「アレは悪魔だ!」
「もう四百年も前のことだが、おれの先祖が例の怪物を映写機で捉えることに成功したんだ!」
「この異様な姿!これがテイワットを恐怖で震わせた怪物の正体なんだよ!」
謎の女を連れる私は他者の目にはどう映っているのだろうか。
いや、そもそもこの女は他の人間に見えているのか?
しかし、それを確かめることは出来ない。だって「私の隣にいる白髪の女性が見えますか?」なんて聞いた日には、コイツは頭がおかしいのか?などと思われてしまうに違いないからだ。
いつの間にか広い回廊のような場所に出ていた。この女の存在をどうするべきか思考に耽っていた内に、街の大通りを出てしまったようだ。辺りにはチューリップが咲いている。甘くだるい香りが鼻を突いて私の気分を落とす。
謎の女は私に話しかけてくる。
「ねぇ、どこに行くの?」
「うるさい。」
「
「黙っててください。」
「その右腕、僕が直してあげたの。ねぇ、僕が直したんだよ。」
「.....うるっさいな。」
喧しい。
つい怒気を含めて返した。
心なしか歩くスピードも速くなる。
私は唐突に現れたコイツの扱いに困っていた。助けたという言葉も鵜呑みには出来ない。仮に助けてくれた本人だとしても、それは信頼するに足り得ない。こんな意味の分からない国に漂流させた張本人をどうして信用できようか。
「イスタロトとか言いましたよね、貴女。」
「あ、やっと会話をする気になってんだ。そうだよ、僕はイスタロトだよ。」
「それは、
「そうだよ。どう、びっくりした?」
「......頭痛くなってきた。」
夢であってほしい。
自らを神と自称する女と陸路を共にしているなんて信じたくない。けれど、彼女を否定しようとする度に私の脳内には彼女が神であるという状況証拠が揃っていく。
「僕は本当に神様なんだけどなぁ。」
これは勘だが、この女の言っていることに嘘はない。
徹頭徹尾、真実のみを告げている。
あまりの情報量に頭を悩ませていると、なんだかやかましい声が聞こえてきた。顔を上げて前を見ると、仲睦まじいカップルがきゃっきゃうふふと戯れている......なんてことはなく、何やら物々しい雰囲気が漂っていた。どうやらもめ事のようだ。
「なんの騒ぎ......?」
「路上で喜劇でも
「貴女には聞いていません、この不審者。」
「ひどいなぁ。
「ちょっと何を言っているのかわかりません。黙っていてください。」
イスタロトを咎めながらトラブルの元へと歩み寄る。次第に当事者たちの争いの声は大きくなっていく。どうして見ず知らずの人間のトラブルに足を突っ込もうとしているか、自分でも分からない。
けれど、確信していることが一つある。それは、この白髪の女以外の誰かを会話を交わしたいということだ。
そして、私がこの騒動に首を突っ込む理由がもう一つある。言い合いをしている者達の中に、メリュジーヌがいたからだ。彼女は別に知り合いなんかじゃあない。ただ、シグウィン以外のメリュジーヌとも話をしてみたかったのだ。街で味わった人間の澱みと、メリュジーヌが受けている迫害について聞きたかった。
そのためには、まずは恩を売りつけるのがいいと思った。我ながら汚らわしい考えだが、どうしてか、こういった思考に嫌悪感を感じても、拒否感を覚えることはなかった。言うなれば「汚いけれど、まぁ触れないほどではないか」と言って雑巾を拾い上げるような気怠さだろうか。私はなんでもない顔をしながら彼女らへと声を掛けた。
◇
「なんだか騒がしいようですけど、どうかしましたか?」
「君は......?」
私の声に反応したのは若い男性。
爽やかなブラウンの髪が清潔感を醸し出している。青色の警官服を纏う彼は、一瞬だけ訝し気な顔をしたが、相手が子供であると分かると少しだけ柔らかい表情になった。自然とそうなったというより、本人の意思で態度を改めたように見えた。
「観光の途中で道にでも迷ったのか?」
「へ?」
「すまないが、今は丁寧に道案内をしてやる余裕がなくてな......おい、カロレ!この子を街まで案内を―――」
私を迷子だと勘違いしたのか、同僚と思われるメリュジーヌを付けようとしてきた。確かに意図せずこの道に迷い込んだのは事実だが、声を掛けたのは道案内をしてもらいたかったからではないのですぐさま否定した。
「い、いえ!違います!別に道案内を頼みたかったわけじゃなくって、なんだか困っているようだったから、気になって声を掛けたんです。」
「それはなんだか申し訳ないな。見た所怪我だらけのようだが、そんなお嬢さんにも気を遣われてしまうなんてな。」
男はそう言って私を気遣った。
世辞かと思ったが、本心からの言葉のように見えた。
「ねぇ、そこの君。」
「はい?」
「そいつらから早く離れた方がいいわよ。」
そう私に言ったのは、警官たちと言い合っていた民衆の女だった。厚化粧をしているのか、少しだけきつい芳香が鼻を刺激する。険しい顔つきで彼らを見ている。
「メリュジーヌなんて気味の悪い生き物と共存するなんて、冗談じゃないわ。」
「はぁ、君たちは五年前もそう言っていたな。少しは懲りたものかと思ったが、どうやら目算を誤っていたようだ。」
「懲りる?そんなわけがないでしょう、むしろ懲りて出ていくのはそのメリュジーヌじゃなくて?」
「わ、私は......。」
どうやら、この群衆たちもメリュジーヌという生き物が気に入らないらしい。得体の知れないものへの恐怖か、或いは別の思惑があるのか。
「君たち、根も葉もないことは言わない方が良い。これ以上マレショーセ・ファントムのメンバーを侮辱するのなら、君たちを連行して取り調べを行う。前にもそう伝えた筈だ。」
「なっ......!」
「分かったら解散してくれ、ここでもめ事を起こすのも本意ではないだろう。」
「まったく、ヌヴィレットのお気に入りだからっていい気になって......いいさ、ここは引いてあげるわ。」
そう言いながら彼女らは去っていく。その場に残ったのは言い合っていた警官の人たちと、
「その......要らない声掛けでしたね。公務の邪魔をしてしまってすみません。」
「ああいや、こちらこそすまない。市民や観光客に不安を抱かせてしまった私たちにこそ非がある。君が気に病むことじゃあない。」
「そうですよ!むしろ私は嬉しかったです!」
そう言ってくれたのは、先ほどまで糾弾の的にされていたメリュジーヌだった。表情が良く見えるように髪を左右に分けている。彼女はにっこりと笑いながら私の両手を包んでぶんぶんと上下に振った。
「こんな形なってしまいましたが、ようこそフォンテーヌへ!歓迎しますよ!」
彼女の目には喜びの色が浮かんでいる。どうやら、本心から歓迎してくれているようだった。ここに来てからというもの、メリュジーヌの悪人に会ったことがない。シグウィンもそうだが、みな心優しい者達ばかりだった。だからこそ、何故群衆から嫌悪されているのか、理解できなかった。
「その、聞いていいのかわかりませんが、どうしてメリュジーヌたちはああも毛嫌いされているのでしょうか?私には、その......嫌う理由がよく分からず。」
「......随分大人びているな。」
「へ?」
「ああいや、すまない。なんでもない。」
急に褒められて困惑したが、彼はこほんと咳払いを挟んでから私の質問に答えてくれた。
「まぁ、メリュジーヌが迫害されていることが気に入らないという、君のその感覚は正しい。」
彼――――ヴォートランと言うらしいが――――は近くの噴水を睨みながら肯定した。
「フォンテーヌの人間たちは、得体の知れない存在が人間の生活圏を脅かすのではないか、というなんとも霞掛かった曖昧な猜疑心を持っているんだ。無論、それは偏見に過ぎない。それは君がよく知ってくれているだろう。」
「はぁ。」
「こういったことは珍しくない。未知に恐怖を覚えるのは仕方のないことだ。これでも当初よりはマシになった方なんだが......以前として、ああいう連中はいるものなのさ。すまないな、観光しようにも気分を害してしまったのだろう?」
「いえ、そんな、気にしないでください。ただ気になって声を掛けただけですから。」
偏見。
それだけが、人間とメリュジーヌとの間に溝を作っているのだそう。あまりに拍子抜けで、でも同時に納得させられた。こうした話はないわけじゃあない。スネージナヤにも似たような空気を感じたことがある。
「こんな大変な公務の途中にお邪魔しちゃいけませんね。では、私はこれで失礼します。」
「ああ、ちょっと待ってくれ。」
「はい?まだ何か?」
ヴォートランが私を呼び止める。
何か粗相をしてしまっただろうか。
「カロレ、この子に観光案内でもしてやってくれ。」
「えっ」
「え!いいんですか!?」
カロレと呼ばれた
「ただし、余計な買い物はするなよ。経費申請が面倒だからな。必要な分だけ後で申請するように。」
「承知しました!さ、ではお嬢さん、行きましょうか!」
「......へっ!?本当に良いんですか!?お仕事の途中じゃあ......。」
「彼曰く、これも仕事の一環なのだそうです!そう気負わないでください!さぁさぁ!」
「え、えぇ?」
カロレは強引に私を手を引いて歩く。
こうして、小さい誰かに導かれることになるのは二度目だ。
早くもシグウィンが恋しくなっているみたい。彼女は今、どうしているのだろうか。無事に用事を済ませて櫓に帰れただろうか。一度考え始めた彼女への思いは止まらない。うわの空になってしまう。
「それで、何かお困りですか?」
「はい?」
「あれ、違いましたか?てっきり慣れない土地でお困りごとでもあったのかと思ったのですが。きっと
思考の外から突かれたような気分になった。おせっかいで声をかけた相手に、こうしておせっかいを焼かれることになるなんて思ってもみなかった。或いは、この国に来てから人間の醜悪な面ばかりを見ているから、少しだけ卑屈になってしまっていたのかもしれない。
「そんなにも困っているように見えましたか?」
「困っているというか、ええと......迷子のような、どうしたらいいか分からない子供のようにみえまし......ああいや!これは失礼すぎますよね!?ごめんなさい、他意は全くないんです!」
「だ、大丈夫ですよ。事実ですから。」
慌てるカロレを落ち着かせてから、私は自分のこれまでの出来事を概要だけ話した。
故郷で怪我を負ったこと。
この国に意図せず流れ込んだこと。
知らないメリュジーヌに助けられたこと。
全てを明かしたわけではない。それでも、確かに私が思っていることの断片を共有した。カロレは神妙な顔つきで私を見つめ、頷いた。
「それは......辛かったですよね。」
「まぁ、半分は自業自得みたいなところですがね。」
「いえ、それでもです。傷だらけで故郷を追われて見知らぬ国に漂着するなんて、並の大人でもかなり辛いと思います。」
そのように語るカロレの顔は悲嘆に濡れている。彼女の中にどす黒いモノが蠢いているような気がした。
◇
暗い雰囲気のままに、とあるカフェへと入る。
店看板には「カフェ・リュテス」とある。彼女はここで休憩を取ろうと提案して来た。断る理由はないので、渋々私は承諾した。
店員に連れられて客席に座る。四人掛け用のテーブル席だ。テーブルの中央には灯りを燈した傘のような形状のランプが座している。強すぎず、弱すぎない淡い光がお店の雰囲気を構築している。店主の趣味だろうか。
カロレは「マドレーヌを一つと、コーヒーを二つお願いします。あ、あと砂糖も。」と言って注文した。店員が奥に去っていくのを見守った後、私に語り掛けてきた。
「ここのお店、とっても素敵ですよね。なんだか風情があって、静かで、落ち着く。私は良く来るんです。」
「確かに、すっごくオシャレなカフェですね。」
カロレの言う通り、このカフェはかなり風情を大事にしているらしく、煌びやかな装飾や家具は敢えて控えているように見える。カロレの店選びのセンスには脱帽する。
「ふふっ、そうでしょう。最近はちょっと忙しくて疲れちゃう日が多いんです......だから、一人の時くらいはこうしてリラックスしなくっちゃあいけないんです。」
「カロレさん......?」
それまで明るく振る舞っていた彼女の表情に少しの陰りが見えた。それは一瞬のことだった。彼女はすぐに笑顔を取り戻した。気のせいだったのだろうか。
「実は貴女のことだけど、ヌヴィレット様から聞かされていたんです。」
「え?」
「あ、ヌヴィレット様は知っていますか?フォンテーヌの最高審判官で、すっごく背の高い男の人です。」
「知ってはいます。一度会ったことがありますから。」
シグウィンと一緒に街を歩いていた時、偶然にも鉢合わせることになった男。
それがヌヴィレットだった。
あの人間離れした彼の瞳孔の鋭さを思い出すと、今でも身体が震えそうになる。彼の容姿を記憶の棚の奥底に追いやってから、カロレの話を聞く。
「知っているのなら話は早いですね。ヌヴィレット様は『弱った子供が身の振り方に困っているから助けるように』と仰ったんです。恐らく、あの方の立場的に直接手を差し伸べるのは不味いと判断したのでしょう。」
「そう、だったんですか......。」
「ちょっと意外ですよね。ヌヴィレット様は少し不器用な方ですがすっごく優しいんです。メリュジーヌに対しても。人間に対しても。」
カロレが言葉を紡いでいると、先ほど注文したものが届いた。まずはマドレーヌ、その後にコーヒーが私とカロレの前にそれぞれ置かれた。マドレーヌから香るバターの豊かな香りとコーヒーの苦味が丁度合わさり、良いコントラストを生んでいる。
「あ、砂糖入れますか?無糖だと苦いですよ。」
「ありがとうございます、じゃあいただきます。」
角砂糖を自分のコーヒーカップへと入れる。砂糖の角は崩れていき、丸くなり、やがては溶けて消えていく。スプーンでかき混ぜると、いよいと原型は消え去り完全に解けきった。マドレーヌを一つ摘まみ、口に運ぶ。
――――美味しい。
まともな食事など取っていなかったから、甘味を味わうのは久しぶりだ。甘未が味蕾を刺激しているのが分かる。まるで涙のように「じゅわり」と唾液が舌下より湧く。私はその唾液ごとマドレーヌをコーヒーで喉に流し込んだ。
「どうですか?良いでしょう?」
「――――はい、とても。」
「ふふ、よかった。」
それだけを言うと、私たちは黙った。黙々とマドレーヌとコーヒーを舌で躍らせた。次第に時間は過ぎていき、太陽が暮色になり始める。客足も減って来たようで、私たちの立てる食器の音さえも響くようになっていた。
「あのっ、」
カロレが再度言葉を発した。
重々しい語り口。
まるで懺悔するかのように――――何かに縋るように私に問いかけた。
「人間とメリュジーヌの間にある偏見や嫌な思いというのは、どうすれば払拭できるんでしょうか?」
「それは......。」
そのような問いに答えはないだろう。私が聞きたいくらいだ。消せるものなら消したいが、現実はそう甘くない。
人間にも生活がある。子どもがいる者だっているだろうし、自分の生活のために仕事を奪われないように必死な者だっているに違いない。そうした人間からしてみれば、メリュジーヌという存在は、さぞ恐ろしいものに見えることだろう。
「綺麗事を言うならば、ひたすら訴え続けるしかないと思います。しかしそれではとても現実的ではありません。それはカロレさんも分かっているのでは?」
「はい......そうです。」
空気が重い。カロレは項垂れ、次の言葉を待っている。マドレーヌが一つ余っているが、彼女はそれに手を付けるつもりはないようだ。コーヒーは既になくなっていた。
「私は今、窮地に立たされています。ここで判断を誤れば、きっと多くの人が被害を被ることになる。」
「窮地?」
「お願いです、異国の方。貴女の意見を聞きたいのです。私はよく『生真面目過ぎる』とヴォートランや同僚から言われます。それでも、責任を負わなければならない時があるんです......私はみんなを幸せにしたいんです。」
意味が分からなかった。彼女が何を背負っているのかまるで理解出来ない。この状態で彼女の問いに答えてもよいものか。いや、いいわけがない。それでも何かを答えなければならない。このメリュジーヌは私に聞いてくれている、ある種、私を信頼してくれているのだ。その期待に少しでも応えたかった。
「人間とメリュジーヌの間の確執をどうにか和らげたいってことですよね。それなら、誰かが
「誠意ですか?」
「その、かなり曖昧でふわっとした意見ですが......例えば、『私はメリュジーヌにとって有利な状況でも、こうして
「利益......。」
「ちょっと、いえかなり横暴で汚いやり口ですが、少なくとも相手の粗を探すよりかは穏便に済む筈です。言葉でだけ良いことを言っていても、相手は納得してくれませんから。」
私はかつて兄を恐れて逃げ出した。その末に人を殺した。もっと早く他者からの視線を考慮するべきだった。自分が置かれた不幸ではなく、己の不孝さに目を向けて自戒するべきだった。カロレには同じ道を辿ってほしくない。私のように他責に逃げて破滅してほしくなどなかったのだ。
「ありがとうございます。参考にしてみますね。」
カロレはそう言って笑った。やはり陰りがある。彼女を苛んでいるのは一体何だろうか。詳しく彼女に話を聞きたいが、私と彼女はそれほど親しくない。私が躊躇っている内にカロレは伝票を持って店主に勘定依頼をしていた。
私の回答は合っていたのだろうか。誰か答えてはくれないだろうか。不安で仕方がないんだ。この世界はいつだって答えをくれない。私は前世の記憶を引き継いでいるのに、そのくせ何も知らないし、いつも間違える。今回だって何かを間違えている気がした。
「まだ、余ってる。」
マドレーヌはまだ一つ残っている。茶色のマドレーヌ――――長い時間風に晒されても、まだ美味しそうだ。
でも食べる気にはなれなかった。まるで大きな罪悪を背負った直後の囚人が、「私は余ったマドレーヌを他者に譲れるだけの善意を持っている」などと無意味な主張をするかのように、私はそのマドレーヌを誰か譲ろうと思った。けど結局、マドレーヌをカロレに譲ることは出来なかった。
「それじゃあ、この辺りでいいですか?また迷子にならないですか?」
「またってなんですか......そもそも迷子になんかなってませんよ。あの時はただ上の空でぼうっと歩いていただけですから。迷子とは違います。」
「より危なっかしいですよ......本当に大丈夫ですか?」
「ですから大丈夫ですよ、知り合いだっていますし、一先ず
「むぅ......そうですか。何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね?」
「ええ、ありがとうございます。それじゃあ。」
その会話を最後にカロレと別れて、一人で歩き始めた。夜風が肌に当たって痛い。この国には四季はあるのだろうか。スネージナヤは年がら年中極寒だったが、フォンテーヌはどうなのだろうか。いずれにせよ、スネージナヤよりかは幾分か過ごしやすい気候だ。それでも日々の生活で悩みは発生する。カロレやシグウィンはそういった悩みを抱えながら生きている。生まれながらに人間から差別され、それでも懸命に生きているのだ。
「帰ったらどうするか考えないと......。」
このまま放浪するだけではだめだ。シグウィンに甘えて、カロレにも世話になって、おんぶにだっこ状態。これでは故郷の家族に顔向けなど出来ない。スネージナヤに帰る方法を見つけなくてはならない。
「あれ、もう帰るの?」
不意に女性の声が響く。
少し驚いたが、声の主を見た途端に緊張は解かれた。
代わりにげんなりとしてしまう。
「また出てきたの、
「あれ、出てきちゃダメだった?人前で姿を現すと嫌がるだろうと思ったから、隠れてたんだけど。」
「じゃあ、ずっと引っ込んでて。」
「あ、周りに人がいないから口調も崩れたね。嬉しい。」
「黙って。」
面倒な奴が登場した。マジで話しかけるんじゃなかった。
「で、何の用ですか。」
「ひどい態度。せっかく君をあのメリュジーヌの元ま
「監視の間違いじゃないの?」
「監視......どうしてそう思うの?」
「別に、なんとなくです。」
私が魔物を食したことで深淵を物理的に宿してしまったことには、敢えて目を逸らしている。現実を見ると失明してしまいそうになる。私の記憶が正しければ、イスタロトというのは天理に与する神の一人だ。そんな奴に私の現状を察せられれば、どんな仕打ちを受けるかは想像に難くない。こいつ等は知り過ぎた国や人を容赦なく抹消する。私だって例外じゃないだろう。幸いにも、この女は私を助け、癒した。まだ私を懲罰の対象とはしていない筈だ。ここははぐらかすしかない。それが最善だと判断した。
「これからどうするの?まだ観光を続けるの?」
何を呑気なことを言うんだろう。
「そんなわけがないでしょう。まずはこの国がテイワットの何処に位置するかを調べないといけません。それから移動手段を確保して、それから......。」
「そんなこと調べても無駄だよ。」
うるさい、どうしてお前にそんなことが分かる。
「そうは言っても、今この瞬間にもファデュイの人間が私を追っているかもしれない。まだ今のところはみかけていないけど、油断していると痛い目を見る。"いる"と断定して動いた方が賢明でしょう。」
「そんなにもファデュイが恐いの?」
「
それ以降、会話はなかった。少し強く言い過ぎたかと反省したが、イスタロトは落ち込んでいる様子は見せなかった。彼女は神妙な面持ちで虚空を見上げていた。視線の先には何もない。彼女が見ているものが何か分からない。
彼女はどれくらいの時を生きているのだろう。ゲームの中で彼女に関する情報はほとんどない。強いて言うなれば、モンドのとある孤島に関する記述と、稲妻の地下に眠るとある国家にまつわる伝記だけ。
比較的人間に対して友好的だと思われる
どうしてそう思ったのかは分からない。どこか、私の肉体の底から私ではない誰かが叫んでいて、その人たちが
◇
櫓に入るとシグウィンがせっせと食事を作っていた。ぐつぐつと煮立つ小ぶりの鍋から言い松茸の香りがする。シチューでも作ってくれているのだろうか。小さな体でよくやるものだと感心したい所だが、今の私にはそんな心の余裕はなかった。
「ただいま、シグウィン。」
「あら、おかえりなさ......どうしたの?酷い
「そう?気のせいじゃないかな。」
我ながら酷い言い草だと思う。でも仕方がないじゃあないか。頭の中がいっぱいいっぱいなのだから、少しくらいは大目に見て欲しい。
「シグウィン、用事は済ませられたの?」
「ええ、おかげさまでね。ありがとう!」
「そ、ならよかった。」
彼女が自身の用事を済ませられたようでほっとした。彼女の用事が何かは知らないが、きっと大事なことなのだろう。シグウィンは私の友人である前に一人のメリュジーヌであり、彼女の生活がある。部外者である私はそれを尊重しなければならない。
羽織っていた上着を椅子の背にかけてから、ベッドの腰を落とす。私が疲れていることを察したのか、シグウィンは振り返りながら私を気遣ったように話しかけた。夕飯の誘いらしかった。
「よし、出来たわ!よそってあげるからちょっと待っててね。」
「ありがとう、なんだか至れり尽くせりで情けないな......。」
「ふふっ。もう、何を言っていの?体の手当てから街の案内までしてあげたんだから、食事の準備をするくらい今更でしょう?」
シグウィンが暖かいシチューを盛った深皿を持ってきてくれた。湯気が立ち上り、香りを鼻腔に届けてくれた。これは美味しそうだ。暫く談笑に耽りながら食事に勤しんだ。食べ終わる頃には少しの眠気が襲ってきた。瞼が恐ろしく重い。
もう夜だ。お日様は見えない。街の灯りはなく、古ぼけたランプだけが櫓の中を照らしている。シグウィンはずっとここに独りで暮らしているのだろうか。だとしたら、なんとさみしいことか。私が勝手にシグウィンに憐憫を抱いていると、彼女の方から話しかけてきた。
「ローズ、あなたはこれからどうするの?行く宛てがないのならずっと此処にいてもいいのよ?」
「それは無理ですよ。これ以上貴女に迷惑はかけられない。もう少ししたらフォンテーヌを出ないと。」
「その傷で、かしら?」
「これでも儲けを得た方です。元々は隻腕になることすら覚悟していましたから、それに比べれば五体満足の状態なだけでも有難いくらいですよ。」
「そういえば、目覚めたばかりの貴女はしきりに右腕を気にしていたわね......何があったの?貴女のような年齢の子供があそこまで怯えるなんて、普通じゃないわ。」
「それを今更教えると思いますか?見ず知らずの私の成り行きを聞いても損しかしませんよ。」
シグウィンに
「兎も角、食事を済ませてさっさと寝よう。今夜からシグウィンはベッドで寝て。私は外で......。」
「ダメ!貴女がベッドで寝るの。怪我人を粗雑な場所でなんて寝させないわ!これはお願いじゃない、決定事項よ!」
「強情だ。」
「それはこっちの台詞。わたし、分かってきたのよ。ローズはかなりの負けず嫌いで、意地っ張りな可愛い
「可愛いは余計だよっ。」
「ふふっ、照れちゃってまあ。」
勝手に笑いを零すシグウィンを尻目にベッドへ入る。暖かい。シグウィンが温めてくれていたのだろうか。海風によるべたつきもない。出会ってからこれまでのやり取りを経る中で感じたことだが、シグウィンは妙に看病に慣れているようだった。流れるように、一切の迷いなく診てくれる。そこにはある種の信頼を覚える。シグウィンは誰かの看病をしたことがあるのだろうか、それも、人間の。
「それじゃあローズ、おやすみなさい。」
「うん、おやすみ。シグウィン。」
灯りが消える。海風の音だけが聞こえるようになった。この国に来てから初めての安眠だが、私は眠れそうになかった。街で感じたメリュジーヌたちへの偏見、迫害。人間の醜さ。その全てが臭かった。ファデュイとはまた違う、どうしようもない澱みを見た。瞼を閉じた瞬間、暗闇から同じ光景が繰り広げられそうで恐い。
フォンテーヌで見た光景は周知の醜悪だ。人間ならば持ちうる感情だ。それは頭では理解している。それでも、私はフォンテーヌの人間たちが見せた歪んだ表情が脳裏から離れなかった。
灯りは消えている。
海風の音だけが聞こえている。
この国に来てから初めての安眠。
やはり眠れそうになかった。
誤字報告、いつも助かっております。