<前回誤字脱字報告してくださった方々>
千夜紙 さん
たろほ さん
ケチャップの伝道師 さん
ありがとうございました。もし抜けがあったらすみません。
はい、今回こそは誤字脱字がないことを祈っています。対戦よろしくお願いします。
さぁ、俺の誤字を見つけられるかな?
酒場での遭遇を皮切りに、旅人とダインスレイヴは限られた時間に様々な場所を巡った。
深淵の者たちの痕跡を辿る中で、これまであまり見向きすることのなかった風景や、風の囁きに浸ることが出来た。
主となる存在が消え去り、自由という名の命題を掲げるモンドは驚くほど豊かな景観を持つのだと思い知った。
「(モンドの人たちはみんな幸せそうに過ごしていたけれど、ああなるまでに沢山の死があったんだ。)」
かつて暴風の神が支配していた荒地は、当時振るわれていた暴力の悲惨さと、それを打ち砕いた自由の戦士たちの勇猛果敢な散り様をありありと示していた。
濃い緑色の草木に隠された灰色の石塊が、旅人の足の裏から睨んで来るような感覚は、忘れがたい気持ちの悪さを刻みこんできた。
視線を辺りに寄越すと、草木の中に紛れて矢の残骸が転がっていた。きっと、大昔にこの荒地で戦った弓兵のものだろう。モンドの街中では、朽ちた矢を目にすることなんてない。
だが、ここでは当然のように物騒な物品がたくさん落ちている。
多分、その数だけ人の命が散ったのだ。
それはどれほどの苦しみだっただろう。
明けるかもわからない明日のために剣を振るい、開けるかもわからない固い扉を血だらけの拳で叩き、存在するかもわからない自由と、理想のために死にゆく友を尻目に進み続けた...その在り様はまさしく英雄そのものだ。
蛍はその人々の顔も名前も知らないが、それでも敬意を抱くには十分だった。
「お~い!旅人!もうそろそろ戻るぞ!」
「っ!うん、すぐ行く。」
感傷に浸っていた彼女の意識が再び戻る。
モンドの各地を回り終わった旅人とダインスレイヴは帰路に着こうとしていた。結局、生き別れの兄と再会することは叶わなかったのだが...。
風龍廃墟に差し込む夕陽が彼らの帰路を指し示す。
パイモンの呼びかけに同意して来た道を戻ろうとしたその時、
その帰路を遮るかのように、ダインスレイヴが旅人たちを呼び止めたのだ。
「待て、旅人。」
「ん?」
てっきり
一体なんだと言うのだろうか。
もう随分といろんなことを話した。初対面にしては長い時間を共にした気がする。パイモンだってすっかりダインスレイヴに絡むようになっていた。
互いの秘密はあれど、今更改まって聞くこともないと思っていた蛍は、戸惑いながらも男の言葉の続きを待った。
「何、ダイン?」
「....最後の質問だ。」
少し、空気が重い。
「
酒場で投げられた質問が再び問われる。
だが、その問いには答えたはずだ。
ダインスレイヴと出会ったばかりの時に、同行の条件として提示された『四つの質問』。その最後の質問をもう一度投げかけてきた。あの時の回答に不満を覚えたのだろうか?だが、重要なのは答えではないと言ったのは彼だ。
蛍なりに誠実な気持ちで己の回答を捧げたつもりであったし、彼もそれを汲んでくれたからこそ同行を許可してくれたのだと認識していた。しかし、土壇場でこうも態度を切り替えられるとは思ってもみなかった。
蛍は動揺を隠しながらもその真意を訊ねる。
「...その問いには答えた筈だけど?」
一体どういうつもりだと、ダインスレイヴに暗に伝える。
すると彼は穏やかな顔のまま告げた。
「そうだ。だが、時間が経つことにより環境が変化し、考えが異なるものに変遷することなど往々にしてあるものだ。だからこそ、これまでの短い間を俺と共に過ごした上で改めて貴様の答えを聞きたい。」
「....。」
「俺と共にモンドを歩き、そして今改めてこの問いに対して向き合った貴様は何を得た?」
これまで以上に流暢に話している男を見た。
とても歪で、それでいて綺麗な瞳をしている。
まるでこの世界を具現化したようなその瞳に対して、蛍は少しの間釘付けになった。
ほんの少し。
瞬きほどの少ない刹那の中で、蛍はダインスレイヴが聞きたいことが何かを見出した。これまでとは性質が異なる。この質問は彼にとって何か特別な意味を持つものなのだろう。
「(多分...この瞬間だけは、この質問だけは明確な回答を求めている気がする。根拠はないけれど、何故かそう感じる。)」
「た、旅人?」
思わず黙り込んでしまう蛍。
そんな彼女を心配してか、不安そうな声で顔色を伺うパイモン。
蛍は少しだけ迷った後、ダインスレイヴに答えた。
「...知らない。」
「そうか......。」
ダインスレイヴの零した相槌には悲哀と敬意が感じられる。
これまでは淡白な声色の上に僅かな感情の起伏が乗っていることから、この問いは彼に取って重要なものなのだろう。
彼は答えを得られたのだろうか。
まったく分からない。
無表情だとか、声色の起伏が少ないとか、そんな些細なことは原因ではない。
彼の瞳が、彼の疲弊と心労を物語っていた。彼にも大切な誰かがいるのだろうか?それとも、既に喪失したそれらに回顧しているのだろうか。
「俺はここで別れるとしよう。」
ダインスレイヴは唐突に告げると足早に姿を消した。
取り残された旅人たちはこの別れの感触に既視感を覚えた。
最近、同じような体験をしたばかりだった。友人になれたかもしれない少女が去った時と同じだった。なぜこんなにもダインスレイヴと彼女を重ねてしまうのだろう。
黒色の外套を纏った男の背中が酷く小さく見えるのは、気のせいなのだろうか。
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「やはり、彼そっくりの気性だった。血を分けた兄妹というのは数奇だな。」
再び一人になったダインスレイヴは、狼たちのテリトリーである奔狼領に来ていた。
ここは爽やかな草原が茂る星崖とは異なる。
異様な雰囲気が特徴的だ。乾いた風が木陰を凪いでは消えていく。落ち葉を見下ろす枯れ切った木の枝は太陽の光をそのまま地面に届けている。
そこかしこに落ちたベリーの潤い具合と、全体的に枯れ切った様を見せる土地のギャップが脳を混乱させる。どのような風が吹けばこのような不思議な生態系が形成されるに至るのだろうか。
ダインスレイヴは生態学や地層学に秀でているわけではないかったが、長年の旅の経験から"この土地が異様であるかどうか"を嗅ぎ分ける技術は他の追随を許さぬほど研ぎ澄まされていた。
「(相変わらず...静けさに似合わないほどに不気味な場所だ。)」
愚痴りながら男は歩みを進めている。彼の足の底に踏みつぶされた枯れ葉がくしゃりと音を奏でる。その音は静まったこの場所にはやけに響く悲鳴となった。どのような些細な物音すらも反響するのではと錯覚するほど静かで神聖な庭なのだ。
ォォォオン...
誰かの遠吠えが響く。
静かなこの環境にとっては余計に目立つ叫びだ。
不思議と不快感はないが。
この森の静寂は、"無"ではなく"雑念のなさ"にあるらしい。隔絶された生態系が織りなす生命の世界にとって、生き物たちの遠吠えや物音は些事に過ぎず、忌むべきものの中には含まれない。
そして、その静けさは音だけでなく"気配"すらも炙り出す。生き物が限られるこの空間においては、無いに等しい息音すらもダインスレイヴにとっては耳障りな騒音として届くのだ。
「尾けて来ているのはわかっている。...出てきたらどうだ。」
ダインスレイヴが虚空に向けて警告する。
応えたのは風のせせらぎだけだったが、それでもダインスレイヴは視線を戻さない。己の背後に存在するであろう何かに対して質問を続けた。
「...出てこないのならその木ごとお前を斬り伏せることにしよう。」
相も変わらず物騒な脅しをかけるダインスレイヴ。
彼は己の背後にある少し大きな木を流し目で見つめていた。ダインスレイヴの胴体はあらぬ方向を向いているが、意識は木から逸れることはない。じっと背後の木...もとい、その背後に隠れる襲撃者から目線を逸らさない。
どれほど強い風が吹こうともダインスレイヴが警戒を解くことはなく、むしろ強まっていく。このままでは埒が明かないと判断したのか、その少女はゆっくりと木の陰からその姿を現した。
小柄な少女だった。
木の陰に隠れてしまえるのも納得がいくほどに小さい体躯で、少なくとも成人未満であることは見て取れる。
顔立ちも幼い。まるでこの世界の淀みを知らないのではと思うほどに綺麗で、白い。
だが、目の中に光がない。まるで泥水で満たされたような池のようだった。
「相変わらず陰険な面をしていますね、ダインスレイヴ。」
「...貴様もな。」
姿を現したエレーナと軽口を掛け合うダインスレイヴ。
二人は既知の仲であるようだったが、そこに親密さはまるでなく、むしろ互いを殺そうとしているかのように不快感を露わにする。
ダインスレイヴは旧友の姿を一瞥すると、更に不快そうな顔をした。それは彼女に対してではなく、彼女の装いに対しての感情だった。
「...その陰険な面持ちはなんだ?まさか旅人と喧嘩別れでもしたか?」
「何を言っているんですか?この私が喧嘩でムキになって道を違えたとでも言うつもりですか?...私を見くびっているのですか。」
「....渦の魔神の頸を堕とした人間の言葉とは思えないな。稚拙極まる。」
ダインスレイヴが刺々しい口調で罵倒した。
「私が馬鹿正直に『オセルと戦って璃月を救いました』なんて名乗り出たと思ってるんですか?世間一般の認識では、あくまでも英雄は異郷の旅人ということになってますから、私の存在は公にはなってはいないはずです。」
エレーナは心外だと言わんばかりに不服そうな表情を浮かべながら反論した。
「それに、あくまでも璃月を守ったのは私ではなく、璃月の人々と例の旅人です。私は少しだけ力添えをしたに過ぎません。」
「では、その者達の中に
「ええ、このテイワットは広いですからね。そういう怪物染みた人間もいるのでしょう。誰しもが持つ"無謀"という性質は時に"蛮勇"に昇華することもありますから。」
「...そうか。貴様がそう言うのならば俺もとやかくは言うまい。」
言い切るエレーナにダインスレイヴは追及しない。彼もエレーナが簡単に意見を曲げるような人間ではないと解っているのだろう。
「それで、俺に何の用だ。ここまで雑な尾行をしてきたということは、俺に気付かせるためだったのだろう?」
うんざりとした様子でダインスレイヴはエレーナに尋ねた。男にとって、モンドはあまり長居するような土地ではない。彼にとっては七神を崇め奉る環境はあまりに相性が悪く、その様に虫唾すら走るものだ。
特に、モンドには神がいない。
..と、表向きにはされている。
その都合上、国民がある種の偶像崇拝のような形態を取っているため、神を憎らしく感じているダインスレイヴからしてみれば、モンドに漂う空気間はたまったものではないのだ。
だからこそダインスレイヴは一刻も早くこの土地から去ることを望んでいるのだが、そんな折、エレーナという邪魔者が入った。
...不幸にも既知の仲である彼女を無視すると後が面倒になるとわかり切っていたダインスレイヴは、渋々彼女に付き合うことにしたのだ。
しかし、エレーナはいつものようなキレがないように見えた。
我先にと本題に入る彼女の性格らしからぬような、鈍重な気配と面持ちであった。ようやく話し始めたと思ったら、何やら息が少々荒い。
「貴方相手に本気で付きまとえばっ、それこそ殺すつもりで消しにくるでしょう?...それなら幼稚な振る舞いで存在をアピールした方が...、一周回って、話を...ハァ....聞いてもらえるでしょうから。」
「...。」
エレーナは顔をみるみる青くしていき、息を整えられることなく苦しみ始める。
「ぐっ。」
ダインスレイヴに憎まれ口をきいていた彼女は、次第にふらふらと覚束ない足取りになっていき、遂には地面に膝を付いた。
真っ青になった顔は青空を見ることはなく、俯いたままだ。
手足は痙攣して焦点が定まらず、まともに動くことすら難しい。額には凄まじい量の脂汗が滲んでいて見ているこちらの体調が悪くなると感じる。
そして、
それを見たダインスレイヴは何かの確信を得たのか、彼女に近づいて言葉をかけた。
「やはりか。」
ダインスレイヴは急に体調を崩して身を倒し始めたエレーナにそう呟き、介抱のために彼女に近づき目線を合わせるために片膝を付いて語りかける。
「....顔色が優れないようだが。どれほどの間、その力を使っていた?」
「うっさいっ。クソッ.....!!」
エレーナから突如として殺気が漏れ出す。
濃密な殺気だ。
まともに浴びればそれだけで意識を失いかねないだろう。
だが、弱り切った少女の殺気は非情に細く弱々しいもので、男を退かせるには至らない。牙をもがれた弱々しいコホラ竜がぴぃぴぃ鳴きながら威嚇してくるようなものだ。
そのようなもの、ダインスレイヴにとっては恐れるに足らない。
ダインスレイヴは、息も絶えそうなエレーナに向けて再度問いかける。
「答えろ。どれほどの時間、力を使っていた。一刻程度か、それとも半日か。或いはそれ以上か。」
その様子は側から見れば咎を問い詰める仇のように映るが、何処かそれ以外の感情も浮かんでいるような気がした。その苛立ちからは憎しみや恨みなどは感じられず、後悔と憂慮の匂いがした。
なおも喋ろうとはしないエレーナの様子を見たダインスレイヴは、自身の中で結論を出して腑に落ちたのか両目を一度瞑り立ち上がる。
「...やはり璃月での戦いでは無理をしていたようだな。通常であれば
「ぐっ....おぇっ。」
うずくまるエレーナを見ながらダインスレイヴは話しを続ける。
「本来の用途は、『繋ぐ』ことにある。あのように上空を覆い尽くすなど馬鹿げた使い方だ。」
「...。」
「これ以上
ダインスレイヴは頑なに詰める態度を崩さない。これ以上の逃げの姿勢は許さないとでも言わんばかりの圧力を掛けてくる。
「言え。何がお前をそこまで焦らせている?お前がそうなったきっかけは、フォンテーヌの件だけではない筈だ。俺が目を離したあの日、お前が何を
ダインスレイヴの問い詰めに対してエレーナが取った応えは"誤魔化すこと"であったが、男にはそのような小癪な真似は通用しない。
なぜならこの男もエレーナに似た力を使い、その本質を理解しているからだ。かつての故国であるカーンルイアの生まれである彼にとって、忌みの対象である深淵の力を振るうエレーナの存在は無視できるものではなかった。
深淵の力を使う人間は、その多くがまともな容姿をしていない。多くの者が人ならざる容貌へと変質しており、その悲劇に基本的に例外などない。顔の表面は変形して忌み者同然と言わんばかりに醜くなり、人間としての言語能力も喪失する。
四肢は黒ずみ...やがて理性すらも焼き切れる。そうして皆が知る化け物へと生まれ変わっていく。等しく平等に。
ダインスレイヴのように姿形と理性を保っているというのは異例なのだ。
だが、エレーナはダインスレイヴとは違いカーンルイアの出身ではない上、彼のように
だが、エレーナは答えない。
「わかってるくせに」
空気が軋む。
両者の間で剣呑な雰囲気が流れる。
男の体に纏う星々の外套が揺らめいたかと思えば、黒いモヤが少しずつ漏れ出す。まるで世界を侵食せんと言わんばかりに。
辺りに散っていた枯れ葉が先端から少しずつ塵になっていく。
もう役目を終えて大地に還るだけのはずだった植物たちが、ないに等しい命の欠片を毟り取られては散って逝く。限りなく命への冒涜に近い愚かな所業が、エレーナを中心に拡散されていくのを感じる。
ダインスレイヴは険しい顔つきで彼女を睨み、殺すつもりで掌を力ませた。
「...はぁ。」
...が、その霧は拡がることはなく少し漏れ出た時点でまた消えていった。
スゥ....と音もなくその霧は存在を消失させていき、エレーナの戦意も彼女の中から消えていった。先ほどまで爆発寸前だった爆弾が急激に雨水に濡れてしまってその機能を失ったように、彼女は疲れ切った様子でダインスレイヴに提案した。
「止しましょう。
「....
そう言うとダインスレイヴも矛を収めて普段通りの様子へと戻した。
エレーナが言う彼らとは、この奔狼領に住まう狼たちのことだ。四風守護の一角である北風の狼《アンドリアス》とその子供たちは、家族というものを非常に尊重し、守る傾向がある。
そんな彼らの庭である場所でいざこざを起こすことは、間違いなく余計な争いを生むことに繋がってしまう。そうなれば後の祭りだ。
どちらが勝つにせよ、痛手は避けられないだろう。
それはダインスレイヴにとっても本意ではない。故に彼はエレーナ停戦の意に同意した。
ダインスレイヴも対話の席についたと判断したエレーナは、膝に手をつきながら立ち上がった。まだ足取りは覚束ない。蛍たちと共に璃月を発った時とは程遠い程、調子は崩れたままだった。
「そもそも、私は貴方を尾けていたわけではありません。あくまでも冒険者の知り合いに手土産を持ってくるためにモンドに立ち寄っただけですから。」
「もう少しマシな言い訳をしろ。」
「これ以上追及するなってことですよ、分りませんか?」
エレーナの口調が丁寧なものに戻っている。
暗に『これ以上は追及するな』という拒絶を表しているのだろう。ダインスレイヴも察したのか、これ以上の追及をやめたようだ。彼もまた、"エレーナが丁寧な口調になった時は、彼女が拒否感を露わにしている"という事実を知っているようだった。
とはいえ、ダインスレイヴとしてもエレーナの無茶を易々と見過ごせないのか忠告を残した。
「...貴様のそのやり方は、いずれ自らの破滅を招くだけだ。」
「...こちらのセリフですよ。貴方はもう少し、貴方自身の思い出を大切にするべきです。」
「思い出とやらを作る機会を、自ら薪として焚べている貴様に言われる筋合いはない。」
「....洒落ですか、面白いですね。枝を拾う者が"薪を焚べる"なんて。....それで、その枝拾いは一体いつ終わるんです?」
「腐敗した舌を切り落とすだけならすぐに終わる。」
「なら、私は貴方の
売り言葉に買い言葉だ。
宥めるつもりがまたも一触即発の空気になりかける。
辺りにいた小鳥たちはその場から飛び立ち、地に足を付ける者たちはビクビクと身を震わせながら木陰に潜む。この森にはふさわしくないナニカが発する怒気にあてられてしまった領域は、ビリビリと空気を振動させて異常を知らせる。
またも臨戦体制に入ったエレーナからは、再び黒い霧が漏れ出ていく。植物の緑を黒いナニかが侵食していき根本から腐らせていく。
ダインスレイヴの手元にも同じように黒いモヤのようなオーラが発現している。
両者はしばらく睨みあった。
お互いに一歩も引かない様子から、もしかすると本当に殺しあうのではと危惧してしまうような空気が漂っていただ、その心配は杞憂に終わったようだった。
先に動いたのは男の方だ。
キリがないと感じたのか、或いはこの森を気にかけたのかそれまで放っていた殺気を収めてため息を一つ吐いた。張りつめていた空気が飛散して元の穏やかさが戻ってくる。
それを見た少女も流石に申し訳ないと反省したのか、構えを解いたようだ。木陰で怯えていた動物たちが顔を出して辺りを見回し始め、やがて元の場所へと戻っていく。川のせせらぎがよく通る本来の狼の森が返ってきたのだ。
木々の隙間から差し込む太陽の光が辺りを優しく包み込む。
そしてやがて男の憂鬱気な顔を照らして見せた。
眩しさに思わず顔をしかめたようだが、それも少しして慣れたのか再び前を見据えた。対する少女には日の光は差し込まない。男とそう距離は変わらない筈だが、
すると、僅かにだが黒い粒子がカーテンのように少女を包み込んでいる。角度的に光は届いているようだが、彼女の出す黒い霧がその光を掴み、消しているのだろう。そうまでして日の光が嫌いなのだろうか。
「呆れたものだ。」
男はそうぼやいた。
あまりにも頑固な少女の姿勢にある意味感心さえ覚えたようだった。エレーナの固い意志が彼の予想を上回ったらしく、ダインスレイヴは疲れ切った様子を隠すこともせずにエレーナに背中を向けた。ため息を漏らした彼はその場で振り返り、逆方向に歩き出した。
彼は森を下りるようだ。
それを察したのか、少女はようやく説教が終わったとでも言いたげに疲れた顔でため息を吐いた。いつの間にか膝の震えは収まり血色も真っ青だったものから少しだけマシなものになっている。この調子ならいつも通り歩けると判断したエレーナは、ダインスレイヴとは別方向を向いて歩き出そうとした。
「エレーナ。」
すると、もう用済みだと思っていた男から、再び問いが投げかけられた。
「...まだ何か?」
予想だにしていなかったのか、少女は少し戸惑う様子で立ち止まった。
先ほどの睨み合いで終わったと思っていた追及をまた始める気かと怪訝な顔になる。だが、彼から投げかけられた問いはエレーナが考えていたものよりもずっと平凡で呆気のないものだった。
「...今は、楽しいか?」
「..........ッ」
絶句する。
これまで乾ききった心臓で動いていたエレーナにとって、唐突に突き付けられた恵みの水。それは油断していた彼女の心の内を少しだけこじ開けていき、モンドの優しい涼風を循環させた。淀んだ空気が、心なしか澄んでいく感覚に襲われる。ふと、彼女の脳裏にある記憶が蘇ってきた。
それはいつの、どんな記憶だったかは明確ではないが、確かに胸の奥にあるものだった。
記憶にこびりついた忌まわしい水の景色に、ささやかな風が吹いていた。さぁぁ...とせせらぐ音が心地いいその場所は、眼球に優しい緑色で染まっている筈だったが、彼女の記憶にある草原は血の赤で染まっていた。エレーナは真っ赤な草原に立っている。
確か、上の空で誰かと話していた気がする。当時の私は、血と泥で汚れた自分の身体に構いもせずに、誰かと話しをしていた気がするのだ。確かに覚えているのだが、鮮明には思い出せない...あの時話をしていたのは一体誰だったか。
靄が掛かっていた記憶の視界が少しだけ晴れていく最中、辛うじてはっきりと思い出せたのは"男の肉声"だった。
『私には、君を癒す手立てがない。』
『人間という種と関わっていく中で、私は何度も過ちを犯しては己の道について考えを巡らせてきた。』
『故に...私は完全無欠の存在などではなく、むしろ欠陥が残る不安定な存在だ。』
『だが、これだけはハッキリと断言出来る。』
『君という存在を
『たとえ君が私の手を振り払おうとも。』
『私は、君という人間から目を逸らさない。』
『...それこそが、彼女が望んでいたことだからだ。』
『君も、それは理解しているのだろう?
「(なんで、こんな時に思い出すッ!?)」
かつての記憶。
蓋をしたはずの過ちの数々が脳裏によぎっては己に張り付いて離れない。
凄まじい不快感だ。
数えきれない罪の意識が濁流となって押し寄せてきている。それもほんの数秒の間に。
思い出したくもない過去の悲惨な記憶が己の思考を埋め尽くして浸食してくる。塩っぽい砂場の風に不快感を覚えながらも、別の幸福な何かによってその不快感を気にせずに過ごしていたあの日々が次第に蘇る。蘇ってしまう。
「あ、あぁあ...ッ!?」
「おい、どうしたッ」
様子が急変し、突如として錯乱し始めたエレーナにダインスレイヴが詰め寄る。これまでは少しだけ匂わせるだけだった心配の色が、今でははっきりと彼の態度に出ていた。ダインスレイヴは錯乱するエレーナを落ち着かせようと彼女の肩を掴んで抑えようとする。
それと同時に彼女の目を見て呼びかけた。
「おい、俺が解るか?解るというのなら返事をしろッ!」
「が...オアア....あ」
「クソッ!やはり既に自我を...。」
彼女は答えない。
酷く取り乱した様子で奇声を上げ続けているだけだ。目は血走り、身体は痙攣を繰り返している...先ほど青ざめた表情で膝を付いた時よりも数段酷い症状のようだ。何が原因か定かではないが、普遍的な病状ではないことは確かだった。
だが、それが分かったところで出来ることなどない。
むしろ、『異常な病気の類である』ということが明白であるのなら、出来ることは祈ることくらいだろう。
医者としての特別な知識がある場合を除いて、ただの人間に出来ることは精々時間稼ぎにもならない祈りを捧げるくらいのものだろう。
ダインスレイヴとてそれは理解している。
だが、彼は歯軋りをしつつもエレーナへの声掛けを止めない。また失うかもしれないという憂慮から、たとえ徒労に近い行動でも彼には続ける意味があるのだから。
肩を掴みながらエレーナの身体を揺さぶって問いかける。俺が見えているかと。見えているのなら答えろと、何度もそう問いかける。
殺風景な岩肌が目立つこの場所で、命がまた一つ尽きようとしている。
だが、何が功を奏したのか、エレーナの意識に兆しが見えた。思い出したのはまたも朧げな記憶の破片だったが、何故かエレーナにはその光景がはっきりと浮かび上がってきたように思えた。
『え?お名前がないの?』
『いや、ないと言うか...ちょっと家出中でして。あまりおおっぴらには身分を明かせないんです。』
『う~ん、でも名前がないのも不便よね...あ!だったらこうしましょう!』
『え?』
『貴女の好きなお花から名前を取るの!私の知り合いに、いろんな国の植物を育てようとしてる娘がいるんだけど、どの植物の名前も可愛くて覚えやすいの!』
『植物の...。』
『そう!そうしたら、覚えやすいし何より可愛らしいからぴったりだと思って!』
『はぁ...。』
『私はとしては"バブルオレンジ"っていう名前がぴったr』
『ちょっと、まさか私の髪色がオレンジ色をしているからなんて理由じゃないですよね?』
『え?ええ、その通りよ?...あ、あら?もしかして気に入らなかった?』
『...いや、あんまり身分を明かしたくないって言ったじゃあないですか。髪色を連想出来る名前を付けるのは本末転倒では?』
『う~ん、そうね~。じゃあ別の植物の中で可愛い名前はないかしら...?』
『なんで可愛い前提なんですか?』
『あ!じゃあこうしましょう!』
『ローズっていう名前はどうかしら!』
『ローズ?』
『レインボーローズっていうとっても綺麗な桃色のお花があるの。名前の響きとしては綺麗よりな気がするし、これなら可愛いと両立出来るわ!!』
『もう、なんでもいいです。呼びにくくなければ。』
『ふふっ。とっても可愛らしい貴女にぴったりだわ!』
『...メリュジーヌって皆こうなのかな?なんかムズ痒い...。』
『...私ね、貴女が浜辺に打ち上げられていた時はとってもびっくりしたわ。服装もボロボロだし、なによりとっても傷だらけだったから。』
『なんですか、急に改まって。また私の素性を詮索するつもりなら無駄ですよ。例え拷問されたとしても何も漏らしませんからね。』
『ええ、分かってる。貴女のことはとっても気になるけれど、無理に聞こうだなんてことはしない。...でも、気になるものは気になる。』
『...。』
『だから、これから時間をかけて貴女のことを教えて!』
『...え?』
『色んな景色を見たり、美味しい物を食べたり、いろんなお話をしたり...そうやって少しずつ私と友達になってほしいの。』
『えっと...私があまりにも怪しいから、素性を探りたいんじゃ?』
『...? 友達のことを知りたいのはそこまでおかしなことじゃないでしょう?』
『そういうことだったか....。』
『...私たちメリュジーヌは、あんまりフォンテーヌでは歓迎されてないから、人間のお友達が全然出来なくて...だから、貴女となら、一から...まっさらな状態から関係を築いていけるんじゃないかって思って...ダメかしら。』
『はぁ....そんな顔されたら断れないでしょ?』
『っ!貴女、口調が!』
『こっちが素なの...何、何か文句があるの?』
『ううん、ううん!むしろ嬉しいわッ!!!これからもっと雑に話してもらってもいいのよ!?』
『そ、それはそれでなんか違う気が,..まぁいいか。これから、その.....よろしく。』
『ふふ。ええ、よろしくねローズ!!!!』
ねぇ、なんでいなくなってしまったの?
なんで貴女はなんの関係もない人間たちから磔にされなくちゃならなかったの
なんで石を投げられたの
なんで耳をちぎられていたの
なんで舌を引っこ抜かれていたの
なんでアイツは助けてくれなかったの
なんで
なんで
なんで
なんで
「エレーナ!?どこに行く気だ!?」
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「...ううん。」
エレーナは唐突に目を覚ました。
ゆっくと意識が覚醒していく。
瞼を開く。
「え.....え、え?」
だがそこにダインスレイヴの姿はなく、見覚えのない暗い森が広がっているだけだった。
次は稲妻です。
稲妻に決まっているのです。