地であった。このころまでには、複数の鉄道路線が敷かれ、大日本帝国軍の基地も置かれ、いくつもの工場が並び立つ。もはや江戸時代末期までの、田畑と宿場町だけだった頃とは見比べるべきもなかった。
そんな府中に9年ほど前にウマ娘の競走場が設置された。これは目黒にあった競走場を移設したもので、規模は移転前と比較し約3倍。併せてウマ娘たちの特別寮及びウマ娘学舎(のちのトレセン学園及び寮の前身)も府中へと移転されることになったのだった。
「クリフジさん、もう少しキビキビ走りませんと」
「んぅ~……わかってますぅ~……」
そんな新品と言って差し支えない特別寮の玄関から駆け足気味に出てきたのは、深草色のセーラー服に身を包んだ二人の栗毛のウマ娘だった。クリフジと呼ばれた少女は170センチに届きそうなほど背が高く、傍らの少女は耳を含めても彼女の肩ほどにしか身長はなかった。
小柄な少女のはきはきとした様子と比べ、クリフジはどこか眠たげなふうで、時折欠伸をかみ殺している。
「他の御姉様方はもう自主練に勤しんでいる頃だというのに……」
「だから、トシちゃんは先に行ってもいいですよって……」
「そう言って、この前は始業の五分前に来たのはどこの誰ですかっ」
「それだって間に合ってるからいいじゃない……」
「良くありません! 私たち競走ウマ娘は品行方正が求められているんですよ!?」
飛び跳ねんばかりに「トシちゃん」はクリフジの言い訳に食って掛かった。しかし、やや舌足らずな叱責に思わずクリフジは小さく噴き出した。クリフジは昔から可愛らしいものに弱かったため、本人からすれば仕方のない反応だったのだが、案の定「何笑ってますの!?」と相手はさらに目を四角くした。
トシちゃんと呼ばれたそのウマ娘は、競走名をトシシロという。クリフジと同級生で、かつ寮の相部屋を共にする間柄だ。クリフジよりやや暗い色合いの栗毛(栃栗毛という)を、襟足の長さで切りそろえているのだが、それが彼女の生真面目な雰囲気をより強めていた。その雰囲気を裏切ることなく、トシシロは至極真面目な性格だった。クリフジは平生、何かにつけてはこの小さな級友の忠告を食らっているのであった。本来であれば、じっと彼女の言葉を聞いて、殊勝な雰囲気を演出するべきであろうが、いかんせん今は登校という大任務の最中だから、前方に気を配りつつ、早歩きしながら彼女の顔色をうかがうのが精いっぱいだった。
「でも朝は眠いのよトシちゃん」
「それは私だって同じですっ」
「けど私、昨晩寝るのが遅くて……多分トシちゃんより」
「……何をしていたかは知りませんけど、消灯時間を過ぎても起きているからでしょう? どうせ読書でもしていたのでしょうが、私の夜更かしは消灯の10時を過ぎたことはありませんよ?」
なんとか言い訳を考えても全て正論で弾き返される始末である。こんな感じのやり取りを毎朝やり続けて3年以上だが、クリフジはこれに対して言い負かせたことは一度としてなかった。
力強い断定に苦笑いを浮かべる以外の手が浮かぶわけもなく、クリフジはアハハと曖昧な笑みを浮かべて後頭部を軽くかいた。
「クリフジさんも、樋口一葉なんてもう何度も読まれているじゃないですか。内容は知っているのですし、 少しは我慢が効かないのですか?」
「樋口先生は好きだし、寮にいる間は娯楽も限られるじゃない」
トシシロの指摘に対して、クリフジは軽い感じで返した。駈歩の速度で車道の端を進んでいくものだから、少し息遣いが荒くなる。
クリフジにとって、樋口一葉の作品は心の友だった。彼女の作品には一様に、離別せざるを得ない男女の哀愁が込められているように感じられた。幼少の頃の唐突な別れを未だに引きずる彼女にとって、それは心をつかんで離さない要素だった。
「だったら私の少女倶楽部お貸ししますって……」
「エスは好みじゃないの。なんか……リアルじゃない感じがして」
「それがいいのに」
申し出に対する低調な断りに対して、少しの口惜しさがトシシロの言葉尻から滲んだ。この友人は、色々口ではああだこうだというが、それは色々と大雑把な自分を心配してくれているがための行為であることを、クリフジは理解していた。
ただ、彼女の愛読書については、クリフジの趣味とは相いれない側面があるのは事実であるため、一切食指が動かなかった――「エス」というのは少女同士の一種恋愛的なニュアンスを含んだ交流を描いた作品群だ。大正時代、女学生が増えるにつれて人気も増していき、扱う雑誌も同様に増えていった。しかし、戦時下の検閲によって「不適切」と判断され、今となっては戦前のバックナンバーを古書店から入手するくらいしか、見る機会がなくなった。
そんな分野の小説作品が、当時学舎に通っていたウマ娘たちの間で大流行を通り越し、ある種の「常識」と化していた。
「私たちなんて、学校を卒業したら家の決めた男性と結婚することが決まっているわけですから、せめて今だけでもプラトニックというものに浸るべきですって」
「そうね」
その後、少女俱楽部の素晴らしさを力説するトシシロに対して、クリフジはひたすら聞き役に回っていた。しかし――ほかのウマ娘はそうだろうけど、クリフジはその論調に乗っかってやるつもりは毛頭なかった。
なぜならクリフジには、年藤だったころの想いが、未だに強く残っていたから。
* * *
クリフジたちの通う学舎は、寮を出てすぐにある品川通りを東へ歩いて20分ほどの場所にある。木造3階建ての校舎だが造りはいかにも頑丈で、玄関には力強い楷書体で「東京ウマ娘学舎」と書かれた表札がかけられていた。
始業の30分前にはたどり着いた二人はそのまま2階にある教室に入っていった。
中では朝の自主練習を終えた同級生たちがいくつかのグループに別れ、たわいのない会話に花を咲かせていた。トシシロはそのうちの一つにご機嫌よう、と軽やかな挨拶を交わしつつ入っていった。一方クリフジはどの塊にも軽い挨拶にとどめ、そのまま自分の席に着く。
別にクリフジの方から距離を取っているわけではなかった。しかし学舎内での人間関係の輪の中に、朝の自主練に参加していないクリフジが混じっていくことは少し難しいのは事実だった。生徒同士の繋がりは様々な場面で紡がれている。それはもちろん始業前の自主練も例外ではなく、他者より頭一つ分大きい体躯と相まってクリフジは組の中では微妙な扱いをされていた。
(苛められないだけ、理性的でありがたいと思わないと)
たまに感じる遠巻きからの視線にはため息を吐きつつ、クリフジは今日の授業の範囲をおおよそ把握するべく、教本を開いたのだった。
「……もし、クリフジさんよろしいかしら?」
……だったはずなのだが、クリフジを呼びかける声。無視を出来るわけもなく、読もうとした教本をそのまま机に伏せて目の前の声の主をクリフジは見やった。
「……今日も朝のグラウンドには来られなかったみたいですね」
慇懃無礼な態度を隠す気もないような、険のある口調を崩さぬまま、その栗毛の少女はクリフジの目の前に立ちふさがっていた。クリフジより明るいその栗毛(尾花栗毛という)を、丁寧に三つ編みにし、黒縁の眼鏡の奥からは仄かに敵意めいたものが漏れ出ているように見えた。
「ごきげんようセフトさん。ええ、相変わらず朝が弱くて……」
「相変わらずだらしのない……私たちはトップクラスの競走ウマ娘なんですよ? その自覚はないのですか?」
セフトさん……もといミスセフトは、そう言いながらじぃっとクリフジを見つめて、少し間をおいてから言った。
「午後の修練、今度こそちゃんとした併走をお願いしますから」
「今度こそって……いつも全力でやってるんですよ」
「嘘をおっしゃい。いつも蹄鉄付きの靴で走っていないでしょう?」
その指摘に、クリフジは内心ドキッとした――ミスセフトは知り合って以来、何かと突っかかってきてはいたが、まさか練習靴の裏まで見られているなんて……
蹄鉄を打ってない靴しか使っていないのは事実だが、その事実がつまびらかにされるとあまりよろしくない……クリフジはそう考えていた。だから、とりあえず当座は口八丁で誤魔化すこととした。
「そんなことないですよ? ちゃんと打ってありますから」
「……なら、見せていただいてもいいですよね? 練習靴を取りに行くなんて5分とかからないわけですし」
ミスセフトも意地になっているのか、証拠提出の要求である。周囲の「またやってるよあの二人」といった視線と相まって、クリフジは非常に居心地が悪かった。この状況から脱したくて、なんとか言い返せないかと考えているが、いい言葉が一つも浮かばなかった。苦し紛れの苦笑いしか出てこない。
「……まあ構いません。いいですか? 私は出し惜しみやら手加減なんてものが大嫌いなんです。今日こそは、全力で来なさい」
「はい、わかりました」
いい加減面倒になったクリフジの返答はお気に召さなかったらしく、フンっと鼻を鳴らしてミスセフトは去っていった。
以前クリフジがトシシロに聞いたところによれば、どうやらミスセフトはクリフジの実力を高く買っているらしかった。本人は、周囲の友人に時折「本気のクリフジさんに勝てなければ少なくとも阪神優駿は勝てない」と話すことがある――聞いた当時、にわかには信じがたかった。何せクリフジは授業内での修練における成績は中の下。一方のミスセフトは全て「優」評価をもらっている期待の星であり、ティアラ路線2冠は固いと、指導員たちの間でもっぱらの評判なのであった。
(買ってくれているのはうれしいけど……)
友人たちの元に行き、談笑の輪に入ったミスセフトの横顔を遠巻きに眺めながら、クリフジはそっと自分の右膝を撫でた。
* * *
「……ハイ皆さんごきげんよう」
髭もじゃの尾形指導員はいつもの柔和な笑みで、ウマ娘たちにあいさつした。この壮年の男性が、クリフジの組担当であり、クリフジが属する選手団の団体指導教官でもある。
「えー、今日から皆さん、二学期が始まり、もう1か月経ちましたね。秋競走も始まってますから、皆さん先輩たちの走りも見て、良く学んでくださいね」
紋切り型のご挨拶に対する、折り目正しい返答が和音になって響く。穏やかな尾形指導員は生徒たちの人気者だった。それでいて、学舎でもトップクラスの指導技術の持ち主でもある。そういった実力・実績を持つ指導員は選手団(現代におけるチーム)の責任者である指導教官を任される仕組みになっていた。生徒たちがどの選手団に振り分けられるのかは3年生の春に決まるが、生徒側の希望は一切通らず、指導員たちの方で、どこの選手団が取るかを決める――つまり尾形師に選ばれたウマ娘は、周囲から否応なしにエリートとみなされるのであった。
しかしながらクリフジにとって見れば周囲の羨望というのは無用の長物だった。もっと言えば、大して走れてない自分なんかを、何故尾形師が自陣に加え入れたのか、見当がつかなかった。
「さて、みなさんにお話があります」
改まった口調で尾形師がそう言った。穏やかに下がっていたまなじりはキッと吊り上がり、それに釣られるように教室内にぴりっとした緊張感が漂った。無気力にぼーっと尾形師の顔を眺めていたクリフジも思わず背筋を伸ばした。
生徒たちの雰囲気の変容を察したのか、少し慌てた様子で手を振りながら、またあの人の良さそうな笑みを浮かべた。
「ええとねぇ。今日から一人、見習いの指導員がこちらの教室に来られます。今日はその紹介を皆さんにしたかったんですよ」
「尾形先生ぇ~! 男の人ですかぁ!? いくつですかぁ!?」
生徒の一人が少し興奮した様子で質問を繰り出した。尾形師は相変わらずの笑みを崩さず
「19歳ですから、あなた方より4つか5つ年上になりますね。ちなみに男性です」
19歳、男性――そのキーワードだけで、途端に教室内のざわめきが爆発した。めいめい周りの席同士でああでもないこうでもないと盛り上がり始める。
「19ですって! 素敵な殿方だったらどうしましょう! ね、クリフジさん!」
クリフジの隣の席の鹿毛の生徒も、実に楽し気にクリフジへ話しかけた。
「そうですね。個人的には優しくて紳士的な人だといいですね」
「あ~ん! いいですねぇいいですねぇ!」
まだ会ってもいない男のことで忙しそうにしている隣席と話しながら、クリフジはさっきの自分の言葉を己の内で反芻していた――
(チョッキちゃんは、紳士……ではなかったけど、優しかったな)
ちょうどあの少年も、19歳くらいだったはずだ。離れ離れになった彼に逢いたい想いを胸に秘め、やってきたクリフジだったが、その願いは果たせずにいた。
(でも、もし今日来る人がチョッキちゃんだったら……)
なぁんて、と自分の甘い希望を茶化しつつも、クリフジは鹿毛の学友の先走った妄想に付き合ってあげるのであった。
「……では、そろそろお呼びしてもいいですか?」
『はぁい!』
「元気ですね、よろしいことで……おい、前田君入りたまえ」
尾形師が教室のドアの向こうにそうやって声をかけた。クリフジは思わず目を見開いた。まさか、と思いながら教壇側のドアを見つめる。すぐにドアの向こうから「失礼します」という少年のような声が聞こえた。続けざまに扉が開き、その人物が綺麗に背筋を伸ばしながら歩いてきた。質素な和服姿にパナマ帽を目深にかぶっている。そして随分小柄だった。クリフジは思わずガタリと音を立てながら立ち上がった。教室内の注目の目が、クリフジと侵入者の二人に二分された――そうして教壇に上がっていった男は、脱帽し、尾形師に一礼し、生徒たちの方に向かって言った。
「皆さん初めまして。見習い指導員の前田長吉と申します。よろしくお願いします」
綺麗な標準語だった。そこに南部訛りはひとかけらも残ってはいなかったのだった。
豆知識:1942年当時、ウマ娘における「本格化」の知識がなかった時代なので、皆一律にデビューしていた(独自設定です)