軟体生物型デジモンの上陸
我々のいる世界は、素粒子というエネルギーの塊を最小単位とした、アナログ情報の世界といえる。
だが、もうひとつの世界…「デジタル世界」が存在する可能性が示唆された。
我々は研究によって、人類の築き上げたコンピュータネットワーク上の情報が反映される、「デジタルワールド」を発見し、観測に成功した。
私はこの世界の海の底で、タマゴらしき物体を発見した。
我々の世界に蔓延しているコンピュータウイルスの一部がデジタルワールドへ逃走し、そこでタマゴへと変質した…と考えられている。
…タマゴは今、海底の熱水噴出孔近くにある。
煮えたぎる硫化水素と共に、アミノ酸が吹き出ている、生と死が隣り合わせの過酷な環境だ。
さて、このタマゴをどうするべきか…?
このまま放置してみるのもよいが…
どうやら、タマゴはこの熱水噴出孔周辺に多数存在しているようだ。
私はそのうちの一つを、穏やかな環境へ移動させることにした。
我々のコンピューター内のデジタル空間から、デジタルワールドへと通じる「デジタルゲート」を空け、小型のマシンアーム型プログラムボットを繰り出した。
そしてタマゴを、温度が比較的ぬるい環境へと移動させた。
この物体は、本当にタマゴなのだろうか?
だとすれば、その性質を解き明かすために、異なる環境に置いて観察することは科学的なアプローチとして間違ってはいないはずだ。
やがて、タマゴにヒビが入り…
中から何か、クラゲに目と口がついたようなオブジェクトが出てきた。
クラゲのようなオブジェクトは、海中をふわふわと漂い始めた。
そして海中で何か小さなものを食べている。
どうやら餌は、タマゴと同じくコンピュータウイルスを起源にしつつも、タマゴにはならず、シアノバクテリアに似た光合成プランクトンの姿へと形を変えた存在のようだ。
これは生命なのだろうか…?
しばらく観察していると、突如クラゲは変態した。
目が大きくなり、触手のようなものが生えた。
これはクラゲと呼んでよいのだろうか…?
クラゲには眼球などないはずだ。
この生物は、さらに活発に植物プランクトンを摂取し始めた。
我々は仮称として、クラゲ型生物にプヨヨモンと名付けた。
周囲を観察すると、プランクトンに似た生物が多く漂っていたが…
そのうちの数匹は、突如としてやってきた捕食者に飲み込まれてしまった。
捕食者は、魚のような姿をしている。
この種をスイムモンと呼称しよう。
このままでは、プヨヨモンもいずれスイムモンに捕食されてしまう…。
だがプヨヨモンは、小さな体を活かして岩の隙間へ隠れた。
スイムモンはプヨヨモンを追跡したが、岩の隙間が狭くて通れないようだ。
だがスイムモンは、ヒレで岩をどかし、口から水流を噴射してそれを砕いた。
驚くべき攻撃性能である。
同じ隠れ方をしてきたプランクトンを、この手段で捕食してきたのだろうか…。
プヨヨモンが隠れた岩はどかされてしまった。
もはや逃げ場はないだろう。
だが、岩場の影にいたのは…
既にプヨヨモンではなかった。
プヨヨモンは、捕食者のいる環境に適応し、変態したのであった。
二枚貝のような姿へと変態したプヨヨモンを、我々はシャコモンと名付けた。
スイムモンは、シャコモンをヒレで攻撃しようとしたが…
シャコモンはその攻撃を硬い殻で防御した。
スイムモンは、ヒレや水流でシャコモンの殻を滅多打ちにしている。
若干、シャコモンの殻に傷が付き始めた。
スイムモンは、疲労し始めたのだろうか…
シャコモンを捕食するのを諦め、背を向けた。
その隙を狙ったシャコモンは、高速で真珠を放った。
真珠はスイムモンの腹に命中した。
スイムモンは大きなダメージを受けたらしく、吐血した。
そして、ふらふらと逃げていった。
プヨヨモンはこの短期間のうちに、環境に適応し、捕食者を撃退してのけたのである。
最早これは、個体の成長というレベルではない。
種そのものの進化…そう、「進化」と呼ぶべき現象だ。
我々はこの生物の総称を、デジタルモンスター…デジモンと名付けた。
…さて。
シャコモンは海底をゆっくりと移動し、海藻を食べている。
スイムモンが度々襲ってくるが、そのたびにパールを放って追い払っている。
守りは硬いが、積極的に攻めていくタイプではないようだ。
…だが。
スイムモンとは別のデジモンが、シャコモンに近寄ってきた。
蟹のような姿をしたこのデジモンを、我々はガニモンと名付けた。
ガニモンは、シャコモンに近寄ると、その大きなハサミでシャコモンの殻を殴った。
シャコモンの殻にヒビが入った。
シャコモンも、真珠を放ってガニモンを攻撃した。
ガニモンの足が、一本へし折れた。
怒ったガニモンは、ハサミでシャコモンの殻をはさみ、力を込めた。
すると殻はめきめきと音を立ててきしみ始めた。
このままでは、シャコモンは殻を砕かれ、捕食されてしまうだろう。
研究者として、最善の選択であるかは分からないが…
私はとっさに、大量のゴミデータをこの場へ送りつけた。
ゴミデータは、墨のように海中に広がり、周囲を黒く染めた。
ガニモンは驚いて飛び退いた。
シャコモンは、素早く砂の中へ潜り、この場から脱出した。
…ガニモンが去った後、少し離れた場の砂の中から、シャコモンが顔を出した。
助かったようだ…私はほっとした。
私はシャコモンに…いや、シャコモンという種ではなく、この『個体』に。
愛着を持ってしまったようだ。
危機を脱したシャコモンは、環境への適応始めた。
現在のシャコモンは、海底や岩場で生活し、海藻を食べて生きている。
スイムモンに襲われても、追い払うことはできるが、倒して食べたりはできない。
ガニモンに襲われたら、次こそ命はないだろう。
この環境へ適応するために、シャコモンは…
高い方へと移動をし始めた。
ガニモンに襲われないように、陸上へ進出する気のようだ。
シャコモンは、少しずつ、少しずつ…河口へ近づいていった。
真水へと体を慣らしながら。
周囲を警戒し、ガニモンの姿を見かけたら、砂に潜って隠れてやり過ごした…。
やがて、とうとうシャコモンは川を登った。
川に住み着くようになったのである。
そして、川から陸上へ出た。
陸上には、既に草が生い茂っていた。
そして、草を食べたり、花の蜜を吸って生きるデジモンがいた。
シャコモンは、これらの昆虫デジモンを餌にすることに決めたようだ。
シャコモンはなんと、重くて大きな殻を捨て去り…
捕食に向いた肉体へと進化した。
我々は、進化したシャコモンをヌメモンと名付けた。
ヌメモンは、昆虫型デジモンのうち一体に狙いを定めると…
泥の塊を発射した。
泥は幼虫型デジモン…ワームモンの体に当たると、すぐに硬化した。
ワームモンは、固まった泥のせいで身動きが取れない。
そこへ、びょいんびょいんとヌメモンが跳ねて近寄り…
その強靭な顎で、一気にワームモンの頭を食いちぎった。
なんと、おぞましく…そして強靭な進化であろうか。
ヌメモンは高い生存能力を持っていた。
普段は川のそばに住み、藻や苔を舐め取って食べている。
デジモンの死骸を見つけると、それを貪って分解している。
小さな昆虫型デジモンを見つけると、泥を投げて動きを止め、捕食するのである。
大型のデジモンが近寄ってくると、ヌメモンは沼の中に沈んで隠れ、ぎょろっと目玉だけを出して外敵を観察した。
雑食かつ悪食であり、隠れるのも得意なヌメモンは、とても合理的な進化を遂げたようだ。
だが、やがて陸上には、ヌメモンと同じかそれ以上の力を持ったデジモンが現れ始めた。
昆虫型デジモンが進化したのである。
クワガタやカマキリの姿をしたそれらは、白兵戦の力ではヌメモンを遥かに上回る。
ヌメモンは、自身が進化の袋小路に至りつるあることを感じているようだ…。
やがて、ヌメモンは沼地にタマゴを産んだ。
単為生殖である。
どうやらデジモンは、交尾を必要とせずに単為生殖ができるようだ。
ヌメモンはいくつかタマゴを産んだ。
それらからは、やがて幼年期のデジモンが産まれ、プヨヨモンへと成長した。
湿地帯に巣を作ったヌメモンの周りには、プヨヨモン、シャコモン、ヌメモンが暮らしており、生活圏を広げていた。
カマキリの姿をしたスナイモンでは、沼までは攻めてこれないため、沼は安全なコロニーだったのである。
だが、その巣の中心へ、トンボの姿をした肉食昆虫デジモン…ヤンマモンが現れた。
我々が観察してきた個体…ヌメモンは、コロニーの子供達を逃がすために、自ら足止めのために、ヤンマモンに立ち向かった。
ヌメモンは、ヤンマモンの羽を狙って泥を投擲した。
だが、素早く飛び回るヤンマモンは泥を難なく躱し、ヌメモンの首へ噛み付いた。
ヤンマモンの牙は、ヌメモンの神経を、血管を、引きちぎっていく。
傷からはおびただしい量の体液が流れ出ている。
ヌメモンは最後の力を振り絞り、ヤンマモンの羽に泥をぶつけることに成功した。
これにより、ヤンマモンは一時的に飛行能力を失うこととなった。
…だが、それがヌメモンの最後の抵抗であった。
ヤンマモンはヌメモンの首の傷に頭を突っ込むと、心臓を引きずり出し、それを食いちぎった。
ヌメモンの体から力が抜け、沼に倒れた。
ヌメモンを食い尽くしたヤンマモンは、何度か羽をばたつかせたが、硬化した泥はとれない。
ヤンマモンは清流の方へと歩いていった。
きれいな川の水で羽の泥を洗い流すため、逃げていったヌメモンの子供達から離れざるを得なかったのだ。
…ヌメモンの子供達は、無事にヤンマモンから逃げ切れたようだ。
なんのことはない、ただの食物連鎖の一貫である。
今捕食された個体のことは、やがて誰もが忘れ去っていくであろう。
だが、この湿地帯に、貝類の姿をしたデジモンが繁栄しているという事実が…
かつて海から上陸した、ひとつの軟体動物型デジモンの個体の存在を、誰にも知られずに語り継いでいくのである。