喪失のその先に   作:黒糖煎餅

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伝えたかった、たった一言

伝えたかったこと

アクア。起きて、アクア。

なつかしい声が聞こえる。記憶のそれより、幾分か落ち着いた声。記憶の底にある、確かに大切な人の声。守りたかった人の、守れなかった人の声。

「もー!寝坊助なんだから!」

がばっ、と掛け布団を剥ぎ取られた。布団に篭っていた温もりが瞬く間に立ち消えて、底冷えするほどの冷気が肌を刺す。

「まだ、眠い…」

布団を取り返そうともぞもぞ動いてみたものの、布団は声の主が畳んで地面に置いてしまったらしい。寝惚け眼を擦りながら、俺はゆっくりと布団から体を起こした。

「おはよ、アクア!」

「…おはよ、アイ。」

声の主は、失ったはずの彼女だった。

「…ルビーは?」

「居ないよ?お友達と遊びに行くんだって。」

「…そっか。」

夢、なのだろうか。いや、夢だろうな。アイと、俺だけしかいない。部屋は驚くほどに殺風景で、間取りは幼い頃に住んでいたマンションのものと合致している。

「アクアも起きたし、朝ごはんにしよっか!」

…夢でも、いい。この温もりが、二度と感じられないと思っていた掌の温もりが、感じられるのならば。

 

 

 

 

 

「どう?美味しい?」

そう言いながら、アイは俺の顔をニコニコと眺めている。食卓に並べられたフレンチトーストとコーヒー。小さな硝子の器に盛られたサラダ。夢なのに、ふわりと香り立つその朝食は、やけに輝いて見えた。

「…美味しいよ。どこかの喫茶店かと思うくらいには。」

「そう?やった。…えへへ、嬉しいなぁ。」

目を細めながら、アイは砂糖のたっぷりと入ったカフェ・オ・レを啜る。あちっ、とカップから口を離した後、こちらにえへへ、と苦笑いをこぼした。

「…アイは、変わらないな。」

そう思った。本当に。記憶の中のアイと、寸分違わない。声色が若い女子から、少しだけ艶のある女の声に変わった…いや、少し大人びた様に感じる程度で。

「…それって、昔のままのおばかさんってこと?」

「なんで悪い方向に取るんだよ…俺が好きだったアイのままだ、ってこと。」

「きゃー!今日も息子がかわいい〜!」

「…やっぱり馬鹿のままだったか?」

「照れ隠し?照れ隠し?やーん、ウチの子、かわいすぎー!」

にこにこと破顔しながら、彼女は机の下で足をバタつかせている。感情を素直に表してくれるから、こちらとしてもコミュニケーションを取っていて、とても楽しい。

「もう言わない。」

「あわわ、待って待って!揶揄ったの謝るから!素直なアクアが珍しくて揶揄っちゃっただけだからー!」

「嘘だよ。」

なんだぁ、嘘かぁー。

アイはそう溢すと、楽しそうにからからと笑う。

あぁ、彼女はこんなふうに笑う人間だったのか。

生前の彼女は、良くも悪くもアイドルだった。…それは、きっと、俺たち兄妹の前でも。もちろん、素の笑顔をこぼすことはあったのだろうけど、こんなふうにからからと笑う様は、見たことがなかった。

…もっと、積極的にコミュニケーションを取っていれば、この笑顔をもっと見られたのかも、なんて。くだらないことが頭をよぎった。

 

「…アクア、泣いてるの?」

「…え?」

なんだ、これ。

頬を熱い雫が滑り落ちていく。拭っても、拭っても、堰を切ったように溢れる涙は止まることを知らない様に流れ続ける。

「っちが、なん、でっ…!」

嗚咽が漏れる。息が詰まる。言葉は途切れ、訳もないのに涙が流れ続けている。

「…アクア。」

ぎゅう、と抱きしめられる。華奢な腕が背中から胸へと回される。やわらかい。暖かい。落ち着く、匂い。呼吸すら忘れるほどに、優しい抱擁。えもいわれぬ多幸感に包まれて、気がつけば涙は止まっていた。

「…落ち着いた?」

そう言ってこちらを覗き込むアイの瞳は、慈愛に満ちていた。その奥には、僅かばかりの不安で微かに揺らめいている。

「…落ち着いた。恥ずかしいところ、見せちゃったな…」

そう言うと、アイは少し息を吐いてから、俺の髪をゆっくりと手櫛で梳いた。

「アクアは頑張り屋さんだからね。ずっと、ずっと、我慢してたんだね…」

私の前だもん、恥ずかしいところ、見せてもいいんだよ。

そう言って、アイはぎゅうっと強く俺を抱きしめた。少し苦しい。けど、それ以上にあたたかい。

「ありがとう。アイ。」

「うん。…それで、今日、どうする?」

「どうする、って?」

「私と一緒に、ストレス解消でも行かない?」

唐突に、彼女はそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁ、俺に断る理由はないわけで。アイはと言うと、準備があるからと部屋へ戻って行った。部屋で時間を潰していると、程なくしてアイが部屋に入ってくる。

「ほら、行こっ!」

手を引かれて、俺は外へと繰り出した。

 

 

電車を乗り継いで、海沿いの街へ。春先だからか、人はまばらで。柔らかく吹き付ける海風が髪を靡かせている。

「綺麗だねー」

「…そう、だな。」

狂おしいほどにゆらゆらと煌めく青色が、眼前に広がっている。陽の光を受けて揺らめく海面が、ひどく懐かしい様な気がした。

「…アクアの話、聞かせてよ。」

「…は?」

「ほら、学校での話とか、お友達の話とか…何があって、何が嬉しくて、何が悲しくって、何が辛かった、とか。」

「なんで、そんな話…」

「聞きたいの。アクアの過ごしてきた人生って、どんな感じだったのかなあって。」

真っ直ぐ、こちらを見つめる瞳。濡羽色の瞳が俺の目を真っ直ぐに見つめている。…いや、見つめているのは、俺ではないのかも、なんて。

「…わかった。全部、話すよ。」

今際の際に、ずっと会いたかった彼女が会いにきたのだ。全てを打ち明けてしまっても、良いのかもしれない。

「多分、長くなるけど。いい?」

俺の言葉に、アイは確かに頷いた。

 

「俺は………」

 

 

 

 

 

 

全部話した。

前世のこと。今世での出来事。楽しかったこと、辛かったこと、ふとした時に感じる幸せに、どうしようもなく心を苛まれたこと。守りたいと誓ったもの、守るためにかなぐり捨てたものがあること。間違いばかりなのは分かっていて、けれど守る為には、それしか思いつかなかったということも。誰にも…あかねにさえ吐露できなかった本心さえ、つらつらと話すことができた。夢の中だからだろうか。それとも、アイなら全てを聞いて、その上で理解してくれると思ったからかも知れない。アイは黙って聞いていた。時折渋い顔を見せたり、おかしそうに頬を綻ばせはしたけど、話を遮ることはなかった。

 

 

「…これが、俺のこれまでの人生。」

話を区切って目を伏せると、アイは隣で嘆息をした。

「アクアって、頭良いのにお馬鹿さんだよね。」

呆れた、とでも言いたそうな表情で、アイはこちらを見つめている。

「確かに、アクアのやったことが間違ってないとは言えないよ。彼…神木くんは、私とは違う方向で人としてイカれてたからね。彼の自己肯定は、他者を侵すことでしか満たされない…って言うのは、うん、何となく分かってた。」

「…うん。」

「他者の名誉を、踏み台にすることで彼は自分を保つことしかできなかった。ルビーも、アクアのお友達のかなちゃんやメム…ちゃん、それに、あかねちゃんも、将来有望そうだしね。神木くんの毒牙に冒される可能性は大きかったと思うよ。だから、アクアを否定することはしない。…けど、守る対象に、自分を入れていないのは、私は許せない。」

沈黙が場を満たす。海風が鳴らす風の音だけが聞こえる。

数秒か、数分か。沈黙を、再びアイが破る。

「私ね、非道い人間なの。」

「他人がどうなってもいい。もちろん、近しい人なら別だけど…顔も知らない有象無象が、どんなに酷い目にあっても、私は気にしない。けどね、アクアとルビー…あと、佐藤社長たちは別。」

あれ、斎藤だっけ?と言い直して、アイは続ける。

「私は、私を好きでいてくれた、そばで支えてくれた人たちが幸せなら、それ以外はどうでも良いの。アクアが、ルビーが、大人になって…いつか、私の年齢なんてとっくに追い抜いて、おじいちゃんとおばあちゃんになって…それで、二人がもう、やり残したことなんてないって位まで、生きていて欲しい。それ以外は何も要らない。だからこそ、アクアの…吾郎先生の選択は、許せない。」

「…ごめん。」

「謝る相手は私じゃないでしょ?」

「…。」

「私にアクアを責める権利はない。だって、元は全部私のせいだから。謝るのは私。アクアを、先生を、こんな道に引き込んでしまって、ごめんなさい。辛かったよね。苦しかったよね。誰にも相談なんてできなくて、復讐なんかしたくなかったのに、私のせいで、ずっと苦しかったんだよね。…本当に、ごめんなさい。」

そう言って、アイはゆっくりと俺を抱きしめた。身体は震えていて、いつも底抜けに明るかった声は驚くほどにか細かった。震えているアイの背中をゆっくりと抱き寄せる。

「…確かに、辛かったよ。苦しかった。何度も、何度も、諦めようと思った。復讐なんてやったところで、アイは帰ってこないんだから。やるだけ無駄だって、やり遂げたところで、ルビーやミヤコさん達に殺人鬼の家族のレッテルを貼るだけだって…でも、さ。それで、大切な人に出会えた。有馬に、メムに。そして…あかねに。あいつらといる時は、少しだけ気が紛れた。復讐鬼ではなくて、星野アクアでいられた。その時だけは、俺は俺を責めないでいられたんだ。」

「アクア…」

「俺は、守りたかった。ルビーを。ミヤコさんを。有馬も、メムも。そして、あかねも。あいつらを害する可能性があった。アイの仇だった。あいつから命を奪わないと、あいつらが殺される可能性があった。だから、ひたすらに走り続けた。」

有馬を利用した。メムに全てを放り投げた。あかねを…利用するだけして、突き放した。ルビーを…あいつの一番大事なものと、あいつ自身を傷つけて、遠ざけた。

少しでも、安全なところにいて欲しかった。俺一人に守れるものなんてたかが知れていて…それこそ、もしかしたら何も無いかも知れなくて。それならば、遠く離れたところに仕舞い込んでいたかった。遠ざけてしまえば、少しだけでも安全だと思ったから。危険な賭けは俺一人で挑むべきだと思ったから。負けても傷つくのが俺一人ならば、それで済むのなら、それが一番良い。俺の我儘で、俺の大切な人を危険に晒すのが怖かった。

「…アクアは、本当に優しいね。」

そう言うアイの瞳は、今にも溢れそうな涙でゆらゆらと揺れている。

「がんばったね。」

「…うん。」

「アクアは、すごいよ。」

「…そんなこと、ない。」

「ううん。私が保証する。」

「…アイがそう言うなら、そうなのかもな。」

「…うん、そうだよ。アクアは優しくて、ちょっと馬鹿だけど…」

「アイにバカって言われるのは心外だな。」

「もー、茶化さないの。…うん、やっぱり。」

アクアは、私の、自慢の息子だよ。

そう言って、もう一度ぎゅっと抱きしめられた。

アイの震える身体を支えながら、俺はアイが落ち着くのを待つことしか出来なかった。

 

 

 

 

「…泣き止んだか?」

「…うん。恥ずかしいところ見せちゃったね」

鼻を啜る音だけが聞こえる。肩はしっとりと涙で濡れていた。

とっぷりとした沈黙が場を満たす。すっかりと陽が傾いて、煌めく水面が眩く輝いていた。

「やっぱり、アクアはここにいるべきじゃ無いよ。」

アイは目元を拭いながら、そう言葉を溢した。

「…でも、俺は死んだからここにいるんだろ?」

これは一種の走馬灯…いや、最期に神様とやらが気まぐれで見せてきた夢の様なものだと思っていた。

「間違いじゃないよ。けど、アクアの身体は、まだ死んでない。精神と身体が剥がれて存在しているだけなんだよ。」

「幽体離脱…みたいな?」

「多分そうだと思う。生きたい身体と、生きる意味を見失った心が、離れちゃったんだと思う。」

私は、アクアに生きていて欲しい。

アイは、そう呟いた。

「…全部、捨てた。カミキを殺す為だけに、欲しかったものも、言いたかった言葉も、心地よかった居場所さえ、全て捨てた。」

今更、何を道標に生きていけば良い?

――縋るものも、護るものも、全て捨てた。心の拠り所すらない世界で、どう生きれば良い?――

 

 

俺の呟きに、アイは真っ直ぐにこちらを見つめる。

「言いたかった言葉を、思い出してみて?」

伝えたかったありがとうを。言えなかったごめんなさいを。伝えられなかった、愛してるを。

「その言葉を伝えたい人たちは、何人いる?」

ふっと、幾人かの顔が浮かんだ。

「ミヤコさんに、育ててくれてありがとうを言っていない。有馬に、憧れを抱いていたことを伝えていない。メムに、ルビーを支えてくれてありがとうって言えてない。あかねに、支えてくれて、寄り添ってくれて嬉しかったことを、伝えられていない。」

ルビーに、愛してるを、伝えられていない。

 

「じゃあ、それがアクアの生きる意味だよ。」

 

大好きな人たちに、隠していた想いを、伝えてあげて。

 

「私は、それを伝えられなかった。アクアとルビーに、一度だけしか伝えてあげられなかった。死んじゃった後も、ずっと心残りだった。…だから、アクアにそうなってほしくないの。拒否されても、受け止めてもらえなくても、ちゃんと言葉で伝えてあげて。『嘘はとびきりの愛』だなんて言っていた私が言うのは、変かも知れないけど…」

言葉にしなきゃ、伝わらないことがたくさんあるから。

 

そう言ってアイは、少し淋しそうに笑顔をこぼした。

 

「そう、だな。」

俺には伝えなきゃいけない想いが、両の手で抱えきれないほどにある。

「…俺、生きるよ。」

「…うん。それが、私の望み。」

世界が白に染まる。上下すら知覚できない様な、不思議な感覚。座っていた海岸線は立ち消えて、アイと2人で、白に浮かぶ。

「…もう、お別れだね。こんな形でだけどさ、嬉しかった。もう二度と、アクアとお話なんてできないと思っていたから。」

「俺も。こんな形でだけど、アイと話せた。」

「今度はさ、ずっとずっと、先の話だけど。ルビーも連れて、一緒においでよ。」

「ああ。うんとしわくちゃになってから、もう一度来るよ。」

「言ったね?約束だよ?」

「…うん。」

「あ、会いに来ないでとは言ったけど、お墓参りとか、お盆はちゃんとしてね?見えないかもだけど、ちゃんとそっちに行くから。」

「何の心配だよ…毎年やってる。これからもずっと。」

「…そっか。あ、あと、二十歳になったら斎藤社長のところに行ってね。」

「なんで?」

「二人が生まれた時に、その年のお酒を買ってあるから。私買えなかったから、社長に頼んであるの。で、誕生日はお墓に来て、3人で…ううん、5人で呑もう?」

「…わかった。約束する。」

「うん。それじゃあ、アクア。」

私の分まで、ちゃんと生きてね。

視界が霞む。世界が歪む。あぁ、あちらに戻るのだと直感した。

「アイ!」

「なに?」

「ずっと、伝えていなかったことがあるんだ。伝えられなかった。それを伝えるには、気恥ずかしくて、一度も言えていない言葉があるんだ。」

不思議そうな顔を浮かべるアイに、一呼吸置いて決意を固め、言葉を紡ぐ。

「愛してくれて、ありがとう。」

――俺も、母さんのことを愛してる――

 

聞こえているのだろうか。俺は、はっきりと伝えられたのだろうか。そんな懸念は、アイの涙ながらの笑顔で掻き消えた。

「私も!アクアのこと、ルビーのこと、世界で一番…」

 

――愛してるっ!

 

 

生きていた中で、一番言われて嬉しかった言葉。

伝えられなかった後悔だけがあった、呪いの様に感じていた、たった一言。最期に、伝えられた。応えてくれた。

俺は、確かな幸せを感じながら、輪郭の消えていくアイを見つめ続けていた。

 

 

 

 

 

「あぁ…!やっと、言えた…!」

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