「......ヴォートラン、君の最期を看取るこの場にローズ君がいないことをどう詫びれば良いだろうか。」
水神に連れられたカフェ「リュテス」のテーブル席は様々な客層で賑わっていた。
ついこの間、この店にはカロレと同席したばかりだった。神妙な面持ちでメリュジーヌと人間の未来について質問されたのが記憶に新しい。
此度はカロレではなく、友人であるシグウィンと、この国の執政者である水神と同席している。
水神の名はフリーナと言うらしい。
フリーナという名の神のことはシグウィンから聞かされていたから、一体どのような人なのだろうと思っていた。シグウィンがあそこまで褒めちぎるのだから、さぞ素晴らしい存在なのだろうと思った。水の神とやらは多くの人間に慕われる程の美貌と清廉な心を持ち合わせているのだろう、と。
フォカロルス―――正義の国を束ねる執政者の一人
水神は聖人のような人間だった。口調こそ大袈裟で尊大だけれど、その仕草や声色は常に私を気遣ってくれているのが分かった。段差のある場所では常に私達の手を取ってゆっくりと進んでくれたし、人混みの渦中にいる時は大きな身振りで自ら注目を浴びて私達に視線が集まらないようにしていた。必要以上に歌劇的口調を使うこと以外は完璧な人。それがフォカロルスという魔神に対する第一印象だった。
彼女はスプーンでカップの
「味の方は
「は、はい。その......美味しいと思います。」
「ふふっ、それはよかった! なんだか思いつめているようだったから心配していたが、元気になったのなら何よりだよ。」
カールヘアの麗人が頬杖を付きながら私を見つめている。水滴のような瞳孔に見つめられていると、まるで心の奥底にある本音を見透かされてしまいそうになる。
彼女が
「フォンテーヌに異国の可愛らしい子が来てくれたと聞いて、居ても立ってもいられなくなってね。ついこうして
彼女――――以降はフリーナと呼ぶことにするが―――フリーナからはおよそ威圧感のようなものを感じない。弱そうだとすら思う。筋肉は少なく、骨密度も低い。華奢さを具現化したようなもの。しかしそんな彼女が人間たちの悪意の渦を解きほぐし、操り、私達を助けて見せた。フリーナは武力ではなく優雅さによって人を助ける神なのだろう。
「さて、落ち着いたかい?」
「その......助けてくれてありがとうございますフリーナ様。」
「いいのさシグウィン。君のこともヌヴィレットから聞いているよ。ごめんね、すぐに駆けつけてあげられなくて......僕の力不足だ。」
「あぁ、頭を上げてください!?」
水神が頭を下げた。冠を見立てたハットが私たちへと傾く。国の頂点である魔神に頭を下げさせてしまったことに慌てたシグウィンがフリーナを制する。フリーナは微笑を携えながら頭を上げて私たちの顔を交互に見つめた。まるで年の離れた妹を見るかのように。
「そこまで止められては従う他ないな。とはいえ、君たちに謂れのない迫害を許したのは僕とヌヴィレットの責任でもある。それに......。」
「それに?」
「いや、なんでもない。」
何か思案した様子を胡麻化すように取り直したフリーナは、またも優雅にティーを無音で啜った。彼女の顔には底知れぬ決意のようなものが見えた気がして、それ以上に追及するのは野暮だと思わされた。
私が彼女に内心で慄いていると、フリーナはパァッと明るい表情となって私への質問攻めを開始した。
「時に君!エピクレシス歌劇場にはもう足を運んだかい?」
「えぴ......え?」
唐突に話題を振られたせいで戸惑ってしまった。しかしそんな私の反応に不快感を示すことなくフリーナは説明を始めた。むしろ、更に嬉しそうになった気さえした。
「エピクレシス歌劇場だよ。ポート・マルコットを道なりに進んで行った先にある劇場なんだけれどね、これがまた壮観なんだ。広々としたホールに赤い絨毯が敷いてあって雰囲気も凄く良い! あそこでメロドラマでも観ようもなら、きっと感激で涙してしまうこと間違いなしだ。」
「め、メロ......なんて?」
「ああいや、すまないね。つい興が乗ってしまってた。ヴォートラン君から君がポート・マルコットを訪れていたと聞いてね、あの場所に訪れたのなら必ず歌劇場に立ち寄ったものだと思っていたんだが......そうか、確かトラブルに巻き込まれてしまったんだったね。」
「ヴォートランって、確かカロレと親しそうにしていた人?」
今度は聞き覚えのある名前だ。ヴォートラン―――カロレと親しげにしていた特巡隊の男性だ。無骨ながらも丁寧に接してくれたことは覚えている。彼とカロレとのやり取りはまるで本当の兄妹のようだったから、とても記憶に残っている。
「そう。彼が君のことを心配していてね、件のトラブルの後すぐにヌヴィレットに君のことを報告したそうだ。『包帯だらけの小さな観光客が一人で街を彷徨っていて心配だから、どうか気に掛けてくれないか』とね。」
「......もう、だから一人で街を歩くのは反対だって言ったじゃない。まさか歌劇場近くまで行っちゃうなんて......ローズったらお転婆なんだから。」
「うるさいですよ。」
またもシグウィンの世話焼きが始まった。フリーナに保護してもらって安心しているのか、もう顔色は良くなっている。私は彼女の視線にうんざりしながらも同時に安堵していた。人間からぶつけられた悪意の傷は一先ず癒えたようだ。
フリーナは不思議そうな面持ちでまたも私に聞いた。
「しかし歌劇場にも行ったことがないとなると、一体どこなら行ったことがあるんだい?確かにフォンテーヌは見どころがたくさんあるけれど、歌劇場を後回しにしてまで行きたい場所でもあったのかい?」
「行きたい所というか......丁度昨日、偶然出会った特巡隊のメリュジーヌさんにこのカフェで奢ってもらったばっかりなんです。だから、私にとって観光した場所というならこのカフェが一番目ということになります。」
「なるほど、既に
フリーナはそう言いながらティーに口付けた。啜る音はしない、相変わらず優雅で洗練された所作。何度見ても飽きることはないだろう。フリーナはカロレを案じているのだろう。この街の人間が抱えている闇は相当に大きく深い。メリュジーヌという種族にかけられる悪意や罪禍はもはや一個人でどうにか出来る範疇ではない。それはこれまの日々が証明している所だ。
そこまで考えたところで、急にフリーナのことも心配になってきた。
「でも、その......貴方は良いんですか?」
「ん?と言うと?」
「だって、私たちはあくまでも一市民であって、他国の重鎮なんかじゃありません。そんな人間をあからさまに助けたら流石に外聞が悪いんじゃ......後になって国民からバッシングを受けたりとかするかもしれないですし......。」
「ローズ......」
シグウィンが切なそうにこちらを見る。彼女もまた似たようなことを考えていたのだろうか。
だっておかしいだろう。いかにか弱そうな観光客だとはいえ、だからと言って最高審判官や水神が積極的に援助するなんて前代未聞だ。ここまで手厚くする理由があるのではないか。そうでないと逆に不審に感じてしまう。
「おや、レディを助けるのに理由が必要かい?」
「......はぐらかすおつもりですか?」
「とんでもない。僕はあくまでもヴォートラン君の人を見る目を信じたまでさ。それに他国の子どもがフォンテーヌで迫害にあったとなればそれこそ外聞が悪くなる......ほら、つまり君を助けることはフォンテーヌという国の体裁を保つことになるんだよ。むしろそうしないとマズいまであるのさ。」
本気で言っているのだろうか。私のような幼子の価値なんてたかが知れている。たとえ私が未来の執行官の妹だからって、易々とファデュイを送り込むなんてことは出来ない筈だ。だから、外交関係の悪化を防止するためだなんて言い分はフリーナがわざわざ私を助けた理由の説明にはならない。
「子どもが一人被害にあった程度で、スネージナヤから付け込まれるとは思いません。ファデュイの包囲網だって街中に堂々と張っているわけではないでしょうし、そこまで外交関係に過敏になる必要があるんですか?」
「ああ、ファデュイ......
え。
「ん、どうかしたかい。」
「い、今なんて?」
「......?いや、だからつい最近ファデュイについて気をつけるように苦言を......。」
「その前です!」
「ええと、
なんで
意味が分からない
「すう、じゅうねん......?なんで、どういうこと?」
「ローズ?どうかしたの?」
世界から音が消える。
甲高い耳鳴り脳内を反芻する。
今聞いた言葉は聞き間違いであると思いたいが、残念ながら私の鼓膜は彼女の告げた真実を一切の
ファデュイはここ数十年で頭角を現したという言葉を聞いた瞬間、私の中で恐ろしい仮説が生まれた。頭に浮かぶのはつい最近聞こえるようになった謎の女性――――自らをイスタロトと自称する女のことだった。時の執政は文字通り『時間』の概念を司る。そして、私は彼女の言葉を初めて聞いたと同時に意識を失い、視界から『散兵』が消え、気が付いたらフォンテーヌに流れ着いていた。当初からおかしいとは思っていた。
「じゃあ、私が今いる時代は......」
貧弱な私が海を越えて運よくフォンテーヌに漂流するなんて非現実的すぎるし、今見ている景色は夢なのではとも考えた。しかし、時の執政が関わっているのだとすると、仮にあの喧しい女の言っている言葉が真実であるのならば......もしかすると私は海を渡ったのではなく、時代を超えてしまったのかもしれない。
ようやく気が付いたの
そうだよ。ここは君の生きていた時代じゃない......もっと昔の時代だよ
君の『還して欲しい』という願いを成就させた
千切れた腕は治したし、時代も巻き戻した
ぜんぶ君の願いを叶えた結果だよ
それに、
イスタロトは淡々と真相を告げた。
彼女の言葉は真実なのだろうか。
では、魔物に食いちぎられた右腕が元に戻っていたのも、
もしそうなら、今は一体どの時代なのだろうか。
私はもう二度と家に帰れないのか?
一度考え始めた思考は止まらない。
「帰れ、ない.......?そんな、どうして」
途端に、今見ている風景が絵本の中に描かれた粗雑なイラストであるかのように感じ始める。自分の身体が宙に浮いていくような浮遊に襲われて胃液が上がってくる。
「......うっ」
「ローズ、貴女お顔が真っ青よ。出会った頃よりもずっと。体調が悪くなったのならウチのお膝で寝てもいいのよ?」
シグウィンの声で辛うじて現実に意識を繋ぎ止める。いや、此処は現実ではないのか。一体この感覚をどう表現すればいいのか。しかし一つ確かなことは、シグウィンは私の味方であるということだ。
「......大丈夫だよシグウィン、本当に大丈夫。ちょっと眩暈がしただけだから......」
「誤魔化さないで。本当に心配なのよ?そもそも傷だって完全に癒えていないのに街を歩くなんて無茶だったのよ。」
シグウィンの心配そうな顔が私を見ている。ずっと私の身を案じてくれていたことに嬉しさを感じつつも、同時に、それに報いることが出来ないことに少しの罪悪感を抱く。故郷から逃亡した挙句に家族への謝罪をする機会すら失われつつあるのではと震え始めた身体を抑え込み、シグウィンに心配をかけないために取り繕う。
「これでもシグウィンに治療してもらったお陰でだいぶマシになっているんです。本来なら死んでいてもおかしくなかった筈の私をここまで延命させてくれたんですから、シグウィンのために多少の無理はさせてよ。」
「似たようなことを何度か聞いた気がするし、貴女の大丈夫はまったく大丈夫じゃないってことも分かってるわ。」
「それはシグウィンも同じでしょ。」
売られた言葉を買い込んでしまう。
反射的に言葉を返す。
「それでもダメなのよ!人間の真似事だけど、ウチにだって医療の見識がある。そんなウチから見ても今のローズはボロボロなの。少しの不調だって見逃せない......ごめんなさいフリーナ様!この子あんまり体調が良くないからここらで一度お暇をいただいても良いかしら?せっかく誘ってくださった折、言い難いのだけれど......」
「あ、ああ構わないよ。僕も彼女が心配だ......どうか無理はしないでくれ。迎えを寄越そう。」
「ええ、ありがとう!」
シグウィンは勝手にフリーナに断りを入れて私を連れ帰ろうとする。しかし帰るわけにはいかない。私がシグウィンを街に連れてきた目的は、カロレとシグウィンを合わせることにある。カロレとシグウィンは旧知の仲らしいから、きっと互いに良い考えを持てる機会を作ろうと思ったのに、私の勝手でおめおめと引き返すわけにはいかない。水神の庇護がある今がチャンスなんだ。
「私は大丈夫ですから、話を続けましょう。」
「ローズ!」
「もう、何?あんまりしつこいと怒るよ。私だって子どもじゃないんだから、ちょっと無理して動くくらい造作も......。」
造作もないと、そう言おうとした時シグウィンがワナワナと震えているのが分かった。奇妙に思って口を閉じた私をキッ!と見上げた彼女は。
「あなたは......ッ」
「シグウィン?」
「.....貴女はッ!
まだッ!
子どもでしょう!?」
「っ!?」
「わぁっ!?」
声高に叫んだ。
初めて見るシグウィンの怒った顔。
初めて浴びるシグウィンの怒号。
思わぬ反撃を受けた私は言葉を失ってしまった。フリーナも驚きのあまり間抜けた声を出しながら椅子から飛び上がっていた。
シグウィンが凄みのある剣幕で私に迫る。
「貴女、自分が何を言っているのか分かっているの!?いいえ、その様子じゃあちっとも理解していないでしょうね!」
「し、シグウィン?」
「初めて貴女を浜辺で見つけた時、良いペットを見つけたと思ったのよ。別に危害を加えるつもりなんてないけれど、人間ちゃんたちの機微にどこか愛玩めいた感情を覚えてしまうのも事実だもの。要は打算半分な気持ちで面倒を見始めたの。」
「ちょっと待って、それは初めて聞いたけど。なんて言った?愛玩って......。」
「黙って聞いて!」
「......は、はい」
私に発言権はないらしい。
「貴女を櫓の寝台に連れて行って衣服をはぎ取った時、私が何を見たと思う?」
「......何を見たんだい?」
「ちょっとフリーナ様、別に私のことなんてどうでもいいでしょう?」
フリーナがおずおずとしながら口を挟んできた。彼女もシグウィンの話すことに興味を抱いたらしい。紅茶はまだ残っているのに、身を乗り出して聞いてきた。
「それは......」
「ちょっとシグウィン、水神様がいる前で話す内容なんかじゃないでしょ。」
「――――口元の嘔吐痕」
「え......」
「加えて全身の打撲や鬱血に......腱の断裂、それから目の充血や肌に火傷の痕もあったわ。」
それはスネージナヤの吹雪の中で受けた傷たちだった。今も尚私の脳裏に刻まれて離れない痛みの記憶が呼び覚まされる。恐らく、最も他人に見られたくないものだ。
すると唐突にイスタロトの独白が聞こえた。
ああ、伝え忘れてた
君の傷を完全に癒す前に、君を
イスタロトがなんてことのないような調子で真実を述べる中、それを聞いた私は無意識に己の右腕を抱いていた。
「それに加えてあの瘴気は何なの!?あれは......元素力と言うよりも
「正直、これまで生きてきて貴女ほどの酷い状態になった人間なんて見たことないのよ......ッ!見ている私の方が苦しくなる程だった......。不思議なことにそれらの傷は時間を置くに連れて異様なスピードで回復していったけれど、それでも肉体へのダメージは残ったままでしょう?そんな状態でどうして大丈夫だなんて言えるのよ。」
「貴女はいっつも私のことを考えてくれている」
「けど、肝心な貴女自身は誰が守ってくれるの?」
「ねぇ、本当に大丈夫なの?本当に無理していないと言えるの?」
「貴女の国は、貴女の周りにいた人たちは、貴女にどれだけの業を押し付けたの!?」
シグウィンは底抜けの優しさを向けてくる。彼女が私を見る目が時たま愛玩動物を見るようなものになるのは少し恐いが、それを考慮しても尚彼女の善性に疑いの余地などない。彼女を気遣うつもりが、いつのまにか私の方が気を遣われてしまった。自分にとって嫌な可能性に思考を回すと頭が真っ白になるのは私の悪い癖だ。
「ローズったら、ウチが街の人間たちからどう言われているかを見てからはずっと気を張っているでしょう?ウチは気付いているんですからね!?」
彼女は私の手をぎゅっと握った。
暖かい。
「貴女に他人を助けている暇なんてないでしょう、シグウィン。」
「ローズは他人じゃないわ。とっても大事なお友達よ。」
「そのお友達とやらの手はすっごく汚れてるみたいだけどね。そんな奴の怪我なんて治す価値はないんじゃない?」
「価値はウチが見定めるわ。宝石というものは自分自身の輝きには気が付かないものなのよ。」
「その輝きが......他人の血で放たれているものだとしても?」
「それでも輝いていること自体は事実よ。」
ロマンチストな言葉の掛け合いだ。我ながら恥ずかしい。フォンテーヌの雰囲気にでも当てられたのだろうか。でも不思議と羞恥で顔が熱くなることはなかった。シグウィンの言葉が偽りではないと理解していたからだ。
私自身、目標を見失いかけていた。
嗚呼、かつての冬国の窓から眺めていた鉄道の黒煙が思い出される。私はどうしたいのだろう。帰りたいのか。はたまた、人里離れた場所で暮らしたいのか。私は確かに故郷に恐怖しているが、それは帰郷への拒否を意味するのか?
「シグウィンに認められた所で、結局私は......」
「よぅし!決めた!」
「え!?」
「フリーナ様?」
フリーナが大声を出して立ち上がる。勢いよく押された椅子の脚が床を擦る音をもかき消す彼女の大声は、一瞬だけ周囲の目を引く。私はなんだか気まずい気持ちになったが当の本人は意に介していないようだった。
「君たちを見ていたら居ても立っても居られなくなってしまったよ!これから一緒に街を見て回ろうじゃないか!」
一国の神からのデートのお誘いだった。根っからの芸人として、来賓である私を楽しませたいという欲求が刺激されたのだろうか。
「え、でも私
「なぁに、道中の支払いなどは全て僕が......いや、後でヌヴィレットに請求することにしよう!」
「......それは、良いのかしら?」
そう聞いたのはシグウィンだ。
「勿論だとも!賓客はそういう野暮なことは気にせず、思い切り楽しんでくれればいいのさ!さて、心持ちを改めて早速行こう!茶葉の芳香を嗜んだ後は歌劇と相場が決まっているからね。」
「え、ちょっと......待ってくださいフリーナ様!ほら行くわよローズ!」
「で、でも......結局私は貴女たちに何も話せていない。何も示せていない。」
「もう!さっきの話ならもう決着したじゃない!」
え?
「ウチは貴女が何処の誰であろうと手放さない。」
「過去の貴女がたくさんの過ちを犯してきたのだとしても、ウチは今の貴女を好きになったのよ。」
眩しい。
あまりに眩しくて見れない。
異国であっても得難い共を得ることが出来るのだと、異種族差別によって虐げられている彼女に思い知らされた。吹雪と血肉の感触しか残っていなかった記憶に新しい日差しが差し込むーーーシグウィンという名の日差しが。
「さ、行くわよ!」
シグウィン連れられてカフェを出る。支払はいつの間にか済んでいた。フリーナが支払ってくれたのだろう。とても優しく善良な神だ。私の故郷を統べていたアナスタシア皇とは正反対の性格をしていて、なんだか逆にどう接していいのか分からなくなる。
惨たらしい仕打ちの後に待ち受けていた過剰なまでの庇護は私を戸惑わせるには十分過ぎた。けれど、嫌ではなかった。現に私は彼女たちの手を振り払えないでいる。かつて、凍えるような洞窟の中で人間だったものたちを喰らった
水神とメリュジーヌに手を引かれながら街を歩く君はとても楽しそうに笑っていました。めでたしめでたし。
......という感じで、この時間を永遠に続くシルクのように引き伸ばしてあげたかった
幸運にも、高天の主は頑なに沈黙を貫いている
今なら、君をこの時代に留めることは造作もない
......そういえば話は変わるけれど、水神に劇の感想を訊ねられた時の君はぎこちなくも真摯に「つまらなかった」と答えたね?
僕にとってはそれがとても嬉しかったんだ。あの陳腐な悲劇を拒否した君の眼差しから「まだ生きていたい」という意思が見えたから。
そして何よりも、その答えを聞いた水神が屈託のない笑顔を見せながら安堵の息を漏らしたのを見て、僕は更に嬉しくなったんだ。
彼女も僕と同じように、君のことを心の底から憂いていたんだってわかったから。
けれど、そんな風に穏やかな心を持つ者ばかりじゃあない。歪な心を持つ者だっている。
色眼鏡によって視界の窓がぼやけていても尚、僕との対話を受け入れてくれた月の女神たちや、後に大白蛇の庇護を得ることになる太陽の民たちの人間性はとても光り輝いていた。そして、そうではない者達もいた。
外界の力に染まってしまった君をテイワットの俗世に帰せば、きっとまた悲惨な目に遭うだろうね
それだけは絶対にダメ
君はこの時代、この土地に留まってもらわなくちゃならない。君の安全のためにもね。
◇
「ふう、もうこんな時間かぁ。楽しい時間はあっと言う間だね。」
フリーナは悲しそうに帰路を歩く。彼女のヒールが街道を踏みならし、軽やかな音が軽快なメロディーを奏でる。フリーナはご満悦だ。一国の神とは思えない程に純粋な笑顔が街灯の淡い光で照らされる。
突如立ち上がったフリーナに連れられた私とシグウィンは、彼女の意のままにフォンテーヌの各地を巡る旅を送ることになった。歌劇場での鑑賞から始まった旅は、夕方のカフェテリアでティータイムを嗜むに終わった。で、たった今その旅が終結したわけだ。
時刻は午後二十時を回っている。陽は落ち、人々の喧騒もない。ただ冷えた風が頬を撫でるのと友人の弾む声が聞こえるだけだ。シグウィンの小さな手が私の右手の指と捕まえて、くいっと引っ張る。
「体調はどう?もう辛くない?」
「もう......だから大丈夫だよ。」
「そう我誤魔化そうったって無駄よ。ウチの眼は煙に巻けないのよ!」
「そうだよ。メリュジーヌの五感は人間のそれよりも何倍も鋭敏だからね、疑われたらささっと白状してしまうのが先決さ。」
「それ、経験談?」
「え!?は、ハハッ......まさか!僕がヌヴィレットから経費申請書類について詰問されたことなんてあるわけがないだろう!?」
「あるんだね......」
彼女も神として色々と苦労しているらしい。ヌヴィレットというのはあの最高審判官のことだろうか。一度しか会っていないからか、彼の顔を思い浮かべるのに数秒要したが、それ以降に人相を忘却することはなかった。あの何とも言えない威圧感が妙に印象的だった。
彼とフリーナは一体どういう関係なのか。
フリーナは神であるとして、ヌヴィレットが冠する最高審判官という立場はどれほどのものなのだろう。
もしかして、この国でのあらゆる司法手続きは彼の頷きを以て是とするのだろうか。もしそうなのだとすると世にも恐ろしき圧政者になるポテンシャルを秘めていることになる。その権威はきっと私の故郷を牛耳る皇后たる女王にすら届き得る独裁を手にできるだろう。
出来ることなら、ヌヴィレットにはもう近づきたくない。あの爬虫類じみた瞳孔に睨まれると、なんだかスネージナヤで私の腕を食いちぎった魔物の禍々しさを思い出すから。
「さて。いつまでもレディを連れまわすわけにもいかない。ここらでお開きとしようか。帰りは護衛を付けるから安心して帰路に付くといい!」
「護衛?それって一体......」
誰だ、と聞こうとした時、何者かが私の問いかけを遮った。
「こんな夜更けに淑女だけでお茶会ですか?フリーナ様」
男性の低い声。
聞いたことのある声だ。
「いいじゃないかヴォートラン。こうして賓客であるこの
「それ、ヌヴィレット様の前でも堂々と言えますか?」
「うぐっ......痛いところを突くじゃあないか!」
男――――特巡隊隊長ヴォートラン――――は銃器を肩に掛けながらこちらに寄って来た。顔に疲弊の色が見えた気がしたが、それはすぐに消えた。
気のせいだったのだろうか?
「わざわざ迎えに来てくれたんですか?」
「ああ、
「うぅ......連れ回すのに夢中になってしまったのは申し訳ないと思っているよ。」
「言い訳は執務室に戻ってからにされてください......ん、ローズ、髪にゴミが付いているぞ」
「え、何処ですか?」
「待て、取ってやる......」
項垂れるフリーナを他所目にヴォートランが私の耳元にまで顔を近づけた。しかし一向に彼が私の髪に手を触れさせることはなかった。彼はしゃがんだままで喋り出した。
「今朝の新聞を見たか?」
「え?」
「最近、保守派の奴らが何やら良からぬことを企んでいるらしい。今朝の騒動もそうだが、裏で糸を引き始めているかもしれないから、君も気を付けてくれ。」
「良からぬことって......」
「それが分かれば苦労はしないが......そうだな、例えば『冤罪事件』に巻き込むとか。」
「え、冤罪?」
「ただの例えだ。そう身構えないでいい。執律庭も奴らの言いがかりを本気にするほど馬鹿じゃないさ。後は本人が思い詰めないようにするだけだ。」
そう言い放つ彼の顔は暗澹たるものだった。まるで
なぜか、カロレの言っていた言葉を思い出す。
彼女は「私は窮地に立たされている」と言っていた。
彼女のような真面目なメリュジーヌが、彼岸から私たちを見ている気がしてならなかったのだ。
「......どうしてフォンテーヌの人達はそこまでしてメリュジーヌを嫌うんですか?」
「単純なら話さ。人間は一度でも快適な椅子に座ってしまったら、その椅子にしがみつきたくなるから、意地でもそれを守ろうとするんだ。」
「そういう話なら私の国でも聞いたことがあります。旧貴族の穢れた様を。」
身体が弱い私は自室に引き篭もって読書に耽ることが多かった。何気なく開いた本が汚れた冬国の歴史書であることなど日常茶飯時だった。ページをパラリと捲っても捲っても、そこには貴族という名のハットを被った髭面たちが偉そうにこちらを見つめて自分が如何に素晴らしいかをつらつら述べるだけ。面白いと思ったことは一度たりともなかった。
「貴族?君、もしかして結構良い所のお嬢さんだったりするのか?そういえば、言葉遣いもやけに丁寧だったな」
「......まさか、普通の一家の
「......そうか?まぁ、深くは聞かん」
ちょっとの嘘が針となってチクチクと私の喉に突き刺さる。親切なヴォートランさえも欺瞞の霧に撒こうとしている私という獣は、なんてことない顔で公道を歩いている。隣で不思議そうにしているシグウィンにすら、スネージナヤでの凶行と
やはり不誠実だろうか?
秘密を打ち明けた方がいいのだろうか?
今、カロレはどうしているだろうか?会いに行く予定だったのに、私が体調を崩したせいでフリーナとシグウィンに気を遣わせてしまい、時間を取れなかった。
というか、元の時代に帰るつもりだというのに秘密を打ち明ける必要があるのか?
そもそも元の時代に帰れるのか?
分からない......私はどうしたらいい。
「......」
結局、ヴォートランとそれ以上の会話を弾ませることはなかった。
過去編長すぎィ!