「彼女はあまり自身の過去について語らないし、語られるのも好きじゃない。」
「何故なら、それを話すことで彼女自身の気が少しでも楽になってしまうのではと考えているからだ。『自分だけは原罪を忘れてはならない』と、己に言い聞かせているようにも見える。」
「・・・あまりに自罰的だ。」
「俺はテイワット大陸を練り歩いて随分経つが、彼女ほど自罰的な人間は見たことがない。」
「多くの人間は多少なりとも過酷な経験をするものだ。その結果、第一に自分を、その次に他者を利することを覚える。しかし、彼女は・・・その逆だ。」
「口では自分が大事なんだと言いながら、結局は他人を優先して助けている。それも命がけでな。」
「オセルの件もそうだ。・・・ん?なんだ、知らなかったのか。」
「まぁ、いい。」
「ともかく、気を付けることだ。」
「彼女は、目を離した隙に片腕を喪って帰って来てもおかしくないからな。心配なら、しっかりと目を配っておくことだ。」
私は白髪の美少女と一緒に城下町を巡っている。
何を言っているのか分からないと思うが、私自身も何を言っているのかよく分からない。
これまでの旅路で様々な体験をしてきた自負があるが、今回の体験はそれらを上回るのではと考える程に不思議なものだ。
石畳を踏みしめる音以外、何も聞こえない---騒がしい町人の声も、流れる水の音も、まるで蜃気楼のように流れていく。
---自分でも、呆然としているのは理解している。
先刻まで、私は神里家のお嬢様を脅していたのだ・・・その筈だ。
綾華は鋭い目線で私を突き刺してくる。まるで目の敵にしているかのようにも見えたし、実際そうだったに違いない。なのに、何故そんな彼女と私は共に城下町にて練り歩いているのだろうか。
いや、これも綾華の作戦の内なのだろうか。
少しずつ私の精神を削ろうとしているのか?だとすれば、それはなんて暴挙なのだろうか。
「具合はいかがでしょうか?・・・どこか痛む場所などはありませんか?」
ふと、声がした方を見る。
私の隣を歩いている件の美少女を見る。
白く細やかな長髪がたなびいている。一束に結われたそれは綾華を『白鷺』と見紛わせるには十分な可憐さを持っていた。舞い散る桜の花びらも相まって、彼女の存在が輝いて見える。
瞳も綺麗だ。
綾華の瞳は、澄んだ湖面に浮かぶ宝石のような輝きを放っている。見ているこちらまで宝石を目に埋め込んでいるのではと、馬鹿げた考えが浮かんでしまうくらいには、彼女は綺麗なのだ。これでいて気性も優れているのだから、民に慕われるのも頷けるというものだ。
彼女の純粋無垢な瞳を見ていると、無性に罪悪感が湧いてくる。
「(今更、罪悪感が・・・。)」
『悪いことはしていない』なんて考えは、実に傲慢だ。
私は恩人である綾華を脅している。これは事実であり、背けられない現実なのだ。これまでも同様の手口に頼って来たからこそ、今更罪悪感を抱くなど許されないだろう。
---そんな私に比べて
『白鷺の姫君』こと神里綾華の決死の介抱もあり、私という異邦人は一命を取り留めている。身体を縛るように巻かれた包帯が少しだけ鬱陶しいのだが、そのような我儘を言っては隣のお嬢様に凄まれそうなので、仕方なく上機嫌を装っている。
そして、上辺を取り繕っているのは姫君も同様で、彼女は常に私よりも一歩後ろに引いて歩いている。完全に背後に回っているわけではないが、彼女を見るためには痛む身体を捩じって尻目を向ける必要がある。要するに、絶妙に会話し難い位置に付けられているということだ。全くもって手の込んだお持て成しであるだろう。
もしこのような術を稲妻中の全員が身に着けているのなら、例え『雷神』などいなくとも
ここは、私に豊かな想像を齎してくれたお嬢様へお礼をするべきだ。
私は彼女へ笑顔と感謝を向ける。
「お気遣いありがとうございます・・・丁寧に手当てしてくださったお陰で、なんともありません。」
「よかった・・・とはいえ、まだあまり無理に動かさないでください。依然として傷口は残っていますから。」
ファデュイを蹂躙した時に攻撃を受けたわけではない。
私は目の前の恩人に気苦労を掛けまいと、無理にでも頬の端を引き上げた。
「ふふっ、綾華様はお優しいんですね。町の皆様が話されていた通りです。」
素面ならば絶対にしないであろう適当な美辞麗句を放つ。
・・・我ながら怖気がする。
胡桃や旅人たちの前でこんな話し方をしたら正気を疑われるかもしれない。しかし、目の前にいるのは正真正銘のお嬢様だ。こんな町中で失礼を働くなんてことはあってはならない。
しくじるくらいならば、無難に取り繕っていた方がいいだろう。ベストではなくベターな選択をすることも大切なのだ。
そういうわけで、私は綾華の前で『礼儀正しい客人』の仮面を被ることにした。
まぁ、私の本性は既に知られているだろうから、ほとんど意味はないけれども。
「それにしても、この城下町はとても美しいですね。空気が澄んでいるような・・・なんだか、ここにいるだけで心が洗われていくようです。」
「そう言って頂けると、一人の稲妻人として光栄です。きっと『将軍様』もお喜びになられると思います。」
「『将軍様』、ですか。」
ついさっき『将軍様は不在なんです』とカミングアウトされた身としては、この言葉にどう切り返していいのか分からない。私は善人ではないと理解してもらえただろうけど、かと言って『でも将軍様っていないじゃ~ん!』などと煽り事を宣うことも出来ない。
城下町のど真ん中なら、尚のこと。
そして、綾華もそのことをよく分かっているのだろう。
私という異邦人が、敵陣のど真ん中で敵国の神様の不在を掘り返して愚弄するかを見ているのだ。
勿論、私にその気はない。神を敬う気はないが、別に特別に蔑んでいるわけでもない。・・・例外はあるが。
兎も角、目には目にを、世辞には世辞を返すことにした。
「そうですね。『将軍様』にもお喜び頂けるのなら幸いです。・・・『将軍様』がいらっしゃればですが。まぁ、先ほどのお話が確かであるのなら、それも望み薄でしょうけれど。」
「・・・ええ。」
綾華が含みのある笑みを返してきた。
正直こわい。
そう睨まないで欲しい。
私だって少し意地の悪い話し方をしている自覚はあるが、そうもあからさまに敵意を向けられるとやり難い。
作中でも群を抜いて人格者である筈の存在であるお嬢様に敵対するだけでもストレスが凄まじいというのに。
---彼女は原神の物語においては、かなり愛される存在だった。
『ヤンデレ』だなんて茶化されていたが、その本質は暴走した愛欲などではなく、それまで抱いていた孤独を溶かした
あくまでも誠実に、それでいて優雅に生きるのがこのお嬢様がお嬢様たる所以なのだ。
決して、自身の思いを他者へ押し付けるような人間ではない。
そんな彼女から警戒されるのは少しだけ悲しいが、これも私自身の自業自得だ。甘んじて受け入れるしかない。
情けないことに、私は手傷を追っている。それ故に、あまり自由に動くことは出来ない・・・自ずと彼女を利用することが最善となったのだ。
これは仕方のないことだ。
「ふぅ・・・。」
ため息を飲み込んで改めて町を観察する。
かつてモニターを通して見ていた景色が私を包んでいる感覚には、未だに慣れない。
スピーカーを通してしか聞けなかった人々の声が、肉声となって私の全身に飛び込んでくるのがわかる。電子の海で表現されていた桜色の吹雪が視界を凪いでは落ちていく。そして、また別の桜が落ちてくる。人の往来はまばらだが、過疎状態であるとも言えない。程よく活気があり、且つ静けさもある。そんな空間があった。
瓦に積もった枯れ葉が、風に押されて私の頭上に着地した。ただの落ち葉だと退けてしまうのは容易いのだが、何故かそうするのは躊躇われる。これまでの旅路で訪れたどんな国々よりも、この稲妻は一番"故郷"に近い・・・故に、少しだけ呆けてしまう。戦火に塗れた島国とは思えないくらい平和だ。
少しの気怠さと安堵から、ついつい口も軽くなってしまうのも止む無しと言わんばかりに、私の口は動いていた。
「さて、これからどうしますかお嬢様。まさか当てもなく歩き回るわけじゃあないでしょう。」
これからの旅路をどうするのか、という純粋な疑問を含んだ問いだった。
これまでのような嫌味ではなく、単なる素朴な質問に面食らったのか、綾華は少しだけ言葉に詰まったように見えた。
彼女が咄嗟に扇子で口元を隠したのがいい証拠だろう。
「っ、そうですね。もう時間も遅いですし、ここらで夕飯でも取りましょうか。木漏茶屋というお店があるのですが・・・。」
「ああ、
「・・・貴女が何を知っていても、もう驚きません。」
返って来たのは、またも怪訝な眼差しだった。
綾華からしてみれば、得体の知れない異邦人が
どうやら言葉選びを間違えたようだ。
「え・・・?あぁいや、いまのは別に脅しとかではなくッ・・・ああもう、私が言っても説得力なんてないか。」
つい悪態を吐いてしまう。
悪役に徹する覚悟はしていても、故意に傷付けたいわけではない。だが、これまでの己の醜悪ぶりが綾華の警戒心を最高到達点まで高めてしまっていた。自業自得と切って捨てればそれまでだが、なんともモドカシイ。
これでは美辞麗句を並べ立てても意味はない。本心を混ぜて真摯に言う他ないだろう。
「ただ、これからの予定を聞いただけです。これまでのやり取りでお嬢様が困っているのは明らかですから、
「っ。」
ここまで言っても、綾華は口を開かない。眉を顰めて、まるで煤けた箪笥から出てきた小汚い鼠を見るかのような視線を寄越している---いや、例え汚らしい鼠であってもここまで警戒する人間はいないだろう。
キリがないので
「警戒しているのは分かりますが、言葉くらいは交わしてくれないと悲しいんですがね。それとも、お嬢様はこのまま稲妻が墜ちていくのを見ているだけのつもりですか?」
「・・・失礼。」
綾華はそう言うと声のボリュームを少しだけ落としてから話し始めた。
彼女は扇子を畳んだ。まともに会話をする気になったと思っていいだろう。意を決したかのように息をして、しかしどこか諦観を含んだような色を滲ませながら、綾華は話し出した。
「正直に申し上げると、予定などもはや
彼女らしくない、と思った。
白鷺の姫君と謳われる神里綾華は、状況を悲観することはあっても、そこから打開策を練ることを諦めるような人間ではないと考えていたのだが。
彼女の真意を探る必要がある。
「"ない"とは?」
「そのままの意味で捉えていただいて構いません。・・・『将軍様』の行方が知れず、頼みの綱であった旅人さんからの協力も得られていません。」
改めて言葉にしてみると中々に悲惨な状況だ。
本来の筋書きであれば、この二つはいずれもあり得なかったものだ。旅人は一度、綾華の下へと向かったようだが、まさか依頼を断るとは思っていなかった。確かに、物語中においても旅人は乗り気ではなかった気がするが、それでも最終的には綾華と行動を共にし、そこから稲妻の物語を歩んでいく筈だったのだ。
しかし、頼みの綱はあっさりと切れてしまったようだ。
そして泣きっ面に蜂と言わんばかりに『将軍』の失踪と。
そして・・・
「加えて、
「自覚がおありなのでしたら改めていただきたい所です。」
おっと、口が滑ってしまった。
「失礼、性分ですので。」
「・・・貴女に『雷神様』の
ご加護という言葉の裏に凄まじい呪いが込められている気がした。これが電子の海にて漂う二次小説の一節であったのなら、きっと物騒なルビ振りが為されていたに違いない。
もしや、彼女も案外に余裕があるのではないだろうか。ここまで咄嗟に憎まれ口を叩けるのだから、そうに違いない。
恐らくだが、彼女の中では『私』は配慮しなくとも良い敵であるという認識なのかもしれない。それ故に、変に気を遣うこともしていないのだろう。
「物凄い呪詛を吐かれた気がしますね。
「私は貴女に加護が宿ることを祈っただけでございます。」
「・・・。」
これは、もう綾華の私に対する悪印象を払拭することは出来ないだろう。
・・・そんなことよりも、困ったことになった。
彼女曰く、所謂『万事休す』の状態にあるようだ。
頼みの綱であった旅人にも拒否の意思を示されたと話していたし、それが真実ならば稲妻にとっての『変数』の要素がほとんど皆無となる。抵抗軍の希望の光となるであろう旅人が現れないとあっては、いよいよこの国の先行きも怪しくなるというものだろう。
「(そもそも『雷神』はどこで何をしているの?綾華の言い分を聞く限りだと、人形である『将軍』の方も人の目に触れていないようだけれど・・・。)」
疑問が尽きない。
想定とはあまりに状況が異なっている。
これではファデュイに"乗っ取ってくれ"と言っているようなものだ。
私にこの国を助ける理由はないが、このまま放っておいたら『雷神』に会うという目的すら達成できないかもしれない。予定とはズレるが、このまま綾華の協力者という立ち位置で介入した方が良いだろう。というか、そうしないとマズイ。
『雷神』への謁見を実現するためにも、稲妻の奮闘劇に参加する他ない。肝心の姫君様はもう計画どころではないようだが、もしかすると想像以上に精神的にまいっているのかもしれない。
それに、旅人の協力を得られなかったというのも気になる。彼女らは基本的に善人であるからして、他者からのお願いには応える筈なのだが。
旅人の動向が喉に引っ掛かり始めたから、仕方なく綾華に旅人のことについても聞くことにした。
しかし、綾華の表情を見てからその考えは消え去った。
---明らかに顔色が悪い。
「・・・どうしました?体調が優れませんか?」
「いえ、いえ。なんでも・・・どうともありません。」
嘘だ。
密かに漂わせていた"霧"を通して彼女の動悸が激しくなっているのが分かる。明らかに動揺、というか、衰弱している。
思い返してみれば、妙な点はあった。
何故、彼女は誰も付き添わせずにファデュイとの密会に臨んだ?
ファデュイが何か良からぬことを企んでいることくらい理解出来る筈だ。それに、仮にファデュイの口車に乗せられようとも、
いやそもそも、倒れた私を介抱してくれたのが綾華であるのなら、あのファデュイとの密会から今に至るまで、彼女は少しの暇もなかったことになる。
その上、介抱した相手が得体の知れない危険な異邦人だったなら、余計な心労も増えるだろう・・・。
『将軍』の不在の影響なのか、想定以上に神里家の立ち回りが粗雑になっている気がする。
白鷺の姫君としての立場が重圧となって彼女を蝕み、そこに稲妻の佳境と私という異分子が打撃を与えた、といったところか。
「・・・私にも非はあるか。」
「っ」
「返事する余裕もなさそうだね。」
結局
・・・かつて、液晶を通して見ていた物語の世界だと傍観していた。
しかし、一度でも劇に参加した人間はもう観衆には戻れないのと同じように、この稲妻という舞台に足を踏み入れた私は、当事者としての自覚を持つ必要がある。
綾華がこうして衰弱している要因にもなってしまった以上、見て見ぬフリをするのはファデュイや宝盗団たちと何ら変わらない。
元々、
「(なんか兄さんと私が似てるってことを考えるだけで腹立ってきた。)」
そもそも、考えなしに『璃月を海に沈めよう』なんてことを考える愚者と同一視される可能性があるだけでも嫌だというのに・・・今度会ったら、また斬りかかってやろう。一度やったのだから、二度目以降も同じようなものだろう。
さて、冬国でよろしくやっている兄君への急襲計画を決意したところで、本題に向き合わなければならない。
兎も角、稲妻の現状をもっと把握するためにも、綾華以外の人間にも話を聞く必要がある。勿論、私にはこの国での
今すぐにでも彼女を休ませる必要がある。
散々歩いたから気が引けるが、綾華のためにも神里家にとんぼ帰りするしかないだろう。
そうと決めた私は彼女に寄り添う。
「・・・肩貸しますよ。ほら、掴まって下さい。」
だが、綾華は一向に応じようとしない。
ふらふらと覚束ない足取りで、ぶつぶつと何かを言っている。
「すみません・・・すみません・・・すみません。」
ずっと、呟いている。
遂には膝を地面につき、頭を垂れながらぶつぶつと言っている。
己の膝から滲む血にすら無視を決め込み、ひたすらにうわ言を宣うその様は、見ているこちらまで頭おかしくなってしまいそうだった。見目の可憐さが余計に不気味さを際立てる。うわ言のようなその謝罪は、私に言っているのだろうか。それとも自戒から来る懺悔の濁流なのだろうか。
「・・・精神的に参っているだけってことにしといてあげますから、さっさと立ってください。ほら・・・いや、せめてこっちを見てくださいよ。何してるんですか、ほんと。」
私としては困るだけなので、顔が引きつらないようにしながら綾華を無理にでも立たせようとした。そして、肩を掴んでもこちらを向こうとしない彼女に少し苛立ちを覚えた。もはや手段を選んではいられないようだ。
だが、違和感を覚えた。
いつの間にか、辺りに人だかりが出来ている。
私と綾華を取り囲むように人がいる。円を成している。それらから向けられる視線は様々でだったが、その概ねが『好奇心』によるものだと分かった。異邦人である私が物珍しいのだろう。
それ自体は理解できるし、私だって同じ立場ならば好奇心を走らせてしまうだろうから、観衆にとやかく言うつもりはない。
だが、奇妙な点は他にもある。
「もう逃げられんぞッ!」
稲妻幕府の兵隊が私の周りを取り囲んでいるのだ。
「いつの間に・・・?」
綾華の様子を見るのに気を取られていたせいで、全く気が付かなかった。
紫を基調にした甲冑を来た幕府軍の人間たちはあっと言う間に私をとりかこんでいたのだ。
もはや隙間などない程にぎちぎちに隊列を組んできた幕府の軍は、どこか焦っているようにも見えた。いや、焦りというよりは『怯え』に近いかもしれない。
瞳孔が不規則に揺れ動き、涙を浮かべている者すらいる。烏帽子のような形をした被り物をした武人でさえも身体を震わせている。この者達に怯えられるようなことをした覚えはないというのに、何故こんなにも怖がられなければならないのか分からなかった。
私は努めて冷静且つ平穏に語りかけることにした。
「お手数をおかけしている所大変申し訳ございませんが、私に何か御用でしょうか?もし何も用がなければ、このまま失礼させていただきます。」
「ッ!き、貴様だな!?『将軍様』の仰っていた不法入国者というのは!!!そのように言葉で取り繕うとしても無駄だッ!」
「・・・はぁ?何を言って・・・。」
「ようやく見つけました。」
妙齢な女性の声が聞こえた。
その声は遥か上空から降ってきて、私の鼓膜を震わせたと同時に頭の片隅にあった恐怖を思い出させた。澄んでいて綺麗な肉声はまるでスゥ・・・と心の中へと入ってくるので、綺麗さよりも不気味さが勝っていた。
少なくとも、私にとっては恐怖そのものだった。
いつの間にか足元に迸っていた紫色の雷光たちが不規則に揺れている。バチバチと痛そうな音を鳴らす雷光は眼に映すだけでも思わず身がすくんでしまう。
そしてなにより、その雷光の主こそが最も恐ろしい。
バチッ
上空から雷光の弾ける音が聞こえた。
そこに視線をやると、想像していた通りの人物が丁度階段を降りてきているようだった。無論、上空に階段など存在しないのだが、そんなことは彼女にとって関係ないことだ。
ないのならば作ればいい。
そのような心情を体現するかのように、そこに階段があるかのような当たり前の顔をして、彼女は虚空の雷階段を踏みしながら降りてくる。
彼女は稲妻を統治する神であり、永遠を求める武人である。
その名は---
「『雷神』バアルゼブル・・・。」
私は彼女の名前を無意識に口に出していた。
上空を歩きながら近づいてくる女こそ、私が探していた雷電将軍だった。しかし、あまり好ましい出会い方ではない。
こちらを見る眼光はまるで根性の敵を目の当たりにしているように鋭く、淀んでいた。
彼女が近づく度に紫電が波打つ。
ささやかな痺れが次第に増していくのが、身を以て分かる。まるで自然現象そのものを相手にしているような感覚に襲われる。
「将軍様が直々にお出ましとは・・・。」
これは都合がいい。
こちらから出向く手間が省けたのだ、これ以上に都合がいい展開などないだろう。
だが、問題もある。
それは、行方を暗ませた国のトップが殺気を漏らしながら私の方を睨んでいることだ。仮にも神の名を冠する武人の睨みには竦んでしまう。オセルとは比べるまでもない程の圧倒的な力が、彼女にはあった。
今にも震えそうな身体を無理矢理動かして雷神へと向き合う。
そしてなんでもないかのような風を装って話しかけ・・・ようと思ったが、どうやらそのような雰囲気でもない。
口を噤む私を見て、雷神は睨みを利かせたまま口を開いた。
「やはり"渦の目"は貴女のようですね。異邦人。」
「は?」
渦・・・?
いきなり何を言い出すのかと思った。
気のせいでなければ、これは私のことを言っているのだろうか。
しかし、"渦"などと言われる心当たりはない。
私の困惑をよそに彼女はなおも言葉を続けた。
「これより処理を開始します。動かなければ痛みもなく済むでしょう。」
「何を・・・。」
将軍はそう言うと、自身の胸元へと掌を翳した。そして・・・
バチバチッという雷の音と共にその胸元から何かが出てきた。
かつて液晶越しに見たその刀は、今にも私を切り殺そうとしているかのように煌々と光を放っている。
その輝きは液晶で見るよりも何倍も眩い輝きを誇っていて、私の肉眼を焼き焦がしてしまうのではとすら思った。
それは、山をも覆わんとする巨蛇を両断した神剣であり、この稲妻を象徴する刃でもある。物々しい雷を纏うそれは、ゆっくりと将軍の手の元へと収まっていく。そして・・・
バチィッ!!!
電気が空気を裂く音が鼓膜を震わせた。
刀身を露わにした将軍の刀は、やがてその切っ先を私の方へと向けた。
「あれが・・・将軍の刀。」
想像以上の気迫に後ずさりそうになる。
額を流れる汗が空気中に帯電している雷に焼かれて蒸発する。
・・・出方を誤れば、私自身もこの汗と同じ末路を辿るだろう。もはや話すことなど頭にない。全身の神経が警鐘を鳴らしているので、私の思考は生きることに全てのリソースを割いているからだ。
そんな私をものともしないように、将軍が再び歩みだした。
「本来であれば貴女を真っ先に始末するべきですが、それよりも先に
「は?何を言って・・・」
「 『 一閃 』 」
将軍は私の言葉を歯牙にもかけず、刀を振るった。
鮮やかな太刀筋で以てして円弧型の斬撃を放ったのだ。
肉眼で捉えられぬまでの速度を誇るそれは、躊躇うことなく私のもとへ・・・正確には、
・・・どうしてッ!?
まず、疑問が浮かんだ。
そして、私の肉体はその疑問よりも先に行動を開始していた。
「綾華っ!」
「っ!?」
一瞬、私と綾華が悶着する声が響いた。
一秒にも満たない攻防だった。
考える時間すら惜しいのだから、乱暴な手段に出たことは許してほしいな、などと呑気ないことを考えていた私だが、そのようなことを考えられるくらいには脳内がクリアになっていた。
呆ける綾華の肩を思い切り押して、彼女の身体を突き飛ばした。これで綾華が将軍の一太刀で死ぬことはないだろう。これまで何人も人間を殺してきたけれど、悪人でない者を訳なく死なせるわけにもいかない。
それに、彼女には稲妻のガイド役を引き続き担って貰わなければ困るのだ。
故に、助けた。それだけのことだ。
問題があるとすれば、先ほどまで綾華がいた場所に私がいるので、迫りくる斬撃を私が受けることになる点にあるが・・・まぁ、傷なんていくらあろうが別に困りはしないから、構わない。
「ッ!!・・・エレーナさ」
綾華が私に言葉をかけようとした時には、もう遅かった。
次の瞬間には、稲光が凪ぎ、その閃光と共に命を刈り取る太刀筋が飛来した。
よくコミックなんかで人間が斬撃に斬られる時、『ザンッ!』だなんて擬音表現が用いられるが、実際にはそんな音は鳴らないようだ。
その斬撃が鋭利で鮮やかである場合、もはや音すら鳴らないのだ。
神速で飛来した神の一太刀は、私の右肩から左腰の骨盤辺りにかけて肉体を割いた。
裂いたのではなく、割いた。
まるで職人が魚を綺麗におろすように---それくらい鮮やかであっさりしていたのだ。
遅れて血飛沫が舞う。私の血であろう赤い液体が、視界の下から上に向かって激しく乱舞し始める。
更に遅れて痛覚が神経を焼く。
「グゴッ!・・・ぶふッ。」
「・・・また、邪魔立てをしましたね。異邦人。」
将軍が何か言っている。
だが、生憎私は大怪我人なので、それを聞き取る余裕はない。
耳元でキーンという耳鳴りが煩く響いている。肉体が己の限界を訴えているようだが、それに思わず呆れ笑いを漏らしてしまう。
なんだ、それは。斬られたくらいで私の身体は根を上げるのか?
怪我するなんざ、今更すぎるだろう。
私が今、するべきことは---将軍の対処と、綾華を逃がすことだろうが。
「淀んだ異邦人・・・その勇気は称えましょう。いかに穢れた咎人であっても、自らの身を凶刃に投じるという選択は誰にでも出来るものではありません。」
「ぐ・・・ぐぽッ。」
「肺の血液が喉に血が溜まっていて話せないのでしょう?せめてもの慈悲です、今度は一瞬で召してあげ・・・ッ!?」
ズズズズズズズズズズズズズズズズズ
まわせ
血をッ
霧の乗せて・・・
循環させるんだ
「・・・何を、しているのですか。その霧はッ。」
「ぐぇッ、ゲホッ!ゲホッ!!!」
「その霧を撒き散らすつもりですか?死なば諸共、とでも言いたいのですか。」
のってこい
私を
今の私は、『良からぬことをしようと画策する敵』に見えるだろう?
己の血を操作し、謎の不気味な霧を放出する怪物に見えるだろう?
こんな町中で野放しにしておくなんてことはしたくないのだろう?
城下町に長居させたくはないだろう?
「そうはさせません。貴女は隔離した世界で確実に処理します。」
そう、そうだ。
私を、入れろ。招き入れろ。
ただ斬るだけでは即死しない私に対処するには、まず移動しなきゃだからな。
お前の本心が鎮座する
どこぞの巫女でさえ無断で立ち入ることは出来ないあの領域に---
一心浄土へ招き入れて、本物のバアルゼブルに会わせろ
次に瞬きした時、私は巨大な鳥居の向こうに佇む黒い太陽を見た。
-------------------------------------------
side 神里綾華
夢を見ました。
かつて過ごした、穏やかな日々の記憶を・・・。
初めはぼんやりとした朧しかなかった視界に、少しずつ明瞭さが増していく。光が瞼の間に差し込んできた瞬間、私は酷く悲しい気持ちになりました。
その悲しみは、決して劣悪な悪意を感じ取ったからではありません。汚らしく罵られた訳でもなければ、その身に耐え難い傷を刻まれたからでもありません。むしろ、その世界には余りある程の暖かみが満ちていたような気さえしたのです。
瞼を開き切った先にあったのは、青々と覆い茂った原っぱを暖かい陽射しが照らす中、私に向かって笑顔で手を振る家族の姿でした。彼らは、幼い私に駆け寄ると、ハリのある掌で私の頬を優しく撫でて、朗らかに笑いかけました。射している陽の光が天幕となり、家族の表情は見え難かったのですが、何故か笑顔を浮かべているのだという確信を抱きました。
木々になる桜が紙吹雪のように宙を舞い、幼い私は脇目も振らずにその桜の花弁を追いかけ始めます。幼いながらも私よりも成熟しているであろうお兄様は、そんな私を少しだけ制しましたが、直ぐに私と同じく桜の行先を追い始めました。
桜はそよ風に乗り、浮き沈みを繰り返す。
『遂に地に伏せてしまうのでは』と思うたび、花弁はその身軽さを思い出したかのように再び上昇しました。それを見た私は、まるで人間の生き方を模したかのような様だと思いました。およそ幼子の考えるようなことではないとは思いますし、実際に幼い私がそのような達観した思考を持ち合わせていたかと言われれば、それは否です。
これはあくまでも夢であり、泡沫の中に浮かんだ幻想。それを外から見ている私が感じた感想に過ぎません。
・・そう、これは夢なのです。
もう取り戻すことのできない夢、壊れてしまった儚い幻想・・・ええ、頭では理解していました。しかし、分かってはいても、どうしても縋ってしまいたくなるのです。
人間は良くも悪くも情緒的な生き物ですから、理屈と行動が乖離してしまうのは仕方がないこと・・・しかし、私にはその権利はありません。この事をお兄様が聞いたら、きっと穏やかに否定なさると思います。白鷺の姫君としての責務を認識した上で、私個人の権利もまた慮って下さるという確信すらあるのです。
争いの血生臭さを知らず、人間の醜さを目の当たりにしたこともない子供が駆け回る。ただそれだけのことなのに、それはとても得難いものなのです。今や稲妻国内の状況は悪化の一途を辿り、かつて仲間であった人間同士で諍いを起こす事すら日常となりました。
お母さまとお父様は他界し、お兄様は迫り来る重圧を肩代わりするように業務にのめり込むようになりました。
決して、周りが見えなくなったわけではありません。
しかし、以前のようにお兄様と話す時間は極端に減ったのも事実でした。
そして、現実はより悪い方へと向かって行きました。
・・・近年になって稲妻に跋扈する
活発化した
それからの稲妻は荒れに荒れました。
飢饉
盗難
強姦
そして・・・恣意的な殺害までも、蔓延しました。
もはや正常に機能しているのは幕府のお城がある城下町付近と、海に近しい一部の港町だけ。
暴力に訴えた者達は、生き延びるために、あの日の苦しみを少しでも和らげるためにそうせざるを得なかったのでしょう。そして、それらの暴挙を止められなかった私も同罪なのです。
信頼どころか、人間としての尊厳すらもどこかの側溝に落としてしまった私は、幕府からの命令にも逆らうことを知りませんでした。
『栗色の異邦人の少女を見かけたら、懐柔して千手百目神像のある広場まで誘導せよ』
こんな、誰とも分からない余所者に対しての暴挙すらも容認してしまう程には、もうどうでもよくなってしまっていました。
結局、私は何も守れなかったのです。
社奉行としての役割も、白鷺の姫君としての面子も、民たちの命も、何も・・・何も、なんにも
なにも
なにも
なにも、なにも守れなかったのです
目の前の、ただ一人の異邦人さえも守れず・・・いや、それどころか、呆けている所を
思えば、彼女は口では悪いことを言っていましたが、私に手を上げたことは一度もありませんでした。むしろファデュイに殺されそうになった場面で助けていただいて、更には蹲った私を心配してさえくれました・・・ああ、私は恩人になんてことをっ。
悪い夢であれば、すぐに覚めて欲しい。
でも、決まってここは現実で、いつも冷たい。
私はいつも大事なものを守れずに取り零している。
この『神の目』が氷元素であるのも、私の冷たく平坦な行いを予見していたのでしょうか。
ああ、もしそうであるのなら、この『神の目』を授けて下さった神様はなんて・・・
「なんて、残酷なのでしょう。」
そんなことを考えている時には、エレーナさんは将軍様と共に姿を消していました。
夥しい血痕だけを残して。