突然立ち上がって、長吉の顔を凝視したまま動かなくなったクリフジを、周囲の人間は全員訝し気な目で見ていた。
「クリフジ君、どうかしたのかね?」
「……あっ」
尾形師に呼びかけられて、クリフジはようやく正気に戻った。一つ咳払いをしてから、頭を下げた。微妙な雰囲気にしてしまった釈明をしなければならないと、直感的に感じて、頭を下げたまましどろもどろに言葉を紡いだ。
「すみません。私、前田先生と知己の仲で……その」
クリフジの発言に、生徒たちからどよめきが広がった。床を見つめていても、自分に視線が集中するのをクリフジは肌で感じられた。……この学舎に通う娘は、押しなべて良家の出のものばかり。それゆえ幼少期には異性とのかかわりを極力排されてきた者が多かった。そんな娘たちには、クリフジの発言はかなりの刺激物だった。
「つまり……運命の再会!?」
「いつの頃からなのかしら!?」
「前田先生も美男だからお似合い~! 背は少し小さいけど」
わいわい、がやがや、きゃいきゃい。
突然のロマンスの気配に教室内は騒然となった。好き勝手な感想を言い合う生徒もいれば、あれやこれやと妄想を展開する生徒もいた。あんまりに騒がれるものだから、クリフジは恥ずかしさで顔を上げられなかった。
(ああ~……言っちゃったぁ~……!)
後悔の念がふつふつと湧き上がる。当然ながらクリフジにとって、長吉との関係にやましいところなど一つもないのだが、世間というものはそれで許してはくれないものだったし、何よりクリフジはこの話を今まで誰にも話さないでいたのだから。
そんな困り切りのクリフジに対して、一方の長吉の表情は何も変わらなかった。ただ挨拶の時の生真面目な無表情が張り付きっぱなしで、騒動が収まるのを待っているようだった。そして横にいる尾形師は含みのある――一種下世話さの混じった笑みを浮かべて、クリフジと長吉を見比べているようだった。騒然とした場の平定に今乗り出す気はないらしい。
「いやぁ、ワシも知らなかったなぁ。おい前田君、君はクリフジのこと、知っていたのかね?」
にやにやと笑いながら、尾形師は長吉に問うた。女生徒たちはきゃあと嬌声を上げた。クリフジは恐々としたふうに、上目遣いで長吉の顔を見つめる。一瞬、長吉とクリフジの視線が合った。だが長吉はすぐに視線を外した。それから、長吉は表情を少し歪ませて答えた。
「……知らないですね」
誰も想像もしていなかったその一言で場が凍り付いた。
「……え」
クリフジは顔を上げ、何事かと長吉の顔を見るしかなかった。
知らない、なんて言われるとは夢にも思わなかった。クリフジにとって、長吉との思い出は色あせることのない宝石と同じだった。何度も夢に見た。もう一度逢いたかった。あの日の思い出――指導員として一緒に、という夢語りだけを頼りに、父が敷いた競争ウマ娘への道にだって乗っかって見せた。そうすれば、本当に学舎で逢えるかもと――そういった今までの情熱の一切が否定されたかのようだった。
長吉は硬い表情のまま、再びクリフジを見た。その視線から、ついに一種の懐かしさや驚きすら読み取れなかったクリフジは、彼の言葉は事実であると判断せずにはいられなかった。
「クリフジさん、着席を」
長吉に促されるまま、クリフジは席に座った。もうクリフジは、大きな感情に支配され、頭の中が真っ白になっていた。それは、羞恥と怒りと疑問。そして大きな悲しみでドロドロのぐちゃぐちゃになっていたのだった。
女生徒たちのざわめきは一連のやり取りを経て、困惑と緊迫感、それとクリフジへの同情心めいたもので沈黙へと変わっていった。めいめい長吉とクリフジの顔を交互に伺って、二人の関係の中の謎を解き明かそうとしていた。しかし結局誰も何もわからなかった。
静まりきったところで尾形師は手をパンパンと叩いた。
「ということで、前田先生のことをよろしくお願いいたしますね」
何が「ということで」なのかは全く分からなかったが、生徒たちは確認も億劫なので、ただ折り目正しい返事を返した。
* * *
「グスッ……なんでぇ……」
その日の昼休み。クリフジは昼食も取らずに校舎裏で一人めそめそと泣いていた。午前の授業中まではなんとか耐えられた。が、周囲は気を遣ったのか単に気まずかったのか、あの後から腫物を触るかのように一層誰も寄ってこなかった。あの世話焼きのトシシロさえ同様だった。その現実にクリフジはますます惨めな気持ちになったのだった。スカートが汚れるのも厭わず、座り込んで流れる涙やら鼻水やらをハンカチで拭い続ける。
あの日……長吉が館に遊びに来た翌日、クリフジ――年藤はまた館を抜け出して藤の丘に出掛けた。彼の帰り際に感じた違和感を解決したかったからこその行動だった。しかし、その日は来なかった。次の日も、その次の日も……
半年ほど経って、館に勤める下女から聞いたことが、長吉の面倒を見ていた北郷師が急病で亡くなり、それによって長吉も千葉から離れたのだということ。何度聞いても、お嬢様特権で命令しても行先はわからなかった。
年藤は心底ショックだったし、何故挨拶もなく下総を去ったのだと文句すら出た。けれども年藤は、前田長吉という少年のことをよく理解しているつもりだった。だから、何かしらの理由が――例えば、挨拶に来れないほど急な話だったのではなかろうか? 当てにしていた先生が死んでしまったとなれば、急に田舎に呼び戻されることもあったのかもしれない。もしくは、次の先生の所にご厄介になるために、火急に行動しないといけないことがあって、此方に寄る余裕もなかったのかもしれない。――想像ばかりが先んじていき、結局クリフジの目の前から消えた事情はずっと分からず仕舞いだった。しかし――いや、だからこそ幼いころの約束だけは色あせることはなかった。色あせず、未だクリフジの心に楔のように打ち付けられたままだった。
それをああいう態度を取られてしまっては、クリフジにはどうしようもなかった。もしかして人間違いかしら、と考え直すことも何度もしてみたが、教室の後ろのほうで、帳面片手に授業の様子をメモする顔と、丘の上で遊んだ少年の顔は驚くほどに同じだった。彼女の恋した顔だった。そしてここに来て盗み見たその顔に見とれている自分が、浅ましくて笑ってしまった。
「うう~……チョッキちゃぁん……」
膝に顔をうずめて呻く。スカートの膝の部分が、深草色を通り越して黒茶っぽい色になっている。それを見てどれだけ泣いたんだと、どこか他人事のように眺めた。鼻をすすりながらそうしていると、クリフジのウマ耳が、こちらに歩いてくる足音を捉えた。驚き、立ち上がって身構える。取り繕いようもない気はしたが、せめてもの想いで瞳に溜まった涙を渾身の力で拭う。
「……あら、こちらにいらしたのね」
角からやってきたのはミスセフトだった。クリフジは驚きを隠せなかった。が、来訪者はクリフジを心配して来たというふうでないことは明らかだったので、相手の意思を確認する必要性があった。あえてミスセフトから顔を背けながら、クリフジは問うた。
「……何か用かしら」
「いえ、食堂に顔を出した様子もなかったので、どうしたのかと思って様子を見に来ただけでしてよ?」
しれっとそれらしい言葉を返すが、本意はそこではないことはクリフジにも分かった。が、クリフジは今ミスセフトと言葉を交わすことがとても億劫だった。だから単純な応答で返すに留めて、さっさとこの会話を終わらせようと思った。
「そうですか」
「それにしても、残念でしたね?」
あえて抽象的な言い方に抑えた投げかけだ。何事もはっきりさせたがるミスセフトらしくない。強い違和感を覚えたが、クリフジはあえてそこに触れずに、なにも気づいていないふりをした。
「……何がでしょうか?」
「前田先生のこと」
……やはり自分が朝しでかした騒動をくさしたい様子に思えた。内心、ミスセフトらしからぬ小物臭い行動に軽蔑の念を抱きながら、クリフジは努めて事務的な応答に留まるように静かに答えた。
「……お騒がせしました。私の個人的な質問で」
興奮した様子を少しでも見せれば、相手はそこをつついて、何をしようものかわからない――この場を切り抜けるために、クリフジなりの最適解として、平易な謝罪を述べた。
クリフジの謝罪に、一瞬ミスセフトの視線が左右に由来だように見えた。が、その目はすぐに元通りにクリフジを見据えた。
「気にしなくていいですよ? むしろ、残念でしたね?」
「……何を言っているの?」
なぜ、自分の言葉への返しでそういう言葉になるのか。クリフジはパッと聞いてまったく理解できなかった。ミスセフトの顔を横目に見れば、目論見を後ろ手にした不敵な笑みが浮かんでいた。
「何って……あなた、結構色好みなのね?」
「ええ……!?」
突然思いも寄らない単語が飛び出てきて、クリフジは今度こそ平静を保てなかった。そむけた顔を思わずそちらに向ければ、彼女は意地の悪そうな笑みを一層強くしていた。
「まさか教室のど真ん中で、あんなカマのかけ方するなんて、積極的ね?」
「わ、私そんなんじゃ……」
もたつくように弁明の言葉を吐き出すが、ミスセフトは一切聞いていないといった素振りで、クリフジの言葉を遮って続ける。
「別に否定しなくてもいいじゃない? けどああいうのって……――そうね、色街の売女が、客を引っかけるのに好んで使いそうな話術よね?」
(ばい……た?)
最初、耳に入っても全く意味が分からなかった。しかし数拍おいたことで、その言葉を理解した瞬間、クリフジは頭に血が上っていくのを感じた。それは、クリフジ本人――もっと言えば、クリフジの長吉への想いを愚弄する言葉だった。
クリフジは、強くこぶしを握り締め、憎悪と敵意の滾った瞳でミスセフトを見据え、唸るような声で言った。
「……訂正してください」
ギリギリの理性で、丁寧語の体だけはそのままにした。
「なぜ? 私は素直な感想を「訂正しなさいよ!!!」
激怒したクリフジの、町中に響き渡るほどの怒声に、ミスセフトの肩が少し跳ねた。かなり驚いたようで、顔が若干引きつっていた。
「お、大きな声も出せたのね」
「うるさいっ!! さっきから言いたい放題言って!! 私とチョッキちゃんの間に何があったのか知りもしない癖に!」
勢いのまま捲し立て、クリフジは一歩ミスセフトのほうに踏み込んだ。これ以上私の神経を逆なでしてみろ、お前の首くらいならへし折ってやる――という意思表示だった。
クリフジの気迫に押されたのか、ミスセフトは一歩後ずさった。一瞬だけ不安が顔色によぎるも、それはすぐに過ぎ去り、一種生真面目な面持ちになった。怒りの炎を宿したクリフジの瞳と、凪いだ水面のようなミスセフトの瞳の視線が交差し――先に口を開いたのはミスセフトだった。
「ふぅん……けど、あなたたち、許嫁とかそういうことではないのよね?」
「だから!?」
「不純異性交遊、なんじゃない?」
「っ……!」
……その指摘は、実に的確だった。思わず言葉が詰まる。
ウマ娘学舎に通っている子女は、そのほとんどが良家のお嬢様といっても差し支えない出だ。クリフジも父が日本では一番大きい海運会社の社長を務めている。
……当時、自由恋愛というものが半ばタブー視されている時代だった。特に金持ちの家に生まれた子供というのは、政略結婚の駒としての扱いがまかり通っていた時代でもあった。親の意思にそむく結婚は、民法の面でも常識の面でも、大きな障壁が伴う行為だった。
「目立った成績のない、デビュー前のあなたがそんなものに現を抜かしていたんじゃあ、退学処分くらいは文句ないわよ?」
悉く事実だ。学業成績、模擬競争の成績、どれもクリフジは平均と大差ない程度で完了していた。競争成績については、クリフジ本人も歯がゆい想いをしているが、現実の評価は出ている数字通りなのである。その上で品行著しく悪いと判断されれば、容易に追い出されてしまうだろう。
そんな事実を認識した途端、クリフジの怒りはみるみると縮こまった。やがてそれは不安へと反転していってしまった。握りこんだ拳は緩み、気炎を上げていた口はつぐまれた。
「……」
「それに、一部の生徒の間じゃあ、もう噂になり始めてますよ? 「クリフジと前田先生はもう男女の関係だ」って……」
「そ、そんなことまで……やってない……のに」
「噂には尾ひれが付くもの。そして一日で千里を走る。それなりに危ない状況よ? あなた」
これもおそらく事実だろう。ミスセフトからあの底意地の悪い笑みは消え、淡々とした表情だけが残っている。そんな様子から、わざわざクリフジを煽るための嘘をでっちあげているとも思えなかった。
「……」
事態が自分の想像をはるかに超えていたことに、クリフジは動揺と消沈が隠せなかった。頭を垂れ、慌てふためきたい一心を抑えてぐっと固まる他なかった。
そんなクリフジの様子を目前にしながら、ミスセフトは何も言葉を発しなかった。むしろ何かのタイミングを見計らっているかのように、クリフジの顔色を伺っているようにさえ見えた。
そんな数分の沈黙ののち、またミスセフトが口火を切った。
「……もし、私の言うこと、一つ聞いてくれるのなら、助けてあげなくもないわ」
想いも寄らぬ投げかけにクリフジはハッとなってミスセフトを見た。変わらず淡々とした、感情の読み取りづらい表情がそこにあった。
「何故って顔していますね? まあこちらの理由はわざわざ説明なんてしませんよ」
そうミスセフトは断りを入れつつ、クリフジの反応を待っているのは明白だった。
ミスセフトの言葉はあながち嘘とは言い切れない。彼女の人望は意外にも(そうクリフジが思っているだけだが)高い。なんといっても学業優秀、競争成績優秀、おまけに見事な尾花栗毛は、他生徒の憧れであった。そんな彼女の一言には、一定以上の影響力があるのは否定できない。
「……何を、すればいいの?」
あらぬ誤解を受けた挙句、退学などという憂き目に遭いたくなかった。こわごわとした気持ちで、クリフジはミスセフトの要求をうかがうこととした。
「簡単よ」
そう前置きし、ミスセフトはすっと右手を上にあげてから、やや大仰な仕草でクリフジへと指差して、こう言った。
「今日の午後の練習、私と模擬戦をしなさい。もちろん、蹄鉄をちゃんとつけて」
クリフジが耳を疑ったその提案を、ミスセフトが言い終わると同時に、昼休み終了の予鈴が鳴った。
(この状況でまだそんなことを要求するのこのヒト!?)
信じられないものを見るような気持ちでミスセフトをじっと見つめてみるが、「言ってやった」と言わんばかりに謎の満足感に満ちた表情がそこにあった。
豆知識:ウマ娘学舎は女学校なので中高一貫(のようなもの)