3
踏み出した足は降り積もった雪に沈み、少しバランスを崩した。
重苦しい曇天の空はまだ昼間のだというのにどんよりと薄暗い。
なんだか縁起が悪い、そう思ったのはきっと自分だけじゃないだろう。
腰に手を当て背筋を伸ばす。人間が滞在するように出来ていない貨物室は別に異様に寒いとか狭いとかは無かったけど荷物に背を預けるように座っていたので体が硬い。
鼻の上に雪が落ちた。薄く柔らかい粉雪は一瞬で体温に溶ける。これで夏だったらきっと爽快だったろう、顔に張り付いた針のように鋭い寒さは痛みすら感じる。
「ホテルに向かおう。さっきも言ったが問題は起こすな、目標が現れるまでは」
岸辺はそう言うと、肩に乗った雪を軽く手ではたくと常に携帯しているスキットル…ステンレスで出来た水筒に手を伸ばし口に運ぶ。
中に入っているのはウイスキー。
岸部は味も風味も何も感じていない鉄のような表情を浮かべる。
もはやルーティーンなのか、それとも表情筋まで凍り付いてしまっているのか。
大きく酸素を吸い込んだ。冷たい空気は喉を通り肺の中まで一直線に進んでいく。
凍てついた大気は澄み渡っているように感じた。
白銀の雪がその穢れを覆い隠しているように。
貨物室をぬけると、そこは雪国だった。
1
「リウシェン君にはソ連に向かってほしいの」
マキマさんはいつと変わらない端麗な笑みを浮かべそう言った。
彼女は後ろに手を組みながら自分とマキマさんを挟む机を迂回し話を続ける。
「銃の悪魔の肉片の事は分かるよね?」
銃の悪魔の肉片。11年前ぐらいに忽然と現れて霞のようにその存在を消した銃の悪魔の体の一部。悪魔が食すとその力が増す便利アイテム…昔オレも食べれば強くなるのでは?と思い食べようとしたら先輩達に羽交い絞めにされた。
肉片はまだ生きており、肉片同士が近づくと磁石のようにくっつこうとする性質があり、より大きな肉片を作れば消えた銃の悪魔に近づけるかもしれないと言われている。
「うん、合ってる。それで今回なんだけど…ソ連がその銃の悪魔の肉片を軍事利用出来ないかって話が公安に降りてきたの」
「軍事利用…ですか」
軍事利用…考えられるのは国が飼っている悪魔に肉片を与え強化させてという流れだろう。悪魔の軍事利用は確か昔からあったはず、歴史の教科書に書いてあった気がする。内容は思い出せない、社会科の先生が優しかったからずっと居眠りしていた事を少しだけ悔やんだ。
「悪魔の軍事利用は国際条約で禁止されている非常に危険な事なの、リウシェン君は直接触れているから分かると思うけど悪魔の本質は人嫌い…まぁ難しいよね」
悪魔を利用…ん?
「特異4課はどうなんですか?あれ…利用してません?」
マキマさんは腕を伸ばし人差し指で俺に向ける。
その同心円の瞳を細める、その貌には微かな歓喜が見えた。
「いい質問だね。特異4課はね、治安維持を名目にしてるから大丈夫なんだよ。…まぁそれでもかなりグレーだから設立には骨が折れたし今でも事あるごとに上からゴチャゴチャ言われてるけど」
マキマさんが苦労話を愚痴る。そう言えばマキマさんがこういった話をしている姿は見た事ないかもしれない。
「だからリウシェン君には感謝してるの。特異4課を存続させる為には天使くんや他の悪魔達の利用実績がいるんだけどまだ完璧じゃなくてね…「やっぱり悪魔なんかを頼るお祭り部隊なんか廃止にしろー!」みたいなこと言うオジサンもいるし。何かあればリウシェン君も対応するのでって言って誤魔化せてる事もあって…」
わざわざセリフのとこだけ口調を変えて説明するマキマさんはいつもよりテンションが高い気がする。疲れているのか、それともあんまり発散出来ていないのか。
そうだ、こんど特異4課で飲み会を開こう。
全員集めてマキマさんも呼んで、4課全員集まってやったことないし丁度いい。
「あぁごめん、話を戻すけど…要は変な事をする前に銃の悪魔の肉片をソ連から盗んじゃおって話なんだけど…勿論バレたら国際問題になるから公安でもこの任務を知っている人もすごく少ないの…それに向こうで捕まればタダじゃすま___「やりますよ」…本当に?」
やや大げさに驚いて目を瞠るマキマさんの姿は少しだけ嘘くさい。きっと俺が断らないことを分かっているみたいだ…きっとそうだろうな。
俺は頼まれた仕事は基本断らない、基本と言うか断ったことは無いかもしれない。
理由は単純だ、出世に響く。
俺は知っている、世界は社交辞令で出来ていることを。
自由参加の飲み会を断れば居ない奴の悪口を酒の肴にするし、表向きは大丈夫と言っていても裏ではアイツ不愛想やしなと思われ何かと不利益を請う。
就職氷河期を乗り越えた同級生達と飲むたびにこのような愚痴を腐るほど聞いてきた俺は飲み会de真実を完璧で究極に理解した。返事はイエスかハイ、または分かりました、だ。
「やりますよ、それに他に出来そうな人いないでしょ。胡散臭いこと専門の人たちの仕事ぶりは知らないですけど…少なくとも俺は岸辺さんとマキマさんぐらいしか知らない」
「へぇ、私もその中に入っているんだ。嬉しいね」
「喧騒も行き過ぎるとなんとやらですよ」
「謙遜って言いたいのかな?でも、ありがとう。私もこんな薄暗い仕事を人に頼むの心が痛くてね…どうしても駄目なら私が行こうかと思ってたの」
言い間違いで恥ずかしくなる前に思考で頭を埋める。ソ連に銃の悪魔の肉片を盗みに行く。きっと護衛や警備は厳重だろう、一筋縄では行かないはずだ。
…ん、ソ連?
「あ、おれソ連語話せないですけど」
「大丈夫、ロシア語に詳しい公安の人が付いていくから通訳してくれるよ。それに___」
「遅くなった」
執務室の扉が勢いよく開かれる。
聞きなじみのある、しゃがれたハスキーな低音。
嫌な予感がした、そしてその嫌な予感と目が合った。
「そうか、お前が…まぁいい。詳細は移動中に話す、行くぞ」
嫌な予感は勝手に自己完結すると説明も無しに話を進めていく。だから嫌いなんだこいつ、俺なら雑に扱っていいと思ってやがる。
岸辺はマキマに顔を合わせることなく、俺にそう言うと来た道を引き返す。
そもそも直ぐに部屋を立とうとするなら何でここに来たんだよ意味ないだろ。
「う~ん、話が早いならそれに越した事ないけど…とりあえずリウシェン君は岸辺さんについて行って。内容は岸部さんにもう伝えてあるから。ごめんね、急にこんなことを」
マキマさんに断りを入れて執務室を飛び出す。
先に進む岸部の後ろ姿が見えた、少し早足に追いかける。
ついてこさせる気ないだろこのジジイ、ソ連に置き去りにしたろかなコイツ。
こうして俺とジジイは北方に飛ばされることになった。
2
空港へ向かう車内で岸部が今回の任務…もとい特別出張と呼ばれる謎のお仕事の概要を語る。
運転手は公安所属の黒服の方なので秘密の話をしても問題は無い。
「向かう先はハバロフスク。ソ連が保有している銃の悪魔の肉片の一部がモスクワからウラジオストクに運ばれるとの話が公安に入ったからウラジオストクに持ち込まれるまでにハバロフスクでぶんどる。質問はあるか?」
ハ…ハバネロ?も、モスクワ?…ふ~ん。なるほどね、全部理解した。モスクワの肉片がハバロフロスクでパージね。ふんふん、分かる分かる。
顎に手を当て考えているフリをした俺を岸部は路肩に転がる虫の死骸を見るような冷たい視線を向ける。それは生きている人に向ける視線じゃないが。
「…ウラジオなんとかじゃなくてそのハバネロフスクに行く理由は?」
「ウラジオストクはソ連の重要軍事施設で国内の人間以外立ち入りを禁止されている。そこまで運ばれるともう無理だ、無理やり入ってしまえば戦争になるだろう。だからモスクワとウラジオストクの中間地点にあるハバロフスクで奪う。ハバロフスクは観光地として外国人にも開放されている都市だから俺達が町中を歩いていても問題はない」
「はぁ…」
こんがらがった頭を整理すべく外の景色に目を移す。
スマイルバーガー、いつも閉店セールをするスーツ店、本以外も売っている有名古本屋、焼き肉店、バッティングセンター…。
最強のロードサイトだ。わざわざ空港近くにある郊外のロードサイトなんかに来ないことを除けばすごく良い。
「おそらく輸送にはシベリア鉄道が使われるだろう。ハバロフスクで銃の悪魔の肉片を奪取したらそのまま鉄道で西方のチタまで戻り北京に向かいそこから帰国をする」
「なんでそんな面倒くさいルートを?」
「肉片が奪われたとなると騒ぎになる。その時にハバロフスクから飛行機に乗る他国からの観光客がいたら」
「捕まえて調べます」
「そのとおり」
と言うことは長旅になりそうだ。
ジジイと通訳代わりの公安の人と3人で出張。
気が進まない、せっかくのソ連なのにどうしてむさ苦しいオッサン(通訳の人がオジサンかは知らないけど)達と仕事を。
それにしても陸路、鉄道か。詳しい大きさは知らないがソ連は地図で見ると大きかった気がする。つまり移動時間が長くなるということ。…話すことないな。
共通の話題が無い、仕事と…あと酒くらいか?いつも飲んでるし好きだろ多分。
岸部は1課だから普段何をやっているのかよく知らない。困った、非常に困った。
俺は仕事と酒と寝たふりの3本刀でこれからの任務に挑まなくてはならないのか。
思わず顔が引きつる。沈黙は苦手だ、今からでも家に帰ってゲームボーイを持っていきたい。
「…心配しなくていい。俺は最強のデビルハンターだ。最強の俺を倒せる奴はいない」
は?何言ってんだコイツ。てめぇだから困ってんだろジジイ。
口には出さなかった。だってまた殴られたくないから。
「よろしくお願いします」
クラウンの低いシルクハットを被ったスーツ姿の男性は開口一番にそう言うとその神経質そうな口を閉じる。通訳代わりの公安暗部の人はどうやら無口なようだ。
くそ詰んだ。無口二人にナウでヤングなリウシェン君の3人ですか。
おしまいだ、脳内でお経が流れた。
今日のお仕事って通夜でしたっけ、いいえ窃盗です。お天道様に顔向けできねぇよ。
せめて飛行機ではリラックスしたい。公安の出張では新幹線しか使ってこなかったがグリーン車を利用できた。デビルハンターで出張する人は使える人だからそれなりの交通費をかけてくれるとマキマさんが言っていた。ならば今回はファーストクラスだろう、そういえば初めてファーストクラス乗るな。
ワクワクしてきた。歩幅を大きく開く。ファーストクラスに乗れると思えば億劫な仕事も少しだけマシに感じる。
何処から飛行機に乗るのか知らないから二人についていく。通訳が空港の職員とヒソヒソと話をすると関係者しか入れない通路に案内される。
へぇ、ファーストクラスってこんな感じなんだ。
案内された道を進むと滑走路に出た。ファーストクラスだから待たなくても飛行機に乗れるのかな、すっごい。
ゴルフカートのような滑走路でしか見ない車に乗る。
…ん?いや、まさかな。そんなわけないか。
「…岸辺さん、ファーストクラスってこんな感じなんですね」
不安そうに尋ねた俺に対して疑問符を浮かべる岸辺。
思わず想像した悪い予感は急速に形を帯びていく。
「…俺達が無事に帰国するためにも入国の痕跡は残せない。つまり正規の手段は使えない」
「だが公安からの依頼で国内の空港は俺達に気を利かせて融通してくれた」
「民間人が乗る普通の飛行機の貨物室を貸してくれるそうだ、俺達は貨物としてソ連に入国できる。つまり密入国だな。おめでとう、ファーストクラスに乗るより希少な体験だ」
そういえば俺ってパスポート持ってないわ。
でも確認も何もなかった、つまり最初からそういうことだったわけで。
貨物室に繋がる扉が開かれる。
俺達の為に用意された特等席はその口を大きく開き、今か今かと餌を待つ。
ドナドナドーナ ドナドーナ
せめて人間として扱われたかったな。俺はこうして出荷された
4
空港を抜け、当日に飛び込みでとったホテルに荷物を置き外に出た。
銃の悪魔の肉片がハバロフスクに着く正確な時間は分からない、近日中に駅を通過する事は確かだがそもそも駅に留まるかも分からない。もしかしたらそのまま通過してしまう可能性だってある。その場合は徒労に終わり楽しいソ連旅行に変わる、俺は正直それでもいい。
銃の悪魔の肉片が駅に着いた時の判別方法は簡単だ。
俺達は親指サイズの肉片を所持している。肉片同士が近づくとくっつこうとする性質を利用し、駅に隣接しているホテルに立てこもり常に肉片を監視する、動き出したら駅に肉片が運ばれたって話だ。
つまり長期戦になる、いつ来るか分からない肉片を待ってホテルに籠る。
だから当番制を引いた。
一人がホテルに籠り肉片が動くと他の二人に連絡をする。他の二人は自由に外に出ればいい、あまり遠くへは行けないが。
人はストレスに弱い、常に気を張っていたら肝心な時に上手く動けないかもしれない。
だから楽しむときは楽しむべきだ、そう言うことで通訳をホテルに置いて俺は岸辺と市場に出た。
通訳をホテルに置いては意味がないのではと質問すれば、ジジイは少しだけならロシア語が話せると言っていた。
じゃあ通訳いらないのでは?
ハバロフスクの町並みはレンガが多用された暖色の建物が多く、スラブ文化を盛り込んだネオロシア建築はシンプルな外装の建物に細やかな装飾で飾っている事が多い。
舗装された大きな歩道を歩く。
俺と岸部さんがつけた足跡は降り積もる雪ですぐに覆い隠されてしまう。
カラスの鳴き声が聞こえた。どうやらソ連にもカラスはいるようだ。
聞きなじみの生物の鳴き声は異国の地も東京も同じ星の元にあると思わせてくれる。
凍てつく大気と降り積もる厚雪すらも溶かしてしまいそうな程の熱気が市場にあった。
近くの港で取れた魚から観光客向けのお土産屋まで様々な露店が立ち並ぶ。
リウシェンはお土産屋に目を移した。
色褪せた木製のマトリョーシカ、布切れに差してある色とりどりの何かの記念品のようなピンバッジ、軍人を模した20cmほどの蝋人形から、何故か60cmほどの小さな釣り竿までそこに置かれていた。
「荷物になるから買うな」
「別に買いませんよ、見てただけです」
彼は口ではそう言ってるが注意を受けるまでは買う気でいた。
まるで宿題をやれと叱られた子供のように不機嫌になりながら市場を回るリウシェンはまだ青年と大人の中間のような成熟途中の価値観と人間性を持っている。
出会った時から良くも悪くもリウシェンは変わっていない。
それはデビルハンターという特異な仕事をしているからか、それとも個人の人間性か。
岸辺は彼の将来に一縷の不安を抱えた。
別に自分がマトモな人間性を持った大人かと言われると断言は出来ない、いやきっと一般の社会では生きていけないだろう。
でもコイツは違う、自分と違い多少の粗はあるが光の下で生きていける、それだけの善性と社交性は持ち合わせている。
酷くアンバランスだ。両方の性質を兼ね備えていると言えば聞こえはいいが、呼び方を変えると中途半端。
遅かれ早かれリウシェンはマキマに見出され、東京に呼ばれていた。
影で文句を言いながらも命令には全て従うコイツをマキマが気に入ることは火を見るより明らかだった。
ならば下手にマキマに介入されるより近くに置いておいた方が良い。自分が気に入っていると言えば何かとリウシェンの話は自分の元に舞い込んだ。
コイツはこれからも今回と同じようにマキマに命令され薄暗い光の当たらない道に進むのかもしれない。
現に今がそうだ。他国に出向き本来の仕事ではない秘事に巻き込まれている。
ソ連が悪魔の軍事利用を考えている。それは本当の事だ、だが意図的に隠されている真実はある。
それは他国も皆やっているということ。
日本もそうだ、でもコイツにそれは伝わっていない。
マキマは正義としてこいつを動かしている。本来はただ日本の国力を増す為だけに、強奪しに来たというのに。
きっとコイツはマキマから下される任務をそれが当たり前と言わんばかりに突き進むのだろう。
本来止めるはずの人間がコイツの側に居ないからだ。
岸辺はふと思った、なぜ俺はコイツにこんなに構うのだろう。
コイツは赤の他人だ、別にコイツは傷つこうとも死のうとも少しは哀しむが俺には関係が無いはずで___________
そこで思考を断ち切った。長く生きると賢くなれる、賢ければ考えなくていい事を考えなくなる。
岸辺が指を指す、つられてリウシェンも同じ方角に首を曲げた。
「…前にここに来た時あそこの店は良かった」
そこは市場の脇にある古い作りの飲食店、一階だけがお店になっており二階からがアパートになっている赤いレンガ作られた伝統的な住居。
この辺りの飲食店は露店が多く食事は暖かい空間で取りたかった。
市場を回りながらお店を探してた二人にはそのお店はちょうど良かった。
5
「Борщ и бефстроганов на двоих, пожалуйста.( ボルシチとビーフストロガノフを2人分ください)」
岸辺がそう伝えると、注文を聞いた70歳ぐらいの腰の曲がったおばあちゃんはヨロヨロと厨房へ消えていく。
店内の内装は古く、ソファの生地は破れ店内もどことなく暗い。
自分たち以外に客はおらず、最初に入店した時は何度か厨房に声をかけ、やっと店員が出てきた。
密入国者にはお似合いのお店かもしれない。
「なんでロシア語話せるんですか」
おばあちゃんが運んできたコーヒーで両手を温めていた岸部は答える。
「同じような仕事でよくこっちに来ていた、言葉が通じないのは不便だからな」
「勉強したんですか」
「…それ以外にあるか?」
岸辺が参考書を開きロシア語を勉強している姿を想像できないリウシェンは怪訝な表情を浮かべる。
似合ってなさすぎる。
本当はロシア語の悪魔と契約して勉強せずに頭にぶち込んでるんじゃないか、そう疑う。
そもそも言語の悪魔なんているのだろうか。
もし英語の悪魔がいたらもっと勉強が楽になっていただろう。
彼にとって勉強とは赤点を回避するための行動でしかない。
「もしかして他にも喋れます?」
「中国語くらいだな」
「へぇ、それもどうして?」
彼の言葉を聞いた岸辺が微かに動揺したのをリウシェンは見逃さなかった。
いつもより少しだけ瞳孔が開き、微かに体が震えた。もっと耳が良ければ少し早まった心臓の鼓動も聞こえていただろう。
しかし岸辺も長年生きていない、本心を隠す術は長けていた。
「ソ連と中国は仕事で行くことが多い。きっとお前も直に呼ばれるようになる、覚えておいて損はない」
「うえぇ~、次は断ろうかな」
「…断っていい」
岸辺の雰囲気が変わる。
いつもの無機質で冷たい様子は何処か遠い。
10月に吹く風のように暖かく、ビードロのように繊細な柔らかさを持ち合わせているような…とにかく普段の岸辺らしくない。
「仕事は…嫌だったら断ってもいい。」
リウシェンは岸辺の思惑を読み取ろうとする。
大人は嘘にまみれ相手を本心から思ってアドバイスをされることは意外にも少ない。
社交辞令と行間を読んで言葉の裏の裏を読み取らなければ傷つくのは自分だ。
彼自身はそんな目に合ったことは滅多にないが、擦り切れた同級生たちの話は彼に猜疑心と偏見を植え付けている。
それにあの岸辺だ。
人を人だと思わないサイコジジイ。
最強のデビルハンターを自称している飲んだくれが俺を心配するわけがない。
だってそうだ、そんなの…あまりにもマトモ。
「お前は人を殺したことはあるか?」
リウシェンの動きが止まる。
岸辺の言葉は彼が着こんでいる堅牢な鎧の隙間を縫い、その奥まで入り込んだ。
「お前はたとえ仕事でも…人を殺せるか?」
リウシェンが人を殺めた事はまだない。
デビルハンターの仕事をしているとそう言った機会が偶にあることは知っている。
悪魔と契約し、その力で犯罪に手を染める者。
殺人、強盗、窃盗、テロ、前例を上げればキリがない。
彼がまだそういった任務についていないのは、ひとえに周りの人たちの尽力があったからなのだが彼はそんなことを知るよしもない。
生物の本質は繁殖にある。ならば同族殺しは生物の基本設計に反している重罪だ。
人を殺してはいけない、その意味も理由も全て頭では分かっている。
でも体験したことがないから可能か不可能か分からない、まさか死刑囚などを使って試すことも出来ないだろう。
人を殺した後の自分を想像する。
悲しいことにあまり深く落ち込んでいるイメージは沸かない。
少しは傷つくかもしれないし、夢に出てくるかもしれないが数日したら多分何も気にしない。やってはいけない事なのに、これからの人生に人殺しの烙印が押され消えることは無いのに。
「岸辺さんは…あるんですか」
「ある」
「どう、でした」
岸辺は懐に手を伸ばすといつも所持しているスキットルを取り出しウイスキーを飲んだ。
「日々の積み重ねがネジを緩める。そうすると恐怖心も青臭い善悪も考えなくて済む」
岸辺の言葉には含みがある。肯定も否定もしない返答。
ずるい返事だ、そう思った。
「Это тот товар, который вы заказали.(こちらご注文の品になります)」
注文した商品が届く。まっすぐ立ち上る湯気が作り立てであると証明していた。
二人は黙って食事に手を付け、そのまま一言もしゃべらないまま食事を終えた。