「アイツのことを信用するのは勝手だが、あんまり踏み込みすぎるのはおすすめしないな。」
「アイツが行くのは地獄なんて言葉じゃ表せないものだ....まともな人間じゃあ理解できないだろう。」
ーーーファデュイ執行官『雄鶏』からの忠告
兄さんが失踪して一日が経過した。
いつも通り厚着をして出掛けた彼は、唐突に行方を眩ませた。
その内帰ってくるだろうと思う反面、『もしかするとこのまま帰ってこないのでは』とも思った。
正直、最初は軽く考えていた。
行方不明になったというのは言葉の綾に過ぎず、日を跨いだ辺りでケロッとした顔で帰ってくると信じていた。
けれど、そんな考えは時間を経る毎に焦燥へと変わっていった。
家の雰囲気も心なしか沈んでいる。
明るかった弟たちはみるみる活力をなくしていき、その表情を曇らせている。
「お姉ちゃん...お兄ちゃんっていつ帰ってくるの?」
テウセルが萎むような声で私に聞いて来た。
分からないと言いたくなる気持ちを堪える。
ここで私が弱音を吐けば不安を煽るだけだ。
寒さで萎えそうになる気持ちに追い打ちを掛けてはならない。
「兄さんは長いお出かけに行っているだけです。直に帰ってきてくれますよ。...だからほら、そんな悲しそうな顔をする必要なんてありませんよ。」
「...うん」
なんでもない様子を演じたが、うまくいったかどうかは分からない。
幼い子どもは賢い。
年長者の表情や声色から言葉の裏を嗅ぎ取ることがある。
もしかすると、私の下手な嘘は見破られているかもしれない。
不安が拭いきれなくて母さん達にも兄さんの行方を聞いてみたが、やはり知らないのか首を横に振るだけだった。
---何だか、いずれ訪れるとわかっていた物事がついに動き始めたような気がした。
彼のいない家は、いつもより静かだった。
兄さんが失踪してから三日経った頃、彼は帰ってきた。
濃密な
「お、オェ...ぐぷっ....ゲホゲホッ!」
帰ってきた兄さんを見た時から吐き気が止まらない。
ここ数日はあまり食事が喉を通らなかったから吐き出すものなんてない筈なのに、なぜか嗚咽は無限に続く。
黄色掛かった透明な胃液が便器を汚していく。
べちゃべちゃと汚い音と私の唸る声だけが木魂する。
数秒ほど落ち着いてから、またも嘔吐感に襲われて咄嗟に空虚と少しの胃液を吐き出す。
ひたすらそれを繰り返す。
次第に喉が痛み始める。
口の中が酸味で埋め尽くされているのが分かる...とても気持ち悪い。
...そうしていると、誰かが背後に立っているような気がした。
「エレーナ...大丈夫か?」
父さんの声がする。
いつまで経っても手洗い場から出てこない私が心配になったのだろうか。
心労をかけぬよう努めて明るく返答しなければいけない...。
「は、はい。大丈夫ですよ!兄さんの無事を確認したら何だか気が抜けてしまって...。」
意図せず声が震えてしまう。
「そうか?まぁ、大丈夫ならいいが....アヤックスも心配してたから、後で顔でも見せてやれ。」
「はい、そうします...」
父さんが遠ざかる足音が響き始め、聞こえなくなる。
再び私だけになった。
何だか、この世界でひとりぼっちになっているような気さえした。
また何日か過ぎた。
結局、私の体調は悪化する一方だった。
兄さんの禍々しい
見ているだけでも目眩がするし、鼻で呼吸をすると鼻腔を削るような死臭が私の脳を攻撃してくる。
正直、日常生活を送ることすら困難になりつつある。
どうして私はこんなにも
体が生まれつき弱いからか。
或いは、下手な予備知識があるせいで良くない
「ほらテウセル、欲しがってた人形を買ってきたぞ!」
「わぁ...!ありがとうお兄ちゃんっ!」
兄さんに外見的な変化はない。
しかし、明確に以前とは違う点が存在した。
それは...
「兄さん、その血...」
「...ん?あぁ、ちょっと遊んできただけさ。別に怪我はしてないから大丈夫さ。」
なんてことないような調子で答えられてしまい、少し後退りしてしまう。
「いや、そうじゃなくてですね...その遊びって...」
「"戦い"だよ。訓練は欠かしちゃいけないって
「くん、れん...」
彼の素行は荒れに荒れた。
別に反抗期になったわけではないだろう。
むしろもっと厄介で恐ろしいナニカになった。
元々やんちゃだった兄さんは、失踪騒動から帰還した辺りから凶暴さを増長させていった。
山へ狩りに行く時の獲物を見る眼差しはより冷たくなり、人間との諍いに身を投じる際の暴れぶりは日に日に苛烈になっていた。
凄まじい変貌ぶりに頭を抱えた父さんは、そんな兄さんをどうにかしようと模索しているようだが、今のところ妙案は浮かんでいないらしい。
「エレーナ、なんか顔色が悪いけど...」
「あぁ、えっと...最近ちょっと寝付きが良くなくて、ですね...」
お前のせいだ、なんて言ったらどういう反応をするのだろうか。
貴方の内に潜む
...良くない兆候だ。
つい、そういった意味のないことを考えてしまう。
やはり精神にも悪影響を及ぼしているのかもしれない。
早急に兄さんから
...でないと私の身が持たない。
これからのことは、これから考えればいいだろう。
「今、なんて言いました?」
「アヤックスを
『遅かった』と、そう思った。
あまりに凶暴な兄さんを見かねた父さんは、彼をファデュイ送りにしたらしい。
ファデュイが碌でもない場所だと知っている身からすれば、その行いはあまりに軽薄なものに感じた。
本来の物語でも、『アヤックスは父親によってファデュイにぶち込まれることになる』というようなことが書かれていた気がするが、まさか現実になるとは思っていなかった。
ふと、以前受け取った『雄鶏』の手紙を思い出す。
結局、手紙の内容はまだ見ることが出来ていない。
恐くて見れないのだ。
私があの手紙の封を切った時、本当の意味でファデュイから逃げられなくなる気がした。
兄はいずれファデュイで功績を上げて『公子』として名を馳せることになるが、
何の手立ても無しに、
手紙の中身を見るのは、しっかりとレールを敷いてからにしなくてはならない。
何の力もない今の私が開けるわけにはいかないのだ。
でも....
「今『雄鶏』の勧誘を受けてファデュイに行けば、兄さんを連れ戻せるのかな...」
「ん?エレーナ、何か言ったか?」
「...いいえ、何でもありません。兄さんがきちんと反省してくれればいいですね。」
怪訝そうな父さんに、私は思ってもいないことを吐く。
何に対しても優柔不断な自分が嫌になる。
兄さんがファデュイの面々を病棟送りにしたらしい。
父さんの取った処置は、
家の雰囲気が恐い...
なんで大人を半殺しに出来るような人と一緒に過ごさなければいけないのか...理解出来ない。
恐い、怖い。
...何だか、体調も日に日に悪くなっていく。
ご飯も、もう何日も食べれてない。
笑うことすらしんどい....。
「どうしたんだいエレーナ、何だか疲れているように見えるけど...」
何でこの人はこんなにも強いのだろうか。
私とは何が違うのだろうか。
「.........あはは、大丈夫ですよ。最近はちょっと寒い日が続いていますから、そのせいです。......それだけ」
私も、兄さんのように深淵に堕ちれば...強くなれるのかな
形のない恐怖に追いやられる錯覚を感じながら、雪が
思い切り走るなんて、いつぶりだろうか。
バクバクと鳴り響く心臓の音が私の気持ちを焦らせている。
走り始めて間もないというのに、既に息が苦しくなってきた。
自分の軟弱さが嫌になるが、嘆いても意味はないので必死に脚を動かし続ける。
ただの出来心で外に出てみたけれど、もう既に後悔している。
強くなることが出来ないのだとしても、兄さんに纏わりつく
これ以上は、一緒にいる私の身が持たない。
このまま衰弱していくのなら、いっそのこと賭けに出る方が良いと思った。
故に、兄さんが堕ちたと思われる深淵を見つけるべく極寒の中を渡り歩いていた。
しかし、そこで思わぬ敵と遭遇してしまった。
「ハァ...ハァっ...!」
寒い。
寒いし、痛い。
肌が赤く腫れているのが分かる。
「おい、ガキィ!待ちやがれ!」
「うぐっ!?」
誰かに後ろから思い切り吹き飛ばされた。
思い鉄のような何かで背中を殴打されたようで、肩甲骨がギチギチと軋んでいるような気がした。
痛む身体を労わりながら後ろを見ると、紫色の隊服を着た大男がこちらを睨んでいた。
男の手には発光する巨大な金槌が握られている。私を殴る時に使用した鈍器に違いない。
彼のような見た目の男はこの世界にはいくらでもいる。
所謂、ファデュイの『先遣隊』に分類される存在だ。
「ゴホッ!ゴホッ....な、一体何なんですか!?」
覚えのない男にワケを尋ねると、彼は口元を怒りで歪めた。
くっきりとした下顎側の歯茎が見える程に歯を食いしばっているらしく、キリキリと歯の擦れる音が聞こえた。
男は担いでいた金槌を私に向けて、言い放った。
「お前の兄...アヤックスとかいう餓鬼がいるだろ。知ってるよな?」
「に、兄さんがどうしたんですか。彼に用があるのなら...私じゃなく彼自身を訪ねてくださいよっ...」
そう尋ねると、男は目を大きく開いて怒鳴り始めた。
「アイツ、俺の兄貴を
暴行の理由を聞いた私は、そのくだらなさに呆れた。
この男は、こともあろうに身内の恥を人様の妹にぶつけることにしたようだ。
いくらファデュイが手段を選ばぬ血生臭い集団とは言っても、この男ほど愚かな人間はそういないだろう。
「報復ですか...?それも、兄ではなく私に八つ当たりなんて情けな...」
思わず失笑が漏れる。
小馬鹿にされたと感じたのか、男は額に青筋を浮かべて金槌を振るった。
「フンっ!!!」
それは、私の腹に直撃した。
めきっという骨がヤラレる音も一緒に聞こえた。
骨の奥にある臓器もろとも身体の奥側に押しやられるような違和感を感じる。
「ゔっ!?」
一瞬、自分はホームランの球にでもなったのではと思った。
私はおかしいくらいに吹き飛んで、地面をバウンドしていく。
声にならない悲鳴は吹雪にかき消された。
もう一度背中に衝撃を感じた途端、吹き飛ばれた私の体が止まった。
どうやら木に身体をぶつけたらしい。
「う...ぅあぁ....」
幼子である私にとって、大人が放つ容赦のない一撃はあまりにも効きすぎているようで、もう呻くことすら難しかった。
視界もぼやけてきた。
瞼の先には猛吹雪によって白く染まった世界と、またもこちらへと近づいてくるファデュイの男の姿が見える。
「まずはお前から殺してやるっ!そんでもって、その後に
まだ何か言っている。
おおよそ、兄への恨み節でも宣っているのだろう。
そんなことを言ったところで無駄だろうに...。
でも、あぁ...私の終点はここなのか。
思っていたよりも早かったな。
段々と身体の力が目減りしていく気がする。
死を受け入れ始めているのだろう。
でも、最後くらいは
こんな誰とも分からぬ男のせいで死ぬなんて、ごめんだ。
ここじゃなくて、もっと綺麗で...熱い所で寿命を全うしたい。
寒い凍土を
こんな所で終わりたくない
そんなことを悠長に考えていると、ボヤけた視界の隅に光り輝く何かがあるのを見つけた。
燦然と顕現したそれは、中々に洒落た飾り付けがされているストラップのようなものだった。
銀色の
宝石の内部には、まるで
「なん.......ォ!!??」
目前にまで迫っていた男が奇妙な声を発する。
それと同時に、男を炎が包み込んだ。
...足の爪先から頭部の髪の毛の先まですっぽりと炎に包まれた。
----ーーーー⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎ッ!!!???
ッ!ッ!ッ!.....⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎、⬛︎⬛︎⬛︎!
雪国では到底起こり得ない発火現象に見舞われた男は、地獄の底で蠢く亡者のような慟哭を上げている。
熱で肉体を焼かれる痛みと、思いもよらぬ事態への困惑が男の感覚を奪う。
生まれたばかりの赤子のようにウロウロと危うい足取りでフラついている。
時々、そこらの木々に身を当てながら悶える男の姿は、まるで意思を持ったキャンドルに見えた。
十数秒もの間もがき苦しんだ男は、やがてその肉体を灰色にして倒れた。
固い雪のカーペットに人間のこんがり肉が提供されたが、
「...え」
男はもうぴくりとも動かない。
彼が振るっていた金槌は既に輝きを失っており、柄がポックリと折れていた。
灰色になった衣服と肌の境目が分からない...酷い有様だった。
私は、初めて人を殺した。
恐ろしく感じた私はその男をその場に放置して、更に吹雪の奥へと歩き出していた。
「どうしよう、どうしようどうしようどうしよう....どうしようッ!?」
人を殺した。
その事実が重くのしかかる。
不気味な様相になった兄を勝手に恐れていた私が、彼を差し置いて先に人殺しになってしまった。
それも、ファデュイの隊員を殺したのだ。
何で、どうしてなんだと憤りながら、つい先ほど賜ったばかりの
幼い私の手に収めるには少しばかり大きいそれは、今でも何かを燃やしたそうに淡く光っている。
これがゲームの世界なら笑い話で済むのだろうが、ここは現実だ、やり直すことは出来ない。
今まで、可愛い弟たちに偉そうに世話を焼いていた私が、立ちはだかるハードルを全て無視して人としての一線を越えてしまった。
あの男を包んだ炎が、私の意思によって出現したものだと認めたくない。
私は『生きたい』と願っただけだ。
...人を殺したいだなんて一言も言ってない。
つい衝動的に遺体を放置してしまったが、今になって不安が押し寄せてくる。
もし、私が男を殺したことが誰かにバレたら...?
もし、追手が私の家族にまで危害を加えようとしてきたら...?
「やだ、やだよぉ...そんなの嫌だっ」
情けない声が嗚咽となって湧いてくる。
私は
彼らを失うなんて考えられない...今のように穏やかな暮らしに邪魔者を入れるなんて許せなかった。
これは私の身から出た錆でもある。
『強くなりたい』だなんて馬鹿な考えで勝手に外に私が、勝手に発生させた災いだ。
これは私で始末をつけなくちゃいけない...。
この世界において『DNA鑑定』のような精度の高い追跡技術があるのかは不明だが、ファデュイのような統率の取れた軍組織の人間が死んだとなれば、我が家にも探りを入れられるかもしれない。
まして、大の男が吹雪の中で丸焦げになっているのだから、他殺を疑い始めるだろう。
そうなれば
「...守らなきゃ」
私が蒔いた種は、摘まなければ
初めて人を殺したあの日から、私は休むことなくファデュイから来た追手を殺し続けている。
男から振るわれた金槌で負った怪我も癒えていないので、正直かなり限界が来ている。
だが、もし病棟に駆け込んでしまったら、その怪我から殺人のことについて勘付かれてしまうかもしれない。
ただでさえ私の行動は不審そのものであるし、私自身もその自覚がある。
身体の弱い女の子が、なぜか兄の豹変を皮切りに猛吹雪の中を出歩くようになるなど、不自然極まりない。
もし、その違和感を嗅ぎつけられでもしたら、もう誤魔化しが効かないだろう。
故に、こうして痩せ我慢する他ない。
「なぁ、本当にここなのか?
「黙ってついて来い。...『散兵』様がここら辺で間違いないって言ってたんだ。それを信じろ!」
「でもよぉ...」
...また、来た。
今度は二人組...やはり上官からの命令で動いているようで、彼らの会話から察するに『散兵』が男の殺害場所を見つけたらしい。
『散兵』について知っていることは割と多いが、この時系列における
私が知っているのは旅人たちと行動を共にしている時のことが大半で、それ以外のことは分からない。
まぁ、おおかた『道化』からの命令を受けて、隊員を殺した犯人の身柄を拘束するように言われたのだろう。
とはいえ、下っ端一人の命に執行官が自ら行動を起こすわけもなく、こうして端役の人間が派遣されたと見える。
「ごめんなさい。」
無意識に溢れる謝罪をきっかけに、神の目が光を放ち始めた。
彼らを炎で包み込む。
真っ白な雪景色に場違いな橙色が浮かび上がる。
そして、炎はやがて青色へと変化する。
温度が指数関数的に上昇していき、彼らの足元にある雪が忽ち蒸発していく。
「ゔぉ...おおっ....」
「い、いだい...あづいよぉ....ママぁぁぁ!」
「...ごめんなさいっ」
罪なきファデュイの悲痛な叫びが聞こえる。
彼らの声は吹雪によって遮られるため、遠くにまで響く恐れは限りなく低い。
とはいえ、万が一ということもあるので早々に焼き切ることにした。
彼らの遺族には申し訳ないが、遺体すらも残さないようにする。
「.....死んで」
まるで裁定者の如く、冷徹に告げる。
私が火力を強めてから三秒ほど経った頃、男たちはその痕跡を残すことなく焼失した。
彼らの纏う衣服や武具、装飾品に至る綾ゆるモノはこの世界から抹消されたのだ。
最初の殺人を犯して以降、新たな怪我を負ったわけでもないが、何故か心臓の部分に幻痛を感じるようになっていた。
その幻痛は回を増すごとに酷くなっていて、それは此度も例外ではなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい..........ッ」
罪悪感からか、死した彼らに向かって謝罪した。
当然、返事が返ってくることはなかった。
それでも私の口は謝ることをやめなかった。
そうしないと壊れてしまいそうだったから....
「ごべんなさい....ごめ......なさいッ」
来る日も来る日も殺し続けて、一ヶ月が経とうとしていた。
疲れ切った私は休息を取りたかったが、『人殺しで疲れたからしばらく家事や諸々の仕事は休ませて』なんて言えない。
夜は家族を守り、日中は家事などに従事して家族と共に過ごす...そんな日々を過ごしていた。
故に睡眠もまともに取れていない...目の下には隈がくっきりとできていて、家族にも心配をかけてしまっている。
頭も回らない状態...正直、立っているのもやっとだ。
しかも厄介なことに、今日はこれまでのどんな難題よりも
私は疲弊した頭をフル回転させて、そんな厄介な存在を理解しようと試みている最中だった。
「...昨日の決算報告会は実に無意味な催しだった。手元に前期の決算書があるというのに、何故自らの足を使ってまで議会場に行かなければならないのか理解に苦しむ。」
「....あの。」
「あのような仕事は早々に消してしまった方が全国民のためになるだろうな。」
「あのっ!」
大声を出すことで、ようやく老人が話をやめてこちらを見た。
眼鏡のレンズが、どうしてか嫌に輝いて見える。
「何だ。」
「『何だ』じゃなくてですね.....どうして私の家にいるんですか。」
「前に言った筈だ。『目をかけておく』とな...唾を付けている者のご家族に挨拶に伺うのは、何もおかしいことではないだろう。お前さんは未来の部下になるかもしれないのだからな。」
「...幼気な女の子に向かって唾を付けるという表現は『雄鶏』様のお立場を穢してしまいますよ。ご認識を改められた方が良いかと...」
この老人...改め『雄鶏』は定期的にこの家を訪れるようになっていた。
ゲーム中においても、この男は『公子』の家族と交流があるというエピソードがあったことから、彼がこの家に来ること自体はおかしなことではない。
しかし、彼の所属する
「まぁまぁ、エレーナもそう言わずに。...すみません市長様、この娘ったら最近ちょっとピリピリしていて...」
母さんがそう言いながら『雄鶏』に会釈する。
銀のお盆に載せていたティーカップの一方を『雄鶏』の座るテーブルに差し出し、余ったもう一方のカップを私に差し出した。
そんな母さんに対して、『雄鶏』は笑顔で返した。
彼の顔は、まるで普通の老人のように見えた。
「ああいやご婦人、どうぞお気遣いなく。私が勝手に家に押しかけているだけだ。この
「そう言っていただけると助かります...エレーナ、体調が悪くなったら言うのよ?」
「はい...。」
母さんはそう言って一歩下がると、去り際に私の頭を撫でて行った。
人殺しをしている娘に対して、こんなにも優しさを向けさせているのが申し訳なく感じる。
自分の愚かさを自覚すると同時に希死念慮の波が押し寄せて来たので、目の前に置かれたお茶をしばくことに気を逸らした。
それから、何ともないふりをして『雄鶏』へと向き直った。
「で、何の用なんですか?市長ともあろう方が
正直、早く帰って欲しい。
執行官なんてものは存在しないに越したことはないのだから。
「最近、妙なゴタゴタがあってな」
「
「いや、それじゃない。......や、それもゴタゴタの内の一つではあるがな。」
老人が何を言い出すのかわかって、私は咄嗟に話題をコントロールしようと試みる。
しかし、そんな試みも虚しく老人は私の嫌がる話題を話し始めた。
「
「それは、何とも....。」
反応に困る。
それを殺したのは私だ。
『雄鶏』はゆっくりとティーカップを持って茶を飲む。
喉を潤した彼は言葉を続けた。
「前も言ったが、ファデュイの人間が死ぬなんてことは珍しくもない。
「...雪国なんですから、吹雪の中で死ぬことくらい普通では?外には魔物だっていますし....」
「ほう...では聞くが、
彼は一瞬だけ間を作ってから私の目を見てきた。
老人の瞳は一切揺れ動くことなくこちらを捉えていた。
「この件は『散兵』が調査依頼を受けていてな、今は彼が...あぁ、『散兵』についての説明はしないぞ。お前なら知っているだろうからな。」
当然のようにそう言い放つ老人は、私の返事を待たずに続けた。
「部下たちの中にはお前さんの兄を疑う奴が多くてな....奴を組織に引き込んだ者の責任として、
「この家宅訪問もその一環である、と?」
「...理解が早くて大いに助かる。やはり優秀だな、
「私の家の教育がいいんでしょう。」
「お前の兄という最悪なモデルケースがいるようだが、これはどう説明する?」
「...........家の教育がいいんでしょう。」
「ハッ、少しは子供らしい所があるようで安心だ。お前がそうやって意地を張るのはそうそうお目にかかれるものではない。」
うるさい。
だが、ぐうの音も出ないかった。
『雄鶏』はお茶を飲み干すと、唐突にテーブルに身を乗り出した。
右肘を付いて声を少しだけ潜めて囁き始めた。
空気が変わった気がして、無意識に固唾を飲み込んだ。
「お前...
「....ッ!」
思わず椅子を膝裏で蹴ってしまいそうになった。
今にもこの老人の首を搔いてしまいたいが、すんでの所で衝動を抑えた。
背中を汗が伝い、全身に鳥肌が立っているのが分かる。
私は今、この老人に追い詰められているのだ。
この男は穏やかな市長としてではなく、冷徹な執行官としての表情で私を問い詰め始めた。
「何人殺した?......もう片方の手の指じゃあ数え切れない位にはヤッたろう?」
「何のことですかっ?私には何のことだか...」
「惚けるのもいいが、これから起こりうる現実に目を向けた方がいい。」
『雄鶏』は唐突に右手を大きく広げた。
不審に思う私を他所に、嗄れた声で続けた。
「
『雄鶏』は広げた手の親指を一つ折った。
「その栄光と血みどろの道を歩み、いずれは執行官としての栄誉を賜るかもしれない。」
また一つ指を折った。
今度は人差し指だった。
これからの人生の転換点を話す度に指を折っているようだ。
「...だが、そんな
『雄鶏』はそれまで順調に折っていた指とそうでない指の全てを織り込んで、握り拳を作った。
まるで、それまでの積み重ねが無に帰すかのように見えた...。
要は、『
...そんなことは分かっている。
兄さんがどれだけ凄い人なのか、私がよく知っている。
私がそんな人の人生を狂わせるかもしれないことを、よく知っているつもりだ。
「
「...
「ハッ!もしそうなら
彼は乗り出していた身を引っ込めた。
ゆっくりと椅子の背もたれに体重を預けてから、ふ〜っと深い息を吐いた。
リラックスしているように見えたし、私に呆れているようにも見えた。
「このまま家に留まって事態がややこしくなるのを受け入れるか、或いは別の道を行くか....選択はお前に任せよう。」
「別の道?」
「何も、俺の目利きはファデュイに限った話じゃない。
左遷を装って匿うとでも言うのだろうか。
だとしても、ナド・クライはほとんど無法地帯のような場所だと聞いている。
最低限の自治組織くらいなら存在するのかもしれないが、それでも子供が一人で行くような場所じゃないだろう。
「法の整備がない場所に幼子を一人にするのが温情だとでも?」
「俺の知る幼子は、十歳で神の目を授かることはないし、それ以前に大人を殺すほどの力を覚悟なんぞ持たんぞ。...普通は、もっと親や兄妹に甘えるものだ」
どうして急に優しい目をするのか理解できない。
そんなことを言うのなら、甘えることを許す環境をくれよ。
もっと丈夫な身体を...いや、これは父さんと母さんに顔向け出来なくなる。
「...甘える必要なんてありません。そもそも、私は貴方の組織の人間を殺したんですよ....庇う意味がわかりません。」
「仕事が出来る奴を殺すのは惜しいだけだ。そもそもの発端は
「少しやり過ぎた、ですか...流石は執行官、血みどろの最前線にいるお方は価値観が合いそうにありません。」
「お前はその道に片足を突っ込んでいるがな。」
「私が
「...家族のためか?」
「いいえ。既に兄さんという前例がいる以上、一家からファデュイの人間が出ることは気にしていません。ただ....
私はこの老人の本質を知らない。
今見ている顔はあくまでも一側面に過ぎない。
もしかすると、私を懐柔した後に家族を抹殺するかもしれない。
先の見えない状況で、目の前に垂らされた餌に飛びつくわけにはいかない...その餌が吊ってある先は崖かもしれないのだから。
「...確かに執行官は利を求めるし、後々にお前を助けた見返りを求めるつもりだ。...それをリスクと捉えるのならその判断もナシではない。だが、俺の助けもなしにどうやってファデュイの追手を回避するつもりだ?...『散兵』は既にお前を見つけているかもしれんぞ?」
「敵である貴方に話す義理はありません。これは私自身の問題です。」
私は席を立つ。
彼の前に置いてある空のティーカップを奪い取り、母さんを呼ぶ。
「母さん、市長様が帰られるみたいです。」
母さんはパタパタと慌ただしい様子でやって来た。
「あら、本当?...市長様、預かっていたコートを持ってきますから、少々待っていただけますか?」
「はは。なに、別に急ぎの用はないのでゆっくりで構わないとも。今日は
『雄鶏』は笑顔を貫いている。
先ほどまでの様子とは打って変わって、外行きの顔だ。
「それに...」
彼は母さんがこちらを見ていない隙に、再び真顔に戻った。
私をじっと見つめながら、最後の言葉を紡いだ。
「お嬢さんと有意義な話が出来て、久々に楽しかったのでね。」
短くまとめようと思って今朝から書き始めて、それでも結局長くなるのですよね....
何卒、ご容赦を。