ガラガラと引き戸が動く音が聞こえて、クリフジの意識は無意識から引き揚げられた。鼻につく消毒液と湿布のにおいに辟易としつつ、うっすらと目を開く。視界に白いカーテンと、教室と似たような木の天井が見えた。そこを西日がうっすらと赤く染めている。それを認めて、ようやくここが医務室であることを理解した。同時に、クリフジはさっきまでの自分の状況を思い出した。
模擬戦を当初の想定からは少し逸脱はしたが、なんとか先頭で走り抜けた。骨の軋むような痛みに耐え、ミスセフトの猛追に冷や汗をかきながら、勝ち取った勝利だった。それはいいものの、とにかく我慢の限界だった。ゴールしてすぐ、あまりの痛みにその場で倒れた。もう一秒でも二本足で立っていることが辛かった。そうしたら、周りで見ていた級友たちが一斉に心配して駆け寄ってくれたのだ。そこまでは覚えている。そのあとは痛みで意識が朦朧としてしまったので何だかよく覚えていない。けど、こうして医務室のベッドに横たわっているということは、誰かがクリフジを運んでくれたに違いない。そして、横たわっている今、とりあえず痛みはない。両膝から太ももにかけてひんやりした感触があることから、応急処置も施されているのだろう。
お礼を……とぼんやり考えていた。
「起きたか、クリフジ」
不意に少年の声がした。そちらに顔を向けると長吉がベットの傍らの椅子に座り込んでいた。半ば夢うつつなクリフジは2、3秒考えてから、ようやく口を開いた。
「チョッキちゃんが運んでくれたの?」
「……ああ」
また難しそうな顔をして、長吉はそう答えた。
表情の真意はともかくとして、長吉が自分のことを助けてくれた事実が嬉しかった。あんなつれない態度をしておきながら、やっぱり優しいじゃないか、と。だが、徐々に目覚め始めた頭で考え始めて、なんだかとんでもないことに気付いてしまった。脚に貼られているらしい湿布のことである。
ここにいるのは、長吉と自分だけ。なら自然と湿布を張るのは長吉。つまりクリフジの生足に長吉は触れたことになる。
「は、はわぁ……」
「は……?」
長吉の節がちな手指が自分の肢体を這うように撫でまわす想像が頭によぎり、思わず両手で顔を覆ってしまった。何故かと言えば、それってつまりとってもえっちだからである。
(そ、そんなすけべぇなヒトだったなんてぇ~)
覆った手の隙間から長吉の顔を盗み見る。形の良い二重の目元は、意志の強そうな印象を与えるが、やはり幼い頃の面影が残っている。それが、ちょっと心配そうにクリフジを見ていた。とてもすけべぇには見えない。が、確認はすべきだと思って、クリフジは思い切って聞いた。
「……チョッキちゃん」
「なんだ」
「私の脚、触ったの?」
「湿布はミスセフトが張った。俺は君を担いだ以外に触れてない」
まるで用意していたかのような淀みない返事だった。ミスセフトが見舞ってくれたことは意外だったが、それはそれ。長吉がすけべぇではなかったことは良いのだが、なんだかつまらない気持ちだった。クリフジは唇を尖らせて
「ちぇー……なんだぁ」
不平不満のこもったボヤキを吐いた。少しくらい触ってもいいのに。減るものでもないし。
「なんだとは何だ。男の俺にベタベタ触られても嫌だろう」
「つまんないなって」
「……わけがわからん」
長吉は眉を顰めた。クリフジがにわかにへそを曲げたのがなんでなのか、皆目見当がつかず困惑しているようだった。その困っている様子が、クリフジには少し面白かった。こっそり掛布団を引き上げて、にやついた口元を隠して、長吉の様子をうかがう。相変わらず長吉は年不相応な童顔を、固くしてそこにいる。けど先刻までとは明らかに違った様子だった。口調はなんとなしに平易で、子供の頃の距離感と近いように思えた。一体、長吉にどういった心境の変化があったのかはわからない。が、これだけでも、クリフジは自分の今日までの辛抱は無駄ではなかったと思えた。
やがて、長吉はその固い表情も緩めて、口を開いた。
「痛みはどうだ。よく利く湿布を選んだつもりだったが」
「痛くないよ。」
「うむ、何せドイツ品だからな。国産とは訳が違う」
「走ると、どうなるかはわかんないけど」
「そこはもっと長い目で見ないと何とも言えない」
とりあえず、立ってみるか、と長吉に聞かれ、クリフジは黙ってうなずいた。上体を起こし、ベットに腰を掛けた態勢を取る。長吉も立ち上がった。
「一人で立てそうか?」
優しい口調でクリフジは長吉に聞かれた。その声は、長吉が男にしては高めの声音なのも相まって。幼い頃の印象そのままだった。
少しの間、クリフジは逡巡した。そして閃いた妙案を即実行に移した。
「……ちょっと、怖い、かもしれない、です……」
少し憂いのある表情を装い、うつむき加減に両の手をそっと差し出した。下手な芝居を打った羞恥で、言葉尻が震えて、ウマ耳がへにょへにょと横にしおれていく。
怖いのは事実だったが、むやみに動かさなければ大丈夫だろうという見当であった。でもクリフジは長吉にこの手を取ってほしくなった。しかし素直に甘えることができるわけもなかった。
「そうか……」
一言漏らしてから、長吉は少し考える素振りをして、それからクリフジの両手を取った。
「せーの、で行けるか?」
まっすぐに長吉はクリフジを見つめる。クリフジは彼の真摯な瞳に集中すればいいのか、彼の存外力強い両手の感触に集中すればいいのかわからなくなった。
「……ん」
「じゃあ……せーのっ」
合図とともにクリフジは軽やかに立ち上がった。立ち上がると、長吉の頭が大体クリフジの肩くらいになり、長吉を見下ろす形になった。
「チョッキちゃん、ちっちゃいね」
「余計な口を利くんじゃあない」
あからさまにむっとした表情になったが、すぐに気を取り直して真剣な目をクリフジの脚に向けた。
「見たところ、腫れは引いているな。手は持ったままにしてあげるから、扉の方まで歩いてみようか」
そう言われて、クリフジは長吉の手を借りてゆっくりと歩いてみた。痛みはあるが、思った以上ではない。これなら松葉杖でもあれば移動はできそうに思えた。
「なら、当座は一応生活できそうだな。念のため学舎への登校は少し控えるようにして、安静に努めておくれ」
「はい」
「それと……」
「はい?」
「……今朝は、すまなかった」
ばつが悪そうに長吉はクリフジに言った。長吉の謝罪が耳に入った瞬間、様々な想いがクリフジを過ぎっていった。そして言いたいこともたくさん出てきた。けど、どれから言えばいいのか迷った。迷って、数秒経ってから、ようやく絞り出した。
「なんで……あんなこと……」
努めて平静を装ってみた。しかし無駄だった。あの時感じた悲しみが今更こみ上げて、クリフジの声を震わせてしまう。
「……言えない。すまない」
「なに、それ」
「君のためなんだ」
君のためと言う長吉のことを、クリフジは信じたかった。長吉は嘘を吐いた。けれど、それにはやむを得ない理由があるのならどれだけ良いことか……
「信じられない」
クリフジはそう言わざるを得なかった。言いながら、自分の中の悲しみがさらに重くなっていくのを感じた。
「そうだ、ろうな……」
「知り合いだって言うくらい、なんだっていうの……? それは、秘密にしないと駄目なことなの?」
「そうではないんだ。ただ……一つ確かなことを言えば、君が俺のことを覚えていたことは……驚きだった」
言うべきか、少し迷ったのは明白な態度だった。そして言われたクリフジは声を失うほどの衝撃だった。あの日の想い出を、易々と忘れるものだと思われていたのか。
「ひどい……チョッキちゃんにとって、私との想い出って忘れられる程度のことだったの……?」
堪え切れず、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。自分にとって何よりも大切な日々だったのは、長吉にとってもそうなんだと、信じていたかった。しかしそれはただの自分の願望でしかなかった――
「それは、違う」
「うそ。じゃあなんで今朝はあんないじわる言ったの……?」
「仮にも指導員と生徒だぞ? それに……繰り返しになるけど、どうしても事情があったんだ」
「だからっ、その事情は――」
「言えないんだ」
「……もう、わかんないよ」
クリフジの大きな藤色の瞳から、涙はとめどなく流れ続けていく。長吉はそれを気の毒そうに見守って、それからまた口を開いた。
「君とあの丘で出会ってからの数か月間は、俺にとってもかけがえのない日々だ」
「うそ」
「嘘じゃない。それをこれから表明させてほしい」
三度真剣な目でもって長吉はクリフジに訴えた。ずいっとクリフジに半歩近寄って、密着するくらいの距離で長吉はさらに続ける。
「君の脚の面倒を見ること、尾形師から許可をもらう。俺が君を付きっ切りで補助する。そして、来年には大競走に君を連れていく――必ず!」
力強い宣言だった。クリフジは、すんすんと鼻を2、3回鳴らして、斜め下にある長吉の顔をじっと見つめた。そこには一切のおどけもない。本当の本気の色だけがあった。
「……じゃあ、ゆるします」
控えめにクリフジはそう言った。すると長吉はようやくホッとした顔をして
「そうか、よかった、ありがとう」
「でも、私の脚、いろんなお医者様が諦めたんだよ?」
「医者がダメなら笹針でも漢方でも願掛けでもなんでもやるさ」
軽快に長吉は言い放った。
「それに、必要なら俺が毎日按摩だってしてやる。整体師のところで教わったことがあるからな。言っては何だが、達人級だぞ?」
「ふふっ……」
長吉の大げさな物言いがおかしくて、クリフジの顔が少し綻んだ。年上なのに少し無邪気な仕草に、先ほどの怒りや悲しみもどこへ行ったのか、クリフジは目の前の青年を抱きしめてあげたくて仕方なかった。
* * *
その日は松葉杖をつきながら寮に戻れば、トシシロをはじめとした学友たちの質問攻めにあった。心配から来るものが8割だったが、残りの2割は長吉と何かあったのかという下世話な質問だった。
「何にもありませんでした」
と笑顔を繕って答えるとみんなガッカリした顔を一瞬だけするのが面白かった。
ただ、同室のトシシロには本当のことを話した。クリフジも長吉との関係が修復できたことはうれしかったし、それを誰かに言いたい気持ちがあった。
真面目なトシシロならば言いふらすこともないだろう(大人たちへの心証には悪いのは変わらないのである)という判断も手伝い、その日消灯時間まで長吉との事の顛末を話し、トシシロをドギマギさせていた。
そんな日の翌日、クリフジは尾形師から許しを貰って、学舎を休んで寮で休んでいた。貸本屋で珍しく借りた太宰治なんぞを読んで、少し経ったら昨日の長吉とのやり取りを思い返して、ベッドの上でジタバタしたりした。
昼頃になって、寮母がクリフジの部屋にやってきた。尾形師と長吉が来たので談話室に行くよう言い渡された。
「寮母さん、どういった御用かご存じですか?」
「いえ知らないわ。けど、怒ってるとかそんな感じではなかったから、安心して降りてきなさいな」
素っ気なく寮母は言い残して、さっさと部屋を出ていった。クリフジはそれを見送りつつ、頭の中でアレコレ想像してみたが、らちが明かなかった。杖をつきつつ、えっちらおっちら階下に降りて行った。
「こんにちはクリフジさん」
談話室について早々、尾形師は例の人のよさそうな穏やかな笑みでもってクリフジを迎えた。その尾形師は袴姿で革張りのソファに深々と座っている。少し暑いのか、片手に持った扇子をひらひらと仰いでいる。寛いだ様子だが、一方で横にいる和服の長吉は、折り目正しい姿勢で座っていた。
「こんにちは尾形先生。それと……」
「話は聞いてる。ワシの前だからと言って呼び方を変えなくてもよろしい」
「えと……チョッキちゃんも、こんにちわ?」
「なんで疑問形なんだよ」
「いや、その……他の人がいるところでチョッキちゃんって呼ぶの、ちょっと恥ずかしいし……」
「言われる方は倍恥ずかしいと思うんだがな」
「むぅ……いじわる」
気を取り直して、尾形師の方をクリフジは見た。
「あの、今日はどういった御用で……」
「ああ、じゃあさっそく話をしようか」
そう言うと、尾形師は手に持った扇子をぱちりと鳴らして、言い放った。
「クリフジの指導役は、本日付で前田長吉指導員見習いとする。以上だ」
まさに寝耳に水の発言だった。
豆知識:当時のウマ娘学舎はほぼ政府機関なので物資が豊富