某所のスレに影響を受けた作品です。こういうのが読みたいのにないので自分で書きました。
銃声がけたたましく鳴り響く、いつも通りのある日のキヴォトス。
周囲の騒がしさに比べると相当に静かな場所──アクアリウムで、一人の少女と一人の男性が中を巡っていた。
「わ……! 先生、あれ見て!」
ピンクの長い髪が特徴的な幼めな少女──小鳥遊ホシノは、普段は滅多に見せない純粋な子供としての一面を見せ、興奮した様子で忙しなく動き回りながら、男性へと内心の興奮と幸福感を伝えるかの様にあちこち指差す。
そんなもう1人───大人としてはかなり小柄な体格をしており、そしてそれに反して大きめの服を着た成人男性──シャーレの先生は、少々呆れ気味に返事をする。
「ホシノ、そんなに慌てなくても魚は逃げないよ?」
「うへへ〜、そうかな〜?」
はしゃぐホシノを先生は控えめに嗜めつつも、自身も小さく笑みを浮かべながらホシノに着いていく。
そんな先生の言葉に、ホシノはより一層上機嫌にいつもより更に間延びした声を返す。アクアリウムを巡ることもそうだが、そんな自分にとって至福の時を先生と共有出来ているのが、なにより幸せだった。
「うへ〜……」
そんな自分の思考を自覚すると共に、先生と会ったばかりの頃の自分と比べると随分変わったものだな、とホシノは小さく笑みを浮かべる。
──心の奥底に決して小さくない人間不信と大人嫌いを抱えているホシノにとって、最初の頃は先生は警戒すべき『大人』でしかなかった。
いつでも見捨てられる様に、撃てる様に。あちらが自分達を利用しようとするならこっちも最大限利用してやろう──そんなことを密かに決意したことをホシノはよく覚えている。
だが、先生はそんなホシノ達に対して大人として、先生として誠実な対応をし続けた。生徒を守り、導き、責任を取る、そんな大人。
そんな先生はある意味で、ホシノの理想とする正しい在り方の大人で──そんな先生の人となりを理解し、大人嫌いという先入観も失われた頃、ホシノは自然と先生を好いていた。
「そういえばさ〜、先生。今の私たちってみんなからどう思われてるんだろうね〜?」
アクアリウムを概ね見て周り、興奮も多少落ち着いた頃。
今自分が先生へと向ける感情を改めて理解したホシノは、ほんの少しのからかいと、願わくば自分の好意に気づいて欲しいという気持ちを込めてそんなことを言った。
「? そりゃあ、先生と生徒、じゃないかな?」
「え〜? それは流石にそのまんま過ぎるよ〜」
先生と生徒。確かに2人の関係からして、間違いなくそれは事実だ。
それに、住まう者の大半が生徒なこの学園都市キヴォトスにおいては先生と交流する者の殆どはそれに該当するだろうし、先生にとってすれば生徒との交流はそれが大前提ではあるのだろう。
ただ、ホシノとしては質問に対する答えとしてはほんの少し不服だった。たしかに先生と生徒とは言えども男と女が2人でそういう場所を巡っているのだ。質問の答えとしては些かロマンと風情が足りないだろう。
「うーん……何か違った?」
「違わないけどさぁ〜。それでもおじさんだって仮にも女の子だからさ、今の答えは文句の1つも言いたくもなるよ〜」
少し不服そうにそう言うも、やはり先生は不思議そうな顔をしていた。あまりに純粋な顔をしていて、本気で分からないと言った風貌には僅かな毒気さえも抜かれてしまう。
そんな姿に少し呆れつつも、そんな部分を好いている自分が居ることにも気がついたホシノは、珍しくストレートに好意を伝えることにした。
「男の人と女の子が一緒に仲よく歩いてるなんて傍から見たらデートなんだからさ〜……例えば、恋人とか〜?」
「恋人……」
「他のだと〜……『家族』とか?」
「かぞく……?」
上機嫌にそう言うホシノには、特別な思惑などはまるでなかった。
精々分かりやすく好意を伝えれば先生も少しは自分を意識してくれるんじゃないか、という幼いシンプルな考えだった。
──だからこそ、そんな何気ない発言で先生のトラウマを刺激してしまうなど、ホシノは考えてもいなかった。
「でもおじさんはちっちゃいから、家族で当てはめたら先生の妹に思われちゃうのかも──って、せんせ……?」
「あ……」
好意を伝えた気恥しさを誤魔化すためにそう言おうとした時、先生の変化に気がついた。急に立ち止まったことを不思議に思って、振り返る。
そうして目に入ったのは、何かに酷く怯え、小刻みに小さく震える先生の姿だった。
「あ、あぁ……ッ……」
ホシノは先生を一目見て、その状態が尋常では無いと理解した。
全身が震えており、瞳には強い怯えが見え、焦点が定まっていない。何かを庇うかの様に肩の辺りを抑えており、その背は丸く縮まりこんでいた。
その姿はまるで捕食者を目にした捕食される動物のようで、何もかもを恐れている様に見えた。
「せ、せんせ……? ど、どうしたの!? 何があったの!?」
「い、痛い……! 怖い、怖い、怖い……!」
「こ、怖い……? 何が──いや、今はそれより……」
突然のことに困惑し、先生の怯える原因を問いただそうかと思うホシノだったが、今は一刻も早く先生を落ち着かせるのが先だと判断すると、浮かんだ困惑や疑問をすぐさま切り捨てる。
「先生、ひとまずここから離れよう? 一旦どこかに座って落ち着こうか」
「はぁっ、はぁっ……! あ、あぁ……」
「そんな調子じゃ一人だと危ないでしょ。ほら、手を握って?」
酷く焦燥しており、見るからに動転した様子の先生だったが、ホシノはそんな先生を怖がらせない様に、出来るだけ優しく声をかけながら背を撫でる。
そうしている内に、未だ息は荒く震えも止まらないながらも多少は落ち着いたのか、ホシノの手を握って促されるままに歩き出した。
「はぁ、はぁ、ふぅ……!」
「先生、だいじょうぶ……?」
アクアリウムの外、備え付けられたベンチに先生を座らせたホシノは、自身も不安そうに先生の手を握りながら、おそるおそる問いかける。触れる手は恐怖が具現したかの様に冷たく、僅かな震えも相まってホシノの側も無性に不安になる。
「ぅ……だいじょうぶ……うん、大丈夫だから……」
「本当……?」
自分に言い聞かせるかのようにそう繰り返し、少しづつ荒かった息も整っていく。しかし、恐怖に染まった顔色と瞳は未だに変わらない。
そんな先生を見ていると、少し触れただけで壊れてしまいそうな恐ろしさがあった。
「……先生、何があったの? もし私が変なことを言っちゃってたら──」
「ち、違う! ホシノのせいじゃ、ない……」
不安になりながらホシノが聞こうとすると、それを言い切るよりも早く、食い気味に否定の言葉が返ってくる。
生徒の傷つく様な行為はしないのがいつもの先生ではあるが、その声は普段の彼の態度からすれば信じ難い程に、切羽詰まった様な、必死な声。いつも頼りになるその姿が、今だけはどうしようもなく小さく見えた。
「……む、昔のことを思い出したんだ」
「昔……?」
どのくらいの時間が経ったのか、しばらく静まり返っていた2人だったが、そんな静寂は意を決したかの様な先生の言葉によって破られる。
声は酷く震えており、その一言を発するだけでも随分悩み、恐れたのだろうことが伝わってくる。
ホシノはそんな辛そうな姿の先生見ていると自分まで心が痛く、今すぐそれを止めて休ませたかった。けれども、それが先生がある種の覚悟を決めた上の行為ならば、軽はずみに『辛そうだから休め』とも言えなかった。
そして、それ程までに先生が怖がる何かを、早く知りたかったというのもあった。
「その思い出したことっていうのは……その……か、家族、の……ことなんだ……」
「家族……。そっか、私が変なこと言ったから……」
「ホシノのせいじゃ、ないよ。自分でも、良く分からないけど……ふとした拍子に、時々こうなるんだ。嫌なこと、全部思い出して……怖くて堪らなくなる時が。
……キヴォトスに来てからは、ずっと大丈夫だったんだけどね」
酷く怯え、忙しなく周囲を確認しながら、先生はそう言った。
先生の雰囲気が変わったのは、ホシノが『家族』という単語を出してからだった。
おそらくは、何かしらの家族へのトラウマがあるのだろう。それも、決して小さくない、大人になってからも尾を引くほどの辛いものが。
ホシノは、それを察してやはり自分の言動の間違いを痛感して悔いつつ、静かに続きを待った。
「……私の親はね、端的に言って、どっちも最低な親だった。
父親は、私のことなんて何も見てくれないし、教えてくれない。褒めてもらったのなんて、1度足りともなかったっ……!
な、なのにっ……勝手な期待ばっかりしてっ、出来なかったら怒られて、あちこち打たれて、絞められてっ! 泣いてたら、それが気に食わないって、火を、押し付けられたりもして……!」
「……っ」
今まで心の奥底に封じていたものが決壊したのか、蓋を切ったかの様に言葉が止まない。語気は強まり、かつての痛みを思い出してしまうのか、大きい服に隠された身体のあちこちを、時折痛そうに触れる。
きっと、服の下には未だに少なくない傷跡があるのだろう。季節を問わず、常に身体に合わない大き目の服を着ている理由が分かった気がした。
「母親は、私のことはただの装飾品としてしか思ってくれなかった……言ったことに従わなかったら罵詈雑言が飛んできて、毎回最後には『お前なんかいらない』って、そう言ってゴミを見るような目をされて……
父親が暴力を振るっても、な、何もっ……してくれなくって……愛してくれたこと、なんて、1度もなく、って……!」
言葉を重ねる度に痛々しさは増し、感情が乱れて言葉の形すら保たれなくなっていくが、先生の目には涙は浮かばない。かつての親の元では、泣くことさえも許されなかったからだろう。
無駄に傷付けられるのを防ぐ為に、ある種の防衛本能が働いたのだろう。彼の身体は涙を流すことさえ出来なくなっていた。
「せんせい……」
ホシノはあまりにも壮絶な過去に、何も言えなかった。
あまりにも痛々しくて、聞いてるこちらも辛くなる。
先生もまた、悪い大人の被害者だったのだ。先生に対してある種の親近感を抱いていた理由が、ようやくわかった気がした。
だが、それを知ったからといって、理解したからといって、嬉しい訳がない。それが先生にとっての慰めになる訳でもない。
ただただ……辛かった。
再度、2人の間に静寂が訪れる。言葉が出ない。無情な痛みだけが、心の奥に広がっていく。
「……でも、でもね」
「……?」
そんな静寂を破ったのは、またしても先生だった。
先程までの荒々しく内心をぶちまける様なものではなく、ある意味では憑き物が落ちたような、静かなものだった。
だが、奥底にある悲壮感だけはまるで変わらない。
「キヴォトスに来てからは、幸せだったんだ」
「そう、なの?」
「誰かの為に何かをしたら、感謝される。傷を負えば心配してくれて、必要としてくれて、慕ってくれる子達も居る。……少なくとも、なんの理由もなく傷付けて来る様な人は居ない。
……私にとってのキヴォトスはね、楽園なんだよ」
酷く、酷く優しい声。その声は生徒への純粋な愛に満ちている。それこそが、偽りない先生の本心だった。
「………」
ホシノはずっと、何故先生が生徒の為にこれほどまでに尽くせるのか不思議だった。時には自分の命すら捨てかねない行動も平気でするのが、疑問で仕方なかった。
その答えが、コレだ。
彼はずっと、ずっと、ただ愛されたかったのだろう。
愛は微塵も注がれず、理不尽な痛みだけが与えられたかつての人生。情を示そうとも暴力が振るわれ、何もせずとも口汚く罵られ、否定される。
いつの日かそれすらされなくなった頃になって、ようやく理解した。認めた。自身が親に愛される事はないのだと。
それを理解した時、彼はふと命を捨てようとして───気がついた時には、キヴォトスへと巡り着いていた。
それから紆余曲折を経て、親から愛されなかった彼はキヴォトスの地で『先生』へと成った。
先生として生徒達と過ごす日々は、間違いなく幸福だった。
親愛に親愛を、恩に感謝を。不当に傷付けられる事無く、他者にした良い行動が自分に返ってくる日々。そんな生徒達との交流は、彼に確かな生を実感させた。
自分が愛を持って生徒に接すれば、生徒達もそれに報いてくれる。ならばいつかは、満たされる事無く空っぽな自分を満たしてくれるはず。
無意識下でそう理解した彼は、生徒達に惜しみなく愛を注いだ。だからこそ、必要とあらば限界まで死力を尽くすし、生徒の為なら打たれようが焼かれようが、銃弾に撃たれてもちっとも痛くなかった。
仮に死んだとしても、少しでも自分の死を悲しんでくれるなら、それで良いとすら思っていた。
そんな、どこまでも愛を欲する自分を正しく自覚しないまま、それでも無意識下で自分を満たす愛を求め続け……先生は今日まで来たのだ。
「……ごめんね、ホシノ」
「なんで、先生が謝るの……」
3度目の静寂は、先生の謝罪の言葉によって破られた。それは果たして何に対する謝罪なのか。
ホシノの脳裏に先生が考えてそうな理屈がいくつか浮かんだが、そのどれもが先生が謝るべきではないと考えた……が、きっと先生は自分が何を言っても納得しないのだろうとも、何となく理解した。
ホシノは先生の悲痛な叫びの中で、彼の根源と想いを限りなく正確に読み取っていた。
愛を求める子供のままの欲求こそが、彼の本質。
本来親から与えられるべき愛を一切与えられなかった彼は、自分を満たす為に周囲を愛し続け……それでいて、毒親のせいで未熟で低い自己肯定感は周囲からの愛も愛として認識しきれず、いつまでも満たされずにいるのだ。
そして、同じく親愛を向ける相手に嫌われることを恐れる子供の様な部分も相まって、見返りを求めて先生が周囲に送る愛は次第に大きくなっていくのだろう。
それを、正しく自覚しないままに。
「……せんせ、帰ろっか」
「あ……う、うん。そうだね……帰ろうか」
しばらく2人でぼんやりとした後、ホシノは出来うる限りの優しい声で、そう告げた。優しい声で言ったものの、先生の声や態度には周囲全てへの怯えの色が強く出ており、酷く弱々しい。
彼の親は一体どこまでの恐怖を刻みつけたのか。それを思えば腹立たしく、ホシノは思わず憎しみが顔に出そうになるが、今負の感情を表に出せば何より先生を傷付けかねない。
「だいじょうぶだよ、先生。先生が落ち着くまで、満足するまで、ず〜っと一緒に居るからさ」
「ホシノ……うん、ありがとう。生徒にここまで言わせて、私は駄目な先生だね……」
「そんなことないってば〜。いつも色々してるんだから、ね? こんな時くらいは頼ってよ〜?」
安心させるつもりでそう言いつつも、ホシノは彼がただ生徒に頼るという行為が1番難しい心理状態なのも理解していた。
愛を求めつつもそれを正しく知らない彼は、何もせずとも捧がれる無償の愛があると言うことを理解出来ていない。
だからこそ、彼は自分からの行動を前提にしてしか愛を求められないし、恩に対する恩返しのように1度消費されればそれでお終い……とでも言うべき考え方をしている。
「……」
それはなんて辛い考え方なのか。可能なら、自分がそんな考え方を否定したい。先生は愛されているよと示したい。
ホシノの中にそんな感情が芽生えたのは、ある意味で自然なことだった。そして、先生の辛い過去を知る前から好いていたのもあって、そんな感情が高まっていくのも早かった。そんな感情はホシノの中にあった淡い恋心と混ざり合い、より一層強くなっていく。
「……ふぅ……。ありがとう、ホシノ。おかげで助かったよ」
「うへへ〜、私が役に立てたなら良かったよ〜」
少しして、2人はシャーレの仮眠室に入っていた。
先生も今日は元々ホシノとの外出の為にあらかじめ仕事を片付けていた為、今は仕事もない。
普段は何かと多いシャーレの生徒達も、先生が出かけていた事もあって今はホシノだけだ。
「……それにしても、ベッドは落ち着かないね」
精神的疲労があるだろうと、ホシノの勧めでベッドに緩く座らされた先生だが、不意にそう呟いた。
「あれ、仮眠室にあるのは全部ベッドだから先生もベッド派なのかと思ってたけど、違うんだ?」
「あ……う、うん。仮眠室は私よりも生徒の皆の為って側面が強いし、私は……ほら、布団派だからね」
「そうなんだ……?」
どこか慌てた様子で取り繕う先生の姿に最初は不思議に思いつつもそうなのか、と思うだけだったホシノだが、すぐに合点がいってしまった。そもそも、先生はベッド派・布団派以前の問題なのでは?と。
それはホシノの推測に過ぎなかったが、先程聞いた先生の過去を思えば、布団や睡眠具すら与えられていなくても、実に不快だがおかしくはない。
何より先生が浮かべる痛々しい笑顔が、その推測が事実であると思わせる。
だが、それを本人に聞いたところで何の救いにもならないどころか、辛い過去を思い出せるだけで終わりかねない。
半ば不意打ちに近い形だったとはいえ、アクアリウムの時の動転ぶりを思い返せば、そして今なお普段通りの笑みを浮かべられずにいる先生を見れば、下手なことは言えなかった。
「あ、先生、これお水〜。ゆっくり飲みなよ〜?」
「はは……ホシノは心配性だね」
ホシノ自身、過度に心配している自覚はあったが、それくらいで丁度良いと思っていた。今まで先生に与えられなかった分も思えば、そのくらいやっててようやくプラスになるほどだと考えていた。
「ぷは……」
「……」
先生は静かに水を飲むと、小さく息を吐く。元々動作の音が小さい人だとは思っていたが先程から更に小さくなった気がする。
それもつまり、そういう事なのだろう。そうして考え始めれば、先生のあらゆる面に親からの扱いが垣間見えてしまう。
大人と呼ばれる年齢の割に、自分とそう大きく変わらないかなり小柄な体格をしている理由。やけに少食な理由。常に素肌が見えない大き目の服ばかりを着ている理由。何かをしていても、音が小さい理由。
栄養失調、傷跡、虐待……全てにおいて不当な扱いをされてきた影響は、その身体や振る舞いに色濃くのこっていたのだ。
「……先生……」
それを理解してしまうと、本人が隠していたにしてもそんな痛々しい傷跡に全く気付かずにいた自分が許せなくなりそうだった。
そして、今何かを言っても、何も変わらないのが何より辛かった。
成長を阻害された身体は今更どうにもならないし、物理的な傷跡も、いくらキヴォトスの技術が優れてるにしても治療には限度がある。立ち振る舞いは先生の人生と在り方の否定に繋がりかねない。
奥底にまで抉る様に刻まれた歪な価値観も、きっと治し切ることも出来ない。
「……キヴォトスに来る前の話をしたのなんて、ホシノが初めてだ」
「他の子たちには……言ってないの?」
不意に、先生はそう呟く。やはり、酷く弱々しい声だった。
「ひょっとしたらシャーレに来てくれてる何人かは、私の傷のことくらいは知ってるかも知れないけど……それでも、ちゃんと自分の口で全部話したのは、ホシノが初めて」
「……そっか。私が変なこと言ったせいだね……ごめんね」
そうとしか、言えなかった。その気が無いとはいえ、不用意な発言で先生の古傷を抉る様な真似をしてしまった。
普段の先生の姿を知るだけに、今の姿はあまりにも痛々しい。
「……」
なんとか、先生を少しでも励ませる──幸せに出来る方法はないのかと考えたホシノの脳裏に、1つ、ある意味乱暴な方法が浮かぶ。
ただ、それはかなり問題のある手段だった。下手をすれば、一生尾を引くだろう。自分の感情的にはまるで問題ないが、先生はどう思うか分からない。悪い方に転べば、もっと精神を歪ませるかも知れない。
「先生はさ。……誰かに愛して欲しい?」
「え……? ど、どうしたの、突然……」
「おねがい。答えて」
ホシノは真剣な声と眼差しで、ハッキリと先生を見た。
そこには先生への優しさや労り、信頼など、色々な感情が込められていた。負の感情はそこにはない。
先生はホシノの真剣な姿にほんの一瞬怯える様にたじろぎつつも、害意がないことを理解すると、迷いながらも小さく答える。
「……たぶん、そうだと思う。でも正直……私は愛がどういうものか、よく分からないんだ」
「……そっか」
「でも、でももしも……誰かに愛してもらえたら、それはきっと幸せだと思うんだ。……あんな親の元に産まれた私が、誰かを心から愛せることも、愛されることも無いと思うけどね」
自嘲気味に、呆れる様に、先生はそう答えた。その瞳と表情は、先程までとは違う悲しさがあった。
人としてろくでもない親の元に産まれたからこその、自己批判。犯罪者の子は犯罪者、などと言うことがある。──彼は、ある意味でそれに近い考えをしているのだろう。
親を間違いなく最低の人間だと思うからこそ、その子である自分自身も嫌っているのだろう。そこには、たしかに同じ血が流れてしまっているから。
「…………そっか」
ホシノは短く返事をし、静かに意を決する。
そして、出来うる限り自然で、先生を安心させられるいつもの表情を意識して浮かべながら、先生の座るベッドへと登る。
「ホシノ……?」
「先生。もし嫌なら、すぐに抵抗するか、嫌だって言ってね。そしたら、すぐに止めるから」
「え……?」
そう告げて先生のすぐ前へと座ると、先生の頬へと優しく手を添える。それはどこまでも労りに満ちた、優しい手つきだった。
特徴的な青と黄の瞳は、先生の姿だけをどこまでも正確に捉えて離さない。瞳の奥には、たしかに愛と形容すべき感情が籠っていた。
ホシノはそのまま身体を近づけていき、2人の顔と顔の距離は今にも口付け出来そうな程に近くなる。
「あ……」
「うへ……抵抗しないんだね。それじゃあ──」
それを見て、今から何をしようとしているのか分からない者は居ないだろう。
それは先生にとってもそうだ。ホシノが何をしようとしているかなど、火を見るより明らかだった。そんな行為は先生と生徒という立場を考えれば、拒むべきなのも間違いないだろう。
「──私が先生を満たしてあげる」
けれども、先生は動かなかった。
恐怖した訳でもない。頭が働かない訳でもない。まして力で無理やり押さえつけられている訳でもなく、動こうと思えば簡単に身体は動くし、頬に触れる柔らかな手は少し頭を振るうだけでも簡単に払える。なんなら1文字でも拒否と解釈できる言葉を発すれば、ホシノは簡単にそれを止めてくれるだろう。
それでも、今までで1番近くにまで迫ったホシノの姿を見れば、そんな感情は欠片程も湧かず───自分の意思で、ホシノへと全て委ねていた。
「んっ……せんせ……!」
優しく、それでいて少々の激しさを宿しながら、ホシノは先生と唇を重ねた。口付けとは到底言い難い、内側で舌と舌を絡ませ、口の中を染め上げる激しいキス。
一分以上……体感時間で言えば何十分にも思える程にホシノからの愛が込められた長いキスだった。
「──ぷはぁっ……♡ うへ……せんせ、どう? 愛は感じられた?」
「───ぅ……ど、どう、って…………ん、あ、うぅ……」
少し満足気なホシノに対して、先生は混乱した様子だった。歳不相応に小柄な身体も合わさって、そんな姿は子供の様だった。
先生は、愛を知らない。より正確に言うなら、愛というものがどういうものなのかを正しく理解出来ていない。
けれども、彼も仮にも大人の男だ。男女のキスや、そういった行為が多くの場合に愛を伴っているということは知っている。
そうではないものも知ってはいたが……ホシノの言動からしてそちらではないのは分かった。その愛が自分を慰める偽りのものでないのも、なんとなく理解した。
「ぅ、うん……なんとなく……? 気持ちよかったよ、ホシノ……」
頭が惚けて、思考がまとまらない。愛について理解出来ているかも、やはり分からない。
けれども、少なくともホシノは自分を愛してくれているのだと言う事実だけは、今までに感じたことの無い快感の中で深く刻まれていた。
「うへへ……そっか。それなら良かったぁ」
まだ自覚出来ていない様だが少し満足気な先生の姿を見て、ホシノは頬を赤らめつつも安心した様子で一息吐く。
自分の愛で先生の孤独感や傷を少しでも癒せるなら、それも本望だった。
「あ……ほ、ホシノ……」
「うん? 先生、どうしたの?」
「い、いや……その……な、なんでもない」
1度ベッドから降りようとしたホシノだったが、先生に心細そうな声で呼びかけられ、すぐさま先生の方を向く。
誤魔化す様にそう言われたが……その態度から、何となく先生の言いたいことを察した。
「先生、まだまだ足りなかったんだ?」
「う、ぁ……べ、別にそんなことは……」
顔を赤らめて目をそらす姿を見て、ホシノは内心で『わかりやすいなぁ』などと思いながらも、そんな態度は先生の情緒が育ち切っておらず、子供のままの部分が多いからこそなんじゃないかと思うと、一瞬悲しくなった。
だが、それは単なる先生の個性だと割り切った。キヴォトスでは稀だが、世の中子供っぽい大人は少なくはないだろう。
先生の過去が辛いものだったのは事実だろうが、全部をそれに絡めて悲観的にしか見ないのもきっと間違っている。ホシノはそう考え、先生への同情を抱く自分を1度奥にやる。
先生に今必要なのは同情よりも、無償の愛を分かりやすく注ぐことだ。そう思い、ほんの少し挑発的な笑みを浮かべる。
「うへへ……先生は欲しがりさんだねぇ〜。でも、大丈夫だよ。キスじゃ足りないなら、もっともーっと、私が先生に愛を注いであげるからっ……!」
「あ……」
そう言って、ホシノは自身のネクタイへと手をやり、元々緩く縛っていたそれを解くと、そのままベッドの隅へとやる。
先生も、そんな動作になんとなく何をしているのか察したのだろう。
ただ、それを察してもそれを止めるでもなく、期待の籠った目で眺めるだけだった。
そんな視線を受けながら、1個、また1個と、ゆっくりと見せつけるかのように、誘惑するかのようにシャツのボタンを外していく。その度に、ホシノの白い肌が少しずつ先生の前へと晒されていく。
「……止めないってことは、先生も乗り気ってことで良いんだよねぇ?」
「……うん」
先生は小さく、少しの不安と期待を抱きながら答えた。そんな声は、普段よりも少し幼く聞こえた。
「うへ……そんな不安そうな顔しないで?
……大丈夫だよ、先生が愛されてないなんてもう一生思えなくなるくらいに、私が先生に愛でいっぱいにしてあげるから……♡」
そうしてホシノは優しく先生へと触れ──その日2人は一線を超えた。
◇
それからしばらくした頃のある日のシャーレ。ホシノはその日も当番として、シャーレを訪れていた。
もっとも、実際には当番の開始時刻にはまだだいぶ余裕があったが。
「せんせ〜、こっちの仕事は終わったよ〜」
「ありがと。ホシノ」
手早く書類仕事を片付けてそう告げると、先生は笑顔で答える。
その顔には憑き物が落ちたかのような笑顔が浮かべられており、それは無邪気な子供の様だ。そんな笑顔には、疑いようのないホシノへの信頼があった。
そうしてニコニコと笑顔を浮かべながら仕事をしていた2人だったが、しばらくした頃、先生は突然不安そうにホシノの服の袖へと触れる。
「ほ、ホシノ……」
「うへ〜、先生。もう我慢出来なくなっちゃった?」
「う、うん。だから、その……」
弱々しい子供が乞うかのように、先生は躊躇いながらホシノに声をかける。先程までの表情とは異なるそんな姿は、どこか母の愛を求める子供の様な飢えを感じさせる。
「もう、そんな不安そうな顔しないで〜? 先生が必要なら何だってしてあげるからさ〜」
「あ……う、うん。ご、ごめんね、いっつも……」
「だから謝らなくていいってばぁ〜……。お仕事もだいぶ余裕があるし……先生が満足するまでい~っぱい愛してあげるね?」
ホシノはそう言って不安そうにする先生の背を優しく撫でながら、言い聞かせる様に囁き、以前と同じ様に……あるいはその時よりも優しさと愛の籠った手つきで、先生の頬へとそっと触れた。
──先生と身体を重ねながら、ホシノは思う。
自分は先生を歪めてしまったんじゃないかと。
最初に身体を重ねて以来、明らかに先生は変わった。1度過去の記憶を思い出してしまったからか、誤魔化しつつも何かに怯える様な素振りが増えた。そして、それと共にホシノが先生の傍に居る時間は目に見えて増えた。
ホシノが当番になる頻度はそれまでと比にならない程に増えたし、当番外でも結局先生の傍におり、毎日殆どの時間を共にしていると言ってもいい状態。明らかに他の生徒とは異なる扱いをしていた。
今の先生は、恐れている。その恐怖は、かつての家族や、そんな彼らが行った行為に対するもの───ではない。それもあったが、最も大きいものはそれではない。
今の彼が何より恐れているのは、ホシノが自分の傍から居なくなることだ。愛を与えられず、それを知らなかった先生は、ホシノによって愛を注がれ、初めて真に愛を得たと自覚した。
それは間違いなく、彼が今までの人生で求めて止まなかったものだった。
ホシノからの愛が込められた、それを示す至上の行為。それは確かに、今まで満たされることの無かった傷だらけの心を確実に満たしていった。
それが与えられる幸福感と、他者からの偽りない愛を求める自分の心。それをようやく、少しだけ理解して───彼はその愛が失われてしまうのを、酷く恐れた。
だからこうして、ふとした拍子に精神的に不安定になる度にホシノからの愛を求めるのだ。それが失われることはないと確認する為に。
(先生……)
先生はまるで縋る様に、ホシノを求め続ける。
ホシノの瞳に映る先生の身体には、焼き痕、切り傷、打撲痕……概ね想像できる様々な傷跡が、明らかに肉の少ない細身な身体のあちこちに刻まれていた。どの傷も、服を着ていれば隠れる様な位置にあるのが親の悪辣さを嫌という程認識させる。
ホシノを求める先生からは、失う不安からか小さくない必死さが感じられた。
触れ合う肌は少し冷たく、先生の様々な思いが感じられ、ホシノはそれを感じて内心で小さく謝罪した。
(ごめんね、先生。私、逆に先生を苦しめるようなことをしちゃった……)
きっと、自分は間違えたのだろう。
本来ならもっと、日常の中で小さな愛を教えて、過去をどうでもいいと思える程に今は幸せだと思えるようにして、自分を認められるようにして……そこから、然るべき段階を踏んで行かなければならなかった。
けれども、間違えてしまった。その段階を全部無視して一番上の行為によって自分の愛を伝えた結果、先生をまた歪めてしまった。本人の望まない苦しみを与えることになってしまった。
ただ、先生は愛されていると伝えられれば良かった。決して、自分がいなければ辛くなるような状態にしたい訳ではなかった、はずなのに。
「ん、はぁ、ふぅ……ありがとう、ホシノ。ホシノのおかげで今日も1日頑張れそうだよ」
一時の交わりを終えた後、先生は笑顔でホシノに言う。
そんな笑顔は、これまで向けられていたものとは根本から異なっている。そこには盲目的なまでのホシノへの信頼があった。それは言い換えれば『依存』などとも称されるものだった。
しかし、それもまた、ある種の愛だった。
「……うへ〜、それは良かったよ〜。先生のそんな笑顔を見れて、私も嬉しいよ〜」
先生を抱きしめながら、ホシノは思う。
──私は酷い人間だ。自分の嫌う大人と、先生の毒親と、大して変わらないのかもしれない。
先生に、自分も笑顔を浮かべて言葉を返しながら、ホシノは自身を責めた。先生を愛しているのは間違いない。キヴォトスの誰より先生を愛していると、今なら断言出来る。
何よりも大切に思っているし、幸せになって欲しい。
けれども、きっと……自分もそこに見返りを求めてしまった。
単に愛する人に愛して欲しかったからかもしれないし、過去の自分を目の前の先生に重ねて、先生を救う事で自分を救ったと思いたかったのかもしれない。
いずれにしても、先生を救う上で一番重要な部分で判断を間違えて自分の思いを優先させてしまい……先生を自分に依存させてしまった。自分が望む、辛い道へと誘導してしまった。
もう取り返しはつかず、謝っても謝り切れない。
──……あぁ、なのに。そう思わなければいけないのに。
「うへ……」
「ホシノ……? どうしたの?」
先生を見ていると、そんな思いすら消えてしまう。
先生がそうであるように……ホシノもまた、先生に依存していた。
自分を求めて止まなくなる程に、自分の愛で愛する人を満たせているのだと、幸福感ばかりが残り、微かな罪悪感さえそれに飲まれる。
自分だけに向けられる、あの幸せそうな表情を見れない日々なんて今更耐えられない。ずっと先生の傍に居たい。ずっと愛していたい。そんな思いが溢れだしてくる。
「……先生、愛してるよ」
だからホシノは、そんな不都合なことを全部見ないことにした。
少なくともホシノは今、幸せだった。愛する人に存分に愛を伝えられて、先生も自分の愛を求めてくれる。幸せだと何度も口にしてくれる。
なら、それでいい。自分も先生も幸せで、とっくに離れられなくなってしまったのだから、辛い過去も汚い部分も、わざわざ見る必要はなにもない。
「えへへっ……そんなこと言ってくれるの、ホシノだけだよ。……いつもありがとね。私もホシノのこと、愛してるよ」
ホシノの愛の言葉に、先生は僅かに顔を綻ばせながら、子供の様に純粋に返した。最近は、ホシノからの言葉を素直に受け取って嬉しそうにすることが多くなった。
それはホシノだけに対するものではあったが、それでも少しづつ先生は変わりつつあった。それはきっと、いいことのはずだ。
「せんせ……」
「すぅ、ふぅ……」
安心して、今までの疲労も併せて眠気が来たのだろう。小さな吐息を規則的に繰り返し、自分の胸の中で穏やかに眠る先生の頭の撫でながら、先生を見つめる。
僅かに先生から伝わる鼓動は、酷く弱々しかった。
ホシノは先生の耳元で、優しく、言い聞かせるように囁く。
「先生、愛してるよ。絶対に、私が幸せにするからね」
もう何度目かも分からない愛の言葉。満足気に、ホシノはそう呟いて、先生を優しく抱きしめつつ目を閉じた。
触れ合う先生の肌は、先程よりも少し暖かい気がした。
愛に溢れた2人の関係は、これからも続いていく。
ホシノは依存が似合うよね……先生と共依存でズブズブに愛しあってほしい……
もし良かったら感想とか、みんなの性癖とか教えてくださいな。