午後の授業が早々に終わるや否や、クリフジは自分の練習靴を引っ掴んで、すぐに教室を飛び出した。団体練習の時間までは間がないからだ。蹄鉄のメンテナンスのために開放されている準備室で、早速蹄鉄の取り付けにかかった。準備室には、サイズの違う蹄鉄と、固定用の釘、それらを打ち付けるための木槌が置かれており、生徒の好きに使うことが出来た。
いの一番で来たおかげでクリフジは一番乗りだった。すぐに備品が置かれている棚に向かい、そこから一番大きい蹄鉄と数本の釘、柄のニスが剥げかけた木槌を手に入れて取り付けにかかる。
誰もいない部屋で、コツコツと靴底に釘を打ち込みながら、クリフジはミスセフトについて、思案を巡らせていた。何故あそこまで自分にこだわるのだろうか、と……が、どこまで行っても見当はつかなった。
(……普段の練習の様子、で……? ううん、けど全力で走ったのならまだしも……)
しかし、そう思わせれるような機会は、この学舎生活の中で一度もなかったはずだ。何故ならクリフジの体は、負荷の高い練習に耐えられない。それゆえ、集団練習では周囲に合わせる程度で留め、全速力を出せなかった。朝の自主練習は、当然ながら出たくても出られなかった。
クリフジは、慢性的なコズミ(脚部の炎症)を患っていた。特に酷いのは両ひざの関節炎で、本気で走るとかなりの激痛に襲われる。硬い蹄鉄を履いた状態だと、靴のクッション性がなくなるから殊更であった。
発症したのは学舎に入る1カ月ほど前だった。当時医者に見せたものの、ウマ娘の体には謎が多いからという言い訳と共に、匙を投げられてしまった。それから、、学舎に入って1年間は、様々な医者にかかってみたが、良くなることはなかった。会う医者たちが、悉く首をかしげるたびに、クリフジの心の中の希望を削いでいった。
今は実家に帰ると同室には誤魔化しつつ、千葉の整体師の元に通っている。東洋医学の方がどうやら合っていたようで、軽く走るくらいならやれなくもない程には回復した。それでも、渡される湿布や塗り薬の利きは悪くなる一方だった。
かといって、学舎側に事情を打ち明けることはできなかった。母である賢藤は一度説明しに行こうとしてくれたのだが、父に止められた。さもありなん。戦時下の学舎には、走れないウマ娘を置いておく余裕などない。バレれば即刻退去だろう。娘3人が競争ウマ娘となったことが大層な自慢である父は、クリフジに学舎は通い抜けと厳しい口調で言い放ったのだった。
「……痛いかな」
そう、呟く。今でも軽く走った程度でもはっきりと痛みを感じる。全速力で走ったらどうなってしまうのだろうか。
しかし、クリフジはここで学舎を去るわけにはいかなかった。競争ウマ娘の道を諦めきれないのもあるし、何よりやっと出会えた長吉と、何も事情が分からないまま、また別れたくなかった。だからこそ、痛みを押して彼女の勝負に乗ることにしたのだ。
* * *
体操服に着替え、一足早く着いたクリフジが、祈るような想いで(なるべく痛くありませんように、というお祈りだ)額に汗をかきながら柔軟をしていたところに、ミスセフトが数人の取り巻きと共にやってきた。いつもの三つ編みはほどかれ、髪の先のほうでひとまとめにするように、リボンで縛られていた。そんなミスセフトは、こちらの姿を認めると、やってきて
「やる気が感じられて大変いいことですね」
などと皮肉ともとれるような言葉をかけてきた。だがまあ、クリフジはこの発言にはまったく動揺することはなかった。周りからそういう目で見られているであろうことは、クリフジも承知の上だったからだ。
「理由が理由ですからね、今回は」
「ええ、良い試合にしましょう」
ミスセフトは余裕しゃくしゃくと言った表情だった。いい意味で緊張がないとも表現できるだろう。さすがは同年代トップクラスの実力と噂されるだけある。
「尾形先生にお願いして、今回特別にあなたと私だけの模擬戦をする許可をいただきました」
昼休みに話したときと同様に、どこか楽し気で、けど尊大さに包まれたミスセフトはそう告げた。クリフジは、尾形師がわざわざ許可してくれたという言がひっかかった。
「よく尾形先生が許可されましたね」
「ええ、けどその意味、わかって?」
聞き返すミスセフトの表情が一瞬硬くなる。どうにもその表情変化の正しい解釈が分からず、クリフジは何故か言い難い居心地の悪さを感じた。だが、彼女の問いかけが何を言わんとしているのかは、理解した。
夏の名残が残る日差しに照らされているこの練習場は、一周1600mのダートコースだ。学舎の練習場としては一番大きく、普段は数組の女生徒たちが譲り合ったり競い合ったりして使っている。
今、その練習場には、同じ組の生徒だけでなく、同年の生徒が70人ほど集まっていた。彼女らはトラックのスタート位置にいるクリフジたちから少し離れた距離で固まっている。更によくよく見れば、違う学年の生徒もその塊に加わっている。集まっている生徒たちは、制服だったり体操服だったりと、服装は様々だったが、皆一様にコースに入ってくる気配がしない――つまり、この模擬戦の観客だった。
これら事実が重なっているところの意味を、クリフジは嫌でもわかってしまった。
(……居た)
思った通り、野次ウマ娘の塊から離れたところで、尾形師と――長吉の二人がいた。ミスセフトとの模擬戦に、あの二人が注目するべき何かがあるらしかった。
「……噂、結構広まっているの。わかってくれたかしら?」
「……はい」
「……不良ウマ娘も、走りに対して真摯ならいくらか心象もマシになるでしょうよ」
では10分後に始めましょう――そう告げてミスセフトが去ろうとした、がクリフジはそれを呼び止めた。
「待ってください。教えてほしいのだけど」
「なにを?」
振り返るミスセフトの顔には、話は済んだだろうという怪訝な表情が浮かんでいた。クリフジはその藤色の瞳でもって、ミスセフトの蒼い瞳を見つめた。そして胸にしまっていた疑問を口にした。
「なんで、こんな私を助けるようなことを……?」
「……? おかしなことを聞くのね?」
「おかしい?」
「あなたに勝ちたいから、今回の件を利用したの」
それだけよ、と言葉を結び、ミスセフトはクリフジから離れていった。
(勝ちたい……)
胸中で、ぶつけられた言葉を反芻する。ミスセフトの瞳の奥には、確かに小さな炎が――闘争本能の炎が揺らめいていた。その炎の熱は、言葉によってクリフジへと伝わっていた。
* * *
スタートラインについた。クリフジとミスセフトは互いにまっすぐに前を向いたまま、バリヤロープが上がる瞬間を待っている。
「位置について――」
全身に力が入る。
「よーい」
全身の漲った力は両脚に集中し――
「はじめっ!!」
バリヤロープが跳ねると同時にはじけた。
練習場のダートをえぐりつつ、二人は最初の直線を加速していく。ミスセフトはスッと一息でクリフジの前に行く。クリフジはそのままミスセフトのすぐ後ろについた。そつのない出だしだが、クリフジは顔は苦悶にゆがんだ。
(足に速度が……乗らない!)
敵はミスセフトだけではなかった。一歩踏み出すごとに響き、そして増していく激痛との我慢比べはすでに始まっている。骨が軋む感触とともに、膝関節が完歩の衝撃のたびに悲鳴を上げる。クリフジの気持ちに反し、痛みによる集中の混乱は彼女に理想のレース運び――開幕大差をつけてそのまま走りぬく――を拒絶する。
最初の曲線を曲がる。ウマ娘の走行速度をもって曲がるカーブは全身にかなりの遠心力をかける。その遠心力に体が持っていかれないように、一層大地を踏みしめなければならない。だが、踏みしめたことであぶり出される激痛は息を乱す。体力が、乱れた息とともにクリフジの体から抜けていく。
(痛みに乱されるな……! 付いていけないペースなんかでは全くないんだからっ)
クリフジは胸の内でそう叫んで、自分を奮い立たせた。
同世代でも上位に位置するミスセフトのペースはかなりのものだった。が、それは同世代で見ればの話だった。クリフジはこれ以上のハイペースに付き合った経験もあったのだ。それも国内最高クラスのレース勝者の走りとして。
(ミスセフトの走りは、まだ明らかに姉さまたちの域には至っていない……!)
脳裏によぎるのは、幼少のみぎりから後ろを追いかけていた二人の姉の姿だった。
クリフジには、リョウゴクとハッピーマイトという姉妹がいた。二人とも帝室御賞典(現在の天皇賞)の優勝者だ。見事な成績を上げた二人は、卒業後すぐに下総の近くの官僚の家に嫁いだのだが、よく実家に帰ってきていた。それゆえか、クリフジは幼少期から学舎に入るまで、毎日のようにこの二人との併走が生活の中にあった。
それを思い出せば、ミスセフトの走りなどは話にならないレベルだった。脚の負担を度外視して走れば、トップスピードは自分が圧倒するだろうことは理解できた。だから、なおのこと勝たねばならない。だが出来る限り負担を軽減するためには、直線一気の勝負はできない。しかしそれは、定石から外れたロングスパート戦法を仕掛けるということを意味する。スタミナが持つかどうかが肝要だが、痛みは容赦なくクリフジの息を乱し、スタミナを法外に取り立てる。
曲線を曲がり終え、向こう正面に位置する約500mの直線に入っていく、一瞬、ミスセフトがクリフジのほうに視線を投げる。こちらの仕掛けどころを伺っているのは明白だ。
(どうする……!?)
脚に負荷をかけすぎれば競争を続行できなくなるかもしれない。しかし早仕掛けは痛みで呼吸を乱されている現状で不安が残る――どちらも敗北の可能性は残されていた。
* * *
クリフジは知らない話だったが、このとき、外部の観客は一様にこう思っていた――
「不気味」
そう、ミスセフトは同年代のウマ娘ではトップクラスの実力だった。彼女の通常ペースに付いていける者は数えるほどしかない。皆、日々懸命に鍛錬を重ねていても、である。
それなのに、クリフジはぴったりと1バ身半程度の距離をずっと保ったまま、彼女の後ろを追走している。碌に自主練もせず、集団練習でも目立たない彼女にそれほどの余裕が何故あるのか? もっと言えば、顔は走り始めてからすぐに苦悶の表情に転じ、しかし走りのペースは一向に変わらない。全くもって不可解。そして不気味な光景だった。
向こう正面の半ばを過ぎた。クリフジの脚は激痛を通り越してもはや燃えるような熱を帯び始めていた。
だが、立ち止まれなかった。ここで勝てばもしかしてがあるが、ここで負ければそのもしかしてもないのだ。そうこうしているうちに、腹も決まった。
(大丈夫、ここから少しづつ加速。最終直線に入る寸前で最高速になるように……あとは自分との――)
「――勝負だ!!」
「!?」
気合一声とともに体を横に持ち出してミスセフトの脇を接触すれすれに駆け抜ける! 全距離半分を過ぎたところからのロングスパートを、ミスセフトも予見などしていなかった。
(このタイミングで加速!? 正気なの!?)
だが、勝負を投げたという気配を感じられなかった。クリフジは勝つためにあの選択をした――ミスセフトはそう捉えた。
(けどっ! こんな素人丸出しのロングスパート、最後の直線で失速するに決まっている!)
向こうは逃げ残りを狙っているのだろう。だが、尋常であればゴール前の直線で減速は畢竟。そこを確実に刈り取る――ミスセフトは直線に使う脚がギリギリ残る程度を速やかに逆算し、あくまで自分のレースに沿う範囲の加速にとどめ、クリフジの背を追う形を取った。
最終曲線を曲がりぬけた頃には、ミスセフトはクリフジに4バ身程離されていた。このコースの最終直線は約400m。4バ身差は捲れない距離じゃない。そう、普通の話ならば。そしてミスセフトの思惑は、その普通を前提に組み立てられていた。なのだが――
(なんでまだ速くなってるの!?)
ミスセフトの予想に反し、クリフジは全くペースを落とさず――むしろ加速し続けていた。信じられないようなスタミナ。はたまたスピード能力か――たなびく栗毛のしっぽはどんどん小さくなっていく。追いつかんとミスセフトも姿勢を下げて、本気でスパート態勢に入るが、時すでに遅し。差は一切縮まらない。
結局、クリフジが姿勢を高く上げたまま、ゴール板をかけていくのを8バ身後ろから見ることしかできなかった。
* * *
目の前の光景に、周囲の観客は唖然としていた。3名を除いて。
そのうちの一人は、クリフジの同居人であるトシシロだった。彼女は、クリフジの強さを信じていた。だからこそ、練習で手を抜き続けていることについて忸怩たる思いで見守り続けていたのだが、今ようやく彼女の本気を垣間見ることができて、大いに興奮していた。「クリフジさんは本当にすごいのよ!」と自分のことのように喜んでいた。周りの女生徒は、呆けたように生返事を返すことしかできていなかったが。
そして残りの二人は、尾形師と長吉の二人だった。尾形師は長いあごひげを撫でながら楽しげに笑った。
「俺の言った通りだったなぁ。何バ身だ?」
「七……いや、八バ身くらいだと思いますね」
「ははっ! 伊藤先生が目ん玉ひん剥いちまうな!」
目を細めて尾形師は言った。横で模擬戦と一緒に観戦していた長吉は変わらず無表情だったが、どこか表情に柔らかさがあった。
長吉を観戦に誘ったのは尾形師だった。彼は長吉とクリフジが知己の仲であることを知り、そして長吉の事情についても、彼から直接聞いていた。そのうえで、長吉を誘ったのである。
「どうだ、クリフジは強いだろう」
「ええ。流石はハッピーマイトやリョウゴクの妹なだけあります」
「なんだ、つまらんな。そこは俺の女だくらい言えないのか?」
「……問題発言ですよ、先生」
「はんっ! お堅い奴だ。それとも、自分には言う権利がないとでも言うんかい?」
「……」
軽口ついでに、尾形師は長吉の図星をつついた。案の定、長吉は眉根を寄せて口をつぐんでしまった。その姿にため息が出るのだが、説教しようがどうしようもないことだった。改めてトラックの方の、走り切って息絶え絶えな二人を見る。二人ともかがんでいる。ミスセフトは先着されたクリフジの方に顔を向けている。一方のクリフジは顔を地面に向けて、微動だにしない。
その姿に、尾形師は違和感を感じたが、すぐにそれは実態に変わってしまった。
クリフジがその場で倒れてしまったのだ。
「おいっ、どうし――」
「年藤!!」
尾形師が動き出すよりも早く、横にいた長吉が駆け出して行った。そのまま、倒れたクリフジに走り寄ったウマ娘たちの群れに割って入っていく。
「あっ、前田先生!」
「年藤……クリフジどうしたんだ!」
息も口調も荒々しく、長吉は倒れたクリフジに駆け寄った。クリフジは両膝を庇うかのように体を丸めていた。息も荒く、目の焦点も合っているのか怪しかった。
「クリフジ……おいっ、返事を!」
「……あ」
長吉の呼びかけに反応してか、ゆるゆるとクリフジは顔をこちらに向けた。顔中にびっしょりと汗をかいて、頬に栗色の髪がへばりついていた。
「チョッキちゃん……」
「どうしたんだ、何があった?」
「ひざ……痛いの」
「痛くて歩けないんだな?」
長吉はそう言い放つと、クリフジの返答も聞かずに、彼女を抱え上げた。
「俺が医務室に連れていく! 全員解散!!」
長吉はそう叫んで、そのまま練習場からクリフジを抱えて歩き始めた。周囲の生徒たちはポカンとしていたが、遠くで一部始終を見物していた尾形師は爆笑していた。
「何を笑ってるんですか先生!?」
「あー……いやいや良いんだ良いんだ前田くん。クリフジの面倒を見てくれ。これは上司命令だ」
「……承知しました」
言われずとも、と言わんばかりの態度の長吉の、先刻までの態度からの変わりようがおかしすぎて、尾形師は笑いのこらえるのにいっぱいいっぱいだった。長吉に言った言葉は、いい若いもん同士でやってくれ、という想いからの、上司命令だった。
豆知識:ミスセフトはクリフジ世代の桜花賞馬です