-----荻花洲某所------
雨が降り頻る荻花洲を走る人影がいた。
その人影はかなり小柄なようで、広大な璃月を渡り歩くには不相応に見える。
綺麗な髪も今は薄汚れており、所々血がこびり着いている。
彼女の名はエレーナ。
エレーナはひたすらに走り続けていた。
もはや何処を走っているのか、何処に向かっているのかもわからない。
とにかく人の居ない静かな場所を求めていた。
現実から逃避できる安らぎを探していた。
纏っている外套は完全にびしょ濡れになっており、もはや雨水を弾く役割を放棄していた。
出血も酷く、彼女の通った道の跡には血痕が滲んでいた。
通常の人間ならば死んでいてもおかしくない状態であり、走れているのが不思議な程だ。
また、彼女を襲うのは雨だけではない。
彼女の目の前に"人影"が映る。
その人影は通常の人間を遥かに凌駕する体躯を誇っており、右手には巨大な戦斧を握りしめている。
更にその巨人の周りには、小さな人影が群れており、進路を塞いでしまっていた。
雨で視界が不明瞭のためよく見えないが、彼女にとってはもはやお馴染みの相手であり、その正体はすぐに判明した。
「ヒルチャール...!」
それはテイワット大陸の各地に生息する魔物の種族で、知能は低いが特有の言語と文化を持つ。
おおまかな姿形は人間によく似ているが、皮膚は黒く、角を生やし、皆一様に仮面を被っている。
その多くが群れを形成して過ごしており、外敵を捕捉すると集団で襲いかかってくる危険な生き物である。
加えて、個体によっては背丈が人間を遥かに超える個体も存在するため、撃退や討伐の依頼が絶えない。
彼女はヒルチャールを視界に捉えると、姿勢を低くしてヒルチャールたちの死角へ回り込んだ。
できる限り音のしないように、ヒルチャールの視界の端にも映らぬように。
そうして懐の双剣を構えて脚に力を入れ、踏み込む。
そして次の瞬間には
「ギャ
?」
その場にいたヒルチャールの首が切り落とされた。
持っていた棍棒や斧も全てスライスされており、とても人間の業とは思えぬ程であった。
神の目を用いたわけでも、特別な兵器を使ったわけでもない。
ただ斬った。
雨という視界不良を利用して一息に懐に潜り込み、体の捻りと遠心力で勢いのままに斬って、それを全ての個体に行っただけのこと。
幼い頃からずっと行ってきたその業は、もはや神業とも言うべき領域にまで昇華しており、雑多なヒルチャールが到底太刀打ちできるようなものではなかったのだ。
辺り一面にはヒルチャールの血液と切り刻まれた武器、そして不気味な仮面の残骸だけが残った。
エレーナはどこか寂しそうな表情を浮かべている。
「ごめん...けど急いでいるから...。」
ヒルチャールの邪魔がなくなったことで、進路が開いた。
双剣を納刀した彼女は、再び進行を続けようと足を踏み出したが...
「あれ?」
血を流しすぎた彼女はその場に滑り込むようにして倒れてしまう。
「あれ....?おかしいな..力が入らない..?」
怪我に構わず進んできた弊害が、ここにきて明確に表れ始めた。
目や口に砂や泥が入ろうと、手足に力が込められずとも、たとえ助かる見込みがないのだとしても、彼女は進行を止めなかった。
ただ混乱のままに、がむしゃらに走ってきた。
自身の怪我の手当てすら怠っていたのだ。
ゆえに彼女の体は、とうの昔から満身創痍の状態だった。
「フーッ!!フーッ!!!!ぐうううううぅぅ.....!!!」
吠え続ける。
その容貌はお世辞にも美しいとは言えない姿だった。
彼女とて普段は最低限の身だしなみには気を遣う方だが、この後に及んではそのような些末ごとなど頭になく、ただ"生きていたい"という一点のみを願っていた。
しかし現実は非情であり、彼女のことを嘲笑うが如く雨足を強めていく。
次第に体も言うことを聞かなくなってきていた。これまではなんとか気力で動いていたが、一度地に伏したことを機に体中の疲労が襲ってきたのだ。
彼女はとっくの昔に限界を迎えていた。
ボロボロの衣装
収まっているとはいえ、長い時間雨水にさらされた武器
恐らく流しすぎたであろう血液
そして....精神的困憊
一番信頼していた親友の元には戻れない。ここから遠くに行くのも現実的ではない。残された選択肢は「死」のみであった。
(もういいかな....)
そんな彼女がこのような思考に至るのは至極当然の流れであった。
「最後に....家族にお礼くらいは....。」
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思い出す
死に際の彼女の脳裏に浮かぶのは、スネージナヤにいる家族のこと。
至って普通の国だと思っていた。
極寒の気候ではあるが、それ以上に家の中は暖かく居心地が良かった。何より家族という存在が、彼女の支えとなっていた。
彼女が恐れたのはあくまでも"スネージナヤという国"と"狂気に染まった兄"であり、それら以外の存在に関しては特に怖がることもなく愛していた。
手の掛かる弟
素直で可愛い妹
こんな自分でも愛してくれた両親....
みんなが大切な存在だった。
もっと言えば、その兄すらも彼女は愛していた。
狂気の裏に微かに残る、以前のような優しさやあどけなさが彼女は好きだった。
尊敬もしていた。
だからこそ、あの"急激な違和感"に恐怖を感じてしまったのだ。
元の純正な魂に上塗りする形で植え付けられた"歪な感性"に。
ただ歪なだけならまだ辛抱はできた。
当時の兄はまだ幼く多感な時期であり、些細なことでも気分がコロコロ変わることもあったため、何かがきっかけで"そう"なったのだろうと思うことができた。
どこか狂気じみたような様相も、熊などに襲われた際に感極まったことで達観し、戦士としての格が上がったのだろうと。
長い間吹雪に当てられて、気が立っているのだろうと。
しかし、そのような現実逃避は思わぬ形で破られた。
兄はファデュイの隊員たちを蹂躙して見せたのだ。
あり得る筈がなかった。
あまりにも現実離れしており、およそ3日で得られるような変化ではない。
子供がこのような光景を容易く生み出せる道理がない.....。
何かの間違いで、これは夢なのではとすら考えた。
しかし彼女には奇しくも心当たりがあった。それは"世界"の介入という可能性。
通常ならば「馬鹿げた話である」と誰もが一蹴するであろう机上の空論だが、彼女はこの可能性を否定できない。
"強大かつ不明確な何かが、兄を後押しした"という可能性を。
彼女は"テイワットに根差した存在ではない"がために、世界そのものを疑うという視点を持っていた、持ってしまっていたのだ。
その可能性に気づいたとき、彼女は自身の喉元に形容しようのない魔の手が迫っているように感じた。
猛烈な悪寒と吐き気
「(逃げなきゃ.....逃げなきゃッ!!!)」
それから彼女は綿密な計画の元、家族の団欒から...故郷から逃亡した。
普段通りであるように装い、言葉巧みに家族の思考をコントロールして彼女自身へのヘイトを掻い潜りながら...。
束の間、手元にはいつの間にか神の目が顕現していた。
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「(あー....胡桃に謝ってないや...。)」
もう瞼もほとんど開いていない。
体の温度も段々と下がってきていた。
その上、家族のことまで走馬灯のように唐突に思い出す始末。
確実に死が目前に迫っている証拠だった。
「無事か!?エレーナ!?分かるか、俺だ!!」
その存在は懸命にエレーナに語りかけている。
どうやら知り合いのようだが、意識が朦朧としている彼女には、今目の前にいる存在が誰なのか検討もつかなった。
もはや確認する体力も、思案する気力も残っていない。
「(なんだ...?耳もよく聞こえなくなってきた...。まぁ誰でもいいか、どうせここで終わりなんだ。誰に見られようが知ったことじゃ..)」
「俺だ!兄ちゃんだッ!!」
瞬間
彼女は死にかけているとは思えないほどの速度で起き上がり、大きく後退し武器を構えた。
文章力を磨かねば