とっぷりと闇に浸る街並みを、小さなキャリーケースを引き摺りながら練り歩く。歩き慣れたはずの道には見覚えのない看板が立ち並んでいる。寂れてしまった商店街。
病院から程近い商店街には、よく訪れたものだった。食事を摂りにきたり、病室に佇む彼女の為に、こっそりと和菓子を買いに行った個人商店が立ち並んでいたアーケード街は、何年も手入れがされていないようだった。
「すっかり、変わったな…」
見覚えのあるはずの景色が、全くもって見覚えのない景色に変わってしまっている。脳裏に浮かぶ景色と、実際に認識する景色の大きすぎるギャップが、おおよそ20年という月日を如実に告げていた。
「…行くか」
感情に浸るのも悪くないが、今は目的を果たさなければならない。俺は、俺だけが知る彼女の墓へと重い足を進めた。
共同墓地。広い区画から少し外れた、黴臭い辺鄙な小さな区画。
そこに、天童寺さりなは眠っている。
「…ひさしぶり、さりなちゃん。」
20年近く訪れてはいなかったが、定期的に訪れる近隣住民でもいるのだろうか、意外にも墓の周囲は綺麗に保たれていた。
「…ひさしぶり、なんて言っても、このナリじゃ分からないかな。覚えてくれてるかな…雨宮吾郎。君の病室でよくサボりをしてた不真面目な先生だよ。」
星明かりが照らす夜空に、小さく声が響いている。
「…君が亡くなってしまってから、君のことが記憶の隅に行ってしまうのに、そんなに時間はかからなかった。研修医の雑務は多くて、君のいた病室にも、新しい患者さんが入院して…退院して…。しばらく空部屋かと思ったら、またすぐに病室は新しい患者で埋まってしまった。その部屋を訪れるたびに、君のいたはずのその病室に、君がいないのが、少し寂しかったのを覚えてるよ。」
ゆっくりと墓の文字を指でなぞりながら、俺はぽつぽつと言葉をこぼした。
「…変な話だよな。医者にとって、患者ってのはどう足掻いても平等でさ。さりなちゃんの命も、そこそこ長生きしていた爺さんや婆さんの死も、みんなが同じに扱った。…いや、当然なのはわかってたよ。けど、俺はそう思えなかった。あの部屋を訪れるたびに、窓際のベッドでテレビを眺める君を空想した。ドアを開けたら、君がまた笑顔で『せんせ』って呼んでくれるんじゃないか、って、叶うはずのない夢を見ていた気がするよ。」
指先にうっすらと積もった埃を落とし、指先を眺めた。
「多分、妹みたいに思ってたんだと思う。こんな俺を慕ってくれて、懐いてくれて。好きなことを打ち明けてくれて。君の病室でサボることは、いつしか俺にとっては大事な時間になっていたんだと思う。」
「…さりなちゃんがいなくなってから、たくさんのことがあったよ。まずは、アイがうちの病院に来た。妊娠して。しかも、双子だったからね。驚いたよ。アイドルで、未成年な上に妊娠して、しかもそれが双子なんてさ。驚きだろ?俺も、目玉が飛び出そうなくらい驚いた覚えがあるよ。…その上、アイドルを続けながら子育てをする、なんて言い出すものだからさ。驚きを通り越して呆れたよ。」
くっくっ、と喉から笑いがこぼれた。
「もちろん、乗り気じゃなかったよ。大人の女性が一人産むことですら生死を彷徨うほどの大仕事なのに、それが二人。しかも、16歳ときた。推しだから云々より、彼女の体が心配でさ。けど、彼女は欲張りだった。…彼女は言ってたよ。母親としての幸せと、アイドルとしての幸せ。それがどっちも欲しいんだ、ってさ。びっくりするくらい真っ直ぐな言葉だった。彼女の眩さにあてられて、俺も覚悟を決めたよ。」
「俺が彼女の子供を取り上げる…安全に、母子共に健康でいられるように、って。」
…結局、守れなかったんだけどな。
そう呟いて、俺は自嘲じみた笑いをこぼした。
「俺は死んで、アイとの約束が守れなかった。殺されて…次に目が覚めた時に、目の前にいたのはアイでさ。笑っちゃうだろ。何もできなかった俺が、彼女が命をかけて産んだ子供だったろうに、こんな変な子供を産ませてしまった。…まぁ、それは妹のやつもそうなんだけどさ。」
「…アイの子供としての人生は、とてもしあわせだった。アイはどんな人間で、どんな物が好きなのかを知れた。そして、子供の俺たちのことをさ、しっかり愛してくれた。不器用なアイのことだから、『ちゃんと愛せていたのかな』とか、言ってきそうだなぁ、って思うけどさ。」
「ちゃんと、愛をもらってた。不器用で、真っ直ぐで…意外と教育熱心というか、子育てに芯があった。他人に不義理を行うことを、アイは嫌がった。良くも悪くも、捻くれていて…捻くれているからこそ、俺たちを真っ直ぐに育ててくれていた。有体な言い方になっちゃうけど、アイは良い母親だった。」
薄雲を越えて、柔らかな月明かりが彼女の墓を照らしている。さりなちゃんがそこにいるわけじゃないのに、まるで、そこに誰かがいるような…そんな気がして。目の錯覚でも良い。俺の脳が見せた、虚な幻だとしても構わなかった。ただ、全てを打ち明けてしまいたかった。
「ずっと、君のことが頭にあったんだ。」
アイの愛を感じるたびに、君の顔が浮かんだ。
病室でひとりぽつんと座る君の顔が。
俺が扉を開ける時に、『お母さん?』と、母親を呼ぶ君の姿が。そのあと、しょげている君を慰めるのは、少し大変だったっけ。その度に俺は、昼休みに君の好きなスイーツをこっそり買いに行ったっけ。
俺が君にできたことは、ただただ話し相手をしてやることくらいで。君が欲しい言葉も、君の手を引いて歩くこともできなくて。
…生まれ変わりなんてものがあったのなら、君が生まれ変わったら良かったんだ。俺みたいな、汚い大人じゃなくて。…アイのことが大好きな君なら、きっとアイの理想の子供になっていたんだろう。誰よりも優しくて、誰よりも格好いい…妹と喧嘩なんてしなくて、悩む妹のそばで、きっと手を引いて、夢へと導いてあげることができたんだろう。俺みたいにみみっちいことはしなかっただろう。君は辛いことを味わった分、誰よりも優しくて、聡い子だった。欲しい言葉を掛けてもらえなかった君は、誰よりも人に優しい子だった。君なら、心が壊れかけたルビーの心を救うことができたんじゃないかと思う。
進めないことを誰よりも悔しがった君だから、膝を折りそうな誰かがいた時は、手を引いて歩いて、正しい道に導いてあげられたんだろうなと、心の底からそう思った。
俺なんかじゃなくて、君が星野愛久愛海だったのなら、全てのことがうまく行ったんじゃないか。なんて…考えても仕方がないことだけが、頭の中をぐるぐると回った。
「…暗い話になっちまったな…」
こんなこと、話すつもりじゃなかったのに。
「また明日、出直すよ。さりなちゃんの好きなスイーツでも買ってくるさ。」
「じゃあ、また来るよ。…おやすみ、さりなちゃん。」
墓石を撫でて、俺は踵を返して歩き出した。
空で一際大きく光を放つ星が、確かに大地を照らしていた。