1
無数のパイプは神経のように張り巡らされ煙突からは黙々と黒煙を垂れ流し続けている。
海岸沿いに建てられたコンビナートはまるで一つの生き物のように薄暗闇の中で光り輝く。
24時間稼働しその明かりを絶やさない工場地帯の一角に怪しい影が差した。
それを最初に発見したのは、その工場にかれこれ6年近く在籍している三十代になったばかりの男性であった。
生産管理を任されている男性は今夜も24時間稼働し続ける機械の点検をして数値を確かめ何時ものルーティーンに飽きながらも少なくない給料の為に欠伸をこらえながら人の気配を感じさせない工場を見回る。
不審な音に気がついたのは毎日行う業務を終え、当直室に帰ってきた時だった。
当直室には自分のような見回り管理をするための人員が数人配備されており交代で決まった時間に巡回をする。
なので今、巡回を終えた自分の他に2人ほどその当直室におり仮眠や休憩または事務仕事をしている筈だった。
部屋の前に立つ。
そうすると中から騒がしい、何やら人が暴れているような物音が聞こえた。
もしかしたら他の人たちが喧嘩でもしているのかもしれない。
止めなくては、そう思い男性は急いで扉を開けた。
「何かありまし…た…か?」
視界に入るは赤、赤、赤、赤一色。
部屋は辺り一面赤く染まっている。扉を開けた男性の頬に何かの液体が落ちる。
血である。
特有の鉄臭さが鼻に入り異常な状況によりストップした頭は急速にその動きを再開させる。
「う、うわ…うわあああ!!!!」
辺り一面に流れている血で滑った男性は腰から床に転げる。
血で滑って上手く立ち上がれない。
思わず周りを見渡すと部屋の奥に何か人影が見える。男性は思わず話しかけた。
「お、おい。なんだこれ!?どうなってんだこれぇ!」
男の声に反応した人影がこちらに振り返る。
その姿を見た男性は声を掛けた事を後悔した。
黒目だけで構成された大きな瞳は一切の感情を想起させずその口元から生えた大きなハサミは明らかに化物であると証明していた。
その化物は男性に気が付くとシャーッと威嚇の様な声を出し人間のような体から生えた6足の手足を巧みに操り四つん這いの姿勢のまま男性に迫りその首を噛みちぎる。
化物は男性の死体を片手でひょいと肩に持ち上げると、とある工場の一角まで運んだ。
そこには同じような姿をした化物が何匹、何十匹も集まっており皆同じように人間の死体を担ぎある一角に運んでいく。
その黒い瞳は何の感情も映し出さないまま彼らはその手足を機械のように動かし続ける。
2
アリの悪魔が観測されました。
京都公安所属のデビルハンターは当番非番関係なく皆出勤してください。
これは訓練ではありません、繰り返します。
アリの悪魔が―――――
公安の寮に響くアナウンスで叩き起こされたリウシェンはせっかくの休みを潰したアリの悪魔とやらに全ての鬱憤をぶつけるべく制服であるスーツのジャケットに袖を通しネクタイを締める。
生まれてきたことを後悔させてやる。
休日出勤、彼が一番嫌いな言葉であった。
非番当番問わず集められた京都公安のデビルハンター達は皆その顔を曇らせる。
大きな会議室の中央で指揮を執るメンバーの内の1人であるスバルは現状の把握を急がせた。
「大阪公安から応援できました!計11人です!指揮権をお持ちの方はどなたでしょうか」
「アリの悪魔、現在確認されたエリア以外からの目撃情報はありません」
「民間のデビルハンターに要請はもう出てるか!?」
「出しているに決まってるだろ!」
「東京の方に出した応援はどうなっている!?」
「もうすぐだとは連絡がありましたが詳しくは…」
「くそ、またアリの悪魔だなんてついてない」
「無駄口叩かずに手を動かせ、おい! 他県公安への要請の状況はどうなっている」
緊急対応により明らかに錯綜している本部指揮を横目にまだ事の深刻さを理解していないリウシェンは黒瀬と天童を見つけると近くに駆け寄った。
「お疲れ様でーす。なんすかこれ」
「おう、お疲れ。なんや、アリの悪魔知らんのか」
「4年前くらいに結構ニュースなってたで」
「いや、知らないです」
黒瀬達の話はこうだ。
4年前に突如現れたアリの悪魔は結果的に民間人の犠牲を100人以上出しその被害者の数と被害規模により一時、多くの国民を恐怖に陥れた特大の悪魔被害だったらしい。
そこまで被害を拡大させた最大の要因はアリの悪魔の繁殖スピードだ。
1匹の女王アリとその他の働きアリで構成される悪魔は一夜経つごとに数百匹の働きアリの悪魔を生み出すらしく、1匹1匹の強さは大したことはなく並みのデビルハンターなら余裕で対処できるが、その数の多さに対処しきれず、結果的に多くの民間人被害につながったそうだ。
因みにこの大事件の全容を聞いたリウシェンはそんなこともあったなぁと思った。
彼は好きなこと以外は全然覚えられない。
そしてそんな事件がもう一度起きようとしている。
京都公安の、いや公安全体の威信をかけ、この事件は早急に解決するべき案件なのだと。
「だから俺が呼ばれた」
リウシェンの首に手が回される。そこで彼は初めて自分の背後に誰かいることに気が付いた。
彼は気配に敏感だ。特にバディを持たず一人でパトロールに回るようになってからそれは以前より顕著になっている。そんなリウシェンが全く気が付くことなく後ろを取られた。彼にとって異常事態であった。
「お前がリウシェンか?俺は東京から応援で呼ばれた東京公安対魔特異1課の岸辺だ。よろしくな」
酒くっせぇ…それが肩を組まれたリウシェンが持った岸部への第一印象だった。
岸辺は酷く不健康そうな男だった。白く染まった髪はその見た目の年齢にしては早く少しアンバランスで中年らしくガサついた肌には歴戦の戦士を思わせる大量の傷があり特に口元には横一線の傷を縫った後がある。
その右手にはボトルが握られており岸辺がボトルの蓋を開け口元に運ぶと微かにアルコールの匂いがした。
しかしそれらの要素を抜きにしても岸部には特徴的な要素があった。
それは彼の目だ、その感情を感じさせないまるで虫のような黒い瞳を前にリウシェンは一目で理解した。
こいつは母親と同じタイプの狂人だ―――――
「…どうも」
彼は少し物怖じしながら返事を返した。決して母と同じ目をした岸辺に対してビビっているわけではない。決してビビっていない。少し怖い。
そうすると岸部はリウシェンの頭からつま先まで視線を移すと顎に手を添え少し考えて口を開いた。
「…なんだ、似てないな」
「誰にですか」
「なんでもない」
「何でもないなら口に出すなよ」
眼が似ているからかやや母と同じように対応をした。岸部を見ているとなんだか無性にいらつく。彼はもちろん岸部にビビっている。怖がりながら虚勢を張っている。
彼は母の前だと狂犬のチワワになるのだ。
そう返事を返すと突然黒瀬と天童がリウシェンの手を引っ張って岸辺に何か適当に話してからさっきまでたむろしていた会議室の廊下まで連れだした。
二人の額から汗が流れ表情はこわばって…というよりかなり憔悴している。
「え、急になんですか」
「なんですか…じゃねぇよ!!お前なに岸辺さんに喧嘩売ってんだよ!」
「あの人はなぁ…最強のデビルハンターでホンマの狂人やねん。頼むから刺激せんでくれ」
「あの人がですか?でもなんか酒持ってここで飲んでましたよ」
「あの人は良いんだよ!強いんだから!とにかく挑発するようなことだけは言うな!絶対だからな!」
「お前は良くてもウチらは偶に東京に指導しに行ってん。そん時に何されるか分からんやろウチらが!!ウ、チ、ら、が!」
焦ってる奴っておもしれぇな。
彼は悪魔を前にした時より酷く動揺している二人を見てやや的外れな感想を抱いた。
「話いいか?」
「「ぎゃあああああああ!!!!????」」
突如二人の後ろに現れた岸辺に悲鳴を漏らし劇画チックな顔になった二人を無視して岸辺はリウシェンに近づいた。
「さっきは言ってなかったが俺とお前、今回でバディ組むから」
「うえぇ…」
「そうか、なるほど。分かった」
リウシェンが分かりやすく狼狽えると岸辺は軽く首を鳴らすと一瞬で彼との距離を狭めその右手を振るいリウシェンの鳩尾をえぐる。
それは酷く手慣れた動きでありリウシェンも黒瀬も天童も一切の反応をすることが出来なかった。
ゴギィ
それは鈍い音だった。
ボディーアッパーの要領で抉られたリウシェンは一瞬何が起きたか分からず次に体に穴が開いたのだと勘違いした。全身に流れた寒気、吐き気、そして遅れてきた痛みを前に全身の毛穴から大粒の汗を噴きださせ倒れるように膝をついた。
声が出ない、出せない。痛みは全身を駆け巡り膝は小鹿のように痙攣しまともに立ち上がれない。彼は額から大粒の汗を流し朦朧とする視界の中、自分を見下ろしてる岸辺に視線を向けた。
岸辺はその表情を一切崩さずゆっくりと言葉を発した。
「元気な奴だってスバルから聞いたが…どうやらその通りみたいだな。安心した。これから仲良くやっていこう」
「う、うぐぅ…」
「どうして床に倒れているんだ?早く立て、任務に遅れるぞ」
あ、こいつやっぱりくそヤバいわ。
地に伏し干からびた毛虫のように蹲っている彼は痛みに耐えながらそう思った。
3
リウシェンが武器を振るう。彼が所持している物は使い慣れた青龍刀ではなく、先端が丸く膨らんでいる鉄で出来た棍であった。モーニングスターの鉄球部が持ち手の部分にくっついたような形だ。
彼のその細身な肉体からは考えられない異常な膂力を用いて振るわれた棍は空気を切り裂く轟音と共にアリの悪魔の頭蓋を粉砕した。
そして倒れたアリの悪魔のまるで潰れた粘土のようにひしゃげた頭部に追撃の一撃としてもう一度振り下ろすと彼は軽く息を整えた後、隣でじっとリウシェンの動きを見ていた岸部に話しかける。
「多いですね、こいつら。これでもう何体倒したか分からないですよ」
「それだけ女王アリに近づいているんだろう。さっさと行くぞ」
彼が使い慣れた青龍刀を使っていない理由は単純でその耐久性にあった。
アリの悪魔の外皮は硬い。頭部とその手足の数以外はあまり人間と見た目の変化が少ないアリの悪魔だがその性質は大きく異なる。
そもそもの膂力が人間のそれより強く堅牢な外皮は刃物をなかなか通さない。青龍刀で倒すことも不可能ではないが刃こぼれを考えると殴打で倒す方が確実だった。
「女王アリが居るとしたらこの先のボイラー室ですかね。広いですし」
「多分そうだろうな」
京都公安の偉い人達がその恵まれた頭脳で考え出した作戦はシンプルであり実行する者からしたら糞を投げつけたくなるような作戦であった。
アリの悪魔は基本的に一カ所に巣を作りそこで女王アリが絶えず繁殖を繰り返し生まれてくる働きアリが周囲から人間を含む食料を集める。
そして繁殖能力を持っているのは女王アリ一匹のみだけである。
そこで民間人への被害を抑えるよう多くのデビルハンターを巣の周囲を囲うように配置、これで軍隊アリもしくは女王アリの逃走を防ぎ少数の精鋭達で巣に潜入。そして他の軍隊アリに気づかれないようにしながら女王アリを駆除するといった流れだ。
そしてその一番危険な巣に潜入しなくてはいけない少数精鋭に見事ノミネートされたのが彼と岸辺の二人だ。そう、たったの二人だけだった。
あれ、もしかして公安のデビルハンターってめちゃくちゃブラック?
今度友達に転職について相談しようかな。
彼のモチベーションは底に近づいている。
「針」
岸部がアリの悪魔に向け指を指しながらそう呟くとアリの悪魔の体内から大量の針が突き出す。声帯も…アリの悪魔に声帯があるのかは分からないが喉から突き出した針により声も出せないのかアリの悪魔は静かにその命を散らす。
岸辺は契約の対価により剥がれた爪に一切の意識を向けず前を向いたままリウシェンと音を立てずにアリが巣くっている工場の内部を進んでいく。
入口の方はまだ工場の外観を保っていたが内部に進むにつれ、壁には赤い血管のようなものが張り巡らされ、また一部壁がくりぬかれており事前に頭に叩き込まれた工場内の地図があまり機能しない。
巨大なアリの巣に運び込まれる虫はこんな気持ちなのだろうか、リウシェンがそう思っていると岸部が声をかけた。
「まだ2年目だろ、どこで戦い方を教わった」
「母が頭がおかしい人だったのでボコボコにされてました」
「……そうか。……父親はどんな奴…だった?」
「いや、知らないですね。物心ついた時から母だけでしたし父の話は一度も聞いたことが無いです」
この人世間話とかするんだ。リウシェンは岸辺の意外な社交性?に驚いた。
それにしてもいきなり家族の話を振られるとは思わなかった。彼は父親について思いをはせる。
彼は父親について特に思い入れはない。居ないことが当たり前であったし家には常に母の愛人達が居たので寂しくは無かった。学校に通うようになった時もわざわざ片親を卑下する同級生はおらずリウシェンは割と幸せな生活を送れていた。
家族について考えているとボイラー室の前に着いた。扉の両脇には二匹の働きアリ。雰囲気で分かる。これまでの雑魚とは違う女王の護衛を任された強者であると。
「速攻だ、声を出させるな。囲まれるぞ」
「何回も言わなくても分かりますよ、右は俺がやります」
リウシェンはその姿勢を低くし昆を持っていない左手を地面につける。クラウチングスタートのように構えると振り絞られた弓から放たれる矢のごとく駆けだした。
瞬間、激突、粉砕。
攻撃を受けた働きアリは一切の反応を示さず一瞬にしてその意識を永久に失う。
速度を伴った棍は音も無くその頭部を陥没させている。
彼が振り返った。もう一匹のアリは音も無く倒れその首が180度以上ねじ曲がっている。
その後ろには素手の岸辺。きっと後ろから周りその首をねじ切ったのだろう。
「俺はここで待っている。女王アリは悲鳴を発して他の軍隊アリに助けを求める。もし地図に間違いがなければ入り口はここだけだ。俺はここを塞いでおくからお前が倒してこい」
「詳しいですね、別に岸部さんが倒しても良いんですよ」
「前現れた女王アリを倒したのが俺、直接倒したらボーナスが出るぞ」
「やらせていただきます。やらせてください」
彼は金に弱い。
4
やや低い天井には彼がそのまま入れそうなほど太いパイプや配管が入り組んでおり辺り一面に生き物の組織の様な赤い液体や神経、繊維が蜘蛛の巣のように張っている。
天井に設置されていたLEDはその表面にも赤い肉片や組織が覆いかぶさり室内は非常に暗い。一歩前に進むたびにネチャネチャと靴の裏にへばりつく肉片を鬱陶しいと思いながらも彼はその歩みを止めない。
「だぁれ…あなた」
視線の先、部屋の奥には強大な何かが蠢いていた。
眼を凝らす。黒い瞳、大きな6本の手足、そしてなにより巨大に肥大化した白い臀部。
女王アリだ。
リウシェンを見つけた女王アリはその巨大な臀部を左右に床に擦らせながら距離を狭めていく。
「ボーナスがネギ背負って歩いている」
彼は棍を構える。ゆっくりと距離を詰めてくる女王アリ。最初に勝負を決めたのは女王アリだった。
視界に映る女王アリの輪郭がぼやけると左方より衝撃が走る。視界が揺れた。まるでトラックにひかれたような重量と衝撃を受けるとその勢いのままリウシェンは吹き飛び壁に叩きつけられる。
それは女王アリの肥大化した臀部であった。そこは本来生まれたばかりの幼虫のアリに栄養卵と呼ばれる食事を分け与える部位である。
女王アリは体を回転させその勢いのままに臀部を彼にぶつけたのだ。
「どこで攻撃してきてんだよ阿婆擦れ」
「まぁ!母にそんな口を利くだなんて親不孝者ね!」
「虫から生まれた覚えねぇよ、バケモン」
粉塵が舞い、大きくへこみ亀裂が走った壁に手を掛けゆっくりと身を起こす。
あの巨体には似つかわしくないスピードであった。
なんとか棍を間に挟み衝撃を吸収させたが直撃していたらただでは済まなかっただろう。ここまで順調に進んでいた為か少し舐めていた節があったのかもしれない、頭を切り替える。こいつはこれまでのようにいかない。感覚を思い出せ、母と対峙した時のように生きるか死ぬかのあの状況を。俺は崖の縁にいる。
「それにしてもここまで来れたなんて…全く、使えない子たちね」
それは呟くような小さい声だった。使えない子、リウシェンの頭の中にはその言葉がリフレインする
「…なんだよ、今の」
「あら、どうしたの。そんなに怖い眼しちゃって」
思わず棍を握る力が強くなる。彼にも譲れない部分があった。
「だってそうでしょう?母を守るために生まれてきているのにここまで貴方達の侵入を許しているわけじゃない。役目を果たせない息子たちなんて存在する意味がないの!まったく、母を殺す気なの!そうよ、きっとそう。母は育て方を間違えました。きっと母を殺したいのよあいつ等は!母はこんなにも愛していたのに…愛していたのにぃいい!!!」
意味が分からなかった。言葉は意味を持たない音になり響く雑音はリウシェンの神経を刺激する。
「黙れよ」
「黙れ!?なにそれ!母に死ねって言いたいの!?そうでしょ、きっとそう。あ、じゃあ別の家庭の子供になればいいんじゃない?母だって必死で頑張ってるのにね。別の母親がいいんだ。いいんじゃないそれで。母は一人で生きて一人で死ねって言いたいんでしょ」
「ヒスってんじゃねえぞ」
「ヒス!? 母がヒステリー!? それなら貴方たちのせいじゃない。息子たちが使えないから私がこうやって責められているんじゃないの!? じゃあ謝れば良いわけ? ごめんなさい、ごめんなさい、貴方たちを使える生き物に産んであげられなくてごめんなさい。これで満足? 母にこんなことさせてさぞ気分が良いでしょうね!」
リウシェンは母と子に対する価値観に強い…形容できない思いを持っている。
それは幼少期の経験からかやや歪な親子関係を形成しているからかは頭の悪い彼には分からない。
それでも、それでも母親が子供の存在を否定することだけは許せない、許してはいけないと…そう思った。
力を籠める。ギリギリと棍の根元が軋み悲鳴を上げた。
思い描くは母の姿。
彼が知っている中で一番強い人類。
彼は己の描く最上の暴力を体現して見せた。
5
「許して…許して…もう許してください」
彼の暴力は女王アリの全てを破壊した。
6本の巨大な手足は全て関節とは反対の方向に折れ曲がり、全身も外皮も至る所が窪みひび割れている。何度も棍を打ち付けられた臀部はもはや原形が無いほどに潰れもう二度と息子達に養成卵…餌を与えることが出来ない。子宮があるところは裂かれ潰されもう繁殖の機能を失っている。
身動きが取れず繁殖も出来ない女王アリはもはやただの巨大な芋虫だ。
彼は壊れ原形を留めていない棍を投げ捨てると折れた自身の左腕やまともに動かなくなった右足を気にも留めずその巨体をゆっくりと登り顔の上に立った。
「お前には二つの選択肢がある。好きな方を選べ」
人差し指を立てる。
「1つ、俺の怒りを全て受け止めてもらう。どれだけ命乞いをしようともお前は絶対に殺させない。死なないように永遠に痛めつけてどれだけ自死を請うてもそれを許さない」
中指を立てる。
「2つ、俺と契約しろ。対価はお前を痛めつけない事。俺がお前を助けてやる、だから俺の言うことに全て従え」
余りにも理不尽だ、自ら痛めつけてそれをマッチポンプに契約を迫る。
悪魔は契約に絶対だ。一度結んだ契約は必ず守らなくてはならない。
契約を結ばなければ待っているのは生き地獄だ。しかし結べばきっと公安の地下で一生飼い殺しにあうだろう。
思わず口ごもる。進めば地獄引いても地獄。最悪の二択を前にアリの悪魔は困惑している。
「喋れないのか、じゃあその声帯は必要ないな。あまり素手で触りたくないが仕方ない」
「やめてぇ!!分かった、分かったわよ。契約する。アリの悪魔はお前と契約を結ぶわよ!」
初めからそれぐらい素直だったら良かったのに。
彼はアリの悪魔の巨体から降りるとボイラー室の扉を開け外に出る。
そこには壁に背を預け座っている傷一つない岸部、それに無数の働きアリの死体。
女王アリと戦っている最中に邪魔が入らなかったのは岸部がずっとここで働きアリの侵入を防いでいたからだった。
「これ、何匹ですかね」
「数えてねぇ」
リウシェンが座っている岸部に手を伸ばすと岸部はその手を掴み立ち上がった。
「女王アリは?」
「主要な機能を全て壊して生け捕りにしました。もう何もできません。それで殺さないから契約しろって言ったら契約出来ました」
「たらしだな」
「人外からはモテたくないですね」
来た道を戻る。道中、何体かの働きアリと遭遇したが全て壊した。おそらくまだ女王アリが負けたと知らないのだろう。女王アリに忠誠を誓い健気に立ち向かってくる働きアリを見ているとなんだか悲しくなってくる。
岸部が持っている無線からアナウンスが鳴る。
どうやら近隣に散った働きアリの掃討を確認したようで時期にこの本拠地である工場にも突入するそうだ。
「今日休日なんですよ」
「そうか」
「代休って使えますかね」
「当分は無理だろうな」
「そうですよね」
早く家帰って寝たい。彼の頭の中にはそれしかなかった。
6
「うへへへへ」
通帳に記載された数字を見て彼は涎を垂らしダラシのない表情を浮かべる。
二十歳を迎えたばかりの彼にとってその金額は大金だ。
良い車、美味しい料理、高い服、使用用途は無限に存在する。そろそろお金を使った女遊びとやらも手を出してみるべきか。
休日に仕事は振られるし今でも書類仕事は苦手だが最近は仕事にも慣れてきて学のない自分にも大金が稼げるデビルハンターの職はかなり自分に向いている。
明日は地元京都の友達との飲み会もある。書類仕事も最近だとその辺の新人にぶん投げてあまりやることも少なくなった。一緒に仕事をする先輩方とも仲は良好でこの前は黒瀬さんの誕生会もした。
満たされている。
全てが自分に上手くハマりこの星は不具合なく今日も回っている。
これが幸せと言うやつかもしれない。
彼は鼻歌を歌いながら京都公安対魔1課の扉を開ける。
「おはようございまーす」
返ってくる挨拶を聞きながら自分のデスクに座る。
今日はパトロールの日だ。外回りは好きだ。適当に外を歩いておけば一日が終わる。
デスクの中央に一枚の書類を見つけた。
身に覚えがない。
対魔1課 リウシェン様へ
そう表面に書かれていた。
額に汗が流れる。
嫌な予感が頭をよぎる。
いや、そんなわけない。だって俺の人生は今のところ順調だ。今日だって寝起きから最高で眠気を一切感じさせない。
ゆっくりと封をあける。
辞令
N年N月1日より京都公安対魔1課勤務を解き、東京公安対魔特異4課勤務を命ずる。
より一層職務に励み、市民の安全に寄与されるように期待しています。
京都公安人事課 担当 ○○
民間のデビルハンターってどんな感じだろう。
彼は転職を意識した。