予想だにしていなかった宣言に、少し呆然としていたクリフジだが、すぐに気を取り直して、尾形師に聞き返した。
「あの、つまり私の指導をチョッキちゃんがすべて見る……ということなんですか?」
「そうだよ」
「そんなこと、やっているウマ娘なんて聞いたことが……」
「外国ではままあることだよ。1900年の英国三冠のダイヤモンドジュビリーは、激昂しやすい性格から集団訓練は殆ど行わず、専属の指導員が付きっ切りになって鍛えた。更に遡ればキンチェムというウマ娘はフランキーという男と二人三脚で54戦54勝しているよ」
つらつらと尾形師は語る。実際、クリフジもキンチェムの話は知っていた。何せそのキンチェムは現役が終わった後、そのフランキーと結婚し、幸せな家庭を築いているという話がある。何度、そのおとぎ話を自分と長吉に重ね合わせる夢想を繰り広げたかは、覚えていない。
しかし、クリフジが言いたいことはそうじゃなかった。いや、確かに長吉と合法的に二人っきりになれるというのは、願ってもいないことなのだが。
「外国はそうでしょうけども、日本では聞いたことがありません」
「そこだ」
「え?」
「ワシはそこが気に入らないんだ」
そう言い放つと、尾形師の眉根が吊り上がり、厳しい表情を形作る。それを受けてなのかはわからないが、今度は長吉がクリフジに言った。
「尾形先生は、今後の競争ウマ娘の指導は、基本的には一人の指導者が一人のウマ娘を指導するという形にすることが一番良いとお考えなんだ」
確かに今までの団体指導は、各人に対して適切な指導が出来ているのかと言えば疑問が出てくるだろう。実際問題、脚のことがあって本気で練習に取り組めていなかったクリフジに対して、この半年近く、尾形師から特別に指導や忠言などもなかったわけである。
さらに言えば、ウマ娘それぞれの脚質適正の問題がある。体格やそのほかの能力も当然のことながらバラバラ。そんな連中を、集団練習に無理やり押し込めている今の状況は、確かに改めて考えてみると異常であるとしか思えなかった。
「なんとなしに長吉から聞いているが、脚の不調は前からだったそうだな?」
厳しい表情のまま、尾形師はクリフジの目を見て聞いた。猛禽を思わせる鋭い視線にクリフジの心臓が大きく跳ねた。ああ、確かに昨日の医務室で脚が前から悪いことをポロっと言ってしまっていた。その時クリフジは何も考えていなかったのだが、言われた長吉が師である尾形師に報告するのは当たり前の話だ。
(しまった……)
内心で自身のやらかしを悔やんだが、もはや弁明などしない方が良いだろうと考えた。背筋を正して、それから意を決して答えた。
「はい、その通りです」
「いつから?」
「学舎に入る1か月ほど前から……」
「ずっとか?」
「はい」
「どれくらい痛いんだ?」
「本気で走るとすぐ痛くなってしまって……」
「練習でも、か?」
「はい、だから、その……練習も余り力を入れられなくて……」
「何故言わなかった」
「でも、脚が悪いなんて言ってしまえば、その……」
「学舎にいられなくなる、と?」
「はい……」
答えれば答えるだけ、クリフジは自分がしでかしていた不誠実な態度を思い知っていった。身勝手にも思えるかもしれないが、後悔の念すら湧いてきた。
そんな申し訳なさが滲み出たクリフジの返答を受け、尾形師は天井を仰ぎ見て、ああ、と息を吐いた。
「ワシが君の脚の不調に、この半年間気付けなかったことが、より強くそう思わせるに至らせたのだよ」
意外だった。脚の不調を黙って、適当に練習をこなしていたことを尾形師は 咤すらしなかった。むしろ、己の恥だと言わんばかりの態度だった。
「この度のワシの怠慢、この通り謝罪させてくれ」
そう言って、尾形師は深々と頭を下げた。クリフジは驚いて
「そ、そんな頭を上げてください! そもそも黙っていたのは私の方で……」
「いいや、ワシは君のことを、ある意味見くびっていたのだ」
そう言うと、尾形氏は立ち上がって窓際に歩み寄った。そのまま窓の外を眺めながら続けた。
「君ら年頃の娘というのは、ワシのような男からすれば扱いだけでも難儀する者だ。何に怒り何に感動するのか……いく人、能力はあるというのに、気の持ちようの違いで良い成績が残せず卒業していった者を見たことか……」
「ええと……つまり、尾形先生は単純に私はやる気がないと思われていたのですね」
「そうだ。そして、それについて深く追求しなんだ。『よくあること』と断じてな」
やる気がないと思われているだろうことはクリフジも何となく予見していたのだが、改めてはっきり言われると何だか腑に落ちない心地だった。
「こちらから叱咤激励を送っても、がぜん反発する場合が多い。反発した分、一念発起してくれれば儲けものだが、変わらなかったり、逆にそのままズルズルと調子を崩してしまったりすることも多い。それゆえ、本人らの気持ちが競争に向くことを待つばかりになっておったわけだ。やる気さえあれば、一つどころか、三段、四段上の実力にまで引き上げてやれる自信も実績もあるから」
「だから、クリフジ……君のことも、尾形先生は辛抱強く待っていたそうなんだ」
長吉がささやかに尾形師の言葉を補足した。
「君の父、桃木殿に頼まれて君を預かって……才があることはすぐにわかった。だからこそ、過剰になってしまった」
改めて、すまなんだ――そう結んで、尾形師は再びクリフジに頭を下げた。大の大人……それもあの大尾形と、界隈で評されるほどの優秀な指導員である尾形藤吉が、15の小娘に頭を下げている。心の底からの行動でなければ、プライドが邪魔をして出来たものではないのは明白だった。クリフジは尾形師の本音に確かに触れた、と感じた。
それはそうとして、クリフジは一点気になることができた。
「頭をお上げください、尾形先生。私は私の行動の結果として、今の状態を受け入れております……それよりも、先ほど父の名が出たと思うのですが」
「ああ、君を私の組で見ることになったのは、君の父たっての要望からだよ。
「父が……なるほど」
クリフジは眉を顰めた。どういった事情、コネクションがあってのことなのか想像もできなかったが、組み分けで一喜一憂していた同期たちのことを思い出すと、不平等を感じて不愉快だった。まあ父の意図というか、狙いはわかる。単純な話、今の指導員たちの中で、尾形師が一番大競走制覇者を輩出しているのだから。見てもらえるのなら優秀な人に、ということなのだろう。
「さて、話を戻そうか」
尾形師は居直った様子で、再びソファに座った。
「という反省もあり、今後、君の教導の全てを、前田君に一存することにしたのだ。拒否する気は」
「ありません。ぜひお願いします」
「ほっほー。是非とまで言うか。好かれているな、前田君」
「先生……」
長吉が怪訝な視線を尾形師に投げかける。一方の尾形師はにやにやとしながら、余裕の体で扇子を扇いでいる。なるほどこの二人はこういう関係なのかと、クリフジは興味深げに眺めていた。
「まあ、クリフジ君の場合、先決なのはその脚のコズミを治すことだ。当面はその療養のための指導が主となる」
やがて扇いでいた扇子をぱちりと鳴らして、尾形師はそう言い放った。この発言に、思わぬ話の連続で舞い上がっていたクリフジの気持ちは、急に現実へと引き戻された。きゅっと心臓が縮こまるような感覚にとらわれ、俯いた。
「……治るでしょうか」
「街の医者に当たったくらいじゃあ、難しいだろう。ウマ娘には、ウマ娘の医者がいる。まずはそこに通おう」
対して尾形師はあまり悲観した様子はなかった。むしろ、慣れている様子すら伺えた。しかし、そんな簡単な話なのだろうかと、クリフジは心配だった。子供ながらに、父や母の伝手でもってかなり高名な医者にも見せて、同様に匙を投げられたこの脚の痛みを治せるような人がいるのだろうか。
「俺も尾形先生の元で色々と学んだが、年ふ……クリフジのように、ある日突然脚に不調を抱えるウマ娘というのは、少なくない。一般には知られていないことだから、君のご家族もどう対応すればいいのか悩んだのだろう。人間のお医者様じゃあわからないことも多いのも事実だ。だが治らない話ではない。当面は方々連れまわすことになると思うが……」
クリフジの不安を見かねたかのように、長吉が言った。言外に「俺を頼ってくれ。心配しなくてもいい」と、言ってくれているように思えた。
だからクリフジは、長吉と(ついでに尾形師)を信じることにした。
「うん、がんばる」
「そうか。わかった」
どこかほっとしたように長吉はうなずいた。そのあと、尾形師から来週いっぱい、念のため学舎への登校を休むことと、家族含めた学舎外の者には、長吉の個人指導の件は口外しないことを命じられた。クリフジは、その場では特に何も考えずに元気よく返事をしたのだった。
* * *
「ワァオ、あんし~ん☆」
そう喚きながら、妙ちくりんなマスクをつけた白衣姿の女が全然安心じゃない大きさと形の刃物をクリフジにぶっ刺そうとしていた。
「いやああああ!! チョッキちゃん助けてぇ!!」
「すまん、クリフジ本当にここだけ耐えてくれ……!!」
その日尾形師と長吉の面談から数日後、クリフジは長吉に連れられて、笹針師と呼ばれるウマ娘専門の鍼灸師の元を訪れていた。
この診療所に入るまで、クリフジはとても気分がよかった。午前十一時に寮の前で待っているとズボンにワイシャツ姿の長吉が迎えに来てくれて、汽車に乗って、駅を降りて二人で神保町まで歩いて、そこでたわいのない会話をはさみながら昼食をすませた。自分のような女学生だけではとても入らないような、立派な洋食屋だった。ぜいたくは敵だ何だと言われてはいるが、やはりたまには贅沢も必要だな、などと二人で笑いあい、とても幸せなひと時だったわけである。
そのあと診療所にたどり着いたのだが、入るや否や、先ほど伝えたような風体の怪しい女が出てきた。その女は、ぎょっとしているクリフジに脚の症状についてアレコレ聞いた後、寝台に横になるよう命じた。言われた通り横になったところ、クリフジは両手足に頑丈そうな革のベルトを巻き付けられた。
「じゃあ早速、ブスッと行くわねぇ~」
などと呑気な発言と共に、不審者が取り出したのが万年筆の軸のような鉄の器具だった。
「あの、それニンゲンの体に刺すようなものじゃ……」
「そうねぇ~、これ、ウマ娘用の治療だからねぇ」
「絶対嘘だぁ!!」
笹針、とはよく言ったもので、その見た目は笹のように幅があり、刺せば穴ではなく切り傷のような傷ができるだろうことは明白だった。
「チョッキちゃん、怖いよぉ……!」
「すまん、クリフジ……これも脚のためだ。」
傍らに付いている長吉は心底気の毒そうに言った。それを言われるとクリフジも弱いのだが、こんな針というのも針に失礼な物を刺されるこちらの身にもなってほしい。
「コズミが発生している部分の周囲をあえて出血させてぇ、血の巡りを促すのよ~」
「やだ! そんな治療聞いた事ない!」
「代謝が人間よりも良いウマ娘以外には使えない治療なんだ」
「うう~! 絶対痛いよぉ……!」
それなりに気の強いクリフジも、流石に笹針のえぐい見た目と、そこから来る痛みに恐れおののくしかなかった。あんまりにも怖くて涙が止まらない。
「ここまで来たら、覚悟なさいな。だいじょ~ぶ。刺す場所は決まってるし、この綺麗な脚に痕は絶対残さないわぁ」
「すまん、こんなだまし討ちのようなこと……終わったらアイスクリームでも食わせてやるから、な?」
「アイス!?」
「ほいブスッと」
「いっだぁ!?」
結局この日は脚を合計二十二か所刺され、寝台のシーツを自分の血で真っ赤に染め上げることになったクリフジであった。
豆知識:戦時下の砂糖は不作もあり、前線の兵隊にほぼすべて送られていた