あの日以来、後悔しなかった日はない-----
弟たちの子守をお願いすると、あの娘は笑顔で受け入れてくれた----いつものように。
穏やかな日常だと錯覚していた
「兄さんこそ、無理しないで下さいね。もう夜遅いですから...。」
どこで間違えたのだろう
「あれ、エレーナ?」
何がいけなかったのだろう
「珍しいな...何も言わずに出るなんて。」
彼女は何を感じていたのだろう
「テウセル、エレーナがどこに行ったのか知ってるかい?」
「んぅ....お兄ちゃん?エレーナお兄ちゃん」
それ以来、彼女は帰ってこなかった
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北国銀行とは、少し前に璃月に建設された銀行施設。
外見こそ他の建物とさほど変わらないが、中に入ればその印象は大きく変わる。
金色を基調とした配色の装飾から始まり、璃月の文化系統を主とした柱の存在感、漂う硬貨の香り、多くの人々の賑わいで形成される喧騒。
一国の組織が建設したと言うには相応しい威厳を感じることが出来る。
しかし、ただ煌びやかなだけではない。
北国銀行は、その名の通り金銭の貸し借りを取り仕切る場所であり、多くの商人が利用している。装飾こそ凄まじいが、その本質は結局のところ"銀行"であり金融手続きが行われる。
そして、その実態には黒い噂が付いて回っており、そこに物騒かつ冷酷な国柄が表れている。
それは、債務回収において、未払い金を払う意思のない顧客をどこまでも追いかけ、手段を選ばず取り立てると言うものだ...。
返済金を滞納した顧客側に非があるということは言うまでもないが、その取り立て手段を選ばないとなれば、その様に畏怖を覚える者がいるのも当然と言える。
以上の理由があり、ファデュイという組織の物騒さも相まって気軽に利用することはオススメされていない。
そして、そんなとんでもない場所に三人は訪れていた。
とは言っても、銀行に玄関前に留まっているので内部の様子はみえないが...。
「さあて、ここまで来れば大丈夫。君たちも気兼ねなく話が出来るだろ?」
タルタリヤはそう言うと、話の続きをするべく蛍たちの方へと体を向けた。
一方で、先程までいた低地の路地を移動し、北国銀行前にやってきた蛍とパイモンは気が気ではなかった。
確かに、北国銀行は比較的、人の目につき難い場所ではあった。
他の建物と同じように少々高い場所に位置している上、ファデュイの施設であるという事実が他の者の目を遠ざけていた。
しかし、ファデュイの拠点であることもまた事実であった。
実際、北国銀行の扉の前には見張りの者の思われるファデュイの男が立っており、不穏な動きをしないように監視されているようだった。
そんな場所に執行官『公子』と行動を共にしている為、一時も気を抜くことが出来なかった。
一刻も早くここを離れたかったパイモンは、用事を済ませんとタルタリヤに話の続きを話すように促した。
「話ってなんだよ?オイラたちあんまりのんびりしてられないんだぞ。」
パイモンは怪訝そうな態度でタルタリヤにそう言った。
「つれないねぇ...それともまだ俺のことを信じてくれていないのかい?確かに、立場こそ君たちと対立しかねないけど、何も悪い奴じゃ....いや、まぁ悪いやつか....。ともかく!一度俺の言うことに耳を傾けてもいいんじゃないかな?」
「よく言うぜ!先に手を出したのはお前たちの方なんだからな!」
「それは俺じゃなく『彼女』に直接言ってくれよ、おチビちゃん。」
「ムキーッ!!!やっぱりコイツもムカつくぞッ!!!旅人!」
「はぁ....早く本題に入って。」
「ハハッ!ごめんごめん。つい反応が面白くて、ついね。」
タルタリヤはそう謝罪すると、真剣な面持ちで話を繰り出した。
「君たちがぶつかっている最も大きな問題は、岩王帝君殺害の容疑をかけられているということだ。そして、君たちは人探しをしている最中で、長い間拘束されるのは避けたい。そうだね?」
「おう。コイツは離れ離れになったお兄さんを探すために旅をしてるからな。」
「ならやっぱり、早期に疑いを晴せるに越したことはないわけだ。」
タルタリヤの放った言葉にパイモンが疑問の言葉を投げた。
「ん〜...でも、本当にそんな方法あるのかぁ?」
蛍とパイモンからすれば、国の治安部隊から指名手配されているこの状況を好転させる案など一切思いつかなかった。
果たしてタルタリヤはどのようにしてこの最悪の状況を覆すというのだろうか...。
「手っ取り早く言うと、『仙人』に会うことだ。」
そうタルタリヤは口にした。
「仙人?」
「ここ璃月には、街中から離れ、とある山間に佇む"絶雲の間"という場所に人々が敬う『仙人』が住んでいる。」
「おお!そんなすごい奴らがいるのか!!!」
「.....と、されている。」
「...どっちだよ!!!」
璃月には俗に『仙人』と呼ばれる存在がいる。
言い伝えによると、かの岩神モラクスと古来より契約を交わし、長い間璃月を守護してきた存在であるとされている。
民衆の信仰の対象にもなっており、人々は願いの成就を夢見て"絶雲の間"に向かい、願掛けを行うしきたりもある。
しかし、肝心な『仙人』の姿を見たと言うものはいない。
その姿は人の姿をしている者もいれば、獣のような姿をしている者もいると言われているが、真偽は定かではない。
それを知る者がいるとするのなら、同じく『仙人』として俗世から離れている存在か、かの『岩君帝君』のみであろう。
「これはあくまで噂というか、"そう信じられている"って話だからね。とはいえ、俺は"彼ら"が存在していることを知っている。そして、そんな彼らと対話する術もね。」
タルタリヤはそう言うと、懐からとある札を取り出して蛍に差し出した。
「なんだぁこれ?」
「それはお守りみたいなものだよ。それは、君らが『仙人』に危害を加えられないようにするための物だから、肌身離さず持っていること。いいね?」
「なんて言うお札なの?」
そう聞くと、彼は次のように答えた。
「『禁忌滅却の札』だよ。これがあればきっと、『仙人』たちも話に応じてくれるはずだ。」
「『禁忌滅却の札』...?」
その札は風情香る黄土の色に包まれており、不思議な力を感じさせた。
手に取ると、素材特有のザラつきを肌で感じることができ、どこか親近感を覚えさせた。
『公子』曰く、この札を持つことにより、仙人との交流をスムーズに行える一助になるものなのだとか。
そして彼は次のように続けた。
「その札を持って『仙人』に帝君殺害の真実を伝えるんだ。璃月七星よりも先にね。今の璃月の中で、君たちの助けになってくれるのは、彼らだけだからね。」
「....お前の言うことに従うのはちょっと怖いけど、一先ず冤罪を掛けられることは避けたいからなぁ...。」
「そう言うことさおチビちゃん。勿論、俺にも手助けをする理由がある。人が他者を助ける時は、決まって利害が伴うからね。」
「...それ言っちゃうんだ....。」
「ハハハ!誤魔化すのは合わない性分でね。けど、嘘は言ってないさ、仙人たちの支持を得ることは君の身の潔白を証明するのに大いに役立つ筈さ。」
情報も頼る伝手もない旅人たちに、タルタリヤは「璃月七星よりも早く、仙人たちに真実を伝える」というものだった。
そも、仙人の存在や居場所など知らない旅人たちは、タルタリヤの提案に対し怪訝な顔を示した。
今しがた懐から出てきた『禁忌滅却の札』もそ言うだが、突拍子もない話が次々と出てくるせいで、より一層疑心暗鬼になっていた。
しかし、他に手段がないのもまた事実であった。
少し考えた後、蛍はタルタリヤの提案を受け入れる意思を示した。
「うん、一先ず貴方のアドバイスに従ってみる。」
「うう...オイラなんだか納得いかないぞ...。おい!行った先々で罠なんか仕掛けるなよ!」
「驚くほど信頼がないんだね...全く、『淑女』はどんな仕打ちをしたんだか...。」
少々の意見の相違や疑心暗鬼の念はあったが、蛍とパイモンは仙人たちを訪問することに決めた。
たとえタルタリヤに良からぬ企みがあったのだとしても、蛍たちの協力的なのは事実だからだ。
今はとにかく疑いを晴らして璃月内で十分な活動が出来るように立ち回ることが先決である。
決して目の前の男の言うことを信用したわけではない。断じて。
「よし。話は以上だ。あまりここに長く止まっているのも得策じゃない。君たちも俺たちファデュイのテリトリーにいるのは、気が休まらないだろ?」
「初めて意見があったね。」
「辛辣だなぁ....ま、良いけどね。」
彼曰く、話はもう終わったようだ。
であればここからすぐに立ち去ろう。
彼の言う通り、ファデュイの管理下にあるであろう銀行なんて、胡散臭い気配しかしない。
彼だって完全に信用できるわけじゃないし、パイモンを連れてすぐにここを去ろう。
さっさと『仙人』のいる場所に行って、誤解を解けるように.....。
しかし....璃月の各地にいると"されている"仙人たち...
果たして本当に出会うことが出来るのだろうか...。
目当てだった岩の神が早々に死去してしまい、当初予定していた謁見は実現せず、それどころか追われる身になってしまった。
一刻も早くこの危機的状況を解決し、旅を再開させなければ...ここで足踏みしているわけにはいかない。
だからこそ、目の前の男が信用足るか否かを見極めなければならない。
現状頼れる人間が居ない以上、こうして助けてくれた者を頼るのは自然な流れだが、身分や発言もあって中々に信用しきれない。
果たして、ファデュイの執行官の言うことを聞いても....いいのだろうか?
もしここでこの男が私たちを甘露な罠に陥れようとしているとして...それを見破ることが出来なければ、かなりの痛手を被ることになる。
少しでもこの男に対する情報を掴まなくてはならない。
そういった疑問が蛍の脳内に浮かび上がり、またも思考に耽る。
そしてふと、聞きそびれた"彼の傷"についての興味が湧いて出た。
やはり彼の数多の傷口のことを聞かずにはいられなかった...。
彼ほどの手練がここまでの負傷を負う理由を、知らずにはいられなかった。
「そういえば...その傷、どうしたの?」
なんでもないような風を装って質問する。
まるで世間話をする友人のように。
「...。」
『公子』の歩みが止まる。
「不意打ちとはいえ、一度は執行官の実力を見たことがある...。"彼女"と同じ存在の貴方にそれほどまでに負傷を負わせる相手って、何?」
「随分俺のことを買ってくれているみたいだね。けど、そんなに気になることかい?」
「私たちは、今から璃月の山々の奥地に向かうことになる。もし執行官すら手を焼く存在がいるなら、事前に知っておく必要があるでしょ?」
これは本当だ。
ただでさえ璃月に来て日が浅いのだ、障害に成りうるものがあれば注意しておく必要がある。
「なるほどね...けど、その心配は無用だよ。"彼女"が君たちに危害を加えることはない。」
「"彼女"...?」
「気にしないで。...まぁ、ちょっとした事故みたいなものさ。」
タルタルヤはそう言って傷の件に関する話題を打ち切った。
あやふやで、かなり怪しい態度だ。
恐らく、答えられない理由があるのだろう。それが彼の態度から容易に汲み取れた。
どこか煮え切らない様子だった。
それはタルタリヤ自身ではなく、その"彼女"とやらに秘密があるようだ。
蛍からすれば、試験の解答が、うっすらとボヤけるガラスの向こうに貼ってあるかのようで、モヤモヤとする気持ちにさせられた。
「おーい!!どうしたんだ〜?早く行こうぜー!!」
パイモンから声が掛かる。
彼女は『公子』の不自然さには気がついていないようだった。
蛍としては、もっと彼を問いただしたいところだったが....。
しかし、本人が回答を避けるようであれば仕方がない。
今は目の前の問題に向き合うことに集中しよう。
そう結論付けると、蛍は胸の奥にある疑問をそっと端に寄せ、パイモンと共に歩き出した。
二人のことを見送ったタルタリヤは、ふと言葉を漏らした。
「エレーナは、あの娘は優しいからね...。君たちのような善人には絶対に手出ししないだろうさ。」
「.....エレーナ、君が抱えている物は、家族にも話せないことなのか?」
「俺は.....。」
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軽策荘
ここは璃月の地域の中でも端の方面に位置している地域となる。
年を召した老人の保養地として知られているが、同時に幼い子らを見守る休憩地としての側面もある。
高低差の激しい地域ゆえに棚田が数多く広がっており、鮮やかな黄土色の花畑が住民の穏やかな心を形取っている。
青色の屋根を持つ建築物と棚田に広がっている黄土色の配色が相まって、夕暮れ時には圧巻されるほどの景色を見ることができる穴場だ。
空気も澄んでおり、療養にはうってつけの場所である。そんな軽策荘に、最近になって転がり込んだ少女がいた。
「...ここに来て一週間は経つのかな...。」
彼女-エレーナ-は、軽策荘にて療養の最中だった。
ぼーと軽策荘の夕焼けを眺めてる彼女の体は病床にあり、その姿はまるで生きた屍みたいだった。
屍は死してもおかしくない程の重症を負っており、顔面を除く全身に包帯を巻いていた。
枕元に置かれた神の目は依然として煌々と輝いていたが、それとは対照的に彼女の瞳からは輝きは失われていた。
澱んだ瞳の裏ではこれまでの逃避行の光景が濁流のように押し寄せては、その一つ一つが心を蝕む。
あの時ああしていれば.....
なぜあんなことをしてしまったのだろう.....
どうしてあのようなことになってしまったのだろう.....
後悔の津波に脳が侵され鬱屈とした気分になる。心躍るような出来事を探すために、再び脳裏の棚に手をかけて思いっきり引いた。
出てきたのは『初めて胡桃と出会った日』。
しかしそんな胡桃とも.......あんなことになってしまったことを思い出し、また自己嫌悪に陥る。
あの時......
胡桃の元を飛び出し、雨の中奔走したあの日...意識が朦朧としていたエレーナの眼に映ったのは、兄の姿だった。
それまで満身創痍になるまで駆けていた彼女にとって、唐突に眼前に現れた兄の姿は、悪魔のようにも天使のようにも見えた。
兄は何かを必死に訴えていたようだったが、生憎と仔細を知ることは叶わなかった。
そんな余裕はなかった。
焦った私は駆け寄る兄に向けて刃を向けた。向けてしまった。
満身創痍の身で勢いのまま刃を振るい、場を錯乱させて、そのまま逃げ仰た。
......悪いことをしてしまった、だろうか。
恐いと感じてはいても、それでも一人の兄であることもまた事実なのだ。
それに、今思い返すとあの時の兄は、こちらを気遣うような表情をしていたような気さえする。
もしかすると、兄は純粋に私を探しに来ただけなのかもしれない。
ただの私のはやとちりだった可能性が....。
いや、このようなことを考えるのは辞めにしよう。
そうエレーナは結論づけた。
もう何を考えても無駄に感じた。
故郷を飛び出し満身創痍になり、流れ着いた地で出来た友も自ら手放した....。
恐らくこのまま孤独に死んでいくのだろう。
もがいた結果も虚しく散るのだ。
窓の外から綺麗な緑葉が落ちてくる。
自分もこのように綺麗な色をしていた頃があったのだろうか、とふと思案した。
祖国を飛び出したあの日....あの日にもしも、あのまま留まっていたら幸せに暮らせたのだろうか?
...可愛い弟たちの顔が脳裏に浮かぶ、弾むような声が聴こえる...。
わけがない
全ては虚しいものだ。
最早何をしても無駄なのだろう。
これは私に与えられた罰なのだ。
私に胡桃に会う権利はない。
私を拾ってくれて、あまつさえ友達だと言ってくれた彼女に、私は....ずっと秘密を隠し続けてきた。
もしかすると、賢い彼女は私の素性に気付いていたかもしれない。
そんな彼女に甘えて、ずっと騙し続けてきたのだ。合わせる顔がない....。
しかし、ここでずっと甘えているわけにもいかない。
キィ......
戸の開く音がする。
「おや、もう目が覚めていたのかい?」
「若心さん...。」
エレーナが軽策荘の夕暮れを眺めていると、人が扉の向こうからやってきた。
お年を召した老女...若心さんが声を掛けてくれた。
彼女はここ、軽策荘の実質的な取りまとめ役のようなもので、多くの子どもたちや大人が信頼を置いている。
言動こそ穏やかだが、所作や声色に年配者特有の"厚み"をひしと感じる。
そんな彼女に世話になっているという者は多いのだろう。
かく言う私も頭が上がらない。
思わず体を起こして寝具から出ようとする。
が、若心さんは手でそれを制してそのままにするよう促した。
「すまないね。怪我人だと言うのに気を使わせてしまったようだ。」
「いえ、こちらこそありがとうございます。長い間後お家に置いていただいて...。」
「良いんじゃよ。」
そう言うと、彼女は何かを寝台の側にあるテーブルに何かを置いた。
それらは澄んだ色をした果実だった。
「ほら、もう何時間も何も食べていないじゃろう?すまないねぇ、私もつきっきりで看病してやりたいんだが、」
「あ、大丈夫です。むしろ、ありがとうございます...あんな状態になっていた私を、助けてくれて。」
「いいってことさ。困った時はお互い様だよ。ほれ、新鮮な夕暮れの実を剥いておいたから、お腹が空いたらお食べ。」
なんて優しい人なのだろうか。
ただでさえ裕福とは言えない暮らしのはずなのに、私のような浮浪者まで憩ってくれるなんて、なんてお礼をしたらいいのか....。
その親切心も相待って、新鮮な夕暮れの実の果肉がより瑞々しく、宝石のように見えた。
そう考えていると、若心さんが再びこちらを向いた。
「そういえば、あんたに面会人が来ていてね。なんでも、ここのところず〜っとあんたのことを探していたそうだよ。」
「面会、人?」
このタイミングで?
一体誰が?
ま、まさか兄さんがもう追ってきたの?
それとも往生堂の客卿が....?
そう危惧していると、どこからか慌ただしい声が聞こえた気がした。
「いたッ!!!!!!!!」
「...え?」
酷く慌てた様子で、息も途切れ途切れのようだった。
その者は自身よりも少し背丈が高く、長い髪を二つ結びにしていた。
少し毛先が赤みがかった黒髪はどこか見慣れたものであり、エレーナにとっては懐かしみを感じるものであった。
「胡桃.....?」
「はぁ...はぁ...エレーナ、ここに居たんだね。」
息を荒げながら部屋に入ってきたのは、親友である少女-胡桃-であった。
髪もかなり乱れており、かなり急いでここに来たことが伺えた。
そんなただならぬ様子の胡桃に動揺しながらも、エレーナはなんとか声を絞り出した。
「なんでここが...?」
此処に来た理由を問いただした。
それは純粋な疑問も含むが、"一体誰に居場所を教えられたのか"という懸念から出た不安の心象も含まれていた。
もしもこの場所が他の誰かに割れているのなら、ここも安全な場所ではないということになる。
そうなれば即刻離れなければならない。
しかし、途中で思考を中断する。
「(....何を考えてるの....。もう全部どうでもいいって、投げ出すって決めたばっかりでしょ....。)」
エレーナは自分自身の思考に驚きを禁じ得なかった。既に諦めてしまったと考えていたのにも関わらず、未だに生きることに執着している。
どうやら、エレーナは自身が考えている以上に、この世界に未練があったらしい......
「(なんて中途半端な....もう、何をしたって無駄なのに。生きたって、悲惨な目に合うって...分かってるのに。)」
未だに浅はかな希望を抱いてしまう自分自身を恥じた。
そんな自分を見せたくなくて、エレーナは思わず顔を伏せた。
「....エレーナ」
「...もう会うことはないって思ってたけど....一体誰に居場所を教えられたの?」
自分から聞いておきながら、次に胡桃の口からどのような言葉が出てくるのか、こわい。
侮蔑の言葉をぶつけられるのだろうか。
それとも私の支離滅裂な行動の数々を、咎められるのだろうか。
それか兄さんとの関係をネタに脅される...?
わからないけど、とてもこわい。
逃げていた現実を突きつけられるようで、目の前がぐわりと揺れる。
胡桃の顔色を伺おうにも、とてもではないがこわくて見れない....せめてもの努力で口元を視界の端で捉えるのが精一杯だった。
これまでの人生において、唯一無二の親友。
私の大切な人。
そんな人にまで拒絶されたら、私は....。
胡桃の口が動き、思わず身構える。
「...ッ。」
「ごめん」
..............あ、あれ?
「え?」
「エレーナのことを考えずに、勝手に呼び出して...」
「え、え?」
飛んできたのは怒号でもなく、失望でもなく、謝罪の言葉だった。
彼女は私を責めたりすることもなく、寧ろ申し訳なさそうに顔を歪めていた。
何故、貴女が謝っているのだろうか。
謝るべきは私の方なのに。
「貴女があんなにも思い詰めているのも気が付かずに、問い詰めるような真似をして....」
な、何を言っているのだろうか。
「い...いや、胡桃は別に何も」
「ううん、私はと〜っっても悪いことをしたの。」
悪いこと...?
「確かにあの時、私は鍾離さんがエレーナを問い詰めるなんて思いもしなかった。」
まるで悔いるかのような表情を浮かべて胡桃は語り出した。
「けど、私は鍾離さんの"上司"....。なら、部下の行動を管理するのも仕事のうちなの。だから鍾離さんを止められなかった私にも責任がある。」
「け、けどそれは詭弁で」
「ある。あるったらあるの。」
「ええ...。」
状況が状況ゆえに動揺してしまっていたが、よくよく考えれば鍾離はただ『公子』との関係を質問しただけであり、何か危害を加えられたけではなかった...。
ただ私が勝手に動揺して攻撃してしまっただけ。
だと言うのに、胡桃はそれでも謝意を示すと言う。
私は、何をしている...?
目の前の親友を心配させておいて、こうして頭を下げさせておいて、何も言わないのか?
狼狽えるだけか?
違う、私が取るべき行動はそうじゃない筈だ。
私こそ、誠意を持って謝るべきだ。
「....ごめんなさい。」
走ってきてくれたこの人に、感謝すべきだ。
「本当に、大丈夫だから。元はと言えばはやとちりして斬りかかった私の方が悪いんだよ。鍾離さんも胡桃も悪くなんてないよ。」
「エレーナ....。」
貴女はこれっぽちも悪くなんてないから、そんな顔をしないで?
貴女はただ私のことを心配してくれただけなんでしょう?
あの人....鍾離さんだって悪意はなかったんだから、これ以上私が意地を張るなんて、申し訳が立たない。
「そっか....。うん、わかった。エレーナがそう言ってくれるなら、この件はもう終わり!はい仲直り!!!」
「え、えぇ!?そんな唐突に切り替えなんて...!?いや、確かに私がそう言ったんだけど....。」
「でしょ?だからこれは満場一致の円満解決なの!はい!そう言うこと!!」
「....フフッ。もう、胡桃は相変わらずだね。」
私は何度もこの娘の笑顔に救われた。
璃月に来て間もない頃から、ずっと...。
感謝してばかりだ。
「そう言えばなんだけど、どうしてエレーナは正体を隠さなかったの?お兄さんがすぐそばまで来ていることを知っていたのなら、偽名を使うとか、髪を染めるとか...とにかく偽るための工作をするものだとばかりだと思っていたから。」
「そ、それは....。」
「ご、ごめんごめん!何か言えない深い理由があるってことだよね!!う〜ん分かるよ〜。私にもそういう...」
口を噤むエレーナに、胡桃は思わず戸惑ってしまう。
何事にも動じず冷静に応じる彼女が、下を向いて黙り込むことの異常性にはすぐ気が付いた。
焦った胡桃は問いかけを無かったことにしようとして無理やり話を変えようとした。
すると、エレーナが口を開いた。
「...だから」
「え?」
よく聞き取れなかった胡桃は聞き返す。
「だから!あ、胡桃には嘘なんて吐きたくなくて...。」
「エッ」
「....友達、だから。」
エレーナの口から語られたのは、思っていたよりも可愛らしく甘々しい理由だった。
それは普段の様子からは想像も出来ないほど、いじらしいもの。
「あんな、突っぱねるような態度だった私にも、明るく接してくれていた胡桃が、私にはとても眩しくって」
「ミッ」
「それに、胡桃は葬儀屋の子だったでしょう?普通の人とは違う死生観を持ってるから、その......こんな私とも、仲良くしてくれたから。」
胡桃の脳は混乱した。
「(これは、夢?なん、え、これは、何?デレ?デレ期なの?今まで無表情だった裏でそんな可愛いこと考えてたの?ていうことは、エレーナの中では「私 > 『公子』への恐怖」 ってコト!?これもう同意してるってことだよね。)で、でも、私だって結果的には鍾離さんと結託して、貴女を嵌めたことに変わりわないでしょ?多分軽蔑して
「でも、悪意はなかったんでしょ?よく考えれば先に手を出したのは私だし...」
それはそうだけど...。」
胡桃の言葉を聞いたエレーナは笑顔を咲かせて声を弾ませた。
「なら、嫌いになんてならないよ。それに一度や二度嫌なことをされたからって疎遠になる程、私たちはヤワな仲じゃない....でしょ?」
「ワ...ワ....(鍾離さーーーん!!!!助けてよーーー!!このままじゃこの娘のこと好きになっちゃう〜〜〜ッ!!!!!)」
胡桃は限界化していた。この女、エレーナの前では形無しである。普段の胡桃ならば、気ままな性格で周囲を巻き込んでいるような人間だが...いや、だからこそ、この少女の邪気のない真っ直ぐな好意にはなすすべがない。低い背丈も相まって、何かいけないことをしているかのような背徳感に襲われる。胡桃は己の溢れんばかりの情欲をなけなしの理性で押し留めていた。
「だから私は、貴女のためならどんなことでもするかr....胡桃?」
「私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は往生堂堂主私は.....」
...................
「えっと....胡桃?どうしたの?もしかしてまだお仕事残ってるの?...それなら、私のことは気にしなくてもいいよ?忙しいんでしょ?」
「...("お"仕事ってなに?"お"仕事って。普段は口数も少なめで敵に対しては辛辣な言葉遣いなのに、なんで私にはそんな可愛い言い方するの?)」
この女、もうダメである。この心中を、かの往生堂七十五代目堂主の祖父が知れば、哀れな孫の姿を嘆くことだろう。
そんな哀れな堂主がしばらくフリーズしているのを見て、流石に心配になってきたのか、エレーナは再び問いかけた。
「本当に大丈夫?もし体調が悪いなら人を呼んで....「ハッ!!い、いやいや、大丈夫大丈夫!!私はゼンゼン元気だから!」...そう?」
「(危なかった!!エレーナに聞くべきことが残ってるのに、うっかりトぶところだった...。私がここに来たのは、この娘に謝って誤解を解くため、そして...この娘が恐れているものをはっきりさせるため。)」
胡桃はギリギリで理性を取り戻した。
「...胡桃?」
「ねぇエレーナ、もう一ついい?」
そう、胡桃がここに来たのはただ限界化するためなどではない。決して。
「うん?なんでも聞いて?」
「(なんでも!?...いや、違う違う。)エレーナは、一体何を....恐れてるの?」
「あ....」
胡桃は遂に根幹について切り出した。
エレーナはこれまで胡桃以外の全てを外敵と見做して、常に警戒しながら過ごしてきた。
しかし、彼女の素がこれほどまでに穏やかなものであるのなら、そんな彼女がそれほどまでに刺々しくなるというのは、胡桃の胸をざわつかせた。
一体彼女は何を抱えており、何に怯えているのか。
"あの日"、『公子』の名前を出した途端に豹変したところを見ると、恐らく原因や彼女の実兄である『公子』が原因だと考えられる。
では、なぜこれほどまでに『公子』を恐れているのか...。
ただ純粋に戦闘能力に畏怖を覚えている...?
いや、もしそうなら、『公子』に限らず強者全員がその対象になる。彼のみをピンポイントに恐れる理由にはならない。
では、ファデュイという組織を恐れている...?
これなら少し信憑性があるが、ファデュイを恐れている人なんて彼女以外にたくさんいる。
これでは的当てゲームの際に、的以上に大きい岩を投擲し、"はい、的の真ん中に当たったね"と言っているようなものだ。
対象とするものの範囲が大きすぎる。
それに、重要なのは"なぜ恐れているのか"ということだ。
それを特定して取り除かなければ、エレーナを救うことには繋がらない。
ここまで来たからには、少し強引にでも彼女から聞き出さなければ...。
しかし、彼女は一向に真相を話そうとしない。
「...言えない。言えば、貴女を巻き込むことになる、から。」
「ここまで来たらもう巻き込まれたようなものだし、エレーナが困ってるんだったら喜んで助けるって!」
胡桃がそう言うと
「...前に言ってたよね。命はいずれ終わるもの。その流れを不自然に繋ぎ直してしまう者がいれば、往生堂の者として看過出来ないって。」
「...うん。」
「言うなれば、私はその考えに叛く行いをした...。禁忌に触れたの。」
「禁忌?」
「これ以上は言えない...。でも、少なくとも『公子』を避けているのは、私が犯した禁忌に関することが関係している。彼のことが怖いというよりも、"彼をそうさせた何か"を恐れているの....。」
エレーナは懺悔するようにそう語る。
「(『公子』を"そう"させた?)」
「私はッ...ここに、テイワットにいちゃいけないのッ!兄さんや、胡桃と...みんなと一緒にいる資格なんてない!!!」
すると、エレーナは唐突に呼吸を乱し始めた。
「ちょ、まず落ち着こうよ。ほらしんこきゅ」
「ハァッ...ハァッ......私がいることで、きっと裁きが下ってしまうの!!」
「エレーナ!?大丈夫!?」
「ッあぁああああぁああ!!!」
「....やばっ!!!」
ガシャン!!!!
側にあった陶器が音を立てて激しく割れる。
エレーナは大きく取り乱し始めた。
目を血走らせて髪を乱れさせ、手当たり次第に暴れ回っている。
他人が目の前で落ち込んだり動揺したりなどの状況は葬儀屋として多く経験してきた胡桃だが、これほどまでに狂う様を見るのは初めての経験だった。
驚いた胡桃は一瞬硬直したが、エレーナのただならぬ様子を目の当たりにしてすぐに体を抑えた。
幸い、彼女の体躯に小ささも相まって、容易に取り押さえることが出来た。
しかし取り押さえられてもなお、エレーナは暴れんとしていた。
胡桃は自身の認識が甘かったことを悔いた。
どうやらエレーナは先ほどの会話の中で何かしらの記憶を呼び覚ましてしまい、その中のトラウマに触れてしまったのだ。
「ぐ...あああぁぁぁ!!!!!」
「...ッ!!!」
後ろから羽交いぜめにして取り押さえる胡桃だが、人ひとりの発する馬鹿力に慄いた。
少しでも気を抜けば今にも拘束を突破されそうであった。
エレーナは胡桃に取り押さえられていてなお、錯乱を収めることはなかった。
寧ろ、その様は激しくなりつつあった。
「エレーナ!!落ち着いてっ!私がついてるから!!」
「あぁ...またみんな私が殺して!!!ごめんなさい!ごめ、あ、やだ!!!!ごめんなさい...!!!み、みんなぁ...らくエんだ見つけたよ!ぉぉぉ。
兄さん、テウセル、トーニャ、私のせいでやったね!!...ちガウ!!!!!!!!!!深淵をあああああああああビスの、荒波を....原初のあの方を!!!!」
「な、何を言って」
「こ......あぁっ!!!!!!そこやだっ!!!!!!イタイイタイ痛い痛いイタイッ!!!!!!!!」
支離滅裂な言動が続く。
もはやそこに理性や理由などなく、ただ錯乱にもを投じる愚か者がいるのみ。
「寒い.....!!寒い寒い寒い痛いイタい!!!!釘が私を.......!ヤダヤダやだやだヤダヤダ!!!!私は何もしてない!!許してよぉおっぉぉぉぉ........助けてよ!!」
「何が....」
恐ろしかった
目の前の親友が、訳のわからないことを叫んで錯乱している。
ただ混乱しているわけではない、当人が抱える情報量やそれぞれの絶望の許容量をオーバーしたのだろう。
胡桃には、彼女の言っていることの大半の意味は理解できなかった。
そもそもその単語について聞き覚えがないというものもあったが、中には、言葉としては知っているが文脈が支離滅裂で意味を汲み取れないものもあった。
エレーナの顔や腕に黒ずんだもやのようなものが発現していた。
それはまるでエレーナの皮膚の内側から染め上げられているような質感をしており、今にも腐り落ちそうな色合いだった。
段々とアザが体中に転移していき、侵食していく。
「.....死なせてっ.....」
「...っ、」
エレーナから出た痛々しい本音に、胡桃はかける言葉が見つからなかった。
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手元には幸せは既になく
あるのは記憶の隅で蠢く深淵の肉塊と
巨鯨の齎す不穏な影のみであった。
幸せっていうのはね、不幸があるから輝くんだ。
その逆もまた然り。
ニチャア......