- とある執務室での一幕
「...時折、思い出すことがあるのだ。」
「何をだい?」
「彼女に、もっとしてやれることがあったのではないかと、そう思ってしまう。あの日...歌劇場での事件を未然に防ぐことが出来ていれば、或いは....」
「それは『最高審判官』としての言葉かい?それとも、」
「それは無論...いや、忘れてくれ。失言だった」
「...嫌だね、忘れてやるもんか。そもそも、そうやって後悔してるんだったら彼女に会いに行ったらいいだろう?なに、休暇申請くらいはこの僕が承認してあげるよ!」
「彼女は普通の人間だ。私や君とは違う...もう四百年も前の出来事なのだ、恐らく生きてはいないだろう。」
「それでも、君が彼女の手配書を刷り続けるように言っているのは、まだ希望を捨てきれていないからじゃないかい?」
side エレーナ
「何で
視界に先にあるソレが何なのか知りたくない。
蓋をしていた苦い過去が喉元から溢れ出るような錯覚を覚える。
ダインが私をここに連れてきたのは、これを見せるためだったのか。
「その様子からして、綾華と
彼は極めて冷たい調子だった。
ダイヤモンドのような光沢を誇る彼の眼に映る私は、一体どんな顔をしているのだろうか。
少なくとも、普段通りに装えてはいないだろう。
「この釘は
天からの捌きを具現化したような釘は、かつて天理が
意図的かどうかに関わらず、人間たちの住まう場所に穢れが存在するのであれば、等しくその穢れを浄化させるために地上に打ち込まれるものだ。
そして、その釘を打ち込まれた土地は例外なく死ぬ。
人が住むことは出来なくなり、ただ神聖な光だけが空気中の埃を照らすだけの禁域だけが残るのだ。
しかし解せないのは、稲妻がこれを落とされる程の禁忌を犯していないということだ。
いかに魔物が増殖しようが、神が乱心しようが、文明を滅する天誅を喰らうまでには至らない筈だ。
「俺や旅人が最初にこの街を訪れた時には、既にこの釘は落とされていた。だと言うのに、貴様はまるでこの釘がもたらした惨状を見ていないかのようだった。初めは知らぬふりをしているのかと思ったが、どうやらそうではなかったらしい」
「何を...」
「『雷神』が貴様に
ついさっき、私から何かを出したような気がしていたが、あれは『雷神』が仕込んだものだったのか。
精神世界を創り出せる神様であれば、他者の認識を歪めることも出来るというのだろうか。
「それを取り祓ったことで、こうして本当の世界が見えるようになったのだろうが...」
「じゃあ、今まで私が見てた稲妻はただの幻覚ってこと...なんですか。」
どうか嘘だと言ってほしい。
彼の目を見て訴えるが、思いも虚しく現実を突きつけられる。
「そうなる」
「う、嘘ですよね。だってあり得ない!何で釘がこんなとこに落とされてるんですか!?」
「それは俺にも分からん。本来これは更に深刻な窮地に陥った土地に」
「
違う、そういうことじゃない。
私が考えているのはそこじゃあない。
「何?」
「これは天の釘じゃありません。これは、この釘は....わ、私のっ!!!」
「...おい?待て、どうした。」
そう、これがこんなとこにあるなんてこと、到底受け入れられない。
これはもっと相応しい場所に落とされるべきもので、稲妻の町に用いられるようなものじゃあないのだから。
...元の、本来あるべき場所に戻さないと。
「待て!どこへ行く!?」
「これはあそこに落とさなきゃいけないんです...ここじゃない、もっと別の国へ...」
side ダインスレイヴ
どういうわけか、エレーナは『雷神』によって歪められた世界を見ていたようだった。
歪められた認識の範囲が、この国の全てなのか、城下町の風景だけなのかは定かではない。
兎も角、彼女の認識と俺たちの認識が微妙に合っていない理由は分かった。
彼女の認識阻害を祓い、再び城下町へと繰り出した。
凄惨な光景ではあるが、残念なことに彼女はこういったものを見慣れている。
神里家の令嬢のように取り乱す恐れはないと思っていた。
だが、現実はそうではなかった。
エレーナはかの釘を目の当たりにした途端に狼狽し、千鳥足で釘の下へと歩き出した。
おぼつかない足取りが危なっかしい。
ふらふらと、夜霧の中を彷徨うような様子で俺から離れていく。
「エレーナっ!どこへ行く!?」
「...戻さなきゃ」
「・・・・ーーークソッ!!」
彼女の様子がおかしいことに勘づくのが遅れた。
既に、エレーナと釘との間の距離はほとんどなく、目と鼻の先だ。
いよいよ彼女の手が釘へと触れようとしているのが見える。
エレーナは黒く澱んだ霧に躊躇いなく腕を突っ込んでいく。
じゅわっと何かが焼けるような音が聞こえた気がした。
「...チッ、臆する時間すら惜しい!」
彼女の奇行を止めるべく走り出す。
出発点の地面は砕けて窪みが生まれ、俺の体を急速にエレーナの下へと接近させる。
彼女はこちらの呼びかけに応じない。
返答をするどころか、振り返る予兆すら見せない。
何かに魅入られたように歩く彼女は、遂に釘に手を触れた。
その瞬間、目を見張る程の黒い霧が釘から放出され始めた。形容し難い風圧に思わず顔を顰める。
不快な感触が肌を撫でているのを感じる。
...このような禍々しいエネルギーが、七元素に
「待てッ!!」
放流される
辛うじて彼女の左肩を掴むことに成功した。
この機を逃すまいと、残っていた左腕を釘に触れさせた。
これで吹き飛ばされることはない...そう安堵したのも束の間、俺の脳裏に何かが入ってきた。
これは彼女の回想、謂わば記憶の断片を辿る道
もし恐いと思うのなら引き返してもいいよ
...勇敢なんだね
わかった。けど一つだけ制約をかけさせてもらうね...
『あなたはここでの出来事を彼女に伝えてはならない』
そんな目で見ないでよ。これは必要なことなんだよ
ほら、いってらっしゃい。
あと、これは制約じゃなくてお願いだけど....
どうかこの記憶を見たとしても彼女から離れないで上げてほしいな
その時、時計板の上にある針が左に戻る音がした
side ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
....これは、なんだろう。
私は誰だ。
何も見えない、何も感じない。
誰かに触られているような感触だけがある。
そんな気持ち悪さが私の五感を支配している。
まるで私の身体ではないような、そんな感じがする。
閉じていた瞼を開けた。
朧げに聞こえていた喧騒の正体がはっきりと視認できたが、それでも私を抱き抱えている人の顔を判別するのは難しい。
まるで質の悪い硝子越しに世界を見ているような感覚に酔いそうになる。
それでも懸命に瞳孔と耳を駆使してこの世界を把握しようと努めた。
少しずつクリアになっていく周囲の環境音にほんの少しだけ歓喜したが、一定の解像度まで達した私の視界はそれ以上の鮮明さを映すことはなかった。
稚拙な努力が水泡と化したことに僅かな絶望を味わった私は大人しくこの淡く曖昧な世界を鑑賞することを受け入れた。
喉が痛い。
どうやら私は他人の腕の中でぎゃあぎゃあと泣き喚いているらしい。
まるで赤ん坊のように。
そんな私を見た目の前の人...私を抱き抱えている女性は、まるで愛おしいものを見るような、慈愛の眼差しで私を見ながらゆらゆらと
なんてことないただの上下振動を感じた私はどうやら泣き止んだようで、喉の痛みもマシになっていた。
もしかすると、私の身体は上下の揺さ振り以上の
周囲の音は相変わらず聞き取れない。
何かを言っているのは分かるけれど、具体的に何と言っているのかまでは判別出来ない。
まるで、異界の言語を聞かされている気分だ。
それが何かの文字列として意味を持っているのは分かるが、それらを繋げて言葉にされると途端に聞き取れなくなる。
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎....ッ!貴女はエ⬛︎⬛︎ナ⬛︎......!」
私を抱き抱えている女性が目尻に涙を浮かべながら何かを叫んでいる。
笑顔を作ってとても嬉しそうに私に語りけてくる。
それに対して返答する術を持たない私は、再び泣きじゃくるか、沈黙という名の睡眠に没するしかなかった。
私の肉体はかなり元気なようで、再び泣きじゃくることを選んだ。
ぎゃあぎゃあと喧しい音を立てている私が微笑ましいのか、その人はより一層笑みを深くした。
女性は額に大量の汗をかいている...相当な難産だったのだろうか。
今この瞬間だってまだ痛みから抜けきっていないだろうに、女性というのは本当に
考え事をすることで私の脳が整理されてきたのか、聞き取れる周囲の音が増えていく。
また二つ程、声が聞こえた。
「お⬛︎⬛︎⬛︎!⬛︎⬛︎レ⬛︎⬛︎を抱い⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎......!」
「おい、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎ろ⬛︎⬛︎⬛︎。」
「ええ!なんで⬛︎は⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎〜!」
先の例に漏れず、何と言っているのかは聞き取れない。
断片的な言葉のカケラを拾い集めるのがやっとだ。
赤ん坊の肉体は未成熟で、まともな思考や歩行を行うことすら難しいのが当たり前だ。
勿論、赤ん坊は言語のカケラを認識することは出来ない。
こうして言葉のようなものを断片的に聞き取れるのは、私の精神が既に成熟しているからこそ出来る芸当なのだろう。
...まぁ、肉体が未熟なのには変わりないからこそ、あまり鮮明に見聞きすることは出来ない訳だが。
私は、私がここにいる理由を知らない。
いわゆる転生と呼ばれる類の現象だろうけれど、それを確からしいものにする検証も出来ないし、やったところで何の意味もないだろう。
大概的に見れば私を誕生させたのはこの女性だし、それ以外の存在が私を呼び起こしたという事実はない。
『事実は小説より奇なり』なんて言葉があるが、現実世界の理が物語の中の道理と比較してたいへん退屈なものであるというのも疑いようのない真実だ。
きっと赤ん坊たる私が何をしたところで何も変わらない。
私に出来ることは、この女性の腕におとなしく寄りかかることくらいだ。
「うぅ...あああぅあー...あうあ。」
...兎も角、これより先の考え事は、まともに言葉を話せるようになってからだろう。
私がこの世界に生を受けてから⬛︎年が経った。
私は自分の脚で地を蹴って走れるようになり、この世界の言語も話せようになっていた。
今の私はまだ幼いからか、まだ舌足らずなこともある。
それでも、赤ん坊の頃よりかは日常生活で支障をきたすことは無くなった。
それから、私に弟と妹が増えた。
中でもトーニャとテウセルは事あるごとに私にひっついてくる。
あの子たちが初めて目にした人間は私ではなく
...日々の餌付けが効いているのだろうか。
まぁ、可愛いからいい。
それよりも驚いたのは、私の兄の存在だ。
名をアヤックスと言い、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎では『タルタリヤ』という別名を馳せることになる男だ。
物心ついた頃の私は、自分の状況を理解した。
それまではボヤけていた視力や聴力が、脳の思考に追いついた頃にようやく
初めは他人の空似だと思っていたが、次第にここがスネージナヤだと気付いてからは彼がタルタリヤであるという事実を受け入れた。
とはいえ、私は戦々恐々としていた。
幼子である私にはこの国でのあらゆるものが恐ろしく見えた。
そんな感情を抱いているのは私くらいなものだろう。
軍の人間が鳴らす軍靴の音や、凍えるような寒さ....そのどれもが私には馴染みきれなくて、恐ろしかった。
⬛︎⬛︎では比較的温和な日本で暮らしていたのもあって、慣れ親しんだ資本主義とは対を成すような共産主義的国家の雰囲気に吐き気を抑えきれなかった。
空気の中に同調圧力のような何かが渦巻く気持ち悪さがキツかった。
流石に、妹たちの前でそういった気持ちは出さないように努めたけれど...。
思えば、私は意外にも上手くこの世界で生きることができている。
かつての記憶があるのも手伝ってか、普段の衣食住のみならず、学びにおいても明晰な頭脳を遺憾無く発揮した。
周囲から持て囃される度、⬛︎⬛︎では味わえなかった自己肯定感が充足していく感覚に浸る。
鼻は天高く伸びていき、今なお折られることなく成長している。
普通ならば転落してもおかしくない私のような餓鬼は、本来ならば持ち得る筈の油断や怠慢を持つことなく研鑽を続けている。
それは単に、
「
テウセルが辿々しい口調で私におねだりしている。
短く、子ども特有の柔らかさを誇る腕を私の腰に回して、私を逃さんとしている。
「こら、アレじゃあ分からないでしょう?...ちゃんと言ってごらん。ね?」
「ボ
「ボルシチですね。はい、任されました。」
恐ろしい空間にもやがては慣れるというもの。
この世界に生誕してから、十年の時が経った。
厳しい寒さがある変わりに、ここには人間の温かみがあった。
時々喧しさが
「ドーン!!!いけぇぇ!!」
「こーら、あんまり走り回ってはいけませんよ。」
「アハハハハッ!!」
...見よ、テウセルの見事なヤンチャぶりを。
お人形をブンブンと振り回すその様は宛ら未来の『公子』のようではないか。
ドタバタと家中を走り回っては手に持っている人形と木の玩具をぶつけて遊んでいる。
どこの世界でも子供の遊びは共通なのか。
彼のように、まだ幼い男の子は血気盛んに暴れ回るのが仕事らしい。
「... ん?」
弟を微笑ましく見守っていると、不意にエプロンの裾をくいっと引っ張られる感覚がした。
決して強くはないその引力の元を辿ると、上目使いでコチラを見る
手には何やら糸くずと....所々隙間の空いた編み物が握られている。
「ねぇねぇ、おねーちゃん。これみて?」
「あら、トーニャ、お裁縫ですか?」
「うん!お母さんに教えてもらったの!」
ニカッと笑う彼女の背後にはお天道様でも付いているのだろうか。
一生懸命編んだであろう編み物を持っている彼女は、まるで貧困者にも手を差し伸べる純粋な天使に見える。
「でね、あのね...おねーちゃんにこれあげようと思って....。」
彼女はおずおずと手に持っていた編み物...マフラーを私に差し出した。
頬を染めた顔はどこか恥ずかしそうでいて、同時に何かを成し遂げたかのように歓喜の色に染まっていた。
どうやら、私のために精一杯編んでくれたものらしい。なんと健気なのだろうか。
「ふふ...トーニャ、ありがとうございます。これで今年の冬は暖かくして過ごせそうです。」
私は愛おしくなって妹を抱きしめた。
彼女も私の首の後ろに手を回して体を預けてくれた。
「ほ、本当!?」
「ええ、このマフラーさえあれば、たとえ吹雪が来てもへっちゃらです。」
「よかった...エレーナおねーちゃんは何でも出来てすごいけど、
この子の言うとおり、私の体は虚弱だ。
他の人と比べて免疫が弱いのか、しょっちゅう病気になって寝込んでしまう。
回復も遅いし、果てには頭痛や耳鳴りがする日もある。
そんな私の身を案じてくれていたのだろう。
「心配してくれていたんですね。」
「うん...でも、これで大丈夫になったんなら、大丈夫だね!」
「うふふっ...そうですね。流石は⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎家の血筋!我が妹はやれば出来る子ですね!」
ぎゅっと抱きしめ、彼女の頬に頬擦りする。
流石にくすぐったいのか
「あは、アハハハッ!おねーちゃんくすぐったいよぉ!!!」
「...ふふっ」
...あったかい。
とても、とても...。
温もりを堪能していると、
「あ、そうだ!お兄ちゃんが帰ってきたら、お兄ちゃんにもこれ渡そうっと!」
どうやら追加でもう一つマフラーを編んでいたらしい。
拙いとはいえ、中々編み込んである
「おや、兄さんにも作っていたんですね。...もしや夜更かしでもしましたか?」
「うっ...ご、ごめんなさい。」
「うふふ、冗談ですよ。偶には夜更かしして頑張るのもいいものですから...兄さんも喜んでくれますよ。」
「そ、そうかな...エヘヘ。」
そんなことを言って愛しい妹を撫で回していると...。
「あ、エレーナ!起きてたんだ!」
噂をすれば何とやら、
彼こそ物語の中核を担いし重要人物の一人であり、未来の執行官が一人...『公子』タルタリヤその人である。
とまぁ、これは仮の名前だ。
本名は
なんでもこの名前は父さんが愛読してやまない英雄譚から引用したんだとか。
未来の彼の所業を知っている私からすれば、むしろ名前の方が迫力負けするのではと思っている。
そんなやんちゃな彼は今、十四歳らしい。
背丈も百四十かそこらだろう。
雑多に跳ねたオレンジ色の髪が彼の溌剌さを表している。
青色のマフラーを首元に巻き、手には手袋をはめている。
どうやら、今日もスネージナヤは
雪を頭に乗せたままで帰ってきたらしく、アヤックスを見た弟たちが目を輝かせて彼に駆け寄っていく。
...よせ、ここで雪合戦は出来ないぞ。
「ちょっと、兄さん。雪を落として入ってきてくださ...」
「お兄ちゃんおかえりなさい!ねぇねぇ、ぼくも雪合戦したい!お
「ハハッ!いいねぇテウセル!じゃあ俺と一緒に家の中で雪合戦を...」
「兄さん?」
意図せず低い声が出る。
私の方から目線をそっと外しながら兄さんはテウセルから梯子を外した。
「...おっと。テウセル、兄ちゃんは用事ができちゃったみたいだ。遊ぶのはまた今度な。」
「え〜!?」
私の意図を察したのか、彼は雪を玄関前で落とした。
マフラーを脱した後、手袋を口で噛んで引っ張って外していく。
肉体の温度が高まっているのか、頬を紅潮させながら家の中に入ってきた。
随分と傲慢な帰還に苦言を呈するべく彼を正面で迎え撃つ。
「...兄さんはともかく、テウセルはまだ外の寒さに耐えられないかもしれないんですよ?それなのに呑気に雪合戦に誘わないでください。」
「相変わらず固いなぁ。いいじゃないか。子供は外でバカをやるのが仕事だって、大人は皆そう言ってたぞ?」
「なら、その人たちは大人の形をした子供です。世の中にはそういう大人が溢れているんです。...兎も角、早く着替えてきてください。そろそろ何か作ろうとしていた所です。」
「お、やった!」
兄さんは目を輝かせて奥の部屋へと入っていった。
ドタバタと忙しない様子は彼があどけない幼子であることを再認識させる。
私は呆れつつも微笑ましいと感じた。
物語では戦闘にばかり中心する若者としての側面が目立っていたから心配していたが、彼も人の子であることに変わりないらしい。
そんな兄を尻目に、我が愛しい弟が御所望の『ボロしち』なるものを作るために支度を始める。
トーニャと抱き合った時に乱れたエプロンを整え、台所という戦場に立って材料を確認する...うん、足りそうだ。
これで材料がなくて作れないなんてことになってしまえば、テウセル王子の慟哭を聞くことになってしまうから。
〜♪
無意識に鼻唄を溢していた。
存外に暖かいこの家での生活にも慣れてきた。
この一家での一時はかなり騒がしいが、テイワットという名の異界の不気味さを忘れるにはむしろありがたいと感じている。
両親も兄弟たちも...今での私にとっては代えの効かない宝物なんだ。
今日は
比較的暖かい気温だったし、私の体調も悪くなかったから家族と一緒に外に出ていた。
チクチクと肌を刺すような雪の結晶たちが鬱陶しいその日、
その老人は鼠色のコートに身を包み羽振りの良い装いをしている。
マフラーと
老人は迷いのない足取りでゆっくりと近づいてきた。
...正確には、私の元へと歩いてきた。
「あ!髭のおじちゃ...」
「トーニャ待って待ってください、『市長さん』ですよね?
『かっこいいお髭が決まってる市長様』って言いたかったんですよね?」
トーニャが子供特有の奇行、もとい素直さを繰り出した。
あまりに失礼な言葉を吐こうとした我が妹の言葉を無理やり遮って、その失言を訂正する。
トーニャの前に出張るような形になった私は『市長』...『雄鶏』と言う名の老人と正面から見合うことになった。
彼に関する情報はあまりに少ない。
分かっているのは、彼が温情と冷酷さを併せ持つ人間であるということだけだろう。
下手な発言は出来ない。
重苦しい視線が私を射抜く。
雪国だというのに汗が背中を伝っているらしく、私の肉体が逃げろと悲鳴を上げている。
執行官の一人と邂逅すること自体、私としては避けたい事態だったのに、この場で目を着けられるわけにはいかない。
『雄鶏』は穏やかな口調で話しかけてきた。
「...これは失礼。ご家族のひと時を邪魔してしまったかな。」
「い、いえそんな!」
母さんが恐縮した様子で手を横に振った。
仮にも市長ともあろう男が頭を下げようとしているのだから、それは必死に止めるだろうな...と他人事のように考えていると、『雄鶏』は私の方をじっと見つめてきた。
「ご婦人、この子を少しだけお借りしても?」
『雄鶏』は穏やかな声色でそう言った。
「は、はい。構いませんが.......エレーナ、市長様に何をしたの?」
「...私が聞きたいくらいです。」
私の母は快諾こそしたが、怪訝さをまるで隠せていないようだった。
私を心配そうに見てくる母さんを尻目に『雄鶏』と向き合う。
ワケもわからないままに母さんに手を引かれる弟たちは、大声でゴネているようだった。
「エレーナおねえちゃん、なんでぼくたちと一緒に来ないの〜?」
テウセルが邪気のない顔をして言い放つ。
それを受けた母さんは、少し困ったような顔をしながら、小さい声でテウセルを嗜めた。
「テウセル、お姉ちゃんはね...とっても『偉い大人の人』とお話しがあるの。大丈夫よ、すぐにまた会えるから。ほら、エレーナが帰ってきた時に喜んでもらえるようにご飯の支度手伝ってくれる?...そのためのお買い物も。」
「うん...わかった....。おねーちゃん!!またね!!!!」
「はーい、またね。」
不思議そうな顔をした弟たちに手を振って別れる。
少しずつ遠ざかる彼らの背中を見届けている間、『雄鶏』は何も言ってこなかった。
少し経ってから『雄鶏』が動きを見せた。
彼は少し目を細めて私を観察しているようで、顎に手を当てて唸っていた。
あまり気持ちの良いものではない。
「あの...」
「ああ、気なんぞ払わんでいい。子供に余計な心労をかけて喜ぶ趣味はないのでな。」
「は、はぁ... 。」
子供を気遣うような素振りを見せる老人の言葉にたじろいでしまう。
私の記憶にある執行官と、目の間にいる市長の姿にかなりの乖離があった。
何故彼がここにいるのか、何故私に興味を持ったのか...何もわからない。
こわい...とっても恐い。
私が怯えていることを察したのか、『雄鶏』は咳払いをすると少しだけ明るい声の調子で言った。
「いやなに。
「...。」
「そして、その予感は大きくは外れていないことも今、分かった。....フン、良いことを教えておいてやろうか。」
「なんですかっ」
『雄鶏』は懐に手を入れて何かを探り始めた。
少しして手を出した彼はその手に握っているものを私に差し出した。
それは
白く横長い封筒の口には紅い留め具が施されており、大層高価な紙で折られているのがわかった。
私は恐る恐る手紙を受け取った。
「...手紙?」
「確かに渡したぞ」
「え?ちょっと、それだけですか!?」
『雄鶏』は無言でそれを私に手渡すと、それまでの関心ぶりが嘘であるかのようにその場で踵を返した。
ザクザクと固い雪を耕す音を立てながら、老人は私の方を見ることはなく歩き続けている。
あまりに唐突な展開に付いていけず思わず『雄鶏』を呼び止める。
すると『雄鶏』は一瞬だけ足を止めて再び私の方を見た。
静かな眼光に射抜かれてまたも身体が硬直する...この老人の慧眼には人を律させる何かがあるのかもしれない。
「はぁ...」
彼はため息を吐いた。
白い息が一瞬だけ間を作った後、ようやく言葉を紡いでくれた。
「優秀な若い芽には早い内に目を着けておくんだ。」
嗄れた声で彼が言ったのは、なんてことはない普通の動機だった。
---その先の言葉がなければ、私はそのまま安心できただろう。
「ファデュイなんてもんは目紛しい勢いで
...そうなったらお前ならどう対処する?ただ人間を増やすだけじゃあ足りない条件付きだぞ。」
急に何を言い出すのだろうか、と思った。
いくら何でも、よそ様の幼子にするような話ではないだろう...。
唐突に始まった問答に気持ち悪さを感じつつ、今、この場で考え出しうる可能性から一番マシだと思えるものを引っ張り出す。
「そんなの、普通以上に優秀な人を雇う他ないんじゃないですか。ただ人間の数を増やしても追いつかないのなら、『何人分もの力、或いは権力を持った者』一人の人間を囲い込めば良い筈です。」
「そうだ、そして...
「さっきって....あ。」
その問いの答えは単に『子供にしては優秀な私を軍の人間として捕まえておくため』だった。
それを認識した途端、先程受け取った手紙が一層気味が悪いものに見えてきた。
「...ただの子供である私をファデュイに入れるおつもりですか。」
「何、言っただろう『目を付けておく』と。」
「強制ではないと言いたいのですか?...お言葉ですが、貴方のような立場にあるお方が、一人の国民にこの手紙を渡すことの意味を理解されていないのすか?」
私は
成程、その手の話を持ってくるのであれば確かに『雄鶏』が最適だろう。
彼の『市長』という立場は、市民への声掛けを容易にさせる。
市長なのだから、市民に声掛けをするのはおかしいことではない...そう思わせることが出来る。
彼はある意味、
対する私はただの女の子、餓鬼に過ぎない。
後もう何年か経てば、物語の筋書きを先取りするというズルも可能になるけれど、今はそうもいかない。
私が知っているのは旅人が到来してからスメールでの一件が落着するまでの展開だけだ。
それ以前のことなんてコントロール出来るわけがない。
勿論、この老人の人となりも知らないので後手に回らざるを得ない。
賢い子供だと評価されたのだって、精神が成熟し切っていたからに過ぎない。
ちょっとした計算や対人コミュニケーションを除けば、そこには凡人という骨組で立っている私がいるだろう。
大したことも出来ない無力な私に、『雄鶏』からの誘いを断る力はない。
「まぁ、ゆっくり考えるといい。」
ゆっくり考えたところで結末など変えられない。
きっと私がこの国に生まれ落ちた時点で、遅かれ早かれこうなっていたのかもしれない。
どうやら、近い内に根性の家族と離れ離れになるのかも...そんなことを考えてしまう。
ファデュイという存在はいつだって、私を
...正直、かなり不快だ。
兄さんが失踪した。
ご愛読にひたすら感謝です