クチナシギフト   作:氷上詩歌

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野々原渚


野々原況の妹。二人の行く末を見守っていた。


故人。



Re:Quest

 

 

 

 音も光もない、無量の空虚な黒が広がる世界。

 何方を向いているのかも、何処へ向かっているかも解らないまま、彷徨い続けていったいどれほどの時間が経っただろう。

 最早俺自身の手も足も、見えていないどころか感覚すらなく、只管に徒労感だけが蓄積されていくばかりだ。

 仮にこれが死後の世界であったとするならば、成程地獄だというのにも頷ける。

 人間の脳は一切の刺激が無い状態には耐えられない。“好き”の反対が“嫌い”ではなく“無関心”であるのと同じで、“快感”の反対は“苦痛”ではなく“退屈”だ。

 わずかにも刺激の兆しが見えるのなら、それがたとえ苦痛でも喜んで人間はそれを得る。暇な時間は時に、人間を殺す凶器になる。それが物理的か社会的かは当人次第だが。

 行く当ても、目標も、何もかもが何もないこの空間は、早く気が触れた方が楽になれる文字通りの地獄だ。事実、俺自身も、もう考えるのをやめるか、狂ってしまった方がいいだろう。

 しかし俺は考えなければならない。俺が死んだあと、あいつがどうなったのかを知る方法を。俺の復讐が正しい形で成し遂げられたのかどうかの判断を。仇を討てたかどうか区別できるまで、思考を放り投げる訳にはいかなかった。

 長い時間が流れたのか、あるいは一瞬の出来事だったのか。それすらわからないが、ある瞬間、今まさにその時、一条の光が差し込んできた。

 それを頼りに歩く。誘蛾灯に向かう虫のように。

 影が差す。逆光の中のシルエットを見据え、一目で、これは夢だと理解した。あるいは幻か、さもなくば願望の集大成だ。

 

「……渚」

 

 妹がいた。あいつに殺された時の格好のままの。

 何もしてやれなかった無能な俺を恨めし気に「見てないよ」……幻覚がモノローグに茶々を入れるなんて珍しいこともあったもんだ。

 

「幻覚じゃないからね。お兄ちゃん、どうしてこっちに来ちゃったの?」

 

 こっち、とは。つまり、そういうことなんだろう。

 俺の目論見が成功した、ということだ。嬉しさと空しさがこみあげてきた。

 ようやく、渚に、本当の事を話せる。

 

「俺は渚の仇を……、いや、俺自身がやりたかったことだから、後悔はしてない」

「あたしはお兄ちゃんが生きていてくれればそれでよかったのに」

「生きてて幸せになれたと思うか? あいつに四六時中監視されているような、自由が一切ない生活で?」

「それは、そうだけど」

「だろう? それに、お前を殺した罪も償おうとしないあいつに一泡吹かせてやりたかったのさ」

「……ごめんなさい」

「何で渚が謝るんだよ」

「だってあたしが殺されちゃったからお兄ちゃんがあんなことをすることになったんでしょ?」

「……いいや、殺されなくても、返り討ちにしたって、それは問題を先送りにするだけの話だ。いずれにせよ結局は、誰かがやらなきゃならなかったんだ」

 

 あの、あれは、死ななければ治せないような、重度の精神疾患だ。

 だからあの結末は、本当に俺の本心から納得のいく結果だった。

 だからこそ、渚の貌が堪えた。

 

「ゴメンよ、渚。……本当に、ゴメンな」

 

 泣いていた。妹を泣かせる兄が何処にいる? 此処にいた。

 しかし抱きしめて慰める資格など俺には無い。この血に塗れた両手で渚を汚すわけにはいかなかった。

 だから頭を下げるしかなくて、これ以上渚に顔向けできなかった。色々な意味で。

 渚が泣き止んでからも、俺は目を開けることが出来なかった。自分がどんな情けない顔をしているのか、それを見ている渚の顔を知りたくなかったから。

 だから、渚が何をしようとしていたのかにも、気付かなかった。

 両肩を突かれ、体勢を崩され、転ばされた。誰に? 渚に。

 ほんの、一瞬の出来事の筈なのに、目の前の光景は無限に引き延ばされたように遅く、渚の声が清く響いた。

 

「それでも、お兄ちゃんには、生きていて欲しいから」

 

 涙を湛えながら、笑顔で。

 

「あまり早くこっちに来ちゃダメだよ?」

 

 何でそんなことを、そんな顔で言えるんだ、お前は。

 

「お兄ちゃんの手料理、いつか食べさせてね。その時はちゃんと腕によりをかけて欲しいな」

 

 その言葉は、俺にとっては呪いの言葉だというのに、お前。

 俺が返事をするよりも前に、停滞していた時が加速したかのように転がり落ちていく。

 どこまでも、どこまでも。永遠に、永遠に。

無限に上へ落ちていく。奇妙な感覚だ。

 上と知覚しているのも、何となく、地上がそこにあると思っているからで。

 世界が眩い光に包まれ――。

 

「……」

 

 知らないベッドの上で、知らない機器を取り付けられた状態で、知らない天井を見ていた。

 白衣の人々が大慌てであっちへこっちへ右往左往し、知らない単語でまくしたてる。多分日本語が主体なんだろうが、俺にはそこまでの専門知識が無かった。

 しかし、自由が利かない体の代わりにゆっくりと回転を始めた俺の脳細胞が導き出した結論は一つ。

 俺はどうやら、死に損なったらしい。

 それから先はあまり良く覚えていない。色々と検査を受けさせられ、考えるのが面倒になった、というのもあるが、更に情報がシャットアウトされているのか、俺の望む情報が得られない。

 つまり、あの後実際にどうなったのか。俺の知りたいことの全てがそれに集約され、それ以外の情報を俺自身が排除していたのかもしれないが、今はもうどうだっていい。

 幸いにも嘘でその場を取り繕うのは得意だったから、相槌は適当に誤魔化せた。

 それでもようやく俺が耳にしたのは、俺は丸三か月の間昏睡状態だったということ。

 そしてこれから俺の話を聞きたいという奇特な奴が来るということ。空回りの骨折り損だっていうのに、ご苦労なことだ。

 

「野々原況君、で、間違いないかな?」

 

 黒髪に眼鏡をかけた男が、リハビリ終わりで疲れてベッドの上で横になっている俺に声をかけてきた。

 

「同姓同名で顔が同じなだけの他人を俺は知りませんから、多分そうなんじゃないですか?」

「そうかね。では早速お聞きしても?」

「いいですけど、俺が目覚めるまでの間に、捜査は大方終わったんじゃないんですか? それとも未成年の殺人未遂はセンセーショナルだから慎重になっているとか?」

「……まぁ、行き詰まっているのは事実かな。証拠は出揃っているが、証言が足りないのだよ」

「客観的に何があったかは調べがついてて、後は主観の情報が欲しい、と?」

「察しが早くて助かる。だから事件の当事者であるキミの言葉が聞きたいのだ。――あぁそうそう、もう一人の当事者からは未だに聞けていないからね。だから、キミからだ」

「どういうことですか?」

「毒、というのは恐ろしいものだ。致死量を摂取すれば命は無いし、仮に死の淵から這い上がれたとしても次は後遺症に苛まれる。朽梨彩子、彼女もまたその一人でね。幼児退行を起こしていて証言能力が無いのだよ」

「は?」

「後は味覚障害や視覚障害も併発していて、手の施しようも手掛かりもない。箸や料理にトラウマがあるのか、顕著に泣き喚くのは何の関係があるのだろうか?」

 

 胸の内の仄暗い塊が渦を巻く。耳と頭は男の次の言葉を欲していた。

 

「あの日、何があったのか。君の口から語ってはくれないか?」

 

 口も頭も、回る準備は万端だ。

 

「……わかりました。全て、話します」

 

 嘘を吐くのは、慣れている。

 

「何処まで把握しているか、お聞きしても?」

「去る六月二十三日、野々原況は朽梨彩子を自宅に呼び出し、毒殺を画策した。しかしそれだけでは死に至らず、業を煮やした野々原況は朽梨彩子の頭部をフライパンで殴打。その状況から一転し、朽梨彩子は野々原況を包丁で刺し、結果相打ちの形となった。近隣住民の通報によって事件が発覚し、今に至る。概ね合っているかな?」

「……そうですね。その通りです」

 

 あいつが死なないように打っておいた保険のせいで、俺も助かってしまったという訳か。

 毒でも、殴っても死なないしぶとさがあっても、そのまま放置されれば死んでしまうだろうと考えてしまった俺の落ち度か、わざと事件発覚のタイミングを早めたのは。

 仕方ない、考えを切り替えよう。

 

「こちらが聞きたいのは、キミがこの犯行をするに至った動機だ。何故、あんな真似を?」

 

 悪いな、渚。俺はどうやら天性の嘘つきらしい。お前に吐いた嘘も、終ぞバレなかったしな。

 

「束縛が、うっとおしかったので」

 

 これは嘘。本当は渚の敵討ち。でもそれは俺だけの秘密。

 

「それで、殺そう、と?」

「はい。恋人だからと合鍵を渡すように迫る。暴力をちらつかせる。GPSと盗聴器でプライバシーもへったくれもない。そんな生活、耐えられます?」

 

 これは本音。九割の真実の中に一割の偽を混ぜるのは、嘘を相手に信じさせる常套手段だ。

 

「成程、動機としては真っ当だ。そして計画を練ったワケだね?」

「はい。気付かれないよう、慎重に。部員の連中には、ちょっとばかし迷惑を掛けましたけど」

「スイセンとイヌサフランの調達だね。部長から言伝を預かっているよ、『除籍な』だそうだ」

「でしょうね。この際だから白状しちゃいますけど、渚……俺の妹も俺が殺しました」

 

 嘘。だが俺が全ての罪を背負うと決めた以上、あいつに贖罪の機会を与えないと誓った以上、あいつの罪も俺が被ってやる。

 

「カッとなった弾みで手に持ったフライパンを頭に。その後、マフラーで首を」

 

 俺が、じゃなくて、あいつが、だけど。主語を省略できる日本語って便利だなって。

 

「俺が贈ったマフラーだからって四六時中巻いてるんですよ。夏になってもお構いなしに。挙句恋人ごっこなんて言ってつるむようになるわで。重いったらない」

 

 半分本音。そんな渚も可愛くて、恋人ごっこなどにも興じたのはその延長。

 

「当時は大分気が滅入ってたんですよ。夢見が大分悪かったので。信じてもらわなくてもいいですけど、俺、渚に何度も殺されてるんですよ。夢の中ですけど」

 

 殆ど本当。同じメニューを食べさせられ、同じ方法で殺される。そんな夢を毎晩見て、夢の中の自分は目の前の光景が現実だと信じ、覚めてからは偽りだと安堵する毎日が続いていた。しかも質の悪いことに、夢の中では記憶がまっさらなのに、現実では降り積もっていること。何度も殺されていることを何度も思い出すのは、いつになっても心に堪える。

 

「だから顔も見たくない、とか思っちゃったりして。その感情を押し殺しながら日常を送る、我ながらどうかしてましたね、あの時は」

 

 七割ぐらい噓。現実の渚は夢の渚とは別人だって分別はとっくについていた。最初の方は身構えもしたが、人間は慣れる生き物だ。自然体を演じるなんてわけない話だった。

 

「それで、あいつからのアプローチが激化したんですよね。何せ、幼い頃の他愛もない口約束を本気で信じて結婚まで考えてたような奴ですから。俺が夜更かしした日付まで正確に覚えてるって知ったときは初夏なのに汗がひきました」

 

 自分勝手な理由で妹を手にかけ、恋人まで殺そうとし、返り討ちに遭った世界で最も情けない男。それが今この場にいる野々原況だということを、目の前の男に信じさせる。

 朽梨彩子は純然たる被害者で、俺は同情の余地もない加害者。世論はそう結論付けるだろう。それでいい。この際だ、あいつから奪えるものは徹底的に奪ってやる。

 

「ふむ、ふむ。それならば、もう一つ聞きたい」

「何でしょう?」

「そこまで語っておきながら嫌悪でなく、憎悪の感情を瞳に宿しているのはどういうことかな?」

「は?」

 

 口を突いて出そうになる言葉をぎりぎりで呑込もうとして、ほんの少し漏れてしまった。

 こいつは、どこまで知っている? 疑いの感情が芽吹いた瞬間から、根付き広まるまでのほんの一瞬、俺は嘘を吐きつづけられる自信を無くした。

 

「いや、今のは興味本位で聞いただけだ、忘れて欲しい。警察の取り調べでは、もう少し取り繕ってもらっても構わないがね」

「……取り調べじゃなかったんですかこれ」

 

 顔から血の気が引いていくのが解る。そう言えば、向こうも主語をぼかしていた。

 どこまで察している? いや、それをこっちが知っても、対抗策が無いんじゃ意味がない。

 

「取材だよ、多分表に出ることは無いだろうがね。それにしてもキミの演技力、実に素晴らしい」

「何のことです?」

 

 詰みが見えている王を逃がす棋士の気分ってこんな感じなんだと思いつつ、飽くまでも白を切る。続く言葉は何だ? こいつは何をしたい?

 

「目的の為なら自分の本心すら偽ることは中々やろうと思って出来ることじゃない。胸を張るといい。ウチのボスの評価だ」

「……言っている言葉の意味が解りませんね。今日はもうお引き取りください」

 

 これは半ば賭けだ。まだこちらの有利になれるような言葉を引き出すための。

 

「それを活かす気はないかい?」

 

 目の前の男は、俺を勧誘しようとしている。“ボス”とやらの指示だろう。

 

「……メリットは?」

 

 なら、乗ってやろうじゃないか。どうせ捨てようと思った命だ。拾ったなら、有効活用してやるよ。

 

「キミの望み通りの結末を」

「それは……いいな」

 

 ――もう少し、生きてみることにするよ渚。

 出来る限り、あいつが苦しむよう、俺頑張るから。

 もう俺が逝くことの出来ない空の彼方から、見守っていてくれ。

 

「取引成立のようだな。後日、ボスからの指示が届くだろう。聞きたいことは山々だろうが、今は呑込んでおくれ」

「……貴方の名前ぐらいは聞いても?」

御鏡ノ宮(ミカガミノミヤ) 伏狼(フクロウ)、これからはキミの先輩だ。よろしく頼むよ、後輩」

「こちらこそ、先輩」

 

 眼鏡に映り込んだ俺の顔は、獰猛な笑みを浮かべていた。

 

 







Gift[英]:授かり物。転じて、天賦の才。


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