捨てられた場所
1945年 5月7日 バイエルン州上空
「……これで、本当に終わりか」
高度2000、Ju87G-2『カノーネンフォーゲル』の狭いコクピットの中で、私は独りごちた。
ドイツの無条件降伏。その報を聞いた私は、生き残った仲間たちを率い、バイエルン州キッチンゲンにあるアメリカ陸軍基地へと機首を向けていた。ソ連軍に捕らわれれば、待っているのは死以上の屈辱だ。ならば、まだ話の通じる西側へ投降する――それが、部下たちを生かして帰すための私の最後の任務だった。
道中、我々の行進を阻まんとするソ連軍のヤク戦闘機数機と出くわしたが、それらはもはや私の敵ではなかった。主翼の37ミリ機関砲が火を噴くたびに、赤い星をつけた機体は火だるまとなってバイエルンの大地へと叩き落とされた。
それからしばらくして、目的地であるキッチンゲンが近づいてきた。
しかし、米軍の航空基地を視界に捉えようとしたその時、空模様が不自然なほど急激に様変わりした。
「大佐、雲を見てください! 異常です!」
後部座席から、信頼する相棒――ガーデルマンに代わって私の背中を守る機銃手、ニールマンの声が響く。
青空は瞬く間に鉛色の曇天へと塗り潰され、猛烈な雨が風防を叩き始めた。それは私が数多の戦場で経験してきたどんな気象条件とも異なっていた。空そのものが怒り狂っているような、底知れぬ大嵐。
回避する余裕すら与えられず、我々の残存部隊は巨大な闇の渦へと飲み込まれていった。
「くそっ! 舵が効かん! このままじゃ失速するぞ!!」
機体全体がバラバラになりそうなほどの凄まじい振動。私はスロットルを限界まで押し込み、必死に操縦桿を抑え込んだ。計器盤の針は狂ったように振れ、重力加速度が全身を座席に押しつける。一瞬でも気を抜けば、この「鉄の鳥」はそのまま地獄へ真っ逆さまだ。
「大佐! 周りが明るくなってきました!」
「もうすぐ嵐を抜けるぞ!」
それと同時に、視界を覆っていた白濁とした雨幕が唐突に裂けた。
機体を抜ける衝撃波のような感触。次の瞬間、暴力的な揺れが嘘のように収まり、私たちは嵐の「出口」へと飛び出していた。
「各機、状況を報告せよ!」
私は額を伝う冷や汗を拭い、すぐさま無線機に手をかけた。
生還の安堵が胸をよぎる。しかし、それも数秒のことだった。
ヘッドホンから返ってきたのは、返答ではなく、耳を劈くような無機質なノイズだけだった。
「誰かいないか! クロイツ、ヘンシェル! 応答しろ!」
左右を見回すが、ついさっきまで編隊を組んでいたはずの僚機たちの姿がどこにもない。空には私とニールマンが乗るこの一機だけが、頼りなく浮いている。
「何がどうなってやがる……まさか全員落ちたのか……!?」
背筋に氷を押し当てられたような、得体の知れない謎の脅威が私を襲った。
ここはどこだ? バイエルンのはずだ。なのに、空気が重い。まるで世界そのものが毒されているような、嫌な静寂が支配している。
「大佐……! 下を見てください、あれを!」
ニールマンの、震える指が差す先を覗き込んだ。
私は息を呑んだ。
眼下に広がるのは、見覚えのない光景だった。
かつてそこにあったであろう街は、巨大な絨毯爆撃を何度も受けたかのように徹底的に破壊され、灰色の瓦礫の山と化している。コンクリートの巨塔は折れ曲がり、骸骨のように空を睨んでいた。
だが、何よりも異様なのはその「色」だった。
爆撃の跡ならば、煤け、焼け焦げているはずだ。しかしそこにあるのは、見たこともない緑色の不気味な光を放つ結晶体と、放置されて数十年は経過したかのような、文明の腐朽した姿だった。
「……ここはどこだ。少なくとも、バイエルンではないな…」
「そうみたいですね…」
「しばらく偵察してみるか、だれか味方がいるかもしれん」
その後上空からの偵察を続けるが、事態は好転しなかった。
無線からは依然として砂嵐のようなノイズが流れるばかりで、
僚機はおろか、友軍地上部隊の影すら見当たらない。
それどころか、あちこちに見える廃墟の街には人っ子一人おらず、
死の静寂が支配していた。
「うーん…まずいな……燃料が底をつきそうだ」
コクピットの計器を見やる。ソ連機との格闘戦でスロットルを全開にしすぎたツケが回ってきた。残りの飛行可能時間は、長く見積もってもあと二十分といったところだ。
「大佐! 三時の方向に中規模の滑走路があります!」
「おお!でかしたぞ、ニールマン。あそこに降りるぞ!」
私たちは間一髪のところで発見した飛行場に滑り込んだ。
着陸後、かろうじて形を留めていた格納庫に愛機を隠すと、私たちは警戒を怠らずに管制塔と思われる建物へと足を踏み入れた。埃の積もった薄暗い廊下を私が先頭に立って進んでいくと、背後からニールマンが声をかけてきた。
「大佐、とりあえず何を探せばいいんでしょうか?」
「まずは腹ごしらえだ。食料がないとなんとも言えないな。……できれば牛乳も欲しいところだが」
「大佐、仮にあってもそれはもう腐ってると思いますよ」
「あ、それもそうか」
ニールマンとのたわいもない軽口に、張り詰めていた心が少しだけ軽くなるのを感じた。
一時間ほど探索を続けると、倉庫の棚から大量の缶詰が姿を現した。だが、そのラベルを目にした瞬間、私のこめかみに青筋が浮かんだ。そこに書かれていたのは、あの忌々しいロシア語だったからだ。
「……これ、全部アカ共の飯じゃねえか! 食えるか、こんなもの!」
思わず床に缶詰を投げつける。だが、ニールマンはそれを淡々と拾い上げながら苦笑した。
「しょうがないですよ、大佐。背に腹は代えられません」
飲料水は別の場所にかなりの数が保管されており、幸いなことに当面の水と食料には困らない状況となった。
日が落ち始め、手元の時計が夕方を示す頃、私たちはこの地での初めての食事を摂ることにした。
拾い集めた「敵」の缶詰を、その辺に転がっていた鍋で沸かした湯に入れ、温める。驚いたことに、これらの缶詰は我々の知るものとは違い、缶切りがなくても手で開けられる仕様になっていた。
「アカ共なりに工夫しているということか。利便性だけは認めてやろう」
私が手にとった豆と肉の煮込みは、味が濃いめで意外にも美味かった。一方、ニールマンが引いたのは脂身だらけの肉塊だったようで、彼は顔をしかめて「あまり美味くないです」とぼやいていた。
食事を終え、暗がりにランプを灯すと、ニールマンが改まった様子で私に問いかけてきた。
「大佐、一つよろしいでしょうか」
「なんだ」
「俺たちはこれから、一体どうなるんでしょうか。帰る場所も、仲間もいないこの状況で……」
ニールマンの声には、隠しきれない不安が滲んでいた。それも無理はない。施設内に残されていた資料や物資の出処から、ここがソ連領内……いや、かつてソ連だった場所であることはほぼ間違いなかったからだ。
私は水の入ったボトルを置き、教え子に語りかけるような口調で口を開いた。
「……そうだな、現状では祖国に帰ることはできない。おそらくここは、我々の知る場所ではないどこかだ」
「大佐は……不安ではないのですか?」
「もちろん私も不安だ。これからどうなるかも、ここがどこかもわからないからな」
私は一度言葉を切ると、窓の外に広がる漆黒の廃墟を見つめた。
「だがな、ニールマン。私はかつて、ソ連軍の包囲網を何度も食い破ってきた。脚を失っても、空に戻れば戦えると証明してきた。状況がどれほど絶望的だろうと、生きて操縦桿を握っている限り、我々の『戦い』は終わっていない。……まずは明日を生き残る。話はそれからだ」
私の言葉に、ニールマンは小さく頷いた。
私は操縦桿を握り直し、未知の戦場を見据えた。
地図にない廃墟。消えた仲間たち。
伝説の急降下爆撃王、ハンス・ウルリッヒ・ルーデルの、これが本当の戦いの始まりだった。